鎌倉らんぶりんぐ(上)

戸浦 隆

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五、比企ガ谷(やつ)

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 江ノ島駅を出ると、電車は海沿いを走った。
 曇り空の下で、海は空の色をそのまま吸い込み鈍い光を湛(たた)えている。肌寒さを誘うような海だ。満員で坐る席が無かったので、亮二と瑞希は乗降口のガラス扉の側に立ち、その薄く冷たい海を眺めていた。
 乗客の半数以上が長谷駅で降りる。長谷寺や大仏で有名な高徳院、旧川端康成邸や文学館など観光客の喜びそうなスポットが多いからだろう。二人はようやく空いた席に並んで腰掛けた。だが、それも束の間。電車は長谷駅から海岸線を離れると、十分と掛からないうちに鎌倉駅に着いた。
 駅前は人も車もひしめいている。江ノ島電鉄・JR横須賀線・路線バスが集中し、客待ちのタクシーもせわしなく出入りする。駅の東口を出たすぐ左前方に「小町通り」と書かれた赤い小さな鳥居があり、人の流れの多くはこの鳥居をくぐってショッピング・ストリートへと注ぎ込む。鎌倉彫りやガラスなどの工芸品・和紙・刃物・お香・骨董品・土産物などを売る店、喫茶店、レストラン、ブティックなどが狭い通りの左右にずらりと並んでいる。この「小町通り」を抜けると鶴岡八幡宮の西脇に沿う鎌倉街道に合流し、道は北鎌倉へと続いてゆく。
「ショッピングは後でいいだろう?」
 亮二は傍らの瑞希に言った。
「ええ、いいわよ。亮二シェフの鎌倉てんこ盛りお任せコース、期待してるわ」
 亮二は小町通り入口の雑踏を避け、メイン・ストリートの若宮大路を渡った。郵便局を東に折れると、閑静な住宅街が続く。その突き当たりが北から下って来る小町大路の南の端で、一画を本覚寺の敷地が占めている。寺院の塀に沿って二人は歩いた。
「ここには源頼朝が建てた『夷(えびす)堂』という八角堂があってね、えびす様が安置されてる。頼朝は幕府の裏鬼門に当たるこの場所に守護神として夷神を祀ったんだ。後に日蓮がこの夷堂に身を寄せてたこともある」
「えびす様って、釣竿を担いで鯛を小脇に抱えた七福神の一人でしょう? 商売繁盛の神様じゃないの?」
「もちろん、そうだよ。年の暮れには『えびす市』、正月十日には『十日えびす』が開かれて人でごった返す。でも、商いの神様になったのはずっと後のことなんだ。『夷』という字は、『人』が『弓』を持つ姿を表してる。ここの夷様は真っ黒で、字そのままの勇ましい姿をしてるんだ」
「そう言えば、『夷』という字は『蝦夷(えぞ)』とか『夷狄(いてき)』とか野蛮なイメージがあるわね。幕末の『攘夷』も外国人を追い払え、ということなんでしょう?」
「『えびす』は『えみし』が訛(なま)ったもので、『よそから来た者』や『東方の異民族』のことなんだけど、本来は敵や悪人を滅ぼし平らかにするという意味だったんじゃないかな」
「なかなか博学なのね」
「いや、受け売りだよ。歴研で鍛えられたから」
「武人のえびす様かあ………」
「見たい、なんて言うなよ」
「あら。どうして?」
「今は寄り道する余裕が無い」
「寄り道が好きなのかと思ってた」
「好きだよ。裸弁天を見に寄ったじゃないか」
「裸が好きなだけでしょ。えびす様は裸の女じゃないから?」
「言ってくれるよなあ。豆タンクに提出する『報告』があるだろう? それを最優先したいんだ」
「おう。お尻叩かなくても立派に走るじゃない。楽ちん、楽ちん。で、どこ行くの?」
 小町大路に沿って滑(なめり)川という小さな川が流れている。その川に架かる夷堂橋を渡りながら、瑞希は楽しそうに笑った。
 亮二も朗らかに応える。
「若狭ノ局に会いにさ」
 真っ直ぐに道が伸びている。その先に大きな門が建っていた。二人はその総門の前で立ち止まり、木製の立て札の所々かすれた墨字を読んだ。平日なら右手の幼稚園から子供たちの声が聞こえて来る筈だ。だが今、園は眠っているように辺りの静寂に溶けている。

