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第二章 職人の眼
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王都ガルディアの朝は、鐘の音で始まる。
中央聖堂の時計塔から響く荘厳な音色が、石造りの街並みに反響し、市民たちを眠りから呼び覚ます。商店の扉が開き、馬車が通りを行き交い、露店商たちが声を張り上げる。
修平は、その喧騒よりも早く起き出していた。
下働き用の簡素な宿舎——工房の裏手にある古い倉庫を改装したもの——で目を覚まし、まだ暗いうちから工房へ向かう。これが、一ヶ月で身についた習慣だった。
誰もいない工房は、昼間とは違う顔を見せる。
職人たちの怒号も、金属を叩く音も、魔導器具が放つ唸りもない。静寂の中で、天井の魔導灯だけが青白い光を放っている。
修平は、その光を見上げた。
二十三個。
工房の照明を担う魔導灯の数だ。そのうち、修平が密かに手を加えたものは——今のところ、五個。
誰にも気づかれていない。
それでいい。
箒を手に取り、床を掃き始める。石畳の隙間に入り込んだ金属片、作業台の下に落ちた木屑、魔導管の切れ端。一つ一つ拾い集めながら、修平は昨日の作業を振り返っていた。
「拾い出し」という言葉がある。
電気工事の世界では、図面から必要な材料の数量を割り出す作業のことだ。二次元の図面を見ながら、三次元の建物を頭の中で組み立て、ケーブルの長さ、配管の本数、器具の個数を正確に数え上げる。
この世界には、それがない。
図面がないから、拾い出しもない。職人たちは「だいたいこのくらい」という勘で資材を発注し、足りなければ追加し、余れば捨てる。無駄が多すぎる。
そして、無駄が多いということは——事故のリスクも高いということだ。
「おう、早いな」
背後から声がかかった。
振り返ると、リカルドが立っていた。四十代半ば、筋肉質の体躯。工房で最も腕の立つ職人の一人だ。
「おはようございます」
「毎朝毎朝、飽きもせずに掃除してるな。もう少し寝てろよ」
「習慣なので」
リカルドは鼻を鳴らした。
「変わった奴だ。下働きにしておくには惜しいな」
「買いかぶりすぎです」
「そうか?」
リカルドは工房を見回し、天井の魔導灯に目を留めた。
「最近、このあたりの照明、調子がいいな」
「そうですか」
「以前は明滅がひどくてな。魔導石を交換してもすぐにダメになった。なのに、この一ヶ月は安定している。不思議だ」
修平は黙って床を掃き続けた。
リカルドは数秒、その背中を見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「まあいい。今日は忙しくなるぞ。第三区画の大物件が始まる」
「第三区画?」
「貴族の屋敷だ。改修工事。魔導灯を全部入れ替えて、新しい魔導炉も設置する。工房総出だ」
大規模工事。
修平の心が、わずかに騒いだ。
この一ヶ月、彼は下働きとして雑用をこなしながら、この世界の魔導技術を観察してきた。小さな修理、簡単な取り付け。限られた範囲でしか、自分の技術を試す機会がなかった。
だが、大規模工事なら——
「資材運びは人手がいる」とリカルドが言った。「お前も来い」
「はい」
◇
第三区画は、王都の中でも特に格式の高い地域だった。
石畳は磨き上げられ、建物は優雅な曲線を描き、街路樹が緑の天蓋を作っている。ここに住むのは上位貴族や大商人、王城の高官たち。魔導工房の職人たちにとっては、最も利益の大きい——そして、最も神経を使う——仕事場だ。
「ベルモント伯爵邸」と記された門をくぐり、修平たちは敷地内に入った。
屋敷は三階建ての堂々たる石造りで、前庭には噴水が水を吹き上げている。その噴水の水もまた、魔導器具によって制御されているのだろう。水流が複雑なパターンを描き、陽光にきらめいていた。
「きれいなもんだな」
若い見習いの一人が呟いた。だが、リカルドは首を横に振った。
「見た目はな。だが、中身は——」
彼は屋敷を指さした。
「築百年を超えている。魔導管は腐食し、魔導石の効率は落ち、あちこちで魔力漏れが起きている。だから全面改修だ」
百年。
この世界では、建物も魔導設備も、驚くほど長持ちする——いや、長持ちさせざるを得ないのだ。新しく建て替える技術力も資金も限られている。だから、古いものを修理しながら使い続ける。
問題は、修理の仕方だった。
屋敷の中に入り、修平は愕然とした。
壁の中を這う魔導管が、外に引き出されている。職人たちが解体作業を進めていたのだ。そこに露出していたのは——
混沌だった。
魔導管が絡まり合い、重なり合い、時には結び目を作っている。どの管がどこへ繋がっているのか、一目では判別できない。元の設計図がないまま、百年の間に何度も増設や改修を繰り返した結果だ。
「ひでえ有様だ」
リカルドも顔をしかめた。
「最初に施工した奴の顔が見たいもんだ」
「最初だけじゃないでしょう」
修平は思わず口を開いていた。
「見たところ、少なくとも三回は大規模な増設がされています。それも、毎回違うやり方で。最初の施工自体は悪くなかったかもしれませんが、後から継ぎ足した部分の処理が——」
彼はそこで口を閉じた。
リカルドだけでなく、周囲の職人たちも、驚いた目で修平を見つめていた。
