クリーニング業×異世界転生_洗浄聖典 ~クリーニング師、異世界で万物を清める~

もしもノベリスト

文字の大きさ
3 / 20

第3章「クリーニング師の日常」

しおりを挟む
朝は、水槽の水を入れ替えることから始まる。

 清浄亭を開業して二週間が経った。洗一の一日は、夜明けと共に目を覚まし、井戸から水を汲むところから始まる。大きな桶を両手に持ち、店と井戸を三往復。若返った三十歳の肉体でも、それなりに堪える作業だった。

「セイイチさん、私がやります」

 セラの声が、背後から飛んできた。

「お前にはまだ重すぎる」

「でも——」

「お前の仕事は、受付と検品だ。水汲みは俺がやる」

 セラは、不満げな顔で黙った。

 試用期間の一週間はとうに過ぎ、今では正式な従業員として働いている。住み込みだ。店の奥に小さな部屋を設え、そこが彼女の寝床になっている。

 最初の数日、セラは何をやらせても不器用だった。桶を運べばこぼし、布を絞れば腰を痛め、字を書かせれば読めない文字が並んだ。

 だが、三日目から変わり始めた。

 彼女には、観察力があった。

 洗一が鎧を検品する様子を、食い入るように見つめていた。汚れの種類を判別する方法、素材を見分けるコツ、処理の優先順位——説明されなくても、見て盗むことができた。

 一週間後、セラは簡単な衣類の検品を任せられるレベルになっていた。

「セイイチさん、今日の依頼品です」

 セラが、カウンターに三つの品物を並べた。

 一つ目は、麻のシャツ。農夫が持ち込んだもので、襟元に土の汚れがこびりついている。

 二つ目は、絹のスカーフ。貴族の娘が落とした赤ワインの染みが、淡い青の生地に広がっている。

 三つ目は、革のブーツ。冒険者のもので、魔獣の血と泥が混ざり合った複合汚染。

「検品結果を報告しろ」

「はい。一番目——麻のシャツ——表面の土汚れと、襟の皮脂汚染。水洗いと前処理で対応可能。二番目——絹のスカーフ——タンニン系のワイン染み。浸透度は中程度。酢酸処理と漂白が必要。三番目——革のブーツ——油溶性とタンパク系の複合汚染。穢れの痕跡あり。処理難度は高」

 洗一は、頷いた。

 正確だった。二週間前の彼女には、不可能だった分析である。

「合格だ。一番目と二番目は、お前がやれ」

 セラの目が、大きく見開かれた。

「私が——ですか?」

「見て学んできただろう。やってみろ」

「でも、絹は——」

「失敗したら、俺がカバーする。それより、いつまでも見ているだけでは上達しない」

 セラは、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく頷いた。

「……わかりました」

 その声には、緊張と——かすかな高揚が混じっていた。

 午前中は、依頼品の処理に費やされた。

 洗一は、革のブーツに取り組んだ。

 複合汚染は、クリーニングにおける難題の一つである。異なる種類の汚れが混在している場合、処理の順序を間違えると、かえって汚れを定着させてしまう。

 まず、【汚染鑑定】で詳細な分析を行う。

 ——表層:土 ite(魔物生息域由来)。水溶性。
 ——中層:油脂(魔獣の体液)。油溶性。酸化進行中。
 ——深層:タンパク質(血液)。凝固開始。
 ——付着物:穢れ(微量)。革の縫い目に浸透。
 ——素材:牛革。耐久度良好。軽度の乾燥あり。

