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三章 還鶴玄楼と狼の贄王子

天狼族の玉璽

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 空気が張り詰めていく。いや、張り詰め、凍り付いていく。誰一人として声を上げずに、成り行きを見ている。
(じいさんがああなっているのに、孫たちは……)
 羽が視線を彷徨わせると、黒狼族の将兵たちも同様にとらえられている。明英は顔を青ざめ、口を押さえて小さく震えている。
「めいえ―――っ!?」
 明英にかけよろうとした羽の腕を子牙が抑えてとどめた。
「羽、この場では動かない方がいい。いや、動くな」
 あの温和な青年とは思えないほど、厳めしい声で告げた。
「にいちゃ――」
(兄ちゃん、震えてる……)
 それもまぁ、そうだろう。日頃敬っている将軍があのような姿になっては、子牙だって平静を保っていられるわけがない。
「黄花姫、宴の場に剣を持ち込むなど、何を考えているのです?」
 口を開いたのは、皇女たちの長姉だった。皇后の席を見ると、口元を羽扇で押さえ厳しい目を向けている。傍らの侍女や、宦官たちが万が一に備え身構えている。姉の言葉にすぐそばに座っている妹皇女達も一斉に頷く。
「お姉様の言う通りですわ。黄花姫、その者は我が国の将。例え黄花姫とて、無下に扱うものではありません」
「黄花姫、何かおっしゃってくださいませ。あなた様はそのような方ではないはず、ですわ。ねぇ、黄花姫」
「先程、玄国のお菓子を下さったのに、どうしてそのようなことをするのですか?」
 皇女達の言葉を受け止めた黄花姫は一瞬視線を落とすが、くすりと笑って返した。
「皇后陛下や皇女様方には返す言葉もありませんわ。しかし、これは我が玄国にとって深刻な話なのですわ。なにせ、ここに居る老兵は、20年前の大部族会議にて、当時の議長であった天狼族の野営地に火を放ち、天狼族の族長を暗殺した疑惑があるのですから」
「それは、流れ者がやったことだと皆で決めた事でしょう。何ゆえ、今更そのような話が出るのですか」
 さすがは大将軍、と言ったところだろうか。捕縛されたというのに、顔色一つ変えない黒陵は、変わらぬ黒檀の瞳を黄花姫に向けた。
「玉璽を」
「………」
「先日の大部族会議が天狼族の所有していた玉璽をもらい受ける期日であったでしょう。それなのに、あなたは会議に出席するどころか、部族長の権限を所有したまま他国に隠棲したと黒狼族より返答がありました」
「当然でございましょう。20年前の事故でわが倅は火傷を負い、それが元で死んだのです。残された孫達もまだ元服もしていない子どもでございましたから」
 はぁ、と嘆息する声と共に黄花姫は冷淡に言葉を紡いでいく。
「権限をもって異国に行くことがそもそも問題ではありませんか。わたくしとしてもこのような宴の席に水を差す様な真似はしたくありませんわ。さぁ、玄国の玉璽はどこです?」
 黄花姫の問いに、黒陵は天井を仰いだ。
「…………然るべき処に」
「貴殿! 答えになっていないではないか!」
「劉将!お答えを!」
「劉将!」
 金狼族以外の部族からも、黒陵に対する強い非難の言葉が飛び交う。しかし、口を閉ざしたままの黒陵を一瞥し、黄花姫は剣を収めた。
「将軍を屋敷へ。お前達は将軍が出ぬよう監視なさい」
「黄花姫様!」
 部下に命じ、黒陵を連れて行こうとする黄花姫に、明英が声を張り上げた。自分の座っていた所から、転げるようにして黄花姫にかけよった。
「おじい様を閉じ込めるとは、どういうことなのです……?」
「明英、あなたにまた辛い思いをさせることになるのはわたくしとしても、心外なのです。でも、安心してください。玉璽さえ手に入れれば、わたくしたちは黒陵将軍に手を下すことはありませんわ」
「それは……」
 明英がいい澱む。ためらいの視線を黄花姫に向け、そして祖父の背中を目で追う。
 それは裏を返せば、玉璽が手に入らなければどのような手をも使うということだ。
 どういうことなのだろう、と羽が拳を握りしめていると、宴の会場のあちこちから声が聞こえてきた。
(やっぱり、玄国の者は野蛮ね)
(獣の肉を好んで食べ、毛皮をまとうのだから、身も心も獣なのかもしれない)
(あぁ、20年前の争いもきな臭いわね)
(大方、天狼族の台頭が気にくわない連中が、外部の犯行と偽っているに違いない)
(こんな連中を入れるんじゃなかったわ)
(しかし、彼らを無下にするといつ攻め込んでくるか)
(私たちの国をまた荒らす気なんじゃ)
(衛士たちは何をしているんだ、さっさとつまみ出せよ)
 違う、と羽は言いかけて言葉を飲み込んだ。たしかに玄国と辰国では食べるものも着る物も異なっている。背丈だって彼らの方が高く、武人の国に相応しい猛者ぞろいだ。だが、それだけだ。
 ――― 彼らは風と土と共に生きているのだ。
 違っていたとしても、彼らも楽に浸る心を持っている。美しい音を聞けば涙を流し、明るい音を聞けば声をそろえて歌う。その心に国なんてないはずだ。何か音を出せば、この空気を壊せるはずだ。この場を治めるにふさわしい音、楽は何だ?
(………あ)
 その時、羽の脳裏にある音が浮かんだ。かつて家の蔵で見つけた秘伝の曲。それを奏でるための笛はすぐそばに転がっている。羽は、とっさにそれを拾い、歌口に口をつけたとたん、ぐいっと腕を掴まれた。
「痛っ!」
 からん、と笛が床に落ちたと思った瞬間に、羽は腕を掴まれたまま外に連れ出された。強い力だ。とてもじゃないが、非力な羽の力では振りほどけない。
(この力、どこかで………)
 羽には心当たりがある。だが、どうして彼が止めるのだろう。止める理由が思いつかない。

