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十三、策謀
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「阿波ノ局という女の人が出て来るだろう?」
辺りをはばかる亮二の声が届いた。それでもがらんとした大学の図書室に、その声は大きく響いた。学年末の試験後の春休みに入ってしばらく経つから、学生の姿はほとんど無い。司書が退屈そうにパソコンに向かい書籍整理をしているばかりだ。
瑞希は開いていた「吾妻鏡」から眼を上げた。閲覧するテーブルの上に何冊も積み上げた書籍の山越しに、亮二の顔が覗いている。遠慮が影を潜め、代わって親しい者を慈しむような柔らかさが滲み出ていた。瑞希は嬉しさと同時に、男というものの変わりようの可笑しさを感じた。それは初めて口にした飴玉を舌の先でころころと転がして遊ぶような、新鮮な感覚だった。飴玉の層が溶けるごとに形を変え、甘さを変えていく。興味と期待と驚きが、頬の内側いっぱいに広がる愉しさを思わせる。哬武羅屋での夜から、亮二が一層身近になった。瑞希の生活の一部になったと言ってもいい。亮二が瑞希に対して強い意思を抱いてくれたのは碓井圭介の存在があったからだ。圭介に感謝しなければいけないのかも知れないな。そう思いながら、瑞希はにこやかに微笑んだ。
「ええ。正治元年十月二十七日、結城朝光に話しているところね」
「読んでみて」
「女房阿波局結城の七郎朝光に告げて云(いわ)く、景時が讒訴(ざんそ)に依(よ)って、汝(なんじ)すでに誅戮(ちゅうりく)を蒙(こうむ)らんと擬(ぎ)す。その故(ゆえ)は、忠臣は二君に仕えざるの由(よし)述懐せしめ、当時を謗(そし)り申す。これ何ぞ讎敵(しゅうてき)に非(あら)ざるや。傍輩(ほうばい)を懲肅(ちょうしゅく)せんが為(ため)、早く断罪せらるべきの由具に申す所なり………」
「その二日前、結城朝光は侍所にいた御家人たちに『南無阿弥陀仏』を一万回唱えさせてる。『頼朝公が亡くなって今の世相は薄氷を踏む思いがする。忠臣は二君に見(まみ)えずというから出家したいが、遺言でそれも叶わず。せめて供養に』と、念仏を唱えさせたんだ」
「それを梶原君が二代将軍頼家に言い上げたのね」
「うん。結城朝光が『二君に仕えない』と二代将軍を謗った。これは将軍に仇(あだ)なす敵ではないか。朝光を懲(こ)らしめるため早く断罪すべきだ、とね」
「それを阿波ノ局が教えた。あなたは罰せられますよって。阿波ノ局と結城君ってどんな人?」
「阿波局は北条時政の三女。政子の妹だね。結城朝光は頼朝を父のように慕っていた家臣。ずっと前のことだけど、安達盛長の妻丹後ノ局が病に臥せった時、頼朝がお忍びで見舞いに行ったことがある。その時お供した二人の従者のうちの一人」
「お忍びで家臣の奥さんを見舞いに行ったの? なんか下心見え見えだな」
「丹後ノ局は頼朝の乳母比企ノ尼の長女なんだ。政子が頼家を懐妊した時はずっと政子の世話をしていたし、安達盛長は流人時代からの頼朝の側近。だから、頼朝が二人を兄妹同様に思ってたとしても不思議じゃない」
「近くても他人でしょ。信頼の置ける間柄だったら、なおさら愛情が湧きやすいんじゃないの。それに鎌倉殿は、女の人に目移りするのが得意みたいだから」
瑞希は「鎌倉殿」に引っ掛けて、ちょっと亮二をからかった。からかう口調の中に、亮二が他の女性に目移りしないよう牽制(けんせい)する意図も込めた。ヤな女だなあ、と自分で自分を思う。
亮二は痛い所を突かれたような顔を曖昧な笑みで薄め、話を元に戻した。
「景時は面白くなかったんじゃないかな。頼朝の忠臣中の忠臣は自分だという自負があったから。いい機会だから懲らしめてやれって思ったんだろう」
「で、結城君どうしたの?」
「自分で読めよ」
「優しくないのね。古文は苦手なの。読めない漢字は多いし、意味不明の言葉は並ぶし。話聞く方が手っ取り早いじゃない」
「労力を惜しむは実り得難し、だよ」
「無駄な労力を惜しんでるだけ」
「手伝ってくれるんじゃなかったっけ」
「だからここに来たんじゃない。無駄のない労力なら、出し惜しみはしないわ」
「オッケー。じゃあ、北条氏の系譜を調べて、阿波ノ局と牧ノ方の周辺を書き出して来て」
「お安い御用。でも、その前に話の続き」
「やれやれ」
「ほらほら、むくれないの」
亮二が鎧(よろい)を脱いで一歩も二歩も瑞希に歩み寄ったとはいえ、相変わらず瑞希のペースだ。それでも亮二は嫌な顔もせず、かい摘まんでその後の経緯を話してくれた。
阿波ノ局の耳打ちに驚いた朝光は、親友の三浦義村を訪れ善後策を相談した。義村は宿老の和田義盛・安達盛長を招いて意見を聞く。二人は景時弾劾の訴状を将軍頼家に提出し裁可を仰ぐよう言った。翌日、景時弾劾のために鶴岡八幡宮に集まった御家人六十六名が連名し、訴状は中継ぎ役の大江広元に手渡された。だが、広元はすぐには頼家に提出しなかった。和田義盛に一喝されて、ようやく広元は訴状を差し出す。頼家に即座に召し出され訴状を見せられた景時は、翌日自領の相模一ノ宮に下向した。
「六十六人も弾劾状に署名! 御家人たちが念仏を一万回も唱えたっていうのも心情的に結城君に賛同してたからよね」
「うん。景時の讒言癖(ざんげんへき)は有名だし、景時の妻が頼家の乳母の一人だったから、頼朝が亡くなるとちゃっかり頼家に取り入った老練さも鼻に付いていたと思う」
「『梶原君総すかん同盟』ってわけね」
「和田義盛は頼朝の挙兵以来の家臣で、三浦義村の従兄に当たる。安達盛長は、さっきも言ったけど頼朝の流人時代から援助していた比企ノ尼の娘婿。二人とも幕府を支える中心人物で合議制のメンバーなんだ」
「合議制って?」
「ああ。頼家の権限を抑えるのが目的でね、十三名の宿老が会議によって幕府の政務を行うことにしてたんだ」
「頼家も大変だったのね。大勢の爺やがいて。将軍なのに思う存分力を発揮出来ないなんて。ストレス溜まるわ、それは」
「頼家もその大勢の爺やに対抗した。近習五名以外は自由に出入りするな、近習が鎌倉でどんな狼藉を働いたとしても敵対するな、とお触れを出した」
「おうおう、爺やと若者のバトルの図。でも頼家側は何だかガキっぽいな」
「そのガキっぽいお触れ状を書いたのが、合議制のメンバーでもある梶原景時なんだ」
「何なのそれ。自分で御家人の結束を乱してんじゃない。恨みを買う筈だわ」
「それだけじゃない。和田義盛は初代侍所別当、つまり御家人を統轄する長官職を景時に横取りされてる。安達盛長の方は、息子の景盛が妻をめぐって謀反を企てたと景時に讒言され、頼家に軍勢を差し向けられそうになった」
「個人的な恨みも積もってたのか。最悪の事態ね。自分の手で自分の首を絞めたのよ。人の悪口ばかり言うから」
「景時の讒言で窮地に陥った人は多い。あちこちで恨みを買っていたのは間違いない。その景時弾劾状の署名の中に、畠山重忠ってあるだろ」
瑞希は再び「吾妻鏡」に眼を落とし、文字を押さえながら指を走らせる。