 四層構造。

 処理の順序は——水溶性の土から始め、油溶性の体液、タンパク系の血液、そして最後に穢れ。

 洗一は、作業を開始した。

 まず、ブラシで表面の土を払い落とす。乾いた状態で落とせる汚れは、濡らす前に除去するのが基本だ。

 次に、ぬるま湯で全体を濡らし、土の残りを洗い流す。

 ここからが本番だった。

 油溶性の体液を処理するため、【溶剤生成】で石油系溶剤を精製する。革を傷めない濃度に調整し、汚染部分に塗布。ブラシで軽くこすり、溶剤と汚れを布で吸い取る。

 油のぎらつきが消えた。

 次は、タンパク系の血液。

 酵素溶液を精製し、血液の染みに塗布。十五分待つ。

 その間に、セラの作業を確認しに行った。

 彼女は、絹のスカーフと格闘していた。

「どうだ」

「酢酸を塗布しました。でも、染みがまだ——」

「濃度は」

「1%です。セイイチさんがワインの染みに使っていたのを見て——」

「絹は繊細だ。0.5%から始めろ。時間をかけて、少しずつ」

 セラは、頷いた。

 洗一は、自分のブーツに戻った。

 酵素が働いた。血液の染みが浮き上がっている。蒸気を当て、布で吸い取る。

 最後に、穢れの処理。

 魔力溶剤を精製し、ブーツ全体に塗布する。縫い目の奥に浸透した穢れを、少しずつ引き出していく。

 三十分後。

 ブーツは、元の状態を取り戻していた。

 革本来の艶が戻り、乾燥による硬化も解消されている。穢れの気配は——ない。

「完了だ」

 洗一は、ブーツを検品台に置いた。

 そして、セラの方を見た。

 彼女は、スカーフを光にかざしていた。

 ワインの染みは——消えていた。

「やった……」

 セラの声が、震えていた。

「やりました、セイイチさん。落ちました」

「見せろ」

 洗一は、スカーフを受け取った。

 【汚染鑑定】で確認する。

 ——タンニン汚染:検出されず
 ——繊維損傷:なし
 ——色褪せ:なし

 完璧だった。

「よくやった」

 洗一の言葉に、セラの顔がパッと輝いた。

「本当ですか? 間違いないですか?」

「嘘は言わない」

 それは、洗一の信条だった。

 できることは「できる」と言う。できないことは「できない」と言う。そして、うまくできたら「よくやった」と言う。

 シンプルだが、それが——職人の教え方だった。

 昼過ぎ、予想外の来客があった。

 ドワーフだった。

 身長は洗一の腰ほどしかないが、肩幅は広く、腕は丸太のように太い。顔には豊かな髭が生え、その髭には金属の粉が絡みついている。

「おい、ここが噂の清浄亭か」

 低く響く声だった。

「ああ。何か依頼か」

「これだ」

 ドワーフは、背負っていた布袋を床に下ろした。中から出てきたのは、革の前掛けと、分厚い布の作業着だった。

 ——金属粉の匂いが、鼻を突く。

 鉄、銅、そして——何か別の金属。見覚えのない、銀色の光沢を持つ粉末。

「鍛冶師か」

「ああ。この町で唯一の鉄鍛冶だ。名はゴルド」

 ゴルドは、作業着を広げて見せた。

 全体が金属粉にまみれている。特に胸元と袖口は、粉が繊維の奥まで入り込んで、まるで金属で染められたかのようだった。

「普通の洗濯屋じゃ、手に負えないと言われた。お前なら落とせるって、冒険者のカイルから聞いてな」

 カイル。最初の顧客だ。彼の口コミが、こうして広がっている。

 洗一は、作業着を手に取った。

 【汚染鑑定】が起動する。

 ——表層:鉄粉。酸化進行中。繊維に固着。
 ——中層:銅粉。酸化緑青あり。
 ——深層:ミスリル粉末(微量)。魔力を帯びた金属。浸透度高。
 ——素材:綿と麻の混紡。耐久度やや劣化。