  妙本寺
   (全国最古日蓮宗寺院)
 比企能員没 八〇〇年忌
     二〇〇三、九、二

 比企谷ニテ時政、義時親子ニ滅ボサル(建仁三年、一二〇三年)比企一族八〇〇余人能員ハ頼朝ノ乳母比企禅尼ノ養子デアル 禅尼ト共ニ住ム(比企谷)能員ノ女頼家ノ寵ヲ受ケ(若狭ノ局)子ノ一幡ヲ生ム建仁三年頼家疾ム 母政子関西ノ地頭職ヲ分カチ頼家ノ第二幡ニ授ケントス 能員之ヲ憤リ密ニ北条氏ヲ除カント謀ル 謀泄レテ北条氏ノ為ニ一族滅セラル

「若狭ノ局って二代将軍頼家の妻よね。一幡とか二幡とか、『幡』の付く名前が多いのね」
「頼家の幼名も十幡だ。妹の乙姫は頼朝の三番目の子で三幡姫と呼ばれてた。『幡』は『布がはためく』という意味で、旗が翻(ひるがえ)る様を言うんだ。弓矢の神、つまり武神である『八幡神』が源氏の氏神なんだけど、軍旗はためく勇ましい感じがするだろう? だから、その『八幡神』から取ったんじゃないかな」
「じゃあ、『頼家ノ第二幡』って頼家の次男という意味?」
「この場合は弟の千幡丸。後の実朝のことだよ」
「初代将軍が頼朝、三代将軍が実朝でしょ。この二人の名前はよく耳にするけれど、二代目というのは印象が薄いというか、ほとんど記憶に無いわ」
「頼家は武芸に優れ、才気煥発だったらしい。でも、大事業を成し遂げた父親の功績を受け継ぐだけでも大変なことなんだ。後世に残るような新しい変革をする余力は無いよ。それにね、鎌倉幕府の史料はほとんどが『吾妻鏡』に拠(よ)っている。ところが、その『吾妻鏡』は北条氏が鎌倉後期に作らせた半公的記録で北条氏に都合の悪いことは書かないようなところがある」
「そうなの?」
「例えば、頼朝の死を含む三年間は欠文になってるんだ。鎌倉幕府を開き、武家社会の礎(いしずえ)を築いた人間が亡くなったのにだよ。おかしいだろう?」
「じゃあ、頼朝の死は伏せられたの?」
「いや。朝廷にはすぐに届けが出されてる。でも、『吾妻鏡』では死後十三年も経った日の条に記述されてるんだから首を傾げたくなるよ」
「十三年後!」
 二人は総門をくぐり、杉木立の続く参道を登った。三方を山に囲まれた比企ガ谷はひっそりとして、空気も時間も留まっている。参詣する人の姿も無く、隔絶された世界にいるようだった。
「頼朝が死んだのが建久十年正月十三日。この日は平治の乱で捕らえられた頼朝が、斬刑(ざんけい)されることになっていた日なんだ。それからちょうど四十年後の同じ日に死んだというわけ」
「ふうん。何だか作為的ね。死因は何と書いてあるの?」
「落馬」
「馬から落っこちちゃったの!」
 瑞希は思わず立ち止まってしまった。
 期待通りの反応だった。亮二は、瑞希の顔の変化を充分楽しんでから言った。
「笑えるだろう? 騎馬軍団を率いて平家を追討した源氏の棟梁たる者が、落馬して死んじゃったなんて」
「信じられないわ。どういうこと?」
 瑞希が再び歩き始めた。
 亮二も瑞希に歩調を合わせる。
「一二一二年二月の末、三浦義村という御家人が相模川の橋が朽(く)ちているから修理してはどうかと申し出たんだ。そこで執権北条義時らが群議した結果、こう結論を出した。『相模橋は、去る建久九年に稲毛重成が新造したもので、橋供養の日に将軍が渡った。帰路落馬した将軍は、まもなく亡くなった。このように相模橋は縁起の悪い橋であるから修理してはならない』とね」
「それだけなの?」
「そうだよ」
「取って付けたみたいな言い方ね。なぜ頼朝は橋供養なんかに行ったのかしら」
「稲毛重成の妻というのが、腹違いではあるんだけど北条政子の妹なんだ。亡き妻の冥福を祈りたいと言って、相模川に橋を新造した。だから頼朝としても供養に出席しないわけにはいかない」
「ははん。多分将軍とその奥さんに気を遣ったのね、その稲毛さんという人。でも『落馬で死にました』では、誰も納得しないわよ」
「だから、いろんな説が出た。暗殺、誤殺、怨霊の祟(たた)り、脳卒中、エトセトラ。ほとんどが後世に書かれたものだけどね」