「頼朝に謀反を企てたと讒訴されたんだけど、頼朝の前でひと言も弁解せず景時の訴えを無視し続けた。多くの御家人は重忠の態度を痛快に思ったらしい」
「出てる、その人の名前。ええと、畠山次郎重忠ね。三浦兵衛尉(ひょうえのじょう)義村、和田左衛門尉義盛、安達藤九郎盛長入道。あら、比企右衛門尉能員って妙法寺に一族の墓があったわよね。それから稲毛三郎重成入道。この人、確か頼朝が死んだきっかけとなる橋供養をした人ね」
「数えてみて」
瑞希は、千葉常胤(つねたね)を筆頭に列挙された名前を数え始めた。
「えっ、三十八? 六十六名もいないじゃない。書かれてないのは、その他大勢ってことかな」
「北条の名前が無いだろ」
「ええ。どうして?」
「北条氏に都合の悪いことは極力伏せるんだ、『吾妻鏡』は」
「そう言ってたわね。でも北条氏にとって何が都合悪いのかしら。合議制のメンバーだったんでしょ、当然」
「うん。北条時政・義時父子がね」
「御家人が『梶原君総すかん同盟』を結成してるのに、中心メンバーが参加しない筈ないし、その他大勢の中に含むっていうのもねぇ。不自然さを感じるなぁ」
瑞希は腑(ふ)に落ちない気持ちのまま、亮二に話の先を促した。
「で、梶原君。その後どうしたの?」
「一度鎌倉に戻ったんだけど、追討命令は出されるは鎌倉の館は壊されるはで、また一ノ宮に帰って来た。それから京に向けて出発、その途中で一族全員が討たれた」
「なぜ京に?」
「景時は公家の間では評判はよかったらしい。天台座主(ざす)の慈円も褒(ほ)めてるしね。大江広元に次ぐ京通だったから、自分の生き場所を京都に求めたんだろ」
「それで、梶原君一家を滅ぼしたのは幕府の軍勢?」
「もちろん和田義盛や三浦義村を筆頭に追討軍が出されたんだけど、どうやら地侍に殺されたらしい」
「地侍? どこの?」
「どこだったかな………」
ちょっと貸して、と亮二が手を伸ばした。瑞希は「吾妻鏡」を亮二の手に渡した。が、自分の手を離さなかった。亮二が怪訝(けげん)な顔をした。
「何?」
囁(ささや)くように、瑞希が言った。
「して」
「え?」
「キス」
亮二の眼が揺れた。
「ここで?」
亮二の声も囁きになった。
「そ」
「今?」
「そ」
「何だよ、急に」
「急にして欲しくなったの」
「おいおい」
亮二は周りをそっと見回した。
「誰も見てないって。大丈夫。ほら」
「参ったな」
亮二は腰を浮かし、瑞希に顔を近づけた。瑞希は手に持った「吾妻鏡」をぐいっと引いた。亮二の唇が瑞希の唇に触れる。数秒の間、柔らかい感触が瑞希の唇を包む。瑞希の体の力が抜けた。亮二は「吾妻鏡」と共に体を引き、音を立てないようにパイプ椅子に腰を下ろした。瑞希は、ふううと溜息を洩らした。
「ドキドキしちゃった」
「ドキドキどころじゃないよ」
「私、ドキドキって大好き。も一回」
瑞希が悪戯っぽい眼で言った。
「おいおい。止めてくれよ」
照れ臭さを隠すように、亮二がぶっきら棒に答える。
「ふふ。冗談よ。後でまたね」
「ったく」
言いながら顔を俯け「吾妻鏡」のページをめくる亮二の耳は赤く染まっている。
瑞希は可愛いなと思った。男は大人になっても、ひと皮むけば子供の部分をどこかに残しているのかも知れない。みんながみんなではないだろうが。でも、女は歳相応に変わっていくだけのような気がする。子供から少女、少女から女、そうして母、オバさん、お婆さんと………。そんなことを考えながら、瑞希は亮二の赤く染まった耳朶(じだ)を見ていた。
しばらくして、亮二が眼を上げた。
「駿河の清見ヶ関だ。駿河は誰が守護だったろう」
亮二が立ち上がった。
「………ん?」
「どうしたの?」
「鼻がむずむずして来た」
「それって、何かのサイン?」
「ハッ、クシュン!」
「風邪?」
「いや」
「花粉症なの?」
「違うよ。引っ掛かるんだ。ひょっとしたら………」
「宝物、見っけ?」
「瑞希は系図を。僕も調べなきゃいけないことがある」
二人は書籍棚へ足早に急いだ。
北条時政の系図を調べていた瑞希は、あることに気づいた。
○先妻伊東祐親の女(むすめ)
├ 北条政子
├ 義時
├ 時房
├足利義兼室
├阿野全成室
└畠山重忠室
○後妻牧ノ方
├北条政憲
├稲毛重成室
├平賀朝雅室
├三条実宣室
├宇都宮頼綱室
└坊門忠清室
梶原弾劾状に名前の出ている御家人たちのうち、時政の娘婿となっている者がいる。畠山重忠、稲毛重成、宇都宮頼綱だ。三人は何らかの繋がりがあるのではないか。そう思った瑞希は、さらに畠山氏の系図を調べた。
┌畠山重能─重忠─重保
秩父重弘┤
└小山田有重─稲毛重成
└榛谷重朝
畠山重忠と稲毛重成は従兄弟だ。畠山重忠の母は誰だろう。畠山氏の系譜をたどる。すると、三浦氏と重なった。
┌金田頼次室
├畠山重能室─重忠
三浦義明┼義宗─和田義盛
│ ├義澄─義村
│ └源義朝室─義平
岡崎義実
畠山重忠の母は和田義盛や三浦義村の伯母に当たる。驚いたことにその妹は頼朝の父源義朝に嫁ぎ長男義平を産んでいた。糸を手繰れば、三浦義明の弟は岡崎義実、義明の長女の嫁ぎ先の金田頼次の兄は上総介(かずさのすけ)広常で、縁者に千葉介常胤がいる。岡崎義実も千葉常胤も弾劾状に署名している人物だ。宇都宮氏は系図が見つからなかった。が、名前からすると栃木だから昔の国名でいうと下野(しもつけ)国。畠山・稲毛の出身地秩父(現在の埼玉県)は武蔵国、三浦氏は相模国、そうして千葉の上総・下総(しもうさ)国がぐるりと円で囲んで鎌倉を支えている。
嫁いで行った女たちは「女」とか「室」とあって、名前までは解らない。いくら資料を調べたところで生身の人間の温かさが伝わって来ないのだ。嫁ぎ先の家を守り子を産み継ぐことで、御家人たちの結束を強固にし武家社会の基盤を築いただろうとは想像出来る。どんな喜びを味わい、どんな苦悩を抱えていたのか。恋もしただろう、夫に愚痴もぶつけただろう、母として子をこよなく慈しんだだろう………。瑞希は男ばかりの名の並ぶ系図から、陰に隠れた女たちの息遣いを嗅ぎ取りたかった。
書棚でゴソゴソしていると、亮二が脇に立って瑞希の肩を叩いた。
「やる気モード全開だな」
「誰かさんのお尻を叩かなきゃいけないからね」
「毎度どうも。話があるんだ。来てくれる?」
亮二は先に閲覧室に戻って行った。研究書や史話・人名辞典など何冊か小脇に抱え、瑞希は元の席に戻った。
瑞希が坐るのを待ちかねたように、亮二が言った。
「駿河は伊豆の隣国だ。やっぱり北条時政が守護を務めてた」
「北条君が一枚噛んでるわけ?」
「おかしいんだ。梶原一族が上洛しようと領国相模一ノ宮を出発したのは正治元年一月二十日丑(うし)の刻、午前二時頃。清見ヶ関で地侍たちと遭遇したのが亥(い)の刻だから午後十時頃。一ノ宮から計測すると約百二十キロの距離を二十時間で進んだことになる。一ノ宮は今の茅ヶ崎の少し北のところ。清見ヶ関は静岡県の清水市だから険しい箱根を越えなきゃならない。しかもこの日はかなり吹雪いていて、前夜からの雪が降り積もっていたらしい。重い鎧の上に蓑(みの)を着けての行軍だよ。休み無しで単純計算すると、時速六キロ。馬は使っていただろうけど、それでもかなりキツい」
