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第3章「クリーニング師の日常」
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朝は、水槽の水を入れ替えることから始まる。
清浄亭を開業して二週間が経った。洗一の一日は、夜明けと共に目を覚まし、井戸から水を汲むところから始まる。大きな桶を両手に持ち、店と井戸を三往復。若返った三十歳の肉体でも、それなりに堪える作業だった。
「セイイチさん、私がやります」
セラの声が、背後から飛んできた。
「お前にはまだ重すぎる」
「でも——」
「お前の仕事は、受付と検品だ。水汲みは俺がやる」
セラは、不満げな顔で黙った。
試用期間の一週間はとうに過ぎ、今では正式な従業員として働いている。住み込みだ。店の奥に小さな部屋を設え、そこが彼女の寝床になっている。
最初の数日、セラは何をやらせても不器用だった。桶を運べばこぼし、布を絞れば腰を痛め、字を書かせれば読めない文字が並んだ。
だが、三日目から変わり始めた。
彼女には、観察力があった。
洗一が鎧を検品する様子を、食い入るように見つめていた。汚れの種類を判別する方法、素材を見分けるコツ、処理の優先順位——説明されなくても、見て盗むことができた。
一週間後、セラは簡単な衣類の検品を任せられるレベルになっていた。
「セイイチさん、今日の依頼品です」
セラが、カウンターに三つの品物を並べた。
一つ目は、麻のシャツ。農夫が持ち込んだもので、襟元に土の汚れがこびりついている。
二つ目は、絹のスカーフ。貴族の娘が落とした赤ワインの染みが、淡い青の生地に広がっている。
三つ目は、革のブーツ。冒険者のもので、魔獣の血と泥が混ざり合った複合汚染。
「検品結果を報告しろ」
「はい。一番目——麻のシャツ——表面の土汚れと、襟の皮脂汚染。水洗いと前処理で対応可能。二番目——絹のスカーフ——タンニン系のワイン染み。浸透度は中程度。酢酸処理と漂白が必要。三番目——革のブーツ——油溶性とタンパク系の複合汚染。穢れの痕跡あり。処理難度は高」
洗一は、頷いた。
正確だった。二週間前の彼女には、不可能だった分析である。
「合格だ。一番目と二番目は、お前がやれ」
セラの目が、大きく見開かれた。
「私が——ですか?」
「見て学んできただろう。やってみろ」
「でも、絹は——」
「失敗したら、俺がカバーする。それより、いつまでも見ているだけでは上達しない」
セラは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……わかりました」
その声には、緊張と——かすかな高揚が混じっていた。
午前中は、依頼品の処理に費やされた。
洗一は、革のブーツに取り組んだ。
複合汚染は、クリーニングにおける難題の一つである。異なる種類の汚れが混在している場合、処理の順序を間違えると、かえって汚れを定着させてしまう。
まず、【汚染鑑定】で詳細な分析を行う。
——表層:土 ite(魔物生息域由来)。水溶性。
——中層:油脂(魔獣の体液)。油溶性。酸化進行中。
——深層:タンパク質(血液)。凝固開始。
——付着物:穢れ(微量)。革の縫い目に浸透。
——素材:牛革。耐久度良好。軽度の乾燥あり。
四層構造。
処理の順序は——水溶性の土から始め、油溶性の体液、タンパク系の血液、そして最後に穢れ。
洗一は、作業を開始した。
まず、ブラシで表面の土を払い落とす。乾いた状態で落とせる汚れは、濡らす前に除去するのが基本だ。
次に、ぬるま湯で全体を濡らし、土の残りを洗い流す。
ここからが本番だった。
油溶性の体液を処理するため、【溶剤生成】で石油系溶剤を精製する。革を傷めない濃度に調整し、汚染部分に塗布。ブラシで軽くこすり、溶剤と汚れを布で吸い取る。
油のぎらつきが消えた。
次は、タンパク系の血液。
酵素溶液を精製し、血液の染みに塗布。十五分待つ。
その間に、セラの作業を確認しに行った。
彼女は、絹のスカーフと格闘していた。
「どうだ」
「酢酸を塗布しました。でも、染みがまだ——」
「濃度は」
「1%です。セイイチさんがワインの染みに使っていたのを見て——」
「絹は繊細だ。0.5%から始めろ。時間をかけて、少しずつ」
セラは、頷いた。
洗一は、自分のブーツに戻った。
酵素が働いた。血液の染みが浮き上がっている。蒸気を当て、布で吸い取る。
最後に、穢れの処理。
魔力溶剤を精製し、ブーツ全体に塗布する。縫い目の奥に浸透した穢れを、少しずつ引き出していく。
三十分後。
ブーツは、元の状態を取り戻していた。
革本来の艶が戻り、乾燥による硬化も解消されている。穢れの気配は——ない。
「完了だ」
洗一は、ブーツを検品台に置いた。
そして、セラの方を見た。
彼女は、スカーフを光にかざしていた。
ワインの染みは——消えていた。
「やった……」
セラの声が、震えていた。
「やりました、セイイチさん。落ちました」
「見せろ」