「……お前」
リカルドが低い声で言った。
「それがわかるのか」
しまった、と修平は思った。
口が滑った。
下働きが、職人の仕事に口を出すべきではない。この世界の——いや、どの世界でも同じだ。現場には暗黙のヒエラルキーがある。経験年数、技術力、そして発言権。下働きは最下層であり、意見を求められることはない。
「——すみません。生意気を言いました」
「いや、謝るな」
リカルドは一歩近づき、修平の目を覗き込んだ。
「いいから、続けろ。お前には、何が見える」
選択肢は二つあった。
誤魔化すか、正直に言うか。
修平は、後者を選んだ。
「【配線術】というスキルを持っています」
「——配線術?」
「魔力の流れが見えるんです。どの管がどこへ繋がっているか、どこで魔力が漏れているか」
周囲がざわついた。
「そんなスキル、聞いたことがないな」
「レア・スキルか」
「いや、でも戦闘には役に立たないだろ」
職人たちの囁きが飛び交う。修平はそれを無視して、壁から突き出た魔導管を指さした。
「この太い管が主幹です。屋敷全体に魔力を供給する動脈。そこから三本の分岐が出ていますが、本来は二本で十分だったはずです。三本目は後から追加されていて、しかも接続部の処理が雑です。ここから魔力が漏れている」
さらに別の管を指す。
「この細い管は照明用ですが、途中で不自然に迂回しています。おそらく、増設のときに既存の管を避けようとしたんでしょう。でも、迂回させたせいで距離が二倍以上になっていて、末端では魔力が足りなくなっている。だから端の部屋の照明が暗いんだと思います」
最後に、床下を覗き込む。
「ここは——待ってください。何かおかしい」
修平は身を屈め、床板の隙間から下を覗いた。
青白い光が、かすかに漏れている。
「魔導管が破損しています。魔力が地面に漏出している。これは危険です。放置すると——」
「おい、本当か!」
リカルドが素早く動いた。床板を剥がし、中を確認する。
確かに、そこには亀裂の入った魔導管があった。周囲の土が青白く発光している。
「——報告しろ。これは伯爵に話を通さないといけない」
リカルドの部下が走っていく。
現場が一時的に静まり返った。
やがて、リカルドが修平の肩に手を置いた。
「お前、名前は」
「シュウです」
「シュウ。今から、俺のチームに入れ。資材運びは他の奴に任せる」
「——いいんですか」
「いい。いや、よくはないな」
リカルドは苦笑した。
「本当なら、お前みたいな奴は職人として正式に雇うべきだ。だが、今の工房長には——いや、今はいい。とにかく、俺の近くにいろ。お前の目が必要だ」
修平は頷いた。
これが、チャンスだ。
そう思った。
◇
ベルモント伯爵邸の改修工事は、三ヶ月の大プロジェクトだった。
修平は、リカルドの「手元」として現場に入った。立場は下働きのままだが、実質的にはリカルドの右腕として動くことになる。
最初の一週間は、調査と計画だった。
修平の【配線術】で魔導管の全体像を把握し、どこから手をつけるかを決める。通常なら、この作業だけで一ヶ月はかかるところだ。経験豊富な職人が壁を一つ一つ開け、管を追跡し、手書きでメモを取る。
だが、修平のスキルがあれば、壁を開けなくても内部が「見える」。
「ここからここまでが主幹。この分岐点で三系統に分かれて、一階東棟、一階西棟、二階全体。三階は別系統で、この管が——」
修平が口述し、リカルドが書き取る。
最初、リカルドは戸惑っていた。自分より若い、しかも下働きの意見を聞くことへの抵抗があったのだろう。だが、修平の指摘が的確であることがわかると、態度が変わった。
「お前、以前はどこで働いていたんだ」
ある日、リカルドが尋ねた。
修平は一瞬、言葉に詰まった。
「——遠い国の、小さな工房です」
「遠い国?」
「ええ。技術の系統が少し違うので、こちらの方法には慣れないところもあります」
嘘ではない。
異世界は、確かに「遠い国」だ。
「そうか」
リカルドはそれ以上、追求しなかった。職人の世界では、過去を詮索しないのが礼儀なのかもしれない。
調査が終わると、次は設計だ。
ここで、修平は大きな問題に直面した。
図面がない。
この世界には、設計図を描くという習慣がなかった。職人たちは、頭の中で計画を立て、現場で調整しながら施工する。だが、それでは——
「整合性が取れません」
修平はリカルドに言った。
「今の状態で施工を始めると、同じ過ちを繰り返すことになります。百年後には、また今と同じ混沌になる」
「じゃあ、どうしろと言うんだ」
「図面を描きましょう」
修平は、自分の宿舎から持ってきた紙を広げた。
そこには、屋敷の見取り図が描かれていた。壁の位置、部屋の配置、窓とドアの場所。そして、その上に重ねて——魔導管の経路が、色分けされて記されている。
「——これは」
リカルドが息を呑んだ。
「魔導回路図です」
修平は言った。
「どの管がどこへ繋がっているか、どこで分岐するか、どれだけの魔力が流れるか。全部、一目でわかるようにしました」
リカルドは、その図面を食い入るように見つめた。
「こんなもの、見たことがない」
「ないでしょうね。だから、事故が起きるんです」
修平は図面の一点を指さした。