「追っ手が掛けられていたから、急いだんじゃない?」
「おかしいというのはね、地侍たちなんだ。その夜は的矢(まとや)の会があって、その帰りだった。今と違って夜十時といったら深夜で、人はとっくに寝静まってる時間だよ。陽の落ちる前に会は終わっていただろうから、酒でも飲んでいたのかも知れない。それにしても、梶原一行と出くわすには相当時間が経ってる。酒飲んでたらベロベロに泥酔してるね」
「誰かさんみたいに、酒に弱い人間ばかりとは限らないわ」
「その『誰かさん』って、止めてくれないかな」
「ごめん。気に障(さわ)る?」
「ちょっとな」
「そうね。もう付き合ってるんだから、ちゃんと呼ばなきゃね。『亮二さん』がいい? それとも『亮ちゃん』?」
「どっちでもいいよ。呼びやすい方で」
「そんないい加減なこと言わないの。じゃあ、他人行儀は嫌だから『亮ちゃん』って呼ぶ」
「一気に距離が縮まった感じだな」
「さっきのキスが効いたちゃった。実はね、キスのおねだりしやすい呼び方なの。あはっ」
瑞希が舌をペロッと出して笑った。
亮二も、くすっと笑みをこぼした。
身近になると、相手の呼び方が変わる。当たり前のことだが、言葉は人との関わりの度合いを示すものだ。立場が違えば言葉遣いも違う。年齢や上下関係はもちろん、友人の間でもその距離感は言葉に微妙に表れる。男女ならば、なおそうだろう。言葉だけではない。態度や仕草、眼の配り、体の置きどころなどを人は相手によって自然と選んでいる。
「話を戻すよ。戦いは狐崎(きつねがさき)にまで広がる。騒ぎを聞いた他の地侍たちが駆けつけて、壮絶な修羅場になった。景時は長男・次男と北の街道に逃れ、翌日未明に山中で自害するんだ」
「どこがおかしいの、………亮ちゃん」
恋人として初めて呼ぶ名はくすぐったい。瑞希の口の中で、恋人の名は少し控えめに転がった。亮二も、母や幼い頃の近所の人の口にした自分の呼び名を瑞希が言うのを聞いて、耳がこそばかった。
「うん。地侍たちとの遭遇は梶原景時には不運だったかも知れないけど、あまりに都合が良過ぎる。人の寝静まった冬の凍てつく深夜、酒に酔った地侍、狐崎は清見ヶ関から数キロも離れてる。その狐崎に駆けつけた地侍の仲間たち………。梶原といえば源平の合戦でその名の知れた豪の一族だよ。いくら強行軍で疲れていたとしても、戦支度をしていた。平服の酒に酔った連中に打ち取られるわけが無い。地侍たちは酒に酔ってたんじゃない。準備を整え待ち伏せしてたんじゃないか? 不意を突かれたのなら話は解る。だろう?」
「うーん。でも、それって亮ちゃんの思い込み過ぎじゃない? 待ち伏せだったら、事前に『いつ』『どこで』が解ってないといけないでしょ」
二度目の「亮ちゃん」は掛かるところ無く口から滑り出た。ひとつ石を跳び越えると、後は自然となじんでゆく。
「それがね」
「何かあるの?」
「梶原一族が一ノ宮を出る二日前」
「ほら、もったいぶらないの。ストレートに言っちゃいな。私、その方がずっと好きよ、亮ちゃん」
亮二は苦笑した。完全に瑞希ペースにはまっている。だが、それも居心地は悪くない。
「頼家が狩りをやってるんだ」
「狩り?」
「大庭野(おおばの)という所で。鎌倉から大庭野まで十キロ、大庭野から一ノ宮は五キロぐらいだから、ずっと一ノ宮に近い。しかも、吹雪の中をだよ」
「狩りってよくするんじゃないの、昔の武士は」
「武芸の一つとしてね。有名なのは頼朝がやった富士の巻狩り。その時は予行演習を三度もやってる。準備は大変だし、それに真冬に狩りなんてやんないだろ、普通。富士の巻狩りは五月だった。予行演習も雪が溶けて春になってからなんだ」
「梶原君を一ノ宮からいぶり出すため?」
「ちょっと整理してみるよ」
亮二は手帳を開いた。ページの中央に梶原景時の文字が円で囲んである。斜め左上に大江広元、右上に土御門通親(みちちか)の名があり、それぞれが線で結ばれ逆三角形を形作っている。土御門通親の横に二重線が伸び、後鳥羽院と記してある。景時の下には頼家と宿老の名が書かれ、その下には殴り書きの小さな文字で箇条書きがいくつも並んでいた。亮二は手帳を見ながら、確認するように瑞希を見た。
「一つ、なぜ大江広元は梶原弾劾状をすぐ頼家に提出することをためらったか」
「これは大変ってビビってたのね、きっと」
「二つ、頼家と宿老たちは敵対関係にあった。景時は頼家の乳母の夫で、合議制に対抗するお触れ状も出してくれた。なのに、なぜ頼家は宿老たちの意見を取り入れ梶原追討令を出したか」
「梶原君の讒言癖に頼家も嫌気が差してたのよ。あることないこと後でグジグジ言われるのってヤでしょ、亮ちゃんも」
亮二は「ああ」と言いながら、話がそちらへ向かないよう先を続けた。
「三つ、なぜ宿老であり御家人に姻戚を幅広く持つ北条の名が弾劾状に無いか」
「梶原事件の発端は北条時政の娘阿波ノ局で、一族の滅び去ったのが時政の領国。北条で始まり北条で終わってる。なのに梶原追討の要(かなめ)となる御家人一致団結の弾劾状に北条の名が無いなんて、これは臭い。ぷんぷん臭う」
「臭うだけじゃ答えにならない」
「そうねえ。蓋(ふた)しちゃったのよ、臭いから。『吾妻鏡』の作者が。確か頼朝が死んで三年の間も記述が無かったって言ってたでしょ。書いたらボロが出る。だから、いっそ書くの止めちゃえって」
「乱暴だなあ。それじゃあレポートになんないだろ」
「そこは亮ちゃんの腕の見せ所。私の役目は尻叩き」
「ったく。いいよ、解った。じゃあ、答えだ。推論だけどね」
「待ってました」
「まず第一問。大江広元は京都の官僚出身なんだ。外記(げき)といって文筆の職に就いてた。頼朝に招かれ幕府の政所初代別当も務めた人でね………」
広元は宿老の一人で御家人たちと将軍頼家の橋渡しをする役目を担っていた。と同時に、京都朝廷にも深いパイプを持っている。当時朝廷では土御門通親が実権を握っていた。通親はいく度かの政変を乗り切り、養女の子が土御門天皇となった。だから源氏姓であった通親は天皇の名をそのまま自分の姓とした。広元は自分の長男をその通親の養子にしているのである。
一方、梶原景時は機を見るに敏だ。上司の心を測り、力の移り加減を察知する能力に長(た)けている。だから讒言もするのだろう。景時は源平の争乱時には朝廷との交渉をこなし、頼朝の代役として務めを果たしている。景時の性格は多分に公家風で、武芸一辺倒ではなく事務能力も相当に高い。朝廷内には景時を高く評価する声が多かった。広元とも気が合う道理だ。しかも、景時は頼朝死去の報告の使者として長男景季(かげすえ)を通親の元に送っている。
広元は朝廷の中枢と繋がりがあり、景時は広元を利用して朝廷と何らかの接点を持とうとしていた。広元にすれば御家人の中で景時が一番身近な人物であり、その人間を弾劾するのに積極的にはなれなかったと考えられる。