 ミスリル。

 この世界の金属についての知識は、まだ乏しい。だが、「魔力を帯びた金属」という情報から、特殊な処理が必要だと推測できる。

「落とせるか?」

 ゴルドの目が、洗一を見据えていた。職人の目だった。自分の道具を預ける相手を、見極めようとしている目。

「落とせる。ただし、ミスリル粉の処理には時間がかかる。三日くれ」

「三日? 長いな」

「普通の金属粉なら一日で済む。だが、ミスリルは魔力を帯びている。通常の方法では繊維から引き剥がせない」

 ゴルドは、しばらく黙っていた。

 やがて、深く頷いた。

「……わかった。三日だな。信じてやる」

「いくらかかる? 先に言っておいてくれ」

「銀貨五枚」

「高いな」

「ミスリルを扱う作業着だろう。新品を買えば、銀貨二十枚は下らないはずだ」

 ゴルドの目が、わずかに見開かれた。

「……お前、ミスリルの価値を知っているのか」

「推測だ。魔力を帯びた金属なら、希少で高価だろう」

 洗一の推測は、当たっていたらしい。ゴルドは、髭の奥で笑った。

「気に入った。五枚だな。三日後に取りに来る」

 ドワーフは、銀貨を置いて去っていった。

 セラが、不安げな顔で訊いてきた。

「ミスリルって——落とせるんですか?」

「やってみなきゃわからない」

 正直な答えだった。

 だが、洗一には自信があった。

 三十年間、「落とせない」と言われた汚れと向き合ってきた。インク、ワイン、血液、油、金属粉——不可能と言われた染みを、何度も落としてきた。

 この世界の金属が、どれほど特殊でも——原理は同じはずだ。

 汚れには、構造がある。

 構造がわかれば、落とし方がわかる。

 夕方、また別の来客があった。

 今度は、エルフだった。

 長い銀髪、尖った耳、そして——優雅な所作。彼女は、店の入口で一瞬足を止め、周囲を見回した。

 品定めをしている、と洗一は思った。

 この店が、自分の品を預けるに値するかどうか。

「いらっしゃいませ」

 セラが、慣れた様子で出迎えた。

「清浄亭へようこそ。ご依頼は何でしょうか」

 エルフの女性は、セラをちらりと見てから、洗一に視線を移した。

「店主は、あなたですね」

「ああ」

「噂は聞いています。穢れを落とせるクリーニング師、と」

 洗一は、答えなかった。

 エルフは、懐から布を取り出した。

 絹だった。

 だが、普通の絹ではない。光にかざすと、虹色の光沢が浮かび上がる。繊維の一本一本が、魔力を帯びているかのような——

「エルフ絹」

 エルフは、布を広げた。

「我が一族に伝わる織物です。百年以上の歴史があります。しかし——」

 彼女は、布の一部を指さした。

 黄ばんでいた。

 端の方から、茶色がかった黄色い染みが広がっている。古い染みだ。長年の蓄積によるもの——

「これは——」

 洗一は、布を受け取った。

 【汚染鑑定】が起動する。

 ——表層:酸化物(経年劣化)。繊維表面に沈着。
 ——中層:油脂(皮脂由来)。20年以上の蓄積。
 ——深層:タンパク質残留物。繊維に固着。
 ——魔力層:魔力劣化(微量)。織物本来の光沢を阻害。
 ——素材:エルフ絹。極めて繊細。熱・酸・アルカリに弱い。