洗一は、スカーフを受け取った。
【汚染鑑定】で確認する。
——タンニン汚染:検出されず
——繊維損傷:なし
——色褪せ:なし
完璧だった。
「よくやった」
洗一の言葉に、セラの顔がパッと輝いた。
「本当ですか? 間違いないですか?」
「嘘は言わない」
それは、洗一の信条だった。
できることは「できる」と言う。できないことは「できない」と言う。そして、うまくできたら「よくやった」と言う。
シンプルだが、それが——職人の教え方だった。
昼過ぎ、予想外の来客があった。
ドワーフだった。
身長は洗一の腰ほどしかないが、肩幅は広く、腕は丸太のように太い。顔には豊かな髭が生え、その髭には金属の粉が絡みついている。
「おい、ここが噂の清浄亭か」
低く響く声だった。
「ああ。何か依頼か」
「これだ」
ドワーフは、背負っていた布袋を床に下ろした。中から出てきたのは、革の前掛けと、分厚い布の作業着だった。
——金属粉の匂いが、鼻を突く。
鉄、銅、そして——何か別の金属。見覚えのない、銀色の光沢を持つ粉末。
「鍛冶師か」
「ああ。この町で唯一の鉄鍛冶だ。名はゴルド」
ゴルドは、作業着を広げて見せた。
全体が金属粉にまみれている。特に胸元と袖口は、粉が繊維の奥まで入り込んで、まるで金属で染められたかのようだった。
「普通の洗濯屋じゃ、手に負えないと言われた。お前なら落とせるって、冒険者のカイルから聞いてな」
カイル。最初の顧客だ。彼の口コミが、こうして広がっている。
洗一は、作業着を手に取った。
【汚染鑑定】が起動する。
——表層:鉄粉。酸化進行中。繊維に固着。
——中層:銅粉。酸化緑青あり。
——深層:ミスリル粉末(微量)。魔力を帯びた金属。浸透度高。
——素材:綿と麻の混紡。耐久度やや劣化。
ミスリル。
この世界の金属についての知識は、まだ乏しい。だが、「魔力を帯びた金属」という情報から、特殊な処理が必要だと推測できる。
「落とせるか?」
ゴルドの目が、洗一を見据えていた。職人の目だった。自分の道具を預ける相手を、見極めようとしている目。
「落とせる。ただし、ミスリル粉の処理には時間がかかる。三日くれ」
「三日? 長いな」
「普通の金属粉なら一日で済む。だが、ミスリルは魔力を帯びている。通常の方法では繊維から引き剥がせない」
ゴルドは、しばらく黙っていた。
やがて、深く頷いた。
「……わかった。三日だな。信じてやる」
「いくらかかる? 先に言っておいてくれ」
「銀貨五枚」
「高いな」
「ミスリルを扱う作業着だろう。新品を買えば、銀貨二十枚は下らないはずだ」
ゴルドの目が、わずかに見開かれた。
「……お前、ミスリルの価値を知っているのか」
「推測だ。魔力を帯びた金属なら、希少で高価だろう」
洗一の推測は、当たっていたらしい。ゴルドは、髭の奥で笑った。
「気に入った。五枚だな。三日後に取りに来る」
ドワーフは、銀貨を置いて去っていった。
セラが、不安げな顔で訊いてきた。
「ミスリルって——落とせるんですか?」
「やってみなきゃわからない」
正直な答えだった。
だが、洗一には自信があった。
三十年間、「落とせない」と言われた汚れと向き合ってきた。インク、ワイン、血液、油、金属粉——不可能と言われた染みを、何度も落としてきた。
この世界の金属が、どれほど特殊でも——原理は同じはずだ。
汚れには、構造がある。
構造がわかれば、落とし方がわかる。
夕方、また別の来客があった。
今度は、エルフだった。
長い銀髪、尖った耳、そして——優雅な所作。彼女は、店の入口で一瞬足を止め、周囲を見回した。
品定めをしている、と洗一は思った。
この店が、自分の品を預けるに値するかどうか。
「いらっしゃいませ」
セラが、慣れた様子で出迎えた。
「清浄亭へようこそ。ご依頼は何でしょうか」
エルフの女性は、セラをちらりと見てから、洗一に視線を移した。
「店主は、あなたですね」
「ああ」
「噂は聞いています。穢れを落とせるクリーニング師、と」
洗一は、答えなかった。
エルフは、懐から布を取り出した。
絹だった。
だが、普通の絹ではない。光にかざすと、虹色の光沢が浮かび上がる。繊維の一本一本が、魔力を帯びているかのような——
「エルフ絹」
エルフは、布を広げた。
「我が一族に伝わる織物です。百年以上の歴史があります。しかし——」
彼女は、布の一部を指さした。
黄ばんでいた。
端の方から、茶色がかった黄色い染みが広がっている。古い染みだ。長年の蓄積によるもの——
「これは——」
洗一は、布を受け取った。
【汚染鑑定】が起動する。
——表層:酸化物(経年劣化)。繊維表面に沈着。
——中層:油脂(皮脂由来)。20年以上の蓄積。
——深層:タンパク質残留物。繊維に固着。
——魔力層:魔力劣化(微量)。織物本来の光沢を阻害。
——素材:エルフ絹。極めて繊細。熱・酸・アルカリに弱い。
難題だった。
経年劣化と、長年の使用による汚れの蓄積。しかも、素材は「極めて繊細」。通常の処理では、繊維を傷める可能性が高い。
「これは——」
エルフの目が、洗一を見据えていた。