「ここを見てください。三階の大広間に行く管と、厨房に行く管が同じ分岐点から出ています。でも、厨房の魔導炉は大量の魔力を消費します。大広間と同時に使うと、分岐点に負荷が集中して——」
「熱を持つ」
「そうです。最悪の場合、魔導管が溶けます」
リカルドは額に手を当てた。
「だから、伯爵邸では毎年のように小火騒ぎがあったのか……」
「今回の改修で、分岐点を変更しましょう。厨房は別系統にして、主幹から直接引きます。効率は少し落ちますが、安全性は大幅に上がります」
修平は新しい経路を図面に描き込んだ。
「これなら、どの部屋を同時に使っても問題ありません。負荷が分散されますから」
リカルドは長い間、図面を見つめていた。
そして、顔を上げた。
「シュウ。お前は一体何者だ」
修平は、正直に答えた。
「ただの電気工事士です」
「……デンキコウジシ?」
「こちらの言葉では——そうですね。魔導配線士、とでも言うべきでしょうか」
「聞いたことがない職種だな」
「ええ。まだ、存在しない職種ですから」
リカルドは、再び図面に目を落とした。
「この図面。これを使えば、見習いでも正確に施工できるな」
「それが目的です」
「——工房に持ち帰っていいか」
「もちろん。でも、まだ完成版じゃありません。施工しながら、細部を詰めていきましょう」
リカルドは頷いた。
その顔に、何か新しい光が宿っているように見えた。
◇
図面を使った施工は、革命的だった。
これまで、一つの部屋の魔導管を設置するのに三日かかっていた作業が、一日で終わる。どこに何を置くか、どう繋ぐかが明確に決まっているから、迷いがない。
若い見習いたちは特に熱心だった。
「シュウさん、この記号は何ですか」
「これは分岐点を示す。ここで三方向に分かれる」
「じゃあ、この太い線は」
「主幹。一番たくさんの魔力が流れる管だ」
修平は、図面の読み方を丁寧に教えた。
最初は戸惑っていた見習いたちも、すぐに図面の便利さを理解した。どこに何があるか、一目でわかる。質問しなくても、自分で判断できる。それは、彼らにとって初めての経験だった。
「これがあれば、俺でも一人で施工できるかもしれない」
一人の見習いがそう言ったとき、修平は小さく頷いた。
それこそが、図面の力だ。
熟練職人の頭の中にだけ存在していた知識を、紙の上に出力する。誰でも読める形に変換する。そうすることで、技術は個人から組織へ、一代から次の世代へと継承される。
だが、全員がそれを歓迎したわけではなかった。
「何をやっているんだ、お前たちは」
ある日、工房の古参職人ゴルドが現場にやって来た。五十代後半、白髪交じりの髭を蓄えた大柄な男。工房長の次に長いキャリアを持つベテランだ。
ゴルドは、見習いたちが図面を見ながら作業しているのを見て、眉をひそめた。
「何だ、それは」
「魔導回路図です」
リカルドが答えた。
「シュウが作った。これがあれば——」
「図面?」
ゴルドは鼻で笑った。
「そんなもので魔導管が引けると思っているのか。現場は生き物だ。図面通りになんか、絶対にいかない」
「いえ、でも——」
「経験を軽視しているんだよ、お前たちは」
ゴルドの声が大きくなった。
「俺たちは何十年もかけて、この仕事を体で覚えてきた。壁の向こうに何があるか、管がどう走っているか、それを感じ取れるようになるのに、どれだけ苦労したと思っている。それを、紙切れ一枚で済ませようとするのか」
現場が静まり返った。
見習いたちが怯えた目でゴルドを見つめている。
修平は、一歩前に出た。
「図面は、経験を否定するものではありません」
ゴルドが修平を睨んだ。
「何だと」
「図面は、経験を共有するためのものです。ゴルドさんが何十年もかけて培った知識を、紙の上に書き出す。そうすれば、後輩たちはゴルドさんの経験を引き継げます。ゼロからやり直さなくていい」
「俺の経験を?」
「はい。ゴルドさんが『感じ取る』とおっしゃったこと——壁の向こうに何があるか、管がどう走っているか——それを図面に書けば、見習いでも『見える』ようになります」
ゴルドは黙った。
修平は続けた。
「もちろん、図面だけでは不十分です。現場で調整することも必要でしょう。でも、図面があれば、調整の範囲が小さくなる。ミスが減る。事故が減る。ゴルドさんは、後輩が事故で怪我をするのを見たくないでしょう?」
ゴルドの目が、わずかに揺れた。
二十年前、ゴルドの弟子が魔導管の事故で重傷を負い、職人を辞めざるを得なくなったという話を、修平はリカルドから聞いていた。
「……口の減らない奴だ」
ゴルドは唸った。
「だが、お前の言うことにも一理ある」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺はまだ認めたわけじゃない」
ゴルドは踵を返した。
「三ヶ月後、この工事が終わったら、結果を見せてもらう。お前の『図面』とやらで、本当に良い仕事ができるのかどうか」
そう言い残して、ゴルドは去っていった。
リカルドが、ほっと息をついた。
「やれやれ。説教で済んでよかった」
「すみません、余計なことを言いました」
「いや、お前は正しいことを言った。ゴルドも頭ではわかっているんだ。ただ、三十年の経験を否定されたような気がして——」
「わかっています」
修平は頷いた。
古参と若手の対立は、どの世界でも同じだ。変化を恐れる気持ちは、人間として自然なものなのだから。