 難題だった。

 経年劣化と、長年の使用による汚れの蓄積。しかも、素材は「極めて繊細」。通常の処理では、繊維を傷める可能性が高い。

「これは——」

 エルフの目が、洗一を見据えていた。

「落とせますか」

 洗一は、考えた。

 正直に言えば、自信がなかった。

 エルフ絹という素材を、洗一は知らない。繊維の構造、魔力との関係、適切な処理法——全てが未知数だ。

 だが——

「やってみる価値はある」

 洗一は、そう答えた。

「ただし、条件がある」

「条件?」

「この素材について、教えてくれ。繊維の構造、魔力の性質、過去にどんな手入れをしてきたか。情報があればあるほど、成功の確率は上がる」

 エルフは、少し驚いた顔をした。

「……普通の職人なら、そんなことは聞かない」

「俺は普通の職人じゃない」

 洗一は、布を丁寧にカウンターに置いた。

「汚れを落とすには、汚れのことを知らなければならない。同じように、素材を傷めずに落とすには、素材のことを知らなければならない。それが——クリーニングの基本だ」

 エルフは、しばらく黙っていた。

 やがて、彼女は——かすかに、笑った。

「面白い人間ですね。いいでしょう。教えます」

 彼女は、店の椅子に腰を下ろした。

 そして、エルフ絹について語り始めた。

 エルフ絹は、魔力を帯びた蚕から紡がれる糸で織られるという。

 通常の絹よりも繊維が細く、光を複雑に屈折させるため、虹色の光沢が生まれる。その光沢こそが、エルフ絹の価値の源泉だった。

「魔力が劣化すると、光沢も失われます」

 エルフ——名をエレナといった——は、静かな声で説明した。

「この織物は、私の曾祖母が織ったものです。百二十年前。以来、我が家の宝として受け継がれてきました」

「百二十年……」

「人間には、長いでしょう。エルフにとっては——三代です」

 洗一は、布をもう一度観察した。

 百二十年の間、大切にされてきた織物。しかし、時間の経過には抗えない。繊維は劣化し、汚れは蓄積し、本来の輝きは失われつつある。

「過去に、手入れはしたことがあるか」

「何度か。水で軽く洗い、日陰で乾かすだけです。それ以外の方法は——エルフ絹には使えないと言われています」

「水で洗っても、この黄ばみは落ちなかったと」

「はい。年々、ひどくなっています」

 洗一は、考えた。

 黄ばみの原因は、酸化と皮脂の蓄積だ。水洗いでは、表面の汚れは落とせても、繊維の奥に浸透した皮脂は落とせない。そして、落とせなかった皮脂が酸化し、黄変する。

 通常の絹なら、酸素系漂白剤で処理する。だが、エルフ絹は「酸に弱い」とエレナは言った。漂白剤は使えない。

 では、別のアプローチはないか。

「魔力が劣化している、と言ったな」

「はい」

「その魔力は——どこから来ている?」

 エレナは、首を傾げた。

「どこから——というと?」

「蚕から紡がれた時点で、魔力を帯びていたんだろう。その魔力は、時間と共に減少するのか? それとも、何かに吸収されるのか?」

 エルフは、しばらく考えていた。

「……正直に言えば、わかりません。エルフ絹の魔力について、詳しく研究した者はいないので」

「なるほど」

 洗一は、布を手に取った。

 【汚染鑑定】をもう一度発動する。

 今度は、汚れではなく、魔力の流れを見ようとした。

 ——魔力層:繊維に沿って分布。一部、汚染物質に吸着。

 見えた。

 魔力が、汚れに「吸着」されている。

 つまり、黄ばみの原因である皮脂や酸化物が、エルフ絹本来の魔力を奪っているのだ。だから、汚れが蓄積するほど、光沢が失われる。

「わかった」

 洗一は、布をカウンターに置いた。

「やり方が見えた」

「本当ですか?」

「汚れを落とすだけじゃダメだ。汚れに吸着された魔力を、繊維に戻す必要がある」

 エレナの目が、わずかに見開かれた。

「そんなことが——できるのですか?」

「やってみなきゃわからない。一週間くれ」

「一週間……」

「百二十年の汚れを落とすんだ。それくらいはかかる」

 エレナは、しばらく洗一の顔を見つめていた。

 その目には、疑いと——かすかな希望が混じっていた。

「……わかりました。一週間。お願いします」

 彼女は、立ち上がった。

「料金は?」

「成功報酬でいい。落とせなければ、金は取らない」

 エレナは、驚いた顔をした。

「そんな条件で——」

「自信があるわけじゃない。だが、やる価値はある」

 洗一は、布を丁寧に折りたたんだ。

「百二十年の歴史がある品だ。金のために無理して傷つけるわけにはいかない」

 エレナは、しばらく黙っていた。

 やがて、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 その声には、感謝と——何か別の感情が混じっていた。

 敬意、だろうか。

 洗一には、よくわからなかった。

 夜、店を閉めてから、洗一は一人で作業を始めた。

 ゴルドの作業着。エレナのエルフ絹。

 どちらも、これまでに経験したことのない素材と汚れだった。

 だが——怖くはなかった。

 むしろ、心が躍っていた。

 新しい汚れ。新しい素材。新しい挑戦。

 前世では、毎日が同じことの繰り返しだった。ワイシャツ、スーツ、コート、ダウンジャケット——決まった素材、決まった汚れ、決まった処理法。三十年間、同じことを繰り返してきた。

 もちろん、それにも意味があった。繰り返しの中で、技術は磨かれる。効率は上がる。品質は安定する。

 だが——

 この世界には、未知がある。

 魔力を帯びた金属。百二十年の歴史を持つ織物。そして——穢れという、概念的な汚染。

 全てが、新しかった。

 洗一は、ゴルドの作業着を広げた。

 まず、ミスリル粉の性質を調べる。

 【汚染鑑定】で観察する。

 ミスリル粉は、繊維に物理的に絡みついているだけでなく、魔力によって「接着」されているようだった。通常の方法——水や溶剤——では、物理的な絡まりは解消できても、魔力による接着は解消できない。

 では、魔力を中和すれば——

 洗一は、【溶剤生成】を発動した。

 今度は、物理的な溶剤ではなく、「魔力を溶かす溶剤」を精製しようとした。

 手のひらに、淡く光る液体が生まれた。

 前に穢れを落とすのに使った、あの「魔力溶剤」だ。

 洗一は、その溶剤を作業着の一部——目立たない裏側——に塗布した。

 五分待つ。

 確認する。

 ミスリル粉が——浮き上がっていた。

 繊維との接着が解消され、粉末が溶剤に溶け出している。

「いける」

 洗一は、静かにつぶやいた。

 原理は——わかった。

 あとは、全体に処理を施し、粉末を完全に除去するだけだ。

 三日あれば——十分だ。

 次は、エルフ絹。

 こちらは、より繊細な作業が必要だった。

 洗一は、布を作業台に広げた。

 まず、汚れを特定する。

 黄ばみの原因は、酸化した皮脂と、経年劣化による繊維の変色。これらが、魔力を「吸着」している。

 通常のアプローチ——漂白——は使えない。では、別の方法は?

 洗一は、考えた。

 汚れを「落とす」のではなく、汚れを「分離」する方法はないか。

 汚れと魔力が結合しているなら、その結合を解除し、汚れだけを取り除き、魔力は繊維に戻す——

 ——そんなことが、可能なのか?