「落とせますか」
洗一は、考えた。
正直に言えば、自信がなかった。
エルフ絹という素材を、洗一は知らない。繊維の構造、魔力との関係、適切な処理法——全てが未知数だ。
だが——
「やってみる価値はある」
洗一は、そう答えた。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「この素材について、教えてくれ。繊維の構造、魔力の性質、過去にどんな手入れをしてきたか。情報があればあるほど、成功の確率は上がる」
エルフは、少し驚いた顔をした。
「……普通の職人なら、そんなことは聞かない」
「俺は普通の職人じゃない」
洗一は、布を丁寧にカウンターに置いた。
「汚れを落とすには、汚れのことを知らなければならない。同じように、素材を傷めずに落とすには、素材のことを知らなければならない。それが——クリーニングの基本だ」
エルフは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は——かすかに、笑った。
「面白い人間ですね。いいでしょう。教えます」
彼女は、店の椅子に腰を下ろした。
そして、エルフ絹について語り始めた。
エルフ絹は、魔力を帯びた蚕から紡がれる糸で織られるという。
通常の絹よりも繊維が細く、光を複雑に屈折させるため、虹色の光沢が生まれる。その光沢こそが、エルフ絹の価値の源泉だった。
「魔力が劣化すると、光沢も失われます」
エルフ——名をエレナといった——は、静かな声で説明した。
「この織物は、私の曾祖母が織ったものです。百二十年前。以来、我が家の宝として受け継がれてきました」
「百二十年……」
「人間には、長いでしょう。エルフにとっては——三代です」
洗一は、布をもう一度観察した。
百二十年の間、大切にされてきた織物。しかし、時間の経過には抗えない。繊維は劣化し、汚れは蓄積し、本来の輝きは失われつつある。
「過去に、手入れはしたことがあるか」
「何度か。水で軽く洗い、日陰で乾かすだけです。それ以外の方法は——エルフ絹には使えないと言われています」
「水で洗っても、この黄ばみは落ちなかったと」
「はい。年々、ひどくなっています」
洗一は、考えた。
黄ばみの原因は、酸化と皮脂の蓄積だ。水洗いでは、表面の汚れは落とせても、繊維の奥に浸透した皮脂は落とせない。そして、落とせなかった皮脂が酸化し、黄変する。
通常の絹なら、酸素系漂白剤で処理する。だが、エルフ絹は「酸に弱い」とエレナは言った。漂白剤は使えない。
では、別のアプローチはないか。
「魔力が劣化している、と言ったな」
「はい」
「その魔力は——どこから来ている?」
エレナは、首を傾げた。
「どこから——というと?」
「蚕から紡がれた時点で、魔力を帯びていたんだろう。その魔力は、時間と共に減少するのか? それとも、何かに吸収されるのか?」
エルフは、しばらく考えていた。
「……正直に言えば、わかりません。エルフ絹の魔力について、詳しく研究した者はいないので」
「なるほど」
洗一は、布を手に取った。
【汚染鑑定】をもう一度発動する。
今度は、汚れではなく、魔力の流れを見ようとした。
——魔力層:繊維に沿って分布。一部、汚染物質に吸着。
見えた。
魔力が、汚れに「吸着」されている。
つまり、黄ばみの原因である皮脂や酸化物が、エルフ絹本来の魔力を奪っているのだ。だから、汚れが蓄積するほど、光沢が失われる。
「わかった」
洗一は、布をカウンターに置いた。
「やり方が見えた」
「本当ですか?」
「汚れを落とすだけじゃダメだ。汚れに吸着された魔力を、繊維に戻す必要がある」
エレナの目が、わずかに見開かれた。
「そんなことが——できるのですか?」
「やってみなきゃわからない。一週間くれ」
「一週間……」
「百二十年の汚れを落とすんだ。それくらいはかかる」
エレナは、しばらく洗一の顔を見つめていた。
その目には、疑いと——かすかな希望が混じっていた。
「……わかりました。一週間。お願いします」
彼女は、立ち上がった。
「料金は?」
「成功報酬でいい。落とせなければ、金は取らない」
エレナは、驚いた顔をした。
「そんな条件で——」
「自信があるわけじゃない。だが、やる価値はある」
洗一は、布を丁寧に折りたたんだ。
「百二十年の歴史がある品だ。金のために無理して傷つけるわけにはいかない」
エレナは、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声には、感謝と——何か別の感情が混じっていた。
敬意、だろうか。
洗一には、よくわからなかった。
夜、店を閉めてから、洗一は一人で作業を始めた。
ゴルドの作業着。エレナのエルフ絹。
どちらも、これまでに経験したことのない素材と汚れだった。
だが——怖くはなかった。
むしろ、心が躍っていた。
新しい汚れ。新しい素材。新しい挑戦。
前世では、毎日が同じことの繰り返しだった。ワイシャツ、スーツ、コート、ダウンジャケット——決まった素材、決まった汚れ、決まった処理法。三十年間、同じことを繰り返してきた。
