壁とナポリタン

戸浦 隆

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二、壁

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 ウェートレスがやって来た。
「なぜその席に坐ったの?」
「ここが落ち着くものだから」
「やめた方がいいと思うけど」
「何か都合が悪いのかい?」
「あたしは別にいいのよ、別に」
「前にここに坐った時は、そうは言われなかったけど」
「あの時はちょっとね」と、彼女はマスターの坊主頭の見え隠れするカウンターを振り返る。
 ナポリタンの匂いがただよって来た、ほかに客はいないのに。二人の遅い昼食用かな?
「都合が悪いのは、マスターの方?」
 彼女は顔を横に振る。
「感じた?」
「え?」
「この辺、指で突かれなかった?」
 彼女はふくらんだエプロンの上から、自分の脇腹を指で突く。
「何だい、知ってたのかい」
「その席でナポリタンを食べるとね」
「感じたよ。この前は感じなかったけど」
 彼女が一歩、足を引く。
「超……ヤバい、かも」
「何が?」
「この前感じなかったのは、ナポリタンじゃなかったからよ」
「はあ?」

「あたし、あなたの注文をイタリアンに変えたげたのに」
(一体どういうことなんだ?)
「そしたらあなた、ナポリタンって言い直したでしょ。マスターが気をきかせて、カレー・スパに変えてくれたからよかったのよ」
「言ってることが、分からないんだけど」
 彼女は、じれったそうに地団駄を踏む。
「ああん、もおぅ!」
「何が言いたいんだい?」
「きょうは感じたんでしょ! 指ツンツン」
「ああ、そうだけど」
「マジ、ヤバ!」
 いきなり何かに脇腹を、思いっきり掴まれた。
「な、何だ!」
 体が壁に引きずり込まれる!
 彼女が叫ぶ。
「マスター!」
 僕は右手でテーブルを、左手でイスの背を掴む。
「壁よ、壁! その壁、怒ってんの! 催促したのに、ナポリタン食べさせてくれなかったって!」
 僕の体は半分まで、壁の中に埋まってしまった。
 マスターが駆けつけたけれど、ウェートレスの太い体が通路をふさぐ。マスターが体当たりする。彼女はくるりと回転し、通路の向こうのテーブルに乗っかった。
 僕の体はもう顔と右手が外に出てるだけ。マスターが僕の右手を掴んだけれど、顔は壁にスポンと入る。

 口の中に土か石かが押し込まれ、耳にオワンオワンと声がする。
「ナポリタン、ナポリタン……」
 壁が僕の食べたナポリタンを、僕の体ごと食べようとしているのか?
 歯を食いしばると、口の中の石がくだけた。いや、くだけたのは僕の歯だ。
 マスターが壁の外で叫んでる。
「ナポリタンだ、ナポリタン!」
 ウェートレスの声もする。
「ナポリタンよ、ナポリタン!」
 壁もオワンオワンと繰り返す。
「ナポリタン、ナポリタン!」
 マスターの掴む僕の右手は、マスターの手から抜けそうだ。
 マスターがウェートレスに大声で叫ぶ。
「そこのナポリタンだ、ナポリタン! 壁にナポリタンを、ナポリタン!」
 ウェートレスも大声で叫ぶ。
「ここね! はい、ナポリタンよ! ナポリタン!」
 何かが壁に当たる音がして、突然体が軽くなる。シャンパンの栓を抜くように、「ポン!」と体が飛び出した。
 ウェートレスに、僕はまともにぶつかった。太くて柔らかい体が、僕をふんわり抱き止める。
 三人とも息が荒くて、声さえ出ない。
 壁にはナポリタンがぶちまけられ、床には金属製の皿が三枚転がっていた。見るとマスターの作ってたナポリタンが、壁にズルズル吸い込まれてゆく。
「何とか間に合ったな」と、マスター。
「もうヤだからね、あたし。お客さん、メニューよく見て注文してよね」と、ウェートレス。
 床に落ちてたメニューを拾い、僕はそれに眼を落とす。
 彼女が指で示したのは、メニューの下の赤い文字。

◎ナポリタンを注文される方へ
一番奥の9番テーブルでのナポリタンのご注文はご遠慮下さい。他のスパゲティは召し上がることが出来ます。万一誤ってお客様が壁に食べられた場合、当店は責任を負いかねます。くれぐれもご注意を。
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