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第4章「呪われた外套」
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それは、黒い布に包まれて運び込まれた。
依頼人は、中年の商人だった。恰幅のいい体躯を高級そうな服で包み、首には金の鎖をかけている。だが、その顔色は土気色で、額には脂汗が浮いていた。
「これを——頼む」
商人は、布の包みをカウンターに置いた。
その瞬間、洗一の背筋に悪寒が走った。
【汚染鑑定】が、自動的に起動する。
——警告:高濃度穢れ検出
——分類:呪術汚染(生命吸収型)
——危険度:極めて高い
——直接接触を避けよ
赤い警告が、視界に浮かび上がった。
これまで見たどの穢れよりも、強い。
「セラ、下がれ」
洗一は、静かに言った。
「え——?」
「今すぐ。奥の部屋に行って、ドアを閉めろ」
セラは、洗一の表情を見て、何かを察したらしい。無言で頷き、足早に奥へ消えた。
商人は、不安げな顔で洗一を見ていた。
「……やはり、危険なものか」
「ああ。これは——呪いだ」
洗一は、包みに手を伸ばした。
直接触れるのは避け、布越しに中身を確認する。
外套だった。
深い紺色の、立派な外套。仕立ては上等で、裏地には絹が使われている。おそらく、かなりの高級品だろう。
だが、その表面には——黒い靄が、這うように渦巻いていた。
普通の人間の目には見えないだろう。だが、【汚染鑑定】を持つ洗一には、はっきりと見える。外套全体を覆うように、呪いが——生きているかのように蠢いている。
「どこで手に入れた」
「三週間前だ。隣国との国境にある、古道具屋で——」
商人の声が、震えていた。
「店主が言うには、ある貴族の遺品だと。確かに、素晴らしい品に見えた。値段は高かったが——」
「着たのか」
「……ああ。一度だけ」
商人は、自分の首元を無意識に触った。
「その夜から、おかしくなった。悪夢を見る。朝起きても疲れが取れない。体重が——三週間で十キロ以上落ちた」
洗一は、商人を観察した。
【汚染鑑定】を商人自身に向ける。
——対象:人間(成人男性)
——汚染状況:軽度の穢れ浸透(魂の表層)
——症状:生命力低下、慢性疲労、精神的不安定
——処置推奨:汚染源からの隔離、自然回復を待つ
軽度——とはいえ、放置すれば悪化する。
だが、今のところは「自然回復を待つ」ことが可能なレベルだ。呪いの本体である外套から離れれば、時間と共に回復するだろう。
「外套を手放してから、体調は」
「少しだけ——マシになった気がする。だが、完全には——」
「三週間も持っていたんだ。回復には、同じくらいの時間がかかる」
洗一は、包みを持ち上げた。
重い。
物理的な重さではない。呪いの「質量」が、手のひらに伝わってくる。
「これを——落とせるか?」
商人の目が、縋るように洗一を見つめていた。
「教会に持っていったが、浄化の儀式は——効かなかった。神殿の司祭に見せたら、『これは我々の手に負えない』と。処分しようとも思ったが、燃やしても——」
「燃やしても、燃えなかったか」
「……どうしてわかる」
「呪いは物理的な存在じゃない。火で焼いても、水に沈めても、消えはしない」
洗一は、外套を作業台に置いた。
呪い。
前世には存在しなかった概念だ。
だが——この世界では、確かに存在する。
そして、洗一の【万物洗浄】は、穢れを「汚れ」として認識できる。
なら——
「やってみる価値はある」
洗一は、そう言った。
「ただし、保証はできない。呪いの浄化は——俺も初めてだ」
商人は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……頼む。どうか、頼む。あの外套さえなくなれば——私は——」
「落ち着け。必要以上に期待するな」
洗一は、冷静な声で言った。
「できることはやる。だが、無理なら無理だと言う。それでいいか」
商人は、顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「……ありがとう。本当に——ありがとう」
商人が去った後、洗一は店を閉めた。
セラを呼び戻す。
「今日の依頼は、これで終わりだ。明日まで、この外套には近づくな」
「セイイチさん——あれ、呪いなんですか」
「ああ」
「……大丈夫、ですか?」
セラの目には、不安が浮かんでいた。
洗一は、少し考えてから答えた。
「正直に言えば、わからない。だが——やってみなければ、わからないままだ」
それは、職人としての信条だった。
未知の汚れ、未知の素材、未知の技術。
三十年間、そういうものと向き合ってきた。
わからないなら、わかるまでやる。
それしか、方法はない。
夜、店の奥で、洗一は外套と対峙した。
作業台の上に広げられた外套。
黒い靄が、ゆっくりと脈動している。まるで、生きているかのように。
【汚染鑑定】を発動する。
今度は、より深く、より詳細に分析する。
——対象:外套(呪術汚染)
——素材:羊毛(高級品)、裏地:絹
——呪いの構造:
表層:接触吸収型(触れた者の生命力を吸収)
中層:蓄積型(吸収した生命力を蓄積)
深層:自己保存型(破壊を防ぐ自己修復機能)
——起源:不明(人為的呪術と推測)
——経過年数:推定50年以上
三層構造。
洗一は、その情報を噛みしめた。
表層——触れた者から生命力を吸収する。
中層——吸収した生命力を蓄積する。
深層——自己を守るために、破壊を防ぐ。
なるほど。
火で燃やしても燃えなかったのは、深層の「自己保存機能」のせいか。呪いが自らを守っている。
では、どうすれば——
洗一は、考えた。
シミ抜きの基本。
汚れは、構造を持っている。その構造を理解し、適切な順序で処理することで、落とすことができる。
呪いも——同じではないか?