大切なのは、結果で示すこと。
言葉ではなく、仕事で。
◇
その夜、修平は宿舎で図面を広げていた。
明日からは、二階の施工に入る。部屋数が多く、配管も複雑だ。入念な準備が必要だった。
小さな蝋燭の明かりの下で、彼は細い筆で線を引いていた。この世界には鉛筆がない。インクと筆を使うしかないのが、もどかしかった。
コンコン。
扉を叩く音がした。
「はい」
立ち上がって扉を開けると、そこに立っていたのは——
「——エリーゼさん」
工房長の令嬢だった。
昼間は貴族らしい豪華なドレスを着ていることが多いが、今は質素なローブ姿だ。フードを目深に被り、人目を忍んでいる様子がうかがえた。
「夜分に失礼します。少し、話をしても良いですか」
「どうぞ」
修平は部屋に招き入れた。といっても、椅子は一つしかない。それをエリーゼに勧め、自分は寝台の端に腰を下ろした。
「それが、例の『図面』ですか」
エリーゼの視線が、作業台の上の紙に向いた。
「はい」
「見せていただいても?」
修平は頷いた。
エリーゼは図面を手に取り、食い入るように見つめた。その目は、単なる好奇心ではなく、深い探究心に満ちていた。
「素晴らしい」
彼女は呟いた。
「これが、あなたが作った『魔導回路図』……。私が知っている限り、こんなものは魔導学院の文献にも存在しません」
「この世界には、まだないものですから」
「『この世界には』?」
エリーゼが顔を上げた。
しまった、と修平は思った。
またか。口が滑りすぎだ。
「——遠い国では、こういうものが使われていたんです」
「その『遠い国』というのは、どこですか」
修平は黙った。
エリーゼは、じっと修平の目を見つめた。
「あなたは、普通の下働きではありませんね」
「……そうかもしれません」
「あの夜——あなたが倉庫の魔導灯を修理したのを、私は見ていました」
やはり、見られていたか。
修平は覚悟を決めた。
「何が見えました」
「あなたの手元が光っていました。青白い、魔力のような——いいえ、魔力そのものではない、何か別のもの」
「【配線術】です」
「そう、そのスキル。ギルドの登録簿を調べましたが、そんなスキルは記録にありません。少なくとも、この王国では」
エリーゼは図面を置き、修平に向き直った。
「あなたは何者ですか。どこから来たのですか。そして——何をしようとしているのですか」
三つの問い。
全てに正直に答えることはできない。だが、嘘だけで固めることも——したくなかった。
「俺は、シュウという名前の——元電気工事士です」
「デンキ……?」
「この世界にはない概念です。電気という力を使って、光を灯し、物を動かし、熱を生む。そのための配線を引く仕事をしていました」
エリーゼの目が大きくなった。
「魔導とは違うのですか」
「原理は違います。でも、やっていることは似ています。エネルギーを発生させ、必要な場所に運び、使う。その経路を設計し、施工する」
「では、あなたの『遠い国』には、魔導とは別のエネルギーがあると?」
「ありました」
過去形で言った。もう、戻ることはできないのだから。
「今は、ここにいます。そして、ここでできることをしたいと思っています」
「何を」
「この世界の魔導技術を、もっと良くすること」
修平は立ち上がり、窓から外を見た。
夜の王都には、あちこちで魔導灯が明滅している。安定した光を放っているものは、ほとんどない。
「今の魔導管の施工技術は、失礼ながら、百年前から進歩していないように見えます。接続部の処理が雑で、魔力漏れが多く、事故が絶えない。図面がないから、同じミスが何度も繰り返される」
「それは——」
「貴族の魔導師たちが、理論ばかりを重視して、現場を見ていないからです」
修平はエリーゼに向き直った。
「あなたは、工房長の娘でありながら、こんな下働きの宿舎に来た。つまり、現場を見る気があるということだ」
エリーゼは何も言わなかった。
修平は続けた。
「俺一人でできることは限られています。リカルドさんや見習いたちの協力があっても、この工房一つが精一杯だ。でも、あなたが力を貸してくれれば——」
「——変革ができる、と?」
「ええ」
エリーゼは長い間、黙っていた。
彼女の目には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。迷い、恐れ、そして——希望。
「私は」
彼女は言った。
「魔導理論を学んできました。でも、ずっと疑問を持っていたんです。なぜ、魔導技術は三百年も進歩しないのか。なぜ、事故がなくならないのか」
「今日、その答えが見えた」
「……ええ。あなたの図面を見て、わかりました。私たちは、現場を知らなかった」
エリーゼは立ち上がった。
「力を貸します」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
エリーゼは、真剣な目で言った。
「あなたが『遠い国』から持ってきた知識の全てを、私に教えてください」
修平は、小さく笑った。
「全てを教えるのは難しいかもしれませんが——できる限りは」
「それで結構です」
エリーゼは手を差し出した。
「これからよろしくお願いします、シュウさん」
修平はその手を握った。
「こちらこそ」