もちろん、それにも意味があった。繰り返しの中で、技術は磨かれる。効率は上がる。品質は安定する。
だが——
この世界には、未知がある。
魔力を帯びた金属。百二十年の歴史を持つ織物。そして——穢れという、概念的な汚染。
全てが、新しかった。
洗一は、ゴルドの作業着を広げた。
まず、ミスリル粉の性質を調べる。
【汚染鑑定】で観察する。
ミスリル粉は、繊維に物理的に絡みついているだけでなく、魔力によって「接着」されているようだった。通常の方法——水や溶剤——では、物理的な絡まりは解消できても、魔力による接着は解消できない。
では、魔力を中和すれば——
洗一は、【溶剤生成】を発動した。
今度は、物理的な溶剤ではなく、「魔力を溶かす溶剤」を精製しようとした。
手のひらに、淡く光る液体が生まれた。
前に穢れを落とすのに使った、あの「魔力溶剤」だ。
洗一は、その溶剤を作業着の一部——目立たない裏側——に塗布した。
五分待つ。
確認する。
ミスリル粉が——浮き上がっていた。
繊維との接着が解消され、粉末が溶剤に溶け出している。
「いける」
洗一は、静かにつぶやいた。
原理は——わかった。
あとは、全体に処理を施し、粉末を完全に除去するだけだ。
三日あれば——十分だ。
次は、エルフ絹。
こちらは、より繊細な作業が必要だった。
洗一は、布を作業台に広げた。
まず、汚れを特定する。
黄ばみの原因は、酸化した皮脂と、経年劣化による繊維の変色。これらが、魔力を「吸着」している。
通常のアプローチ——漂白——は使えない。では、別の方法は?
洗一は、考えた。
汚れを「落とす」のではなく、汚れを「分離」する方法はないか。
汚れと魔力が結合しているなら、その結合を解除し、汚れだけを取り除き、魔力は繊維に戻す——
——そんなことが、可能なのか?
わからない。
だが、やってみなければ、わからないままだ。
洗一は、【溶剤生成】を発動した。
今度は、「魔力と汚れの結合を解除する溶剤」を精製しようとした。
イメージしたのは、酵素だった。
タンパク質を分解する酵素のように、特定の「結合」だけを切断する——
手のひらに、透明な液体が生まれた。
見た目は水に近いが、わずかに——虹色の光沢がある。
エルフ絹の光沢に、似ていた。
洗一は、その溶剤を布の一部——黄ばみの最も薄い部分——に塗布した。
十分待つ。
確認する。
黄ばみが——薄くなっていた。
そして、その部分の光沢が——わずかに、回復していた。
「……成功だ」
洗一は、深く息を吐いた。
まだ、完全ではない。一部だけの処理で、全体がどうなるかはわからない。
だが、方向性は——見えた。
一週間。
その期間で、百二十年の汚れを落とし、本来の輝きを取り戻す。
不可能ではない。
難しいが——やりがいがある。
深夜、作業を終えた洗一は、店の窓から夜空を見上げた。
月が、丸く輝いていた。
この世界にも、月があるのだ。
前世の月と、同じなのか、違うのか。それすらも、わからない。
だが——
汚れを落とす。
その仕事は、同じだった。
どんな世界でも、汚れは生まれる。使えば汚れ、放置すれば劣化し、時間が経てば変色する。
それを——清潔にする。
元の状態に戻す。
それが、洗一の仕事だった。
前世でも、この世界でも。
「セイイチさん」
セラの声が、背後から聞こえた。
振り返ると、彼女が廊下に立っていた。眠そうな目で、こちらを見ている。
「まだ起きていたのか」
「目が覚めて——セイイチさんの気配がしたので」
「寝ろ。明日も朝から仕事だ」
「はい……」
セラは、頷いた。
だが、すぐには去らなかった。
「セイイチさん」
「なんだ」
「私——クリーニングって、すごい仕事だと思います」
唐突な言葉だった。
「汚れを落とすだけじゃなくて——大切なものを、守る仕事ですよね」
洗一は、何も答えなかった。
「あのエルフの人——あの布、すごく大切にしてるって、わかりました。百二十年も——家族で受け継いできたものって」
セラの目が、月明かりに照らされていた。
「それを——セイイチさんは、きれいにしようとしてる。大切なものを、守ろうとしてる」
「……」
「私も——そういう仕事がしたいです」
セラは、小さく頭を下げた。
「おやすみなさい、セイイチさん」
そして、廊下の奥に消えていった。
洗一は、しばらく窓の外を見つめていた。
大切なものを、守る仕事。
そんなふうに考えたことは、なかった。
ただ、汚れを落とす。それだけを考えてきた。
だが——
確かに、そうかもしれない。
汚れの向こうには、いつも「持ち主」がいる。
その人にとって大切なもの。思い出の品。家族の形見。仕事の道具。
それを——清潔にする。
元の状態に戻す。
持ち主の手に、返す。
それは——「守る」という言葉で表現しても、間違いではないのかもしれない。
洗一は、月を見上げた。
この世界で、俺は何を守れるだろうか。
衣服を。道具を。思い出を。
そして——
穢れに侵された、この世界を。
守れるだろうか。