「記述の無い三年間というのが引っ掛かるわね。この間に何があったのかしら」
「頼朝の側にいた人間が何かを見ている筈なんだがな」
「いずれにしても藪の中ってとこか。はい、レポート追加」
「ええっ! それも調べるのかよ」
「文句言わないの。私、面白くなって来たわ」
「面白がるのはいいけど、少しは手伝ってくれるんだろな」
「自分の『卒業報告』は自分でやらなきゃ。陶子さんの眼鏡に適うようなら、ご褒美に卒業祝いしたげる」
「豆タンクの眼鏡は、かなりキツい二重底なんだぞ。それに卒業祝いったって、どうせタツヨシさんの店で豆タンクと二人で吊し上げるつもりなんだろう」
「そうじゃないって期待していいわ。ガンバる気になった?」
「期待出来るような褒美ならね。何だい、褒美って」
「言ったげない。お楽しみは大事に取っておくものよ」
「眼の前にご馳走ぶら下げて走らされるのは嫌だな。競走馬みたいで」
「贅沢言わないの。ご馳走してくれるってだけで喜ばなくっちゃ」
「喜ばない馬もいるんだよ、世の中には」
「天の邪鬼!」
「毎度どうも」
 慌(あわ)ただしい人の喧噪(けんそう)を知らない境内が、亮二をリラックスさせていた。参道脇や木立のいたる所に、シャガの花が群生している。この静謐(せいひつ)な佇(たたず)まいの中にいると、瑞希の存在をより身近に感じる。亮二は、静かに立ち昇る高揚感を逃したくないという思いに駆られていた。
 瑞希が、ゆっくりと確かめるように足を運びながら言った。
「じゃあ、頼家のこともあまり書かれていないの?」
「いや。暴虐無能のダメ将軍として描かれてる。頼家は北条氏に殺されたんだけど、殺されても仕方が無いだろ、みたいなヒドい書かれようだ」
「可哀想じゃない。一方的に悪者扱いされるなんて」
「全部が全部嘘ではないとは思う。だけど事実なんて、見方が違えばまるっきり別の顔になってしまうからね」
「信頼の置ける史料は、他に無いの?」
「慈円の『愚管抄』かな」
「慈円?」
「この人は関白九条兼実の弟で、天台座主を務めてた。だけど政変に巻き込まれて、兼実父子や他の兄弟たちと一緒に失脚してしまった。でも北条政子と同世代の人だから、時代を肌で感じ取っていたと思う。京都にいたことが客観性を持たせてもいるしね。ただ鎌倉との距離が気になるんだ。慈円だって一部始終を眼にしたわけじゃないから」
 石段の上に、もう一つ門が見える。二天門だ。仏教を守護する帝釈天に仕える四天王の持国・広目・増長・多聞のうち、持国天と多聞天を門の両脇に安置してあるところから、そう呼ばれている。正面に向かって右側に持国天、左側に多聞天が邪鬼を足下に踏み付けている。その二天門から真っ直ぐに伸びる石畳の先に坐る伽藍(がらん)が、日蓮を祀る師祖堂である。二人は二天門をくぐった。
 門を抜けると、亮二は瑞希を右手に誘った。木の柵に囲まれた墓が立っている。
「一幡丸の袖塚だよ。向こうに並んでいるのが比企一族の墓」
 袖塚の奥にはひと群れの墓石がひっそりと佇んでいる。供えられた水仙や寒菊が、慰めるように苔生(こけむ)した墓にわずかな色を添えていた。墓標には比企一族の名が刻み込まれている。
「一幡丸というのは頼家と若狭ノ局の子ね」
「比企の乱の翌日、焼け残った一幡の小袖が見つかったらしい。それを供養に埋めたんだ」
「いくつだったの、一幡は」
「六歳」
「そんなに幼い子が………」
 言葉を失い、瑞希はうずくまって手を合わせた。亮二も並んで合掌する。手を解き瑞希を見ると、ほとんど泣き出しそうな顔をしていた。亮二は立ち上がり、袖塚に眼を置きながら言った。
「母親はみな違うけど、頼家には四人の男の子がいたんだ。でも全員が非業(ひごう)の死を遂げてる。公暁(くぎょう)は知ってるよね」
「鶴岡八幡宮で実朝を殺害した人でしょ」
「そう。公暁は正室辻殿の子なんだ。実朝を殺して逃げる途中で討たれた。他の二人も謀反(むほん)の疑いを掛けられ殺されてる」
「何だか呪われた家族みたい………」