「そうよね。親しみを覚えている人をチクったり、コケにしたりは平気で出来ることじゃないもの」
「梶原景時はチクリで出世した。どうも息子の景季もそうみたいなんだ」
「どういうこと?」
「景季が頼朝死去を朝廷に報告に行ったんだけど、その時に一条家の家臣を焚き付けて土御門通親を暗殺させようとした。ところが、そのことを通親に知らせてるんだ」
「何、それ。わけ解んない」
「つまり通親に恩を着せてご褒美を貰おうとしたんだと思う。通親は後鳥羽院と相談して大江広元に通報。報せを受けた頼家が独断で御家人を派遣し暗殺を企てた三人の武士を捕らえた。『三左衛門の変』と言われてる」
「梶原一家って人を陥(おとしい)れてばかりね」
「頼朝が亡くなって頼家に乗り換えようとしたけど、御家人たちと上手くいかない。だから京都の朝廷に取り入ろうとしたんだろ。梶原事件の後、景時の仲間として捕まった勝木則宗という人の供述で解ったことなんだけど、後鳥羽院が景時に九州の支配を任せるという院宣(いんぜん)を出してたみたいなんだ」
「そのご褒美目当てで京に向かったのね。あー、ヤだヤだ。次行こ。はい、第二関門」
「なぜ頼家は仲の悪い宿老たちの意見を取り入れ、景時追討の命令を出したかだね」
「『梶原君のチクリ、もうヤんなっちゃった説』で決まりでしょ」
「あのね、裏付ける資料の無い推論は暴論と言うんだよ」
「ごもっとも。で?」
「景時の妻は頼家の乳母だった。乳母の存在は結構大きいよ。幼児期に育てられ面倒を見て貰ってるからね。乳母や乳母夫の言うことには逆らい難いものがあるし、逆に頼りにする部分もある。景時は頼家にとって助けとなってくれてた筈なんだ。比企一族と共にね。ところが頼家は御家人を遠ざけた。近習しか側に置かなかった。つまり自分で耳を塞いだわけ」
「じゃあ、頼家のところに入って来る情報は限られてしまうってこと?」
「そうなんだ。だから、正しい政断が下せない」
「それだけで梶原君追討命令を出したとは思えないけど」
「頼家は頼朝のように景時を使いこなす自信も、またかばう力も無かったんだろう。それよりね、頼家を景時追討に動かすいい手があるんだ」
「何?」
「近習の中に自分の息の掛かった人物を置く」
「まさか」
「近習を使って頼家に耳打ちさせるんだ。景時は密かに朝廷と結んで鎌倉に弓を引こうとしてる、とね」
「ううん………」
「追討するには口実が要るだろ」
「そうね」
「鎌倉を追放し、時間を与える。景時は着々と準備を整える。大庭野で狩りをする。景時は追討軍を差し向けられたと泡を食い、京に向け出立する。これで謀反を企て京に上ったという口実が出来た。直ちに頼家は追討命令を出す」
「その自分の息を掛けた近習を抱えていたのが、北条君?」
「恐らく北条時政は、大庭野の狩りが決まった時点で駿河に使者を走らせた筈だ」
「なるほど。辻褄(つじつま)は合うわね。でも裏付ける資料の無い推論は暴論じゃないの? 近習にそんな人間がいたって証明出来る?」
「比企の乱の後、頼家の近習たちは処罰されてるんだ。その中に中野五郎能成(よしなり)という人物がいてね。彼は拘禁、所領没収されて、流罪になった」
「頼家は手足をもがれたわけか」
「『吾妻鏡』ではね」
「違うの? 別の資料では」
「『鎌倉遺文』に拠(よ)ると、拘禁されたという日に中野能成は北条時政から本領安堵の下文を貰ってる。それだけじゃない。『吾妻鏡』で能成が所領没収された日の四日後には旧領地を返して貰い、その土地での公の仕事はしなくてもいいという恩恵を授かってるんだ。能成は比企能員のために安堵を得られてなかったから、能成の忠義に報いるようにと頼家が言ったので下知したと、そう時政が文書に残してる」
「時政からのご褒美なのね。納得。じゃ、第二ブロックはクリア。第三ゲートに行きましょ。なぜ梶原弾劾状に北条君の名前が無かったか」
「北条氏は『家ノ子』だった」
「家ノ子?」
「うん。幕府のトップは鎌倉殿、つまり頼朝だろ。その下には清和源氏の流れを汲む『御門葉』、次が清和源氏ではないけれどこれに準ずる『準門葉』。一般の御家人はその下で『家ノ子』と呼ばれてた。政子が頼朝の妻だったお陰で優遇はされてたけど、北条は平氏の庶流だ。だから無位無官、幕府の役職には就いていない」
「でも伊豆や駿河の領主だったんでしょ?」
「守護ではあったけど、国司じゃないんだ」
「ん?」
瑞希のきょとんとした顔を見て、亮二はノートを手に立ち上がり瑞希の隣に坐った。
「いいかい。頼朝が直接統轄していたのは関東御分国といって九ヶ国ある」
ノートに書き付ける亮二の微かな体温と匂いをふわっと抱き止めたいと、瑞希は思った。亮二の顔を見詰める。亮二が視線を返した。
「聞いてる?」
「ああ、うん」
「尻叩かれて走ってんだから、ちゃんと見ててくれよ」
「はい、了解」
瑞希は、またペロッと舌を出した。
関東御分国は武蔵、相模、伊豆、上総、駿河、三河、越後、信濃の八ヶ国と九州の豊後である。頼朝が任命権を持ち、朝廷に推挙して国司となる。いずれも「御門葉」か「准門葉」から選ばれ、武蔵守(かみ)とか相模守などと呼ばれていた。守護は源義経の追捕や反乱を鎮圧するために国々に置かれた軍事・警察担当がその役目で、行政権は持たない。
「つまり、北条氏は地方の一警察署長みたいなものだったんだ」
「じゃあ、その他大勢の内の一人ってこと」
「だから弾劾状の連名の中に北条の名前が無いのは、あながちおかしいとは言い切れない。だけど、名前があった方が自然ではあるよね」
「どうして名前を載せなかったのかしら」
「時政には野望があった」
「どんな?」
「阿波局は実朝の乳母だ。頼家から疎(うと)んじられていた北条時政は、実朝を次期将軍にと画策したんだ」
「だったら邪魔になるのは頼家の乳母たちとその一族?」
「梶原と比企だよ」
「そうか。で、まず梶原君が槍玉に挙げられた」
「この梶原事件の直後、四月に時政は遠江守(とおとうみのかみ)に任じられてる。つまり『准門葉』になった」
「大出世じゃない。相当の功績を挙げたってことよね、それって」
「名前が無いのは、その後の北条氏の動きを見えづらくする意図があったんだろう」
「比企の乱?」
「そうして頼家暗殺。原因と結果を拾っていくと道筋が見えて来る。牧ノ方を調べれば、いろいろ出て来ると思うよ」
「私の出番ね」
妻や乳母たちが表舞台で動き回る男たちの社会を動かしているような気がして来た。世の中には男と女しか居ない。戦っている男たちを支えているのは女たちだ。昔も今もそれは変わらない。女たちの戦いが、歴史に現れないところで繰り広げられていたのではないのか、と瑞希は思った。
「期待してるよ」
亮二が立ち上がり、また向かいの席に移動した。亮二の居た空間が空(から)になり、瑞希は少し寂しさを覚える。こんな日常の些細(ささい)なことを意識する自分に驚きながら、窓の外に眼をやった。早春の午後の陽射しが樹々の葉の緑の色を強め、春の訪れを告げている。調べものに集中している亮二に一度眼を移し、それから書籍のページを開きながら鼓舞(こぶ)するように自分に声を掛けた。