答えは、まだない。
だが——
やってみる価値は、ある。
洗一は、そう思った。
【第3章・了】
清浄亭を開業して二週間が経った。洗一の一日は、夜明けと共に目を覚まし、井戸から水を汲むところから始まる。大きな桶を両手に持ち、店と井戸を三往復。若返った三十歳の肉体でも、それなりに堪える作業だった。
「セイイチさん、私がやります」
セラの声が、背後から飛んできた。
「お前にはまだ重すぎる」
「でも——」
「お前の仕事は、受付と検品だ。水汲みは俺がやる」
セラは、不満げな顔で黙った。
試用期間の一週間はとうに過ぎ、今では正式な従業員として働いている。住み込みだ。店の奥に小さな部屋を設え、そこが彼女の寝床になっている。
最初の数日、セラは何をやらせても不器用だった。桶を運べばこぼし、布を絞れば腰を痛め、字を書かせれば読めない文字が並んだ。
だが、三日目から変わり始めた。
彼女には、観察力があった。
洗一が鎧を検品する様子を、食い入るように見つめていた。汚れの種類を判別する方法、素材を見分けるコツ、処理の優先順位——説明されなくても、見て盗むことができた。
一週間後、セラは簡単な衣類の検品を任せられるレベルになっていた。
「セイイチさん、今日の依頼品です」
セラが、カウンターに三つの品物を並べた。
一つ目は、麻のシャツ。農夫が持ち込んだもので、襟元に土の汚れがこびりついている。
二つ目は、絹のスカーフ。貴族の娘が落とした赤ワインの染みが、淡い青の生地に広がっている。
三つ目は、革のブーツ。冒険者のもので、魔獣の血と泥が混ざり合った複合汚染。
「検品結果を報告しろ」
「はい。一番目——麻のシャツ——表面の土汚れと、襟の皮脂汚染。水洗いと前処理で対応可能。二番目——絹のスカーフ——タンニン系のワイン染み。浸透度は中程度。酢酸処理と漂白が必要。三番目——革のブーツ——油溶性とタンパク系の複合汚染。穢れの痕跡あり。処理難度は高」
洗一は、頷いた。
正確だった。二週間前の彼女には、不可能だった分析である。
「合格だ。一番目と二番目は、お前がやれ」
セラの目が、大きく見開かれた。
「私が——ですか?」
「見て学んできただろう。やってみろ」
「でも、絹は——」
「失敗したら、俺がカバーする。それより、いつまでも見ているだけでは上達しない」
セラは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……わかりました」
その声には、緊張と——かすかな高揚が混じっていた。
午前中は、依頼品の処理に費やされた。
洗一は、革のブーツに取り組んだ。
複合汚染は、クリーニングにおける難題の一つである。異なる種類の汚れが混在している場合、処理の順序を間違えると、かえって汚れを定着させてしまう。
まず、【汚染鑑定】で詳細な分析を行う。
——表層:土 ite(魔物生息域由来)。水溶性。
——中層:油脂(魔獣の体液)。油溶性。酸化進行中。
——深層:タンパク質(血液)。凝固開始。
——付着物:穢れ(微量)。革の縫い目に浸透。
——素材:牛革。耐久度良好。軽度の乾燥あり。
四層構造。
処理の順序は——水溶性の土から始め、油溶性の体液、タンパク系の血液、そして最後に穢れ。
洗一は、作業を開始した。
まず、ブラシで表面の土を払い落とす。乾いた状態で落とせる汚れは、濡らす前に除去するのが基本だ。
次に、ぬるま湯で全体を濡らし、土の残りを洗い流す。
ここからが本番だった。
油溶性の体液を処理するため、【溶剤生成】で石油系溶剤を精製する。革を傷めない濃度に調整し、汚染部分に塗布。ブラシで軽くこすり、溶剤と汚れを布で吸い取る。
油のぎらつきが消えた。
次は、タンパク系の血液。
酵素溶液を精製し、血液の染みに塗布。十五分待つ。
その間に、セラの作業を確認しに行った。
彼女は、絹のスカーフと格闘していた。
「どうだ」
「酢酸を塗布しました。でも、染みがまだ——」
「濃度は」
「1%です。セイイチさんがワインの染みに使っていたのを見て——」
「絹は繊細だ。0.5%から始めろ。時間をかけて、少しずつ」
セラは、頷いた。
洗一は、自分のブーツに戻った。
酵素が働いた。血液の染みが浮き上がっている。蒸気を当て、布で吸い取る。
最後に、穢れの処理。
魔力溶剤を精製し、ブーツ全体に塗布する。縫い目の奥に浸透した穢れを、少しずつ引き出していく。
三十分後。
ブーツは、元の状態を取り戻していた。
革本来の艶が戻り、乾燥による硬化も解消されている。穢れの気配は——ない。
「完了だ」
洗一は、ブーツを検品台に置いた。
そして、セラの方を見た。
彼女は、スカーフを光にかざしていた。
ワインの染みは——消えていた。
「やった……」
セラの声が、震えていた。
「やりました、セイイチさん。落ちました」
「見せろ」
洗一は、スカーフを受け取った。
【汚染鑑定】で確認する。
——タンニン汚染:検出されず
——繊維損傷:なし
——色褪せ:なし
完璧だった。
「よくやった」
洗一の言葉に、セラの顔がパッと輝いた。