握手を交わしたとき、工房の裏庭で、一羽の梟が鳴いた。
新しい何かが、始まろうとしていた。
中央聖堂の時計塔から響く荘厳な音色が、石造りの街並みに反響し、市民たちを眠りから呼び覚ます。商店の扉が開き、馬車が通りを行き交い、露店商たちが声を張り上げる。
修平は、その喧騒よりも早く起き出していた。
下働き用の簡素な宿舎——工房の裏手にある古い倉庫を改装したもの——で目を覚まし、まだ暗いうちから工房へ向かう。これが、一ヶ月で身についた習慣だった。
誰もいない工房は、昼間とは違う顔を見せる。
職人たちの怒号も、金属を叩く音も、魔導器具が放つ唸りもない。静寂の中で、天井の魔導灯だけが青白い光を放っている。
修平は、その光を見上げた。
二十三個。
工房の照明を担う魔導灯の数だ。そのうち、修平が密かに手を加えたものは——今のところ、五個。
誰にも気づかれていない。
それでいい。
箒を手に取り、床を掃き始める。石畳の隙間に入り込んだ金属片、作業台の下に落ちた木屑、魔導管の切れ端。一つ一つ拾い集めながら、修平は昨日の作業を振り返っていた。
「拾い出し」という言葉がある。
電気工事の世界では、図面から必要な材料の数量を割り出す作業のことだ。二次元の図面を見ながら、三次元の建物を頭の中で組み立て、ケーブルの長さ、配管の本数、器具の個数を正確に数え上げる。
この世界には、それがない。
図面がないから、拾い出しもない。職人たちは「だいたいこのくらい」という勘で資材を発注し、足りなければ追加し、余れば捨てる。無駄が多すぎる。
そして、無駄が多いということは——事故のリスクも高いということだ。
「おう、早いな」
背後から声がかかった。
振り返ると、リカルドが立っていた。四十代半ば、筋肉質の体躯。工房で最も腕の立つ職人の一人だ。
「おはようございます」
「毎朝毎朝、飽きもせずに掃除してるな。もう少し寝てろよ」
「習慣なので」
リカルドは鼻を鳴らした。
「変わった奴だ。下働きにしておくには惜しいな」
「買いかぶりすぎです」
「そうか?」
リカルドは工房を見回し、天井の魔導灯に目を留めた。
「最近、このあたりの照明、調子がいいな」
「そうですか」
「以前は明滅がひどくてな。魔導石を交換してもすぐにダメになった。なのに、この一ヶ月は安定している。不思議だ」
修平は黙って床を掃き続けた。
リカルドは数秒、その背中を見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「まあいい。今日は忙しくなるぞ。第三区画の大物件が始まる」
「第三区画?」
「貴族の屋敷だ。改修工事。魔導灯を全部入れ替えて、新しい魔導炉も設置する。工房総出だ」
大規模工事。
修平の心が、わずかに騒いだ。
この一ヶ月、彼は下働きとして雑用をこなしながら、この世界の魔導技術を観察してきた。小さな修理、簡単な取り付け。限られた範囲でしか、自分の技術を試す機会がなかった。
だが、大規模工事なら——
「資材運びは人手がいる」とリカルドが言った。「お前も来い」
「はい」
◇
第三区画は、王都の中でも特に格式の高い地域だった。
石畳は磨き上げられ、建物は優雅な曲線を描き、街路樹が緑の天蓋を作っている。ここに住むのは上位貴族や大商人、王城の高官たち。魔導工房の職人たちにとっては、最も利益の大きい——そして、最も神経を使う——仕事場だ。
「ベルモント伯爵邸」と記された門をくぐり、修平たちは敷地内に入った。
屋敷は三階建ての堂々たる石造りで、前庭には噴水が水を吹き上げている。その噴水の水もまた、魔導器具によって制御されているのだろう。水流が複雑なパターンを描き、陽光にきらめいていた。
「きれいなもんだな」
若い見習いの一人が呟いた。だが、リカルドは首を横に振った。
「見た目はな。だが、中身は——」
彼は屋敷を指さした。
「築百年を超えている。魔導管は腐食し、魔導石の効率は落ち、あちこちで魔力漏れが起きている。だから全面改修だ」
百年。
この世界では、建物も魔導設備も、驚くほど長持ちする——いや、長持ちさせざるを得ないのだ。新しく建て替える技術力も資金も限られている。だから、古いものを修理しながら使い続ける。
問題は、修理の仕方だった。
屋敷の中に入り、修平は愕然とした。
壁の中を這う魔導管が、外に引き出されている。職人たちが解体作業を進めていたのだ。そこに露出していたのは——
混沌だった。
魔導管が絡まり合い、重なり合い、時には結び目を作っている。どの管がどこへ繋がっているのか、一目では判別できない。元の設計図がないまま、百年の間に何度も増設や改修を繰り返した結果だ。
「ひでえ有様だ」
リカルドも顔をしかめた。
「最初に施工した奴の顔が見たいもんだ」
「最初だけじゃないでしょう」
修平は思わず口を開いていた。
「見たところ、少なくとも三回は大規模な増設がされています。それも、毎回違うやり方で。最初の施工自体は悪くなかったかもしれませんが、後から継ぎ足した部分の処理が——」
彼はそこで口を閉じた。
リカルドだけでなく、周囲の職人たちも、驚いた目で修平を見つめていた。
「……お前」
リカルドが低い声で言った。
「それがわかるのか」
しまった、と修平は思った。
口が滑った。