「呪われてたのかも知れないよ。頼家の兄弟姉妹、それに子供たち。みんな若死にしてるからね。この比企ガ谷で生まれた竹ノ御所という一人娘だけかな、唯一長生きと言えば。京都から迎えた四代将軍の正室になったんだけど、それでも死産した子を追うように三十二歳で死んでる。頼家の血筋は完全に絶えてしまった」
「やだ。寒気がして来た」
 実際、瑞希は身震いした。立ち上がった瑞希を促して、師祖堂へ足を向けた。
 袖塚の脇の手水舎の隣に、海棠(かいどう)の樹がある。鎌倉一と言われた樹は枯れ、今は二代目だ。二代目はまだ幹が細いが、それでも春を待てば見事な花を咲かせる。花の咲き誇る頃、もう一度瑞希と一緒にここを訪れたいと亮二は思った。薄紅色の花房が、湧き立つ雲のように天に開く。その様に、きっと瑞希は笑みを弾けさせるに違いない。
 瑞希が亮二に肩を寄せた。亮二はその肩を抱こうかどうか迷った。そうして、迷うままに師祖堂の前まで来てしまった。
 意を決し亮二が瑞希の背中に左腕を回し掛けた時、不意に頭の上から声が降って来た。
「葛西じゃないか」
 亮二は思わず回し掛けた腕を隠すように下ろしながら、声の主を見上げた。堂の隅から赤いバンダナを巻いた頭が覗いている。
「何だ。碓井(うすい)か。脅(おど)かすなよ」
「脅かしたのはそっちの方だろ。シリアスなムードいっぱいのカップルが人目を忍んで歩いて来るんだ。どんなヤツか顔を見てやろうと興味津々見てみたら、ガックリ。見飽きた悪友のツラだもんな」
「別に人目を忍んでたわけじゃない。たまたま人が居なかっただけだ。それに、比企一族の墓を拝んでたんだ。シリアスな雰囲気にもなるさ」
「まだ歴史探偵ごっこやってるのか。相変わらずだな」
「お前こそこんな所で何やってる」
「俺か? これだよ」
 片手に持ったスケッチブックを掲げて振りながら、細面の顔がにっこり笑った。
「せっかくだ。そちらの美人を紹介しろよ」
 黒のウインド・ブレーカーとリュックを手に、トントンと師祖堂の階段を降りて来る。襟元から覗く赤いチェックのシャツに濃紺のトレーナー、洗い晒しのジーンズが細身の体に似合っている。
 二人の前に立つと、男は勝手に自己紹介を始めた。
「俺は葛西の高校の時の同級で、碓井圭介。一浪して美大に通ってる。葛西には世話を掛けられっぱなしで、尻拭いばかりやらされてる」
「どっちがだ」
 亮二の合いの手を無視して、圭介は続けた。
「腐れ縁は早く切りたいんだけど、何しろ俺の刀はナマクラでね。仕方が無いから、今はせっせと刀を研(と)いでいるところだ。で、君は?」
「私、桐生瑞希です。亮二さんの大学の一年後輩で、今日は鎌倉を案内して貰っています」
「こいつと居たって昔々のお話ばかりで辛気(しんき)くさいだろ」
「いえ。そんなことありません」
「よかったら俺がバトン・タッチしようか。面白い所ならいくらでも知ってる」
「充分楽しんでいますから。今のところ間に合ってるみたい」
「初っぱなからツレないなあ。気が向いたらいつでも声掛けてくれ。美人は退屈させない主義なんだ」
「気が向いたら、ね」
「そうだ。今度三人で呑まないか。何とか言ってたな、葛西のバイト先」
「タツヨシさんとこか。『伽武羅屋』だ」
「そこでお前の卒業祝いやろう」
「また卒業の話か」
「って。卒業、出来るんだろ?」
「何とか、な」
「じゃあ、決まりだ。瑞希さん、だっけ。その時会おう」
 瑞希が「それでいいの」という眼を、亮二に向けた。
 亮二は圭介に釘を刺すような口調で言った。
「俺をダシに使うなよ」
「ダシじゃないさ。お前がメインだ。友達が祝おうって言ってるんだ。素直に受けろ」
「お前だから素直になれないんだよ」
「偏屈も相変わらずだな」
「お調子者よりマシだ」
「楽しみにしてる」
「俺は楽しみじゃない」
「ハハハ。そう言うな。俺はこれから用事がある。邪魔者は消えるとするよ」
「どうせヤボ用なんだろ」
「ヤボ用ほど人生を彩るものは無いからな。しっかり楽しめ。葛西、またな」
 ポンポンと亮二の肩を叩くと、圭介はリュックを背負いさっさと二人を残して行った。