「本当ですか? 間違いないですか?」
「嘘は言わない」
それは、洗一の信条だった。
できることは「できる」と言う。できないことは「できない」と言う。そして、うまくできたら「よくやった」と言う。
シンプルだが、それが——職人の教え方だった。
昼過ぎ、予想外の来客があった。
ドワーフだった。
身長は洗一の腰ほどしかないが、肩幅は広く、腕は丸太のように太い。顔には豊かな髭が生え、その髭には金属の粉が絡みついている。
「おい、ここが噂の清浄亭か」
低く響く声だった。
「ああ。何か依頼か」
「これだ」
ドワーフは、背負っていた布袋を床に下ろした。中から出てきたのは、革の前掛けと、分厚い布の作業着だった。
——金属粉の匂いが、鼻を突く。
鉄、銅、そして——何か別の金属。見覚えのない、銀色の光沢を持つ粉末。
「鍛冶師か」
「ああ。この町で唯一の鉄鍛冶だ。名はゴルド」
ゴルドは、作業着を広げて見せた。
全体が金属粉にまみれている。特に胸元と袖口は、粉が繊維の奥まで入り込んで、まるで金属で染められたかのようだった。
「普通の洗濯屋じゃ、手に負えないと言われた。お前なら落とせるって、冒険者のカイルから聞いてな」
カイル。最初の顧客だ。彼の口コミが、こうして広がっている。
洗一は、作業着を手に取った。
【汚染鑑定】が起動する。
——表層:鉄粉。酸化進行中。繊維に固着。
——中層:銅粉。酸化緑青あり。
——深層:ミスリル粉末(微量)。魔力を帯びた金属。浸透度高。
——素材:綿と麻の混紡。耐久度やや劣化。
ミスリル。
この世界の金属についての知識は、まだ乏しい。だが、「魔力を帯びた金属」という情報から、特殊な処理が必要だと推測できる。
「落とせるか?」
ゴルドの目が、洗一を見据えていた。職人の目だった。自分の道具を預ける相手を、見極めようとしている目。
「落とせる。ただし、ミスリル粉の処理には時間がかかる。三日くれ」
「三日? 長いな」
「普通の金属粉なら一日で済む。だが、ミスリルは魔力を帯びている。通常の方法では繊維から引き剥がせない」
ゴルドは、しばらく黙っていた。
やがて、深く頷いた。
「……わかった。三日だな。信じてやる」
「いくらかかる? 先に言っておいてくれ」
「銀貨五枚」
「高いな」
「ミスリルを扱う作業着だろう。新品を買えば、銀貨二十枚は下らないはずだ」
ゴルドの目が、わずかに見開かれた。
「……お前、ミスリルの価値を知っているのか」
「推測だ。魔力を帯びた金属なら、希少で高価だろう」
洗一の推測は、当たっていたらしい。ゴルドは、髭の奥で笑った。
「気に入った。五枚だな。三日後に取りに来る」
ドワーフは、銀貨を置いて去っていった。
セラが、不安げな顔で訊いてきた。
「ミスリルって——落とせるんですか?」
「やってみなきゃわからない」
正直な答えだった。
だが、洗一には自信があった。
三十年間、「落とせない」と言われた汚れと向き合ってきた。インク、ワイン、血液、油、金属粉——不可能と言われた染みを、何度も落としてきた。
この世界の金属が、どれほど特殊でも——原理は同じはずだ。
汚れには、構造がある。
構造がわかれば、落とし方がわかる。
夕方、また別の来客があった。
今度は、エルフだった。
長い銀髪、尖った耳、そして——優雅な所作。彼女は、店の入口で一瞬足を止め、周囲を見回した。
品定めをしている、と洗一は思った。
この店が、自分の品を預けるに値するかどうか。
「いらっしゃいませ」
セラが、慣れた様子で出迎えた。
「清浄亭へようこそ。ご依頼は何でしょうか」
エルフの女性は、セラをちらりと見てから、洗一に視線を移した。
「店主は、あなたですね」
「ああ」
「噂は聞いています。穢れを落とせるクリーニング師、と」
洗一は、答えなかった。
エルフは、懐から布を取り出した。
絹だった。
だが、普通の絹ではない。光にかざすと、虹色の光沢が浮かび上がる。繊維の一本一本が、魔力を帯びているかのような——
「エルフ絹」
エルフは、布を広げた。
「我が一族に伝わる織物です。百年以上の歴史があります。しかし——」
彼女は、布の一部を指さした。
黄ばんでいた。
端の方から、茶色がかった黄色い染みが広がっている。古い染みだ。長年の蓄積によるもの——
「これは——」
洗一は、布を受け取った。
【汚染鑑定】が起動する。
——表層:酸化物(経年劣化)。繊維表面に沈着。
——中層:油脂(皮脂由来)。20年以上の蓄積。
——深層:タンパク質残留物。繊維に固着。
——魔力層:魔力劣化(微量)。織物本来の光沢を阻害。
——素材:エルフ絹。極めて繊細。熱・酸・アルカリに弱い。
難題だった。
経年劣化と、長年の使用による汚れの蓄積。しかも、素材は「極めて繊細」。通常の処理では、繊維を傷める可能性が高い。
「これは——」
エルフの目が、洗一を見据えていた。
「落とせますか」
洗一は、考えた。
正直に言えば、自信がなかった。
エルフ絹という素材を、洗一は知らない。繊維の構造、魔力との関係、適切な処理法——全てが未知数だ。
だが——