「羽、今何を奏でようとした?」
 庭に連れ込まれた羽は厳しい顔をした従兄の顔を見上げた。人気のなくなった庭には二人しかいない。腕を力任せに解放され、羽は思わず腕を庇うように抱きしめた。
「………還鶴玄楼」
「それがどんな曲か知っていて、奏でようとしたな」
 従兄の声が低く、冷たくなっていた。咎めるような声だ。こんな声をした子牙は見たことが無かった。羽がどんなに馬鹿なことをしても、いつもは笑って見逃してくれたというのに、最近はこんなふうな声ばかり聞く。
「殿中曲だけど、でも、あの場を収めるには、還鶴玄楼しか……」
「馬鹿なことをするな! 当主になるんじゃないのか!」
「でも………。この曲は……」
「今の羽では、還鶴玄楼を奏でることはできない。奏でたところで、何も変わりはしない! 私は、羽に当主になって欲しいんだ! 私に生きる意味をくれたのは、羽なのだから!」
「…………へ?」
 従兄の言葉に、羽は驚いた。驚くどころか、予想外過ぎて何を言えばいいのか分からなかった。生きる意味、という意味では、羽の方が子牙からもらったようなものだ。子牙がいたから、羽は自分の楽に向き合うことができた。父との橋渡しも何度もしてくれた。子牙がいなければ、元服する前に羽はどこかの家に養子に出されていたかもしれないのだ。
(兄ちゃん、何を言っているんだ?)
 子牙は深刻な表情のまま、深い息をついた。
「私は、玄国の生まれだと私の父から聞きました」
「そう、だな。兄ちゃんがやってきたのは、10年くらい前で、それまではずっと玄国で、黒陵将軍としばらくいたんだっけ」
「私は、4歳より前の記憶が無いんです。一番古い記憶は、ぐらいです」
「箱……?」
 自分の記憶が正しければ、子牙が玄国で生まれた際、母親は産後の肥立ちが悪く、なくなったはずだ。それから、父や名付け親である黒陵の保護のもとで育ち、辰国にやって来た。箱の記憶など、どこにあるのだろうか。
(子どもを箱に詰める親なんて聞いたことがない。兄ちゃんの記憶がないって、どういうことなんだ?)
「私は知らないまま父上と黒陵将軍の元で育ち、この国に来ました。父が楽士として育てたのは、この国で生きていく術を手に入れ、一介の楽士として生きてほしい、という意味だったのだと思います」
「兄ちゃん? なにを言って、いるんだ? 兄ちゃんの父上は、俺の父上の弟じゃないのか? 赤子の時の記憶が無いのは、みんなそうじゃないのか?」
「羽のそれとは違う。私は……いえ、かもしれない」
「は??」
「周子牙、という名前を持っていていいのか、分からないんだ。俺は、黒陵将軍より、これを肌身離さず持っていろと言われたんだ」
 そう言って子牙は首から下げている守り袋のような物を取り出して、それを引き裂いた。ころり、と手の平に転がったそれを見た羽は息をのんだ。松明の明かりで照らされたそれは、薄緑色の玉でできた印だったからだ。
 玉璽というのは、宝玉でできた印の意味を持つ。つまり、これは。
(――― 玉璽っ!)
「なんで、兄ちゃんがそれを……。あ! 黒陵将軍の悪ふざけだろ? まったく、あの爺さん俺達兄弟をいじるのが大好きだよな!」
「羽、わざと笑わせなくてもいいんだよ。これは、俺が周子牙でいられなくなることを、知らせるためのものなんだ」
「嘘言うなよ。兄ちゃん、馬鹿を言うなよ。兄ちゃんは兄ちゃんだ。俺の従兄で、都でも、殿中でも頼りになって、俺の自慢の兄ちゃんだ」
「ありがとう、羽。でもね、俺はいずれこうなることは分かっていたんだ。お前には立派な当主になって欲しいんだ」
「まるで、別れるみたいじゃないか。何を言っているか、分からない」
「俺がお前から楽を奪ったから、それだけが心残りだったんだ。でも、ここにお前がいる今、俺が周子牙でいる意味は、もうないんだ」
「兄ちゃん! いつ、兄ちゃんがおれから楽を奪ったっていうんだよ! 兄ちゃんはいつだって完璧に奏でてただろう! 父上だって、一目置いてた。親戚の連中だって、俺より、兄ちゃんを――――」
「違う! お前が人前で弾けなくなった理由を作ったのは俺だ!」
 そう言い切った子牙は、奥歯をかみしめ、荒い息を繰り返す。
(俺が、人前で弾けなくなった理由?)
 羽は子牙が何を語りだすのか、耳を澄ませた。
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