「確かに調子のいい友達ね」
 瑞希が微笑みながら言った。
 だが亮二は、静かに澄んでいた水に突然小石を投げ込まれた気がして、無愛想になった顔が元に戻らなかった。
「そうかい」
「鎌倉殿の尻拭いか」
「あいつが自分で勝手にそう言ってるだけだ」
「でも後を引くところが無いからいいじゃない」
「まあ、ね」
 投げられた小石の波紋が、まだ胸で揺れている。つっけんどんな答えしか返せない自分を、亮二はどうすることも出来なかった。
 急に機嫌を損ねた子供の気分を引き立たせるように、瑞希は明るい声で話題を変えた。
「ここでもうお仕舞い? 若狭ノ局にお目通りさせてくれるんじゃなかった?」
「そうだったな。少し戻るけど、本殿の上の小高い所に蛇苦止(じゃくし)堂がある」
「そこに若狭ノ局が居るのね」
「ああ、若狭ノ局は一幡の死を嘆いて井戸に身を投げたんだ。蛇苦止堂は成仏出来ずに蛇身となって苦しむ若狭ノ局の霊を慰めようと祀られた社で、妙本寺の守護神になってる。妙本寺というのも若狭ノ局の法名から取った名前だそうだ」
「また蛇なの」
「行くの、よそうか」
 瑞希はそれには答えず、逆に亮二に訊いた。
「行きたい?」
「あ?」
「私と一緒に。それとも一人で引き返す?」
 女の子にそう言われて黙って去る男はいない。だが瑞希がそう言ったのは、男を自分の側に引き留めるための女の駆け引きではない。亮二の気持ちをほぐしてあげたい、という気持ちからだった。亮二には瑞希の気遣いが解った。仕方ないなと苦笑し、亮二は言った。
「いや。もちろん一緒に行く」
「無理しなくてもいいのよ」
「無理じゃないさ。だって、蛇は苦手なんだろ」
「ありがと。優しいのね」
「デートだからな」
「実はね、一人で引き返すって言ったら蹴っ飛ばそうと思ってたの」
「怖いなあ。蹴っ飛ばされなくてよかった」
「うふふ」
「何だよ」
「何でもない」
「言えよ」
「うん。ちょっとは元気出たみたいだなって、思ったの」
「お陰さんで」
「あら。『毎度どうも』でしょ」
 亮二は自分の口癖を瑞希に促され、苦笑した。
「行きましょ。いざ、鎌倉殿」
 瑞希が亮二の手を握り、元気よく振った。瑞希の手の温かさが亮二の手に伝わる。引っ張られるように歩きながら、亮二は胸の波紋が凪(な)いで来るのを覚えた。
 二人は今来た参道を後戻り、右手の細い坂を上った。左に住宅の続く一画を小高い山際に沿って歩く。電柱の上に何か動く黒いものがあった。亮二は瑞希の腕を肘(ひじ)で突き、「ほら」と言った。
 見上げた瑞希はそれが何だか分からなかった。
「栗鼠(リス)だよ」
 言われれば、そうかも知れないと思う。しかし、リスにしては毛並みが薄く尻尾もささくれている。
「そうなの? 何だかリスじゃないみたい」
「台湾リスだろ。最近繁殖して被害が広がってるって聞いたことがある」
 イメージとはほど遠い小さな獣だ。瑞希は可愛さよりは、むしろ哀れを感じた。生きていくために、他のものを駆逐する。それは生きものの宿命かも知れない。動物も、人間も………。
 栗鼠は二人を気に掛けるふうでもなく、電線を伝って脇の木の枝葉の陰に消えて行った。 
 坂を上り切ったところに蛇苦止堂はあった。こじんまりとした社で、どこか寂(さび)れた感じが拭えない。若狭ノ局が身を投げたという井戸も朽ち果てたような侘(わび)しさが潜んでいる。瑞希は、しんとして漂う冷気の中に若狭ノ局が居るような気がした。お参りすれば化身した蛇が出て来そうで、気が萎(な)え寒けさえ覚える。亮二の腕にすがる瑞希の指が強張(こわば)った。
 瑞希から先ほどの元気のよさが失せ、怯(おび)えに近い感情の波動が亮二に伝わって来る。亮二も長居すべき場所ではないと、何かが告げているように思った。
「行こう」
 瑞希の肩に自然と腕が回り、包むようにして瑞希の体を自分に引き寄せた。そうして逃れるように、二人は蛇苦止堂を後にした。
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