下働きが、職人の仕事に口を出すべきではない。この世界の——いや、どの世界でも同じだ。現場には暗黙のヒエラルキーがある。経験年数、技術力、そして発言権。下働きは最下層であり、意見を求められることはない。
「——すみません。生意気を言いました」
「いや、謝るな」
リカルドは一歩近づき、修平の目を覗き込んだ。
「いいから、続けろ。お前には、何が見える」
選択肢は二つあった。
誤魔化すか、正直に言うか。
修平は、後者を選んだ。
「【配線術】というスキルを持っています」
「——配線術?」
「魔力の流れが見えるんです。どの管がどこへ繋がっているか、どこで魔力が漏れているか」
周囲がざわついた。
「そんなスキル、聞いたことがないな」
「レア・スキルか」
「いや、でも戦闘には役に立たないだろ」
職人たちの囁きが飛び交う。修平はそれを無視して、壁から突き出た魔導管を指さした。
「この太い管が主幹です。屋敷全体に魔力を供給する動脈。そこから三本の分岐が出ていますが、本来は二本で十分だったはずです。三本目は後から追加されていて、しかも接続部の処理が雑です。ここから魔力が漏れている」
さらに別の管を指す。
「この細い管は照明用ですが、途中で不自然に迂回しています。おそらく、増設のときに既存の管を避けようとしたんでしょう。でも、迂回させたせいで距離が二倍以上になっていて、末端では魔力が足りなくなっている。だから端の部屋の照明が暗いんだと思います」
最後に、床下を覗き込む。
「ここは——待ってください。何かおかしい」
修平は身を屈め、床板の隙間から下を覗いた。
青白い光が、かすかに漏れている。
「魔導管が破損しています。魔力が地面に漏出している。これは危険です。放置すると——」
「おい、本当か!」
リカルドが素早く動いた。床板を剥がし、中を確認する。
確かに、そこには亀裂の入った魔導管があった。周囲の土が青白く発光している。
「——報告しろ。これは伯爵に話を通さないといけない」
リカルドの部下が走っていく。
現場が一時的に静まり返った。
やがて、リカルドが修平の肩に手を置いた。
「お前、名前は」
「シュウです」
「シュウ。今から、俺のチームに入れ。資材運びは他の奴に任せる」
「——いいんですか」
「いい。いや、よくはないな」
リカルドは苦笑した。
「本当なら、お前みたいな奴は職人として正式に雇うべきだ。だが、今の工房長には——いや、今はいい。とにかく、俺の近くにいろ。お前の目が必要だ」
修平は頷いた。
これが、チャンスだ。
そう思った。
◇
ベルモント伯爵邸の改修工事は、三ヶ月の大プロジェクトだった。
修平は、リカルドの「手元」として現場に入った。立場は下働きのままだが、実質的にはリカルドの右腕として動くことになる。
最初の一週間は、調査と計画だった。
修平の【配線術】で魔導管の全体像を把握し、どこから手をつけるかを決める。通常なら、この作業だけで一ヶ月はかかるところだ。経験豊富な職人が壁を一つ一つ開け、管を追跡し、手書きでメモを取る。
だが、修平のスキルがあれば、壁を開けなくても内部が「見える」。
「ここからここまでが主幹。この分岐点で三系統に分かれて、一階東棟、一階西棟、二階全体。三階は別系統で、この管が——」
修平が口述し、リカルドが書き取る。
最初、リカルドは戸惑っていた。自分より若い、しかも下働きの意見を聞くことへの抵抗があったのだろう。だが、修平の指摘が的確であることがわかると、態度が変わった。
「お前、以前はどこで働いていたんだ」
ある日、リカルドが尋ねた。
修平は一瞬、言葉に詰まった。
「——遠い国の、小さな工房です」
「遠い国?」
「ええ。技術の系統が少し違うので、こちらの方法には慣れないところもあります」
嘘ではない。
異世界は、確かに「遠い国」だ。
「そうか」
リカルドはそれ以上、追求しなかった。職人の世界では、過去を詮索しないのが礼儀なのかもしれない。
調査が終わると、次は設計だ。
ここで、修平は大きな問題に直面した。
図面がない。
この世界には、設計図を描くという習慣がなかった。職人たちは、頭の中で計画を立て、現場で調整しながら施工する。だが、それでは——
「整合性が取れません」
修平はリカルドに言った。
「今の状態で施工を始めると、同じ過ちを繰り返すことになります。百年後には、また今と同じ混沌になる」
「じゃあ、どうしろと言うんだ」
「図面を描きましょう」
修平は、自分の宿舎から持ってきた紙を広げた。
そこには、屋敷の見取り図が描かれていた。壁の位置、部屋の配置、窓とドアの場所。そして、その上に重ねて——魔導管の経路が、色分けされて記されている。
「——これは」
リカルドが息を呑んだ。
「魔導回路図です」
修平は言った。
「どの管がどこへ繋がっているか、どこで分岐するか、どれだけの魔力が流れるか。全部、一目でわかるようにしました」
リカルドは、その図面を食い入るように見つめた。
「こんなもの、見たことがない」
「ないでしょうね。だから、事故が起きるんです」
修平は図面の一点を指さした。
「ここを見てください。三階の大広間に行く管と、厨房に行く管が同じ分岐点から出ています。でも、厨房の魔導炉は大量の魔力を消費します。大広間と同時に使うと、分岐点に負荷が集中して——」
「熱を持つ」
「そうです。最悪の場合、魔導管が溶けます」