「さ、張り切ってやるか」
辺りをはばかる亮二の声が届いた。それでもがらんとした大学の図書室に、その声は大きく響いた。学年末の試験後の春休みに入ってしばらく経つから、学生の姿はほとんど無い。司書が退屈そうにパソコンに向かい書籍整理をしているばかりだ。
瑞希は開いていた「吾妻鏡」から眼を上げた。閲覧するテーブルの上に何冊も積み上げた書籍の山越しに、亮二の顔が覗いている。遠慮が影を潜め、代わって親しい者を慈しむような柔らかさが滲み出ていた。瑞希は嬉しさと同時に、男というものの変わりようの可笑しさを感じた。それは初めて口にした飴玉を舌の先でころころと転がして遊ぶような、新鮮な感覚だった。飴玉の層が溶けるごとに形を変え、甘さを変えていく。興味と期待と驚きが、頬の内側いっぱいに広がる愉しさを思わせる。哬武羅屋での夜から、亮二が一層身近になった。瑞希の生活の一部になったと言ってもいい。亮二が瑞希に対して強い意思を抱いてくれたのは碓井圭介の存在があったからだ。圭介に感謝しなければいけないのかも知れないな。そう思いながら、瑞希はにこやかに微笑んだ。
「ええ。正治元年十月二十七日、結城朝光に話しているところね」
「読んでみて」
「女房阿波局結城の七郎朝光に告げて云(いわ)く、景時が讒訴(ざんそ)に依(よ)って、汝(なんじ)すでに誅戮(ちゅうりく)を蒙(こうむ)らんと擬(ぎ)す。その故(ゆえ)は、忠臣は二君に仕えざるの由(よし)述懐せしめ、当時を謗(そし)り申す。これ何ぞ讎敵(しゅうてき)に非(あら)ざるや。傍輩(ほうばい)を懲肅(ちょうしゅく)せんが為(ため)、早く断罪せらるべきの由具に申す所なり………」
「その二日前、結城朝光は侍所にいた御家人たちに『南無阿弥陀仏』を一万回唱えさせてる。『頼朝公が亡くなって今の世相は薄氷を踏む思いがする。忠臣は二君に見(まみ)えずというから出家したいが、遺言でそれも叶わず。せめて供養に』と、念仏を唱えさせたんだ」
「それを梶原君が二代将軍頼家に言い上げたのね」
「うん。結城朝光が『二君に仕えない』と二代将軍を謗った。これは将軍に仇(あだ)なす敵ではないか。朝光を懲(こ)らしめるため早く断罪すべきだ、とね」
「それを阿波ノ局が教えた。あなたは罰せられますよって。阿波ノ局と結城君ってどんな人?」
「阿波局は北条時政の三女。政子の妹だね。結城朝光は頼朝を父のように慕っていた家臣。ずっと前のことだけど、安達盛長の妻丹後ノ局が病に臥せった時、頼朝がお忍びで見舞いに行ったことがある。その時お供した二人の従者のうちの一人」
「お忍びで家臣の奥さんを見舞いに行ったの? なんか下心見え見えだな」
「丹後ノ局は頼朝の乳母比企ノ尼の長女なんだ。政子が頼家を懐妊した時はずっと政子の世話をしていたし、安達盛長は流人時代からの頼朝の側近。だから、頼朝が二人を兄妹同様に思ってたとしても不思議じゃない」
「近くても他人でしょ。信頼の置ける間柄だったら、なおさら愛情が湧きやすいんじゃないの。それに鎌倉殿は、女の人に目移りするのが得意みたいだから」
瑞希は「鎌倉殿」に引っ掛けて、ちょっと亮二をからかった。からかう口調の中に、亮二が他の女性に目移りしないよう牽制(けんせい)する意図も込めた。ヤな女だなあ、と自分で自分を思う。
亮二は痛い所を突かれたような顔を曖昧な笑みで薄め、話を元に戻した。
「景時は面白くなかったんじゃないかな。頼朝の忠臣中の忠臣は自分だという自負があったから。いい機会だから懲らしめてやれって思ったんだろう」
「で、結城君どうしたの?」
「自分で読めよ」
「優しくないのね。古文は苦手なの。読めない漢字は多いし、意味不明の言葉は並ぶし。話聞く方が手っ取り早いじゃない」
「労力を惜しむは実り得難し、だよ」
「無駄な労力を惜しんでるだけ」
「手伝ってくれるんじゃなかったっけ」
「だからここに来たんじゃない。無駄のない労力なら、出し惜しみはしないわ」
「オッケー。じゃあ、北条氏の系譜を調べて、阿波ノ局と牧ノ方の周辺を書き出して来て」
「お安い御用。でも、その前に話の続き」
「やれやれ」
「ほらほら、むくれないの」
亮二が鎧(よろい)を脱いで一歩も二歩も瑞希に歩み寄ったとはいえ、相変わらず瑞希のペースだ。それでも亮二は嫌な顔もせず、かい摘まんでその後の経緯を話してくれた。
阿波ノ局の耳打ちに驚いた朝光は、親友の三浦義村を訪れ善後策を相談した。義村は宿老の和田義盛・安達盛長を招いて意見を聞く。二人は景時弾劾の訴状を将軍頼家に提出し裁可を仰ぐよう言った。翌日、景時弾劾のために鶴岡八幡宮に集まった御家人六十六名が連名し、訴状は中継ぎ役の大江広元に手渡された。だが、広元はすぐには頼家に提出しなかった。和田義盛に一喝されて、ようやく広元は訴状を差し出す。頼家に即座に召し出され訴状を見せられた景時は、翌日自領の相模一ノ宮に下向した。
「六十六人も弾劾状に署名! 御家人たちが念仏を一万回も唱えたっていうのも心情的に結城君に賛同してたからよね」
「うん。景時の讒言癖(ざんげんへき)は有名だし、景時の妻が頼家の乳母の一人だったから、頼朝が亡くなるとちゃっかり頼家に取り入った老練さも鼻に付いていたと思う」
「『梶原君総すかん同盟』ってわけね」
「和田義盛は頼朝の挙兵以来の家臣で、三浦義村の従兄に当たる。安達盛長は、さっきも言ったけど頼朝の流人時代から援助していた比企ノ尼の娘婿。二人とも幕府を支える中心人物で合議制のメンバーなんだ」
「合議制って?」
「ああ。頼家の権限を抑えるのが目的でね、十三名の宿老が会議によって幕府の政務を行うことにしてたんだ」
「頼家も大変だったのね。大勢の爺やがいて。将軍なのに思う存分力を発揮出来ないなんて。ストレス溜まるわ、それは」
「頼家もその大勢の爺やに対抗した。近習五名以外は自由に出入りするな、近習が鎌倉でどんな狼藉を働いたとしても敵対するな、とお触れを出した」
「おうおう、爺やと若者のバトルの図。でも頼家側は何だかガキっぽいな」
「そのガキっぽいお触れ状を書いたのが、合議制のメンバーでもある梶原景時なんだ」
「何なのそれ。自分で御家人の結束を乱してんじゃない。恨みを買う筈だわ」
「それだけじゃない。和田義盛は初代侍所別当、つまり御家人を統轄する長官職を景時に横取りされてる。安達盛長の方は、息子の景盛が妻をめぐって謀反を企てたと景時に讒言され、頼家に軍勢を差し向けられそうになった」
「個人的な恨みも積もってたのか。最悪の事態ね。自分の手で自分の首を絞めたのよ。人の悪口ばかり言うから」
「景時の讒言で窮地に陥った人は多い。あちこちで恨みを買っていたのは間違いない。その景時弾劾状の署名の中に、畠山重忠ってあるだろ」
瑞希は再び「吾妻鏡」に眼を落とし、文字を押さえながら指を走らせる。
「頼朝に謀反を企てたと讒訴されたんだけど、頼朝の前でひと言も弁解せず景時の訴えを無視し続けた。多くの御家人は重忠の態度を痛快に思ったらしい」
