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六、死

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 闇に紛れて、六つの影が動いた。
 別舎から洩れる灯りが、影を吸い寄せる。先頭の影が首を右、左と振った。それを合図に、灯りを取り囲むように影は二手に分かれた。社殿から続く砂利を踏む音を消し、ジリッジリッと忍び寄る。灯りの届く際(きわ)まで来るとうずくまり、じっと様子を窺った。
 部屋の灯りの側では、二人の男が話し込んでいた。五十を少し越えた男は大柄だが身は細く、柔らかい線を持っている。もう一人の男は十ほど若い。こちらも大きな体躯だが、岩のような筋肉が張っている。
 年かさの男が言った。
「そろそろ潮時かな」
 年若の男が答えた。
「無理を重ね過ぎます」
「そうだな。近頃は体が利かなくなった」
「もう充分に尽くした筈です」 
「十年か。早いものだ」
 年かさの男は、来し方に思いを巡らすように眼を閉じた。その顔を見ながら言う年若の男の声は、心配するあまり険しくさえあった。
「あまり手を染めては、抜き差しならなくなりますぞ」
「うむ」
「若には?」
「連れて出たのは今度が初めてだ。この事は知らせていない。だが、それとなく感じてはいるようだ」
 年若の男は頷いた。
 溜息でも吐くように、年かさの男は言葉を続けた。
「知れば、迷いが生じる。儂が恐れるのはそのことだ」
「これを最後になさればよい。後は私が何とか致します」
「手をわずらわせる。許されよ」
「何を申されます。苦労はお互いではありませんか」
「他に頼る者も無く、ついつい甘え心が出てしまう。歳を取ったな」
「これさえ片付けば、後はお好きなことに専念出来ます」
「いや、そうもいくまい。自分の体のことは自分が一番よく分かるものだ」
 ひと呼吸置き、年若の男の顔を覗き込んで言った。
「実は、甘えついでに頼みたいことがあるのだが」
「若のことですか」
「うむ。成人したとはいえ、まだまだ足元が覚束ない」
「若はなかなかの器量をお持ちです。心配なさらずとも………」
「いや。根がしっかりしておらねば、幹も枝も大きくは育つまい。何とぞ、よしなに」
「承知致しました。及ばずながら力の限り」
「親というものは、いつまで経っても心配が絶えないものだな」
 そう言いながら、年かさの男は懐(ふところ)から巻き文を取り出した。
「あれに分別がつき、独り立ち出来ると判断なされた時に渡して貰いたい」
「これは?」
「儂が長年掛かって修得したものを書き記してある」
「秘伝書………」
「それほど大袈裟なものではない。覚え書きのようなものだ」
「そのように大事なものを………」
「お願い申す」
 年かさの男が頭を下げた。
「必ず」
 年若の男は、巻き文を押し戴いて受け取った。
 その時、庭先に小さな音がした。葉擦れのような、微かな音だった。
 二人の男は顔を見合わせた。と、瞬時に灯りを吹き消した。たちまち闇が辺りを覆う。
「気付かれたか!」
 頭領らしい影が声を発した。
「行け!」
 抜刀した影が、同時に二方向から挟むように部屋に躍り込んだ。
 障子を蹴破って跳び込んだ先頭の影がもんどり打って転がる。脚を払われたのだ。その首の後ろに肘(ひじ)が叩き込まれた。呻(うめ)く影につまずき、たたらを踏んだ二つ目の影が刀を振り上げた瞬間、太い拳(こぶし)が腹にめり込んだ。
「むう………」
 うずくまる影の後ろから、三つ目の影が太刀を斬り下げる。が、切っ先が鴨居に食い込んだ。黒い塊が影の胴に体当たりを食らわし、そのまま庭に転がり出た。
 もう一方から部屋に跳び込んだ影の一つが仰(の)け反った。燭台の柄が喉元に突き刺さっている。
「くっ!」
 残る影が倒れた影を飛び越え、刀を闇に突き出す。何度か空を切ったが、中の一つに手応えがあった。
 庭に転げ出た黒い塊が立ち上がる。部屋に戻ろうとする眼の前に、影が立ちふさがった。左手を前に突き出し、いつでも斬り下ろせるよう大太刀を右手上段に構えている。
 数人の影の入り乱れる部屋の中から、絞り出すように声が叫んだ。
「逃げろ!」
 黒い塊が声を返した。
「ご無事か?」
 大太刀が弧を描き、肩を狙って袈裟懸けに振り下ろされた。胸元を刃が切り裂く。一歩跳び下がるのが遅れていれば、肉が削がれていただろう。返す刀が、今度は下から斜めに斬り上げられる。身体を反転し、辛うじて避(よ)けた。部屋に取って返すことは出来そうにない。
 再び部屋から声がした。
「構うな! 逃げろ!」
 別の声が闇の奥で響いた。
「そこだ!」
 くぐもった叫びが、尾を引いて流れた。
 バラバラと二つの影が庭に降り立つ。黒い塊は背を向け、一気に駆け出した。
 騒ぎを聞きつけ、母屋の方から廊下を走って来るいくつもの音がする。
「チッ」
「引き上げだ!」
「主殿(あるじどの)が………」
 影が素早く動き、部屋に倒れていた影を背に担ぐ。
 灯りと音が近づいて来た。
「急げ!」
 影の集団は、庭から社殿の外に広がる闇へと姿を消した。
 