リカルドは額に手を当てた。
「だから、伯爵邸では毎年のように小火騒ぎがあったのか……」
「今回の改修で、分岐点を変更しましょう。厨房は別系統にして、主幹から直接引きます。効率は少し落ちますが、安全性は大幅に上がります」
修平は新しい経路を図面に描き込んだ。
「これなら、どの部屋を同時に使っても問題ありません。負荷が分散されますから」
リカルドは長い間、図面を見つめていた。
そして、顔を上げた。
「シュウ。お前は一体何者だ」
修平は、正直に答えた。
「ただの電気工事士です」
「……デンキコウジシ?」
「こちらの言葉では——そうですね。魔導配線士、とでも言うべきでしょうか」
「聞いたことがない職種だな」
「ええ。まだ、存在しない職種ですから」
リカルドは、再び図面に目を落とした。
「この図面。これを使えば、見習いでも正確に施工できるな」
「それが目的です」
「——工房に持ち帰っていいか」
「もちろん。でも、まだ完成版じゃありません。施工しながら、細部を詰めていきましょう」
リカルドは頷いた。
その顔に、何か新しい光が宿っているように見えた。
◇
図面を使った施工は、革命的だった。
これまで、一つの部屋の魔導管を設置するのに三日かかっていた作業が、一日で終わる。どこに何を置くか、どう繋ぐかが明確に決まっているから、迷いがない。
若い見習いたちは特に熱心だった。
「シュウさん、この記号は何ですか」
「これは分岐点を示す。ここで三方向に分かれる」
「じゃあ、この太い線は」
「主幹。一番たくさんの魔力が流れる管だ」
修平は、図面の読み方を丁寧に教えた。
最初は戸惑っていた見習いたちも、すぐに図面の便利さを理解した。どこに何があるか、一目でわかる。質問しなくても、自分で判断できる。それは、彼らにとって初めての経験だった。
「これがあれば、俺でも一人で施工できるかもしれない」
一人の見習いがそう言ったとき、修平は小さく頷いた。
それこそが、図面の力だ。
熟練職人の頭の中にだけ存在していた知識を、紙の上に出力する。誰でも読める形に変換する。そうすることで、技術は個人から組織へ、一代から次の世代へと継承される。
だが、全員がそれを歓迎したわけではなかった。
「何をやっているんだ、お前たちは」
ある日、工房の古参職人ゴルドが現場にやって来た。五十代後半、白髪交じりの髭を蓄えた大柄な男。工房長の次に長いキャリアを持つベテランだ。
ゴルドは、見習いたちが図面を見ながら作業しているのを見て、眉をひそめた。
「何だ、それは」
「魔導回路図です」
リカルドが答えた。
「シュウが作った。これがあれば——」
「図面?」
ゴルドは鼻で笑った。
「そんなもので魔導管が引けると思っているのか。現場は生き物だ。図面通りになんか、絶対にいかない」
「いえ、でも——」
「経験を軽視しているんだよ、お前たちは」
ゴルドの声が大きくなった。
「俺たちは何十年もかけて、この仕事を体で覚えてきた。壁の向こうに何があるか、管がどう走っているか、それを感じ取れるようになるのに、どれだけ苦労したと思っている。それを、紙切れ一枚で済ませようとするのか」
現場が静まり返った。
見習いたちが怯えた目でゴルドを見つめている。
修平は、一歩前に出た。
「図面は、経験を否定するものではありません」
ゴルドが修平を睨んだ。
「何だと」
「図面は、経験を共有するためのものです。ゴルドさんが何十年もかけて培った知識を、紙の上に書き出す。そうすれば、後輩たちはゴルドさんの経験を引き継げます。ゼロからやり直さなくていい」
「俺の経験を?」
「はい。ゴルドさんが『感じ取る』とおっしゃったこと——壁の向こうに何があるか、管がどう走っているか——それを図面に書けば、見習いでも『見える』ようになります」
ゴルドは黙った。
修平は続けた。
「もちろん、図面だけでは不十分です。現場で調整することも必要でしょう。でも、図面があれば、調整の範囲が小さくなる。ミスが減る。事故が減る。ゴルドさんは、後輩が事故で怪我をするのを見たくないでしょう?」
ゴルドの目が、わずかに揺れた。
二十年前、ゴルドの弟子が魔導管の事故で重傷を負い、職人を辞めざるを得なくなったという話を、修平はリカルドから聞いていた。
「……口の減らない奴だ」
ゴルドは唸った。
「だが、お前の言うことにも一理ある」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺はまだ認めたわけじゃない」
ゴルドは踵を返した。
「三ヶ月後、この工事が終わったら、結果を見せてもらう。お前の『図面』とやらで、本当に良い仕事ができるのかどうか」
そう言い残して、ゴルドは去っていった。
リカルドが、ほっと息をついた。
「やれやれ。説教で済んでよかった」
「すみません、余計なことを言いました」
「いや、お前は正しいことを言った。ゴルドも頭ではわかっているんだ。ただ、三十年の経験を否定されたような気がして——」
「わかっています」
修平は頷いた。
古参と若手の対立は、どの世界でも同じだ。変化を恐れる気持ちは、人間として自然なものなのだから。
大切なのは、結果で示すこと。
言葉ではなく、仕事で。
◇
その夜、修平は宿舎で図面を広げていた。
明日からは、二階の施工に入る。部屋数が多く、配管も複雑だ。入念な準備が必要だった。