「やってみる価値はある」
洗一は、そう答えた。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「この素材について、教えてくれ。繊維の構造、魔力の性質、過去にどんな手入れをしてきたか。情報があればあるほど、成功の確率は上がる」
エルフは、少し驚いた顔をした。
「……普通の職人なら、そんなことは聞かない」
「俺は普通の職人じゃない」
洗一は、布を丁寧にカウンターに置いた。
「汚れを落とすには、汚れのことを知らなければならない。同じように、素材を傷めずに落とすには、素材のことを知らなければならない。それが——クリーニングの基本だ」
エルフは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は——かすかに、笑った。
「面白い人間ですね。いいでしょう。教えます」
彼女は、店の椅子に腰を下ろした。
そして、エルフ絹について語り始めた。
エルフ絹は、魔力を帯びた蚕から紡がれる糸で織られるという。
通常の絹よりも繊維が細く、光を複雑に屈折させるため、虹色の光沢が生まれる。その光沢こそが、エルフ絹の価値の源泉だった。
「魔力が劣化すると、光沢も失われます」
エルフ——名をエレナといった——は、静かな声で説明した。
「この織物は、私の曾祖母が織ったものです。百二十年前。以来、我が家の宝として受け継がれてきました」
「百二十年……」
「人間には、長いでしょう。エルフにとっては——三代です」
洗一は、布をもう一度観察した。
百二十年の間、大切にされてきた織物。しかし、時間の経過には抗えない。繊維は劣化し、汚れは蓄積し、本来の輝きは失われつつある。
「過去に、手入れはしたことがあるか」
「何度か。水で軽く洗い、日陰で乾かすだけです。それ以外の方法は——エルフ絹には使えないと言われています」
「水で洗っても、この黄ばみは落ちなかったと」
「はい。年々、ひどくなっています」
洗一は、考えた。
黄ばみの原因は、酸化と皮脂の蓄積だ。水洗いでは、表面の汚れは落とせても、繊維の奥に浸透した皮脂は落とせない。そして、落とせなかった皮脂が酸化し、黄変する。
通常の絹なら、酸素系漂白剤で処理する。だが、エルフ絹は「酸に弱い」とエレナは言った。漂白剤は使えない。
では、別のアプローチはないか。
「魔力が劣化している、と言ったな」
「はい」
「その魔力は——どこから来ている?」
エレナは、首を傾げた。
「どこから——というと?」
「蚕から紡がれた時点で、魔力を帯びていたんだろう。その魔力は、時間と共に減少するのか? それとも、何かに吸収されるのか?」
エルフは、しばらく考えていた。
「……正直に言えば、わかりません。エルフ絹の魔力について、詳しく研究した者はいないので」
「なるほど」
洗一は、布を手に取った。
【汚染鑑定】をもう一度発動する。
今度は、汚れではなく、魔力の流れを見ようとした。
——魔力層:繊維に沿って分布。一部、汚染物質に吸着。
見えた。
魔力が、汚れに「吸着」されている。
つまり、黄ばみの原因である皮脂や酸化物が、エルフ絹本来の魔力を奪っているのだ。だから、汚れが蓄積するほど、光沢が失われる。
「わかった」
洗一は、布をカウンターに置いた。
「やり方が見えた」
「本当ですか?」
「汚れを落とすだけじゃダメだ。汚れに吸着された魔力を、繊維に戻す必要がある」
エレナの目が、わずかに見開かれた。
「そんなことが——できるのですか?」
「やってみなきゃわからない。一週間くれ」
「一週間……」
「百二十年の汚れを落とすんだ。それくらいはかかる」
エレナは、しばらく洗一の顔を見つめていた。
その目には、疑いと——かすかな希望が混じっていた。
「……わかりました。一週間。お願いします」
彼女は、立ち上がった。
「料金は?」
「成功報酬でいい。落とせなければ、金は取らない」
エレナは、驚いた顔をした。
「そんな条件で——」
「自信があるわけじゃない。だが、やる価値はある」
洗一は、布を丁寧に折りたたんだ。
「百二十年の歴史がある品だ。金のために無理して傷つけるわけにはいかない」
エレナは、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声には、感謝と——何か別の感情が混じっていた。
敬意、だろうか。
洗一には、よくわからなかった。
夜、店を閉めてから、洗一は一人で作業を始めた。
ゴルドの作業着。エレナのエルフ絹。
どちらも、これまでに経験したことのない素材と汚れだった。
だが——怖くはなかった。
むしろ、心が躍っていた。
新しい汚れ。新しい素材。新しい挑戦。
前世では、毎日が同じことの繰り返しだった。ワイシャツ、スーツ、コート、ダウンジャケット——決まった素材、決まった汚れ、決まった処理法。三十年間、同じことを繰り返してきた。
もちろん、それにも意味があった。繰り返しの中で、技術は磨かれる。効率は上がる。品質は安定する。
だが——
この世界には、未知がある。