「急な帰京だな」
 義満が不機嫌そうに言った。
 平伏していた元清が顔を上げる。
「先に書状を送りましたが」
「観阿弥が亡くなったという書状か」
「はい」
「いくつだった、観阿弥は」
「五十二です」
「やり残しを置いていく歳ではないな。残念なことだ」
 義満は観阿弥という人間に興味を抱いていた。その秀でた才能は他に類を見なかったし、猿楽能の魅力を堪能させてくれる数少ない人物の一人だったからだ。
 本来人前での立ち居振る舞いが好きな義満は、所作や動きの美しさに対して鋭敏な感覚を持っている。義満は、毎年正月七日に行われる「白馬の節会(あおうまのせちえ・白馬を天覧し宴を催す宮廷行事。この日に青馬を見ると年中の邪気を祓うことが出来るという中国の風習によるが、日本では神聖視されていた白馬を用いる)」では、自ら首席の公卿に代わって内弁を務めている。承明門内で諸事を指揮する義満の所作は優美で、舞を舞うかのようであったという。観阿弥に対して師という意識は無かったにしても、無駄な動きのない観阿弥の猿楽能には学ぶところも多かった。
 また、楠木の血を濃く引く観阿弥は南朝との繋がりも深い。北朝を率いる義満にとって、虚実取り混ぜたものであれ観阿弥のもたらす情報は必要なものと言えた。要らないものはふるいに掛ければよいし、逆に利用することも出来る。が、そういった情報収集や情報操作より観阿弥との緊迫したやり取りを、義満はむしろ愉しんでいた。
 その観阿弥が亡くなったのだ。大きな愉しみが一つ消えてしまった。義満の不機嫌は落胆に近かった。
「駿河(現在の静岡県中部)での観阿弥はどうだった」
「五月四日、浅間(せんげん)神社の御前(おんまえ)で法楽仕(つかまつ)りましたが、父の猿楽はことのほか見事でした」
「ふむ」
「父はこのところ体調がすぐれず、見せ場の出し物など、おおよその演目は私に譲っておりました。無理のない物だけ控えめに演じていたのですが、見物の上下みな褒め称えることしきりでした」
「そうか」
「花を得た、のだと思います」
「花?」
「父は常々申しておりました。能は滞(とどこお)り住してはならぬ。花のごとくあれ、と」
「花のごとく………」
「はい。今咲く花は去年咲いた花の種だ。花が咲くには長い時間が要る。やっと咲いたからといって己をひけらかすことも、他をなじることも無い。ただ咲いたことに身をゆだねるだけだ。しかも盛(さか)る命は短い。散るからこそ、また花は美しくもあるのだと」
「なるほどな。死ぬ前に花を得た、か」
 元清の胸に、父の死に顔が甦った。
 元清が駆けつけた時、すでに観阿弥の息は消え掛かっていた。頬や首、胸に血がべっとりと塗られたように付着している。だが、苦悶の表情は無かった。かすれゆく意識に向かって、元清は声を張り上げ父の名を呼んだ。うっすらと眼を開き、観阿弥は元清を見た。元清が再び名を呼ぶと、観阿弥はふた言三言囁き、震える唇と弱々しい眼を閉じた。肩の荷を下ろしたような、穏やかな顔だった。
「十九日だったな、観阿弥の亡くなったのは」
 義満が元清の眼をじっと見据えながら言った。
 元清は、父がかつてそうしたように義満の鋭い眼をしっかり受け止めた。
「はい」
「奇妙だな」
「何が、でございますか」