 わからない。

 だが、やってみなければ、わからないままだ。

 洗一は、【溶剤生成】を発動した。

 今度は、「魔力と汚れの結合を解除する溶剤」を精製しようとした。

 イメージしたのは、酵素だった。

 タンパク質を分解する酵素のように、特定の「結合」だけを切断する——

 手のひらに、透明な液体が生まれた。

 見た目は水に近いが、わずかに——虹色の光沢がある。

 エルフ絹の光沢に、似ていた。

 洗一は、その溶剤を布の一部——黄ばみの最も薄い部分——に塗布した。

 十分待つ。

 確認する。

 黄ばみが——薄くなっていた。

 そして、その部分の光沢が——わずかに、回復していた。

「……成功だ」

 洗一は、深く息を吐いた。

 まだ、完全ではない。一部だけの処理で、全体がどうなるかはわからない。

 だが、方向性は——見えた。

 一週間。

 その期間で、百二十年の汚れを落とし、本来の輝きを取り戻す。

 不可能ではない。

 難しいが——やりがいがある。

 深夜、作業を終えた洗一は、店の窓から夜空を見上げた。

 月が、丸く輝いていた。

 この世界にも、月があるのだ。

 前世の月と、同じなのか、違うのか。それすらも、わからない。

 だが——

 汚れを落とす。

 その仕事は、同じだった。

 どんな世界でも、汚れは生まれる。使えば汚れ、放置すれば劣化し、時間が経てば変色する。

 それを——清潔にする。

 元の状態に戻す。

 それが、洗一の仕事だった。

 前世でも、この世界でも。

「セイイチさん」

 セラの声が、背後から聞こえた。

 振り返ると、彼女が廊下に立っていた。眠そうな目で、こちらを見ている。

「まだ起きていたのか」

「目が覚めて——セイイチさんの気配がしたので」

「寝ろ。明日も朝から仕事だ」

「はい……」

 セラは、頷いた。

 だが、すぐには去らなかった。

「セイイチさん」

「なんだ」

「私——クリーニングって、すごい仕事だと思います」

 唐突な言葉だった。

「汚れを落とすだけじゃなくて——大切なものを、守る仕事ですよね」

 洗一は、何も答えなかった。

「あのエルフの人——あの布、すごく大切にしてるって、わかりました。百二十年も——家族で受け継いできたものって」

 セラの目が、月明かりに照らされていた。

「それを——セイイチさんは、きれいにしようとしてる。大切なものを、守ろうとしてる」

「……」

「私も——そういう仕事がしたいです」

 セラは、小さく頭を下げた。

「おやすみなさい、セイイチさん」

 そして、廊下の奥に消えていった。

 洗一は、しばらく窓の外を見つめていた。

 大切なものを、守る仕事。

 そんなふうに考えたことは、なかった。

 ただ、汚れを落とす。それだけを考えてきた。

 だが——

 確かに、そうかもしれない。

 汚れの向こうには、いつも「持ち主」がいる。

 その人にとって大切なもの。思い出の品。家族の形見。仕事の道具。

 それを——清潔にする。

 元の状態に戻す。

 持ち主の手に、返す。

 それは——「守る」という言葉で表現しても、間違いではないのかもしれない。

 洗一は、月を見上げた。

 この世界で、俺は何を守れるだろうか。

 衣服を。道具を。思い出を。

 そして——

 穢れに侵された、この世界を。

 守れるだろうか。

 答えは、まだない。

 だが——

 やってみる価値は、ある。

 洗一は、そう思った。

【第3章・了】
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜

一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m ✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。 【あらすじ】 神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!   そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!  事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます! カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

売れ残りオメガの従僕なる日々

灰鷹
BL
王弟騎士α(23才)× 地方貴族庶子Ω(18才) ※ 第12回BL大賞では、たくさんの応援をありがとうございました!  ユリウスが暮らすシャマラーン帝国では、平民のオメガは18才になると、宮廷で開かれる選定の儀に参加することが義務付けられている。王族の妾となるオメガを選ぶためのその儀式に参加し、誰にも選ばれずに売れ残ったユリウスは、国王陛下から「第3王弟に謀反の疑いがあるため、身辺を探るように」という密命を受け、オメガ嫌いと噂される第3王弟ラインハルトの従僕になった。  無口で無愛想な彼の優しい一面を知り、任務とは裏腹にラインハルトに惹かれていくユリウスであったが、働き始めて3カ月が過ぎたところで第3王弟殿下が辺境伯令嬢の婿養子になるという噂を聞き、従僕も解雇される。

処理中です...