「出てる、その人の名前。ええと、畠山次郎重忠ね。三浦兵衛尉(ひょうえのじょう)義村、和田左衛門尉義盛、安達藤九郎盛長入道。あら、比企右衛門尉能員って妙法寺に一族の墓があったわよね。それから稲毛三郎重成入道。この人、確か頼朝が死んだきっかけとなる橋供養をした人ね」
「数えてみて」
瑞希は、千葉常胤(つねたね)を筆頭に列挙された名前を数え始めた。
「えっ、三十八? 六十六名もいないじゃない。書かれてないのは、その他大勢ってことかな」
「北条の名前が無いだろ」
「ええ。どうして?」
「北条氏に都合の悪いことは極力伏せるんだ、『吾妻鏡』は」
「そう言ってたわね。でも北条氏にとって何が都合悪いのかしら。合議制のメンバーだったんでしょ、当然」
「うん。北条時政・義時父子がね」
「御家人が『梶原君総すかん同盟』を結成してるのに、中心メンバーが参加しない筈ないし、その他大勢の中に含むっていうのもねぇ。不自然さを感じるなぁ」
瑞希は腑(ふ)に落ちない気持ちのまま、亮二に話の先を促した。
「で、梶原君。その後どうしたの?」
「一度鎌倉に戻ったんだけど、追討命令は出されるは鎌倉の館は壊されるはで、また一ノ宮に帰って来た。それから京に向けて出発、その途中で一族全員が討たれた」
「なぜ京に?」
「景時は公家の間では評判はよかったらしい。天台座主(ざす)の慈円も褒(ほ)めてるしね。大江広元に次ぐ京通だったから、自分の生き場所を京都に求めたんだろ」
「それで、梶原君一家を滅ぼしたのは幕府の軍勢?」
「もちろん和田義盛や三浦義村を筆頭に追討軍が出されたんだけど、どうやら地侍に殺されたらしい」
「地侍? どこの?」
「どこだったかな………」
ちょっと貸して、と亮二が手を伸ばした。瑞希は「吾妻鏡」を亮二の手に渡した。が、自分の手を離さなかった。亮二が怪訝(けげん)な顔をした。
「何?」
囁(ささや)くように、瑞希が言った。
「して」
「え?」
「キス」
亮二の眼が揺れた。
「ここで?」
亮二の声も囁きになった。
「そ」
「今?」
「そ」
「何だよ、急に」
「急にして欲しくなったの」
「おいおい」
亮二は周りをそっと見回した。
「誰も見てないって。大丈夫。ほら」
「参ったな」
亮二は腰を浮かし、瑞希に顔を近づけた。瑞希は手に持った「吾妻鏡」をぐいっと引いた。亮二の唇が瑞希の唇に触れる。数秒の間、柔らかい感触が瑞希の唇を包む。瑞希の体の力が抜けた。亮二は「吾妻鏡」と共に体を引き、音を立てないようにパイプ椅子に腰を下ろした。瑞希は、ふううと溜息を洩らした。
「ドキドキしちゃった」
「ドキドキどころじゃないよ」
「私、ドキドキって大好き。も一回」
瑞希が悪戯っぽい眼で言った。
「おいおい。止めてくれよ」
照れ臭さを隠すように、亮二がぶっきら棒に答える。
「ふふ。冗談よ。後でまたね」
「ったく」
言いながら顔を俯け「吾妻鏡」のページをめくる亮二の耳は赤く染まっている。
瑞希は可愛いなと思った。男は大人になっても、ひと皮むけば子供の部分をどこかに残しているのかも知れない。みんながみんなではないだろうが。でも、女は歳相応に変わっていくだけのような気がする。子供から少女、少女から女、そうして母、オバさん、お婆さんと………。そんなことを考えながら、瑞希は亮二の赤く染まった耳朶(じだ)を見ていた。
しばらくして、亮二が眼を上げた。
「駿河の清見ヶ関だ。駿河は誰が守護だったろう」
亮二が立ち上がった。
「………ん?」
「どうしたの?」
「鼻がむずむずして来た」
「それって、何かのサイン?」
「ハッ、クシュン!」
「風邪?」
「いや」
「花粉症なの?」
「違うよ。引っ掛かるんだ。ひょっとしたら………」
「宝物、見っけ?」
「瑞希は系図を。僕も調べなきゃいけないことがある」
二人は書籍棚へ足早に急いだ。
北条時政の系図を調べていた瑞希は、あることに気づいた。
○先妻伊東祐親の女(むすめ)
├ 北条政子
├ 義時
├ 時房
├足利義兼室
├阿野全成室
└畠山重忠室
○後妻牧ノ方
├北条政憲
├稲毛重成室
├平賀朝雅室
├三条実宣室
├宇都宮頼綱室
└坊門忠清室
梶原弾劾状に名前の出ている御家人たちのうち、時政の娘婿となっている者がいる。畠山重忠、稲毛重成、宇都宮頼綱だ。三人は何らかの繋がりがあるのではないか。そう思った瑞希は、さらに畠山氏の系図を調べた。
┌畠山重能─重忠─重保
秩父重弘┤
└小山田有重─稲毛重成
└榛谷重朝
畠山重忠と稲毛重成は従兄弟だ。畠山重忠の母は誰だろう。畠山氏の系譜をたどる。すると、三浦氏と重なった。
┌金田頼次室
├畠山重能室─重忠
三浦義明┼義宗─和田義盛
│ ├義澄─義村
│ └源義朝室─義平
岡崎義実
畠山重忠の母は和田義盛や三浦義村の伯母に当たる。驚いたことにその妹は頼朝の父源義朝に嫁ぎ長男義平を産んでいた。糸を手繰れば、三浦義明の弟は岡崎義実、義明の長女の嫁ぎ先の金田頼次の兄は上総介(かずさのすけ)広常で、縁者に千葉介常胤がいる。岡崎義実も千葉常胤も弾劾状に署名している人物だ。宇都宮氏は系図が見つからなかった。が、名前からすると栃木だから昔の国名でいうと下野(しもつけ)国。畠山・稲毛の出身地秩父(現在の埼玉県)は武蔵国、三浦氏は相模国、そうして千葉の上総・下総(しもうさ)国がぐるりと円で囲んで鎌倉を支えている。
嫁いで行った女たちは「女」とか「室」とあって、名前までは解らない。いくら資料を調べたところで生身の人間の温かさが伝わって来ないのだ。嫁ぎ先の家を守り子を産み継ぐことで、御家人たちの結束を強固にし武家社会の基盤を築いただろうとは想像出来る。どんな喜びを味わい、どんな苦悩を抱えていたのか。恋もしただろう、夫に愚痴もぶつけただろう、母として子をこよなく慈しんだだろう………。瑞希は男ばかりの名の並ぶ系図から、陰に隠れた女たちの息遣いを嗅ぎ取りたかった。
書棚でゴソゴソしていると、亮二が脇に立って瑞希の肩を叩いた。
「やる気モード全開だな」
「誰かさんのお尻を叩かなきゃいけないからね」
「毎度どうも。話があるんだ。来てくれる?」
亮二は先に閲覧室に戻って行った。研究書や史話・人名辞典など何冊か小脇に抱え、瑞希は元の席に戻った。
瑞希が坐るのを待ちかねたように、亮二が言った。
「駿河は伊豆の隣国だ。やっぱり北条時政が守護を務めてた」
「北条君が一枚噛んでるわけ?」
「おかしいんだ。梶原一族が上洛しようと領国相模一ノ宮を出発したのは正治元年一月二十日丑(うし)の刻、午前二時頃。清見ヶ関で地侍たちと遭遇したのが亥(い)の刻だから午後十時頃。一ノ宮から計測すると約百二十キロの距離を二十時間で進んだことになる。一ノ宮は今の茅ヶ崎の少し北のところ。清見ヶ関は静岡県の清水市だから険しい箱根を越えなきゃならない。しかもこの日はかなり吹雪いていて、前夜からの雪が降り積もっていたらしい。重い鎧の上に蓑(みの)を着けての行軍だよ。休み無しで単純計算すると、時速六キロ。馬は使っていただろうけど、それでもかなりキツい」
「追っ手が掛けられていたから、急いだんじゃない?」