「儂のところに駿河の領主死去の報が届いたのだが」
「駿河の領主と言えば、今川範国(のりくに)様………」
「そうだ。その範国死去の期日が五月十九日となっているのだ」
「十九日? 父の亡くなった日と同じ日にですか」
「うむ。妙な符牒のように思えるが」
「………」
「駿河に長く居過ぎたのかも知れん」
 今川範国は足利尊氏の信任厚く駿河・遠江(とおとうみ・現在の静岡県西部)の守護となった北朝のはえ抜きである。その子貞世は九州探題となり南朝との戦いに功績を挙げていた。ただ義満には貞世が大内義弘と何らかの繋がりを深めているという危惧があった。それは小さな危惧ではあったが、いずれ大きくならないとは限らない。義満のその危惧が観阿弥を駿河に留まらせていたと言える。
 一方、今川範国は南朝の楠木一族の縁者が義満の寵愛を得ていることを以前から苦々しく思っていた。そこへ観阿弥一座が領国内で猿楽を奉納したいと願い出た。義満の肝いりだから断るわけにはいかない。許可したものの気持ちが納まらなかったのは想像に難くない。しかも観阿弥は、奉納猿楽が終わった後も領国を出て行こうという気配を見せなかったのだ。範国が何か事を起こしても不思議ではなかった。
 観阿弥の死は、義満とは無縁と片付けるわけにはいかない。それどころか、義満自身が観阿弥の死を招いたとさえ言えるのである。
「観阿弥は、何か言い遺(のこ)したか」
「精進せよ、と」
「それから」
「義満様を大切にせよ、とも」
「他には」
「ございません」
「そうか。それだけしか言わなかったか………」
 義満は眼を閉じ、腕を組んだ。
 二人の間に、沈黙が流れた。沈黙の間に義満の脳は目まぐるしく働き、すでに次の展開を組み立てていた。
 義満が腕を解く。
 元清は言葉を待った。
「元清」
「はい」
「観世の大夫となれ。大夫となって観世座を率いよ。猿楽能を絶やすな」
「元よりその覚悟です」
「儂がいくらでも後押しする」
「有り難く存じます」
「だが、お前がまだまだ観阿弥の足元にも及ばないことは分かっているな」
「はい」
「犬王に教えを乞(こ)え」
「犬王殿に………」
「犬王は観阿弥ほどのきめの細かさ、深さは無い。だが観阿弥には無い大胆さ、優雅さがある。幽玄的で大きな舞を舞う。観阿弥と犬王の両方の才を継ぎ、猿楽能を大成させるのだ。お前なら、それが出来る」
 元清の体に電流が走った。猿楽能の大成ーーーそれこそが父の望みだった。その父の遺志に、今や身を捧げて応える時が来たのだ。しかも義満の庇護が約束された。出来る筈だ。いや、何があっても成し遂げなければならない。
 元清は威儀を正し、平伏した。
「元清、全身全霊を打ち込み精進致します」
「儂は気が短い。あまり待たせるなよ、元清。ハハハ」
 笑いながら、義満の脳裏には観阿弥の舞う姿が甦った。

 花洛の塵にまじわり、花洛の塵にまじわり、かくかの波に裳裾をぬらし………

 観阿弥の姿に重なるように元清の姿が現れ、消えてはまた現れ、いつしか元清が舞を舞っている錯覚に陥った。

 ふく風の寒き山とて入る月に、指をさしてもとめがたきは、つながぬ月日なりけりや、つながぬ月日なりけりや………
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