魔力を帯びた金属。百二十年の歴史を持つ織物。そして——穢れという、概念的な汚染。
全てが、新しかった。
洗一は、ゴルドの作業着を広げた。
まず、ミスリル粉の性質を調べる。
【汚染鑑定】で観察する。
ミスリル粉は、繊維に物理的に絡みついているだけでなく、魔力によって「接着」されているようだった。通常の方法——水や溶剤——では、物理的な絡まりは解消できても、魔力による接着は解消できない。
では、魔力を中和すれば——
洗一は、【溶剤生成】を発動した。
今度は、物理的な溶剤ではなく、「魔力を溶かす溶剤」を精製しようとした。
手のひらに、淡く光る液体が生まれた。
前に穢れを落とすのに使った、あの「魔力溶剤」だ。
洗一は、その溶剤を作業着の一部——目立たない裏側——に塗布した。
五分待つ。
確認する。
ミスリル粉が——浮き上がっていた。
繊維との接着が解消され、粉末が溶剤に溶け出している。
「いける」
洗一は、静かにつぶやいた。
原理は——わかった。
あとは、全体に処理を施し、粉末を完全に除去するだけだ。
三日あれば——十分だ。
次は、エルフ絹。
こちらは、より繊細な作業が必要だった。
洗一は、布を作業台に広げた。
まず、汚れを特定する。
黄ばみの原因は、酸化した皮脂と、経年劣化による繊維の変色。これらが、魔力を「吸着」している。
通常のアプローチ——漂白——は使えない。では、別の方法は?
洗一は、考えた。
汚れを「落とす」のではなく、汚れを「分離」する方法はないか。
汚れと魔力が結合しているなら、その結合を解除し、汚れだけを取り除き、魔力は繊維に戻す——
——そんなことが、可能なのか?
わからない。
だが、やってみなければ、わからないままだ。
洗一は、【溶剤生成】を発動した。
今度は、「魔力と汚れの結合を解除する溶剤」を精製しようとした。
イメージしたのは、酵素だった。
タンパク質を分解する酵素のように、特定の「結合」だけを切断する——
手のひらに、透明な液体が生まれた。
見た目は水に近いが、わずかに——虹色の光沢がある。
エルフ絹の光沢に、似ていた。
洗一は、その溶剤を布の一部——黄ばみの最も薄い部分——に塗布した。
十分待つ。
確認する。
黄ばみが——薄くなっていた。
そして、その部分の光沢が——わずかに、回復していた。
「……成功だ」
洗一は、深く息を吐いた。
まだ、完全ではない。一部だけの処理で、全体がどうなるかはわからない。
だが、方向性は——見えた。
一週間。
その期間で、百二十年の汚れを落とし、本来の輝きを取り戻す。
不可能ではない。
難しいが——やりがいがある。
深夜、作業を終えた洗一は、店の窓から夜空を見上げた。
月が、丸く輝いていた。
この世界にも、月があるのだ。
前世の月と、同じなのか、違うのか。それすらも、わからない。
だが——
汚れを落とす。
その仕事は、同じだった。
どんな世界でも、汚れは生まれる。使えば汚れ、放置すれば劣化し、時間が経てば変色する。
それを——清潔にする。
元の状態に戻す。
それが、洗一の仕事だった。
前世でも、この世界でも。
「セイイチさん」
セラの声が、背後から聞こえた。
振り返ると、彼女が廊下に立っていた。眠そうな目で、こちらを見ている。
「まだ起きていたのか」
「目が覚めて——セイイチさんの気配がしたので」
「寝ろ。明日も朝から仕事だ」
「はい……」
セラは、頷いた。
だが、すぐには去らなかった。
「セイイチさん」
「なんだ」
「私——クリーニングって、すごい仕事だと思います」
唐突な言葉だった。
「汚れを落とすだけじゃなくて——大切なものを、守る仕事ですよね」
洗一は、何も答えなかった。
「あのエルフの人——あの布、すごく大切にしてるって、わかりました。百二十年も——家族で受け継いできたものって」
セラの目が、月明かりに照らされていた。
「それを——セイイチさんは、きれいにしようとしてる。大切なものを、守ろうとしてる」
「……」
「私も——そういう仕事がしたいです」
セラは、小さく頭を下げた。
「おやすみなさい、セイイチさん」
そして、廊下の奥に消えていった。
洗一は、しばらく窓の外を見つめていた。
大切なものを、守る仕事。
そんなふうに考えたことは、なかった。
ただ、汚れを落とす。それだけを考えてきた。
だが——
確かに、そうかもしれない。
汚れの向こうには、いつも「持ち主」がいる。
その人にとって大切なもの。思い出の品。家族の形見。仕事の道具。
それを——清潔にする。
元の状態に戻す。
持ち主の手に、返す。
それは——「守る」という言葉で表現しても、間違いではないのかもしれない。
洗一は、月を見上げた。
この世界で、俺は何を守れるだろうか。
衣服を。道具を。思い出を。
そして——
穢れに侵された、この世界を。
守れるだろうか。
答えは、まだない。
だが——
やってみる価値は、ある。
洗一は、そう思った。
【第3章・了】
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