「おかしいというのはね、地侍たちなんだ。その夜は的矢(まとや)の会があって、その帰りだった。今と違って夜十時といったら深夜で、人はとっくに寝静まってる時間だよ。陽の落ちる前に会は終わっていただろうから、酒でも飲んでいたのかも知れない。それにしても、梶原一行と出くわすには相当時間が経ってる。酒飲んでたらベロベロに泥酔してるね」
「誰かさんみたいに、酒に弱い人間ばかりとは限らないわ」
「その『誰かさん』って、止めてくれないかな」
「ごめん。気に障(さわ)る?」
「ちょっとな」
「そうね。もう付き合ってるんだから、ちゃんと呼ばなきゃね。『亮二さん』がいい? それとも『亮ちゃん』?」
「どっちでもいいよ。呼びやすい方で」
「そんないい加減なこと言わないの。じゃあ、他人行儀は嫌だから『亮ちゃん』って呼ぶ」
「一気に距離が縮まった感じだな」
「さっきのキスが効いたちゃった。実はね、キスのおねだりしやすい呼び方なの。あはっ」
瑞希が舌をペロッと出して笑った。
亮二も、くすっと笑みをこぼした。
身近になると、相手の呼び方が変わる。当たり前のことだが、言葉は人との関わりの度合いを示すものだ。立場が違えば言葉遣いも違う。年齢や上下関係はもちろん、友人の間でもその距離感は言葉に微妙に表れる。男女ならば、なおそうだろう。言葉だけではない。態度や仕草、眼の配り、体の置きどころなどを人は相手によって自然と選んでいる。
「話を戻すよ。戦いは狐崎(きつねがさき)にまで広がる。騒ぎを聞いた他の地侍たちが駆けつけて、壮絶な修羅場になった。景時は長男・次男と北の街道に逃れ、翌日未明に山中で自害するんだ」
「どこがおかしいの、………亮ちゃん」
恋人として初めて呼ぶ名はくすぐったい。瑞希の口の中で、恋人の名は少し控えめに転がった。亮二も、母や幼い頃の近所の人の口にした自分の呼び名を瑞希が言うのを聞いて、耳がこそばかった。
「うん。地侍たちとの遭遇は梶原景時には不運だったかも知れないけど、あまりに都合が良過ぎる。人の寝静まった冬の凍てつく深夜、酒に酔った地侍、狐崎は清見ヶ関から数キロも離れてる。その狐崎に駆けつけた地侍の仲間たち………。梶原といえば源平の合戦でその名の知れた豪の一族だよ。いくら強行軍で疲れていたとしても、戦支度をしていた。平服の酒に酔った連中に打ち取られるわけが無い。地侍たちは酒に酔ってたんじゃない。準備を整え待ち伏せしてたんじゃないか? 不意を突かれたのなら話は解る。だろう?」
「うーん。でも、それって亮ちゃんの思い込み過ぎじゃない? 待ち伏せだったら、事前に『いつ』『どこで』が解ってないといけないでしょ」
二度目の「亮ちゃん」は掛かるところ無く口から滑り出た。ひとつ石を跳び越えると、後は自然となじんでゆく。
「それがね」
「何かあるの?」
「梶原一族が一ノ宮を出る二日前」
「ほら、もったいぶらないの。ストレートに言っちゃいな。私、その方がずっと好きよ、亮ちゃん」
亮二は苦笑した。完全に瑞希ペースにはまっている。だが、それも居心地は悪くない。
「頼家が狩りをやってるんだ」
「狩り?」
「大庭野(おおばの)という所で。鎌倉から大庭野まで十キロ、大庭野から一ノ宮は五キロぐらいだから、ずっと一ノ宮に近い。しかも、吹雪の中をだよ」
「狩りってよくするんじゃないの、昔の武士は」
「武芸の一つとしてね。有名なのは頼朝がやった富士の巻狩り。その時は予行演習を三度もやってる。準備は大変だし、それに真冬に狩りなんてやんないだろ、普通。富士の巻狩りは五月だった。予行演習も雪が溶けて春になってからなんだ」
「梶原君を一ノ宮からいぶり出すため?」
「ちょっと整理してみるよ」
亮二は手帳を開いた。ページの中央に梶原景時の文字が円で囲んである。斜め左上に大江広元、右上に土御門通親(みちちか)の名があり、それぞれが線で結ばれ逆三角形を形作っている。土御門通親の横に二重線が伸び、後鳥羽院と記してある。景時の下には頼家と宿老の名が書かれ、その下には殴り書きの小さな文字で箇条書きがいくつも並んでいた。亮二は手帳を見ながら、確認するように瑞希を見た。
「一つ、なぜ大江広元は梶原弾劾状をすぐ頼家に提出することをためらったか」
「これは大変ってビビってたのね、きっと」
「二つ、頼家と宿老たちは敵対関係にあった。景時は頼家の乳母の夫で、合議制に対抗するお触れ状も出してくれた。なのに、なぜ頼家は宿老たちの意見を取り入れ梶原追討令を出したか」
「梶原君の讒言癖に頼家も嫌気が差してたのよ。あることないこと後でグジグジ言われるのってヤでしょ、亮ちゃんも」
亮二は「ああ」と言いながら、話がそちらへ向かないよう先を続けた。
「三つ、なぜ宿老であり御家人に姻戚を幅広く持つ北条の名が弾劾状に無いか」
「梶原事件の発端は北条時政の娘阿波ノ局で、一族の滅び去ったのが時政の領国。北条で始まり北条で終わってる。なのに梶原追討の要(かなめ)となる御家人一致団結の弾劾状に北条の名が無いなんて、これは臭い。ぷんぷん臭う」
「臭うだけじゃ答えにならない」
「そうねえ。蓋(ふた)しちゃったのよ、臭いから。『吾妻鏡』の作者が。確か頼朝が死んで三年の間も記述が無かったって言ってたでしょ。書いたらボロが出る。だから、いっそ書くの止めちゃえって」
「乱暴だなあ。それじゃあレポートになんないだろ」
「そこは亮ちゃんの腕の見せ所。私の役目は尻叩き」
「ったく。いいよ、解った。じゃあ、答えだ。推論だけどね」
「待ってました」
「まず第一問。大江広元は京都の官僚出身なんだ。外記(げき)といって文筆の職に就いてた。頼朝に招かれ幕府の政所初代別当も務めた人でね………」
広元は宿老の一人で御家人たちと将軍頼家の橋渡しをする役目を担っていた。と同時に、京都朝廷にも深いパイプを持っている。当時朝廷では土御門通親が実権を握っていた。通親はいく度かの政変を乗り切り、養女の子が土御門天皇となった。だから源氏姓であった通親は天皇の名をそのまま自分の姓とした。広元は自分の長男をその通親の養子にしているのである。
一方、梶原景時は機を見るに敏だ。上司の心を測り、力の移り加減を察知する能力に長(た)けている。だから讒言もするのだろう。景時は源平の争乱時には朝廷との交渉をこなし、頼朝の代役として務めを果たしている。景時の性格は多分に公家風で、武芸一辺倒ではなく事務能力も相当に高い。朝廷内には景時を高く評価する声が多かった。広元とも気が合う道理だ。しかも、景時は頼朝死去の報告の使者として長男景季(かげすえ)を通親の元に送っている。
広元は朝廷の中枢と繋がりがあり、景時は広元を利用して朝廷と何らかの接点を持とうとしていた。広元にすれば御家人の中で景時が一番身近な人物であり、その人間を弾劾するのに積極的にはなれなかったと考えられる。
「そうよね。親しみを覚えている人をチクったり、コケにしたりは平気で出来ることじゃないもの」
「梶原景時はチクリで出世した。どうも息子の景季もそうみたいなんだ」
「どういうこと?」