小さな蝋燭の明かりの下で、彼は細い筆で線を引いていた。この世界には鉛筆がない。インクと筆を使うしかないのが、もどかしかった。
コンコン。
扉を叩く音がした。
「はい」
立ち上がって扉を開けると、そこに立っていたのは——
「——エリーゼさん」
工房長の令嬢だった。
昼間は貴族らしい豪華なドレスを着ていることが多いが、今は質素なローブ姿だ。フードを目深に被り、人目を忍んでいる様子がうかがえた。
「夜分に失礼します。少し、話をしても良いですか」
「どうぞ」
修平は部屋に招き入れた。といっても、椅子は一つしかない。それをエリーゼに勧め、自分は寝台の端に腰を下ろした。
「それが、例の『図面』ですか」
エリーゼの視線が、作業台の上の紙に向いた。
「はい」
「見せていただいても?」
修平は頷いた。
エリーゼは図面を手に取り、食い入るように見つめた。その目は、単なる好奇心ではなく、深い探究心に満ちていた。
「素晴らしい」
彼女は呟いた。
「これが、あなたが作った『魔導回路図』……。私が知っている限り、こんなものは魔導学院の文献にも存在しません」
「この世界には、まだないものですから」
「『この世界には』?」
エリーゼが顔を上げた。
しまった、と修平は思った。
またか。口が滑りすぎだ。
「——遠い国では、こういうものが使われていたんです」
「その『遠い国』というのは、どこですか」
修平は黙った。
エリーゼは、じっと修平の目を見つめた。
「あなたは、普通の下働きではありませんね」
「……そうかもしれません」
「あの夜——あなたが倉庫の魔導灯を修理したのを、私は見ていました」
やはり、見られていたか。
修平は覚悟を決めた。
「何が見えました」
「あなたの手元が光っていました。青白い、魔力のような——いいえ、魔力そのものではない、何か別のもの」
「【配線術】です」
「そう、そのスキル。ギルドの登録簿を調べましたが、そんなスキルは記録にありません。少なくとも、この王国では」
エリーゼは図面を置き、修平に向き直った。
「あなたは何者ですか。どこから来たのですか。そして——何をしようとしているのですか」
三つの問い。
全てに正直に答えることはできない。だが、嘘だけで固めることも——したくなかった。
「俺は、シュウという名前の——元電気工事士です」
「デンキ……?」
「この世界にはない概念です。電気という力を使って、光を灯し、物を動かし、熱を生む。そのための配線を引く仕事をしていました」
エリーゼの目が大きくなった。
「魔導とは違うのですか」
「原理は違います。でも、やっていることは似ています。エネルギーを発生させ、必要な場所に運び、使う。その経路を設計し、施工する」
「では、あなたの『遠い国』には、魔導とは別のエネルギーがあると?」
「ありました」
過去形で言った。もう、戻ることはできないのだから。
「今は、ここにいます。そして、ここでできることをしたいと思っています」
「何を」
「この世界の魔導技術を、もっと良くすること」
修平は立ち上がり、窓から外を見た。
夜の王都には、あちこちで魔導灯が明滅している。安定した光を放っているものは、ほとんどない。
「今の魔導管の施工技術は、失礼ながら、百年前から進歩していないように見えます。接続部の処理が雑で、魔力漏れが多く、事故が絶えない。図面がないから、同じミスが何度も繰り返される」
「それは——」
「貴族の魔導師たちが、理論ばかりを重視して、現場を見ていないからです」
修平はエリーゼに向き直った。
「あなたは、工房長の娘でありながら、こんな下働きの宿舎に来た。つまり、現場を見る気があるということだ」
エリーゼは何も言わなかった。
修平は続けた。
「俺一人でできることは限られています。リカルドさんや見習いたちの協力があっても、この工房一つが精一杯だ。でも、あなたが力を貸してくれれば——」
「——変革ができる、と?」
「ええ」
エリーゼは長い間、黙っていた。
彼女の目には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。迷い、恐れ、そして——希望。
「私は」
彼女は言った。
「魔導理論を学んできました。でも、ずっと疑問を持っていたんです。なぜ、魔導技術は三百年も進歩しないのか。なぜ、事故がなくならないのか」
「今日、その答えが見えた」
「……ええ。あなたの図面を見て、わかりました。私たちは、現場を知らなかった」
エリーゼは立ち上がった。
「力を貸します」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
エリーゼは、真剣な目で言った。
「あなたが『遠い国』から持ってきた知識の全てを、私に教えてください」
修平は、小さく笑った。
「全てを教えるのは難しいかもしれませんが——できる限りは」
「それで結構です」
エリーゼは手を差し出した。
「これからよろしくお願いします、シュウさん」
修平はその手を握った。
「こちらこそ」
握手を交わしたとき、工房の裏庭で、一羽の梟が鳴いた。
新しい何かが、始まろうとしていた。
0
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