「景季が頼朝死去を朝廷に報告に行ったんだけど、その時に一条家の家臣を焚き付けて土御門通親を暗殺させようとした。ところが、そのことを通親に知らせてるんだ」
「何、それ。わけ解んない」
「つまり通親に恩を着せてご褒美を貰おうとしたんだと思う。通親は後鳥羽院と相談して大江広元に通報。報せを受けた頼家が独断で御家人を派遣し暗殺を企てた三人の武士を捕らえた。『三左衛門の変』と言われてる」
「梶原一家って人を陥(おとしい)れてばかりね」
「頼朝が亡くなって頼家に乗り換えようとしたけど、御家人たちと上手くいかない。だから京都の朝廷に取り入ろうとしたんだろ。梶原事件の後、景時の仲間として捕まった勝木則宗という人の供述で解ったことなんだけど、後鳥羽院が景時に九州の支配を任せるという院宣(いんぜん)を出してたみたいなんだ」
「そのご褒美目当てで京に向かったのね。あー、ヤだヤだ。次行こ。はい、第二関門」
「なぜ頼家は仲の悪い宿老たちの意見を取り入れ、景時追討の命令を出したかだね」
「『梶原君のチクリ、もうヤんなっちゃった説』で決まりでしょ」
「あのね、裏付ける資料の無い推論は暴論と言うんだよ」
「ごもっとも。で?」
「景時の妻は頼家の乳母だった。乳母の存在は結構大きいよ。幼児期に育てられ面倒を見て貰ってるからね。乳母や乳母夫の言うことには逆らい難いものがあるし、逆に頼りにする部分もある。景時は頼家にとって助けとなってくれてた筈なんだ。比企一族と共にね。ところが頼家は御家人を遠ざけた。近習しか側に置かなかった。つまり自分で耳を塞いだわけ」
「じゃあ、頼家のところに入って来る情報は限られてしまうってこと?」
「そうなんだ。だから、正しい政断が下せない」
「それだけで梶原君追討命令を出したとは思えないけど」
「頼家は頼朝のように景時を使いこなす自信も、またかばう力も無かったんだろう。それよりね、頼家を景時追討に動かすいい手があるんだ」
「何?」
「近習の中に自分の息の掛かった人物を置く」
「まさか」
「近習を使って頼家に耳打ちさせるんだ。景時は密かに朝廷と結んで鎌倉に弓を引こうとしてる、とね」
「ううん………」
「追討するには口実が要るだろ」
「そうね」
「鎌倉を追放し、時間を与える。景時は着々と準備を整える。大庭野で狩りをする。景時は追討軍を差し向けられたと泡を食い、京に向け出立する。これで謀反を企て京に上ったという口実が出来た。直ちに頼家は追討命令を出す」
「その自分の息を掛けた近習を抱えていたのが、北条君?」
「恐らく北条時政は、大庭野の狩りが決まった時点で駿河に使者を走らせた筈だ」
「なるほど。辻褄(つじつま)は合うわね。でも裏付ける資料の無い推論は暴論じゃないの? 近習にそんな人間がいたって証明出来る?」
「比企の乱の後、頼家の近習たちは処罰されてるんだ。その中に中野五郎能成(よしなり)という人物がいてね。彼は拘禁、所領没収されて、流罪になった」
「頼家は手足をもがれたわけか」
「『吾妻鏡』ではね」
「違うの? 別の資料では」
「『鎌倉遺文』に拠(よ)ると、拘禁されたという日に中野能成は北条時政から本領安堵の下文を貰ってる。それだけじゃない。『吾妻鏡』で能成が所領没収された日の四日後には旧領地を返して貰い、その土地での公の仕事はしなくてもいいという恩恵を授かってるんだ。能成は比企能員のために安堵を得られてなかったから、能成の忠義に報いるようにと頼家が言ったので下知したと、そう時政が文書に残してる」
「時政からのご褒美なのね。納得。じゃ、第二ブロックはクリア。第三ゲートに行きましょ。なぜ梶原弾劾状に北条君の名前が無かったか」
「北条氏は『家ノ子』だった」
「家ノ子?」
「うん。幕府のトップは鎌倉殿、つまり頼朝だろ。その下には清和源氏の流れを汲む『御門葉』、次が清和源氏ではないけれどこれに準ずる『準門葉』。一般の御家人はその下で『家ノ子』と呼ばれてた。政子が頼朝の妻だったお陰で優遇はされてたけど、北条は平氏の庶流だ。だから無位無官、幕府の役職には就いていない」
「でも伊豆や駿河の領主だったんでしょ?」
「守護ではあったけど、国司じゃないんだ」
「ん?」
瑞希のきょとんとした顔を見て、亮二はノートを手に立ち上がり瑞希の隣に坐った。
「いいかい。頼朝が直接統轄していたのは関東御分国といって九ヶ国ある」
ノートに書き付ける亮二の微かな体温と匂いをふわっと抱き止めたいと、瑞希は思った。亮二の顔を見詰める。亮二が視線を返した。
「聞いてる?」
「ああ、うん」
「尻叩かれて走ってんだから、ちゃんと見ててくれよ」
「はい、了解」
瑞希は、またペロッと舌を出した。
関東御分国は武蔵、相模、伊豆、上総、駿河、三河、越後、信濃の八ヶ国と九州の豊後である。頼朝が任命権を持ち、朝廷に推挙して国司となる。いずれも「御門葉」か「准門葉」から選ばれ、武蔵守(かみ)とか相模守などと呼ばれていた。守護は源義経の追捕や反乱を鎮圧するために国々に置かれた軍事・警察担当がその役目で、行政権は持たない。
「つまり、北条氏は地方の一警察署長みたいなものだったんだ」
「じゃあ、その他大勢の内の一人ってこと」
「だから弾劾状の連名の中に北条の名前が無いのは、あながちおかしいとは言い切れない。だけど、名前があった方が自然ではあるよね」
「どうして名前を載せなかったのかしら」
「時政には野望があった」
「どんな?」
「阿波局は実朝の乳母だ。頼家から疎(うと)んじられていた北条時政は、実朝を次期将軍にと画策したんだ」
「だったら邪魔になるのは頼家の乳母たちとその一族?」
「梶原と比企だよ」
「そうか。で、まず梶原君が槍玉に挙げられた」
「この梶原事件の直後、四月に時政は遠江守(とおとうみのかみ)に任じられてる。つまり『准門葉』になった」
「大出世じゃない。相当の功績を挙げたってことよね、それって」
「名前が無いのは、その後の北条氏の動きを見えづらくする意図があったんだろう」
「比企の乱?」
「そうして頼家暗殺。原因と結果を拾っていくと道筋が見えて来る。牧ノ方を調べれば、いろいろ出て来ると思うよ」
「私の出番ね」
妻や乳母たちが表舞台で動き回る男たちの社会を動かしているような気がして来た。世の中には男と女しか居ない。戦っている男たちを支えているのは女たちだ。昔も今もそれは変わらない。女たちの戦いが、歴史に現れないところで繰り広げられていたのではないのか、と瑞希は思った。
「期待してるよ」
亮二が立ち上がり、また向かいの席に移動した。亮二の居た空間が空(から)になり、瑞希は少し寂しさを覚える。こんな日常の些細(ささい)なことを意識する自分に驚きながら、窓の外に眼をやった。早春の午後の陽射しが樹々の葉の緑の色を強め、春の訪れを告げている。調べものに集中している亮二に一度眼を移し、それから書籍のページを開きながら鼓舞(こぶ)するように自分に声を掛けた。
「さ、張り切ってやるか」
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