構造がある。
表層から順に、処理していけば——
だが、問題がある。
シミ抜きでは、「油性処理→タンパク系処理→タンニン系処理→漂白」という順序がある。これは、汚れの性質に基づいている。
呪いの場合は?
何から始めればいい?
洗一は、外套を観察した。
黒い靄が、表面を這っている。
——表層は、「接触吸収型」だ。
つまり、触れるものから何かを「吸い取る」性質。
なら——逆に、「与える」ことはできないか?
吸収するものに、吸収させたくないものを与える。
それによって、吸収機能を飽和させる——
いや、それでは根本的な解決にならない。
別のアプローチを考える。
汚れを落とすとは、何か。
それは、「汚れと素材を分離する」ことだ。
汚れが素材にくっついている。その「くっつき」を解除し、汚れだけを取り除く。
呪いも——外套にくっついている。
なら、その「くっつき」を解除できれば——
洗一は、【溶剤生成】を発動した。
魔力溶剤。穢れを溶かす液体。
それを、外套の表面に塗布する。
——反応なし。
黒い靄は、溶剤を無視するように脈動を続けている。
やはり、単純な穢れとは違う。
呪いは——もっと「構造化」されている。
単に溶かすだけでは、落ちない。
では——
洗一は、記憶を辿った。
前世で、最も落としにくかった汚れは何か。
インク。
特に、油性インクは厄介だった。繊維の奥まで浸透し、乾燥すると固着し、通常の方法では落ちない。
だが、落とす方法はあった。
アルコールを使う。
インクの溶剤はアルコールだ。だから、アルコールを使えば、インクは再び溶け出す。
つまり——汚れを「作った」ものを使えば、汚れを「解除」できる。
呪いは——何で作られた?
人為的呪術。
誰かが、意図的にかけた呪い。
その「意図」は——何だ?
生命力の吸収。
蓄積。
自己保存。
——執念。
誰かの、強烈な執念が、この外套に込められている。
五十年以上前に。
その執念を——「溶かす」ことができれば——
洗一は、目を閉じた。
【溶剤生成】を発動する。
今度は、単なる魔力溶剤ではない。
「執念を溶かす溶剤」を——イメージする。
手のひらに、液体が生まれた。
だが、それは——これまでの溶剤とは違っていた。
透明ではない。淡い金色に輝いている。
温かい。
そして——優しい。
不思議な感覚だった。これが「溶剤」なのかどうか、洗一にもわからなかった。
だが、直感が告げている。
これが——正解だ。
洗一は、金色の溶剤を外套に塗布した。
ゆっくりと、丁寧に。表面全体に、ムラなく広げていく。
そして——変化が起きた。
黒い靄が、震えた。
脈動が乱れる。規則正しかったリズムが、不規則になる。
そして——靄の一部が、浮き上がってきた。
溶剤に溶け出している。
金色の液体の中に、黒い糸のような何かが混じっていく。
「……いける」
洗一は、作業を続けた。
溶剤を追加し、外套全体を浸す。
黒い靄が、次々と溶け出していく。
だが——完全には落ちない。
表層の靄は消えた。だが、中層と深層が残っている。
【汚染鑑定】で確認する。
——表層:浄化完了
——中層:蓄積型(未処理)
——深層:自己保存型(未処理)
予想通りだ。
表層だけでは、呪いは落ちない。
中層——蓄積されている生命力。
これを、どうにかしなければ——
洗一は、考えた。
蓄積されているものを、「取り出す」方法は?
シミ抜きでは、汚れを「吸い出す」ことがある。溶剤で溶かした汚れを、布やバキュームで吸い取る。
同じ原理が、使えないか?
洗一は、新しい布を用意した。
そして、外套を布で覆った。
【プレス&フォーム】を発動する。
熱と圧力を加え、中の「蓄積物」を外に押し出す——
布が、黒く染まった。
何かが、外套から布に移っている。
——成功だ。
洗一は、布を取り替え、作業を繰り返した。
三回、四回、五回——
やがて、布は黒く染まらなくなった。
【汚染鑑定】で確認する。
——表層:浄化完了
——中層:浄化完了
——深層:自己保存型(未処理)
残るは、深層のみ。
自己保存機能。
呪いが自らを守るための——最後の砦。
これを突破すれば——
洗一は、外套を観察した。
黒い靄は、ほとんど消えていた。だが、繊維の奥——最も深い部分に、何かが残っている。
核。
呪いの核が、そこにある。
それを取り除かなければ、呪いは再生する。
では、どうやって——
洗一は、記憶を辿った。
最も深い汚れを落とすとき、何をするか。
浸透。
溶剤を繊維の奥まで浸透させ、汚れを内側から溶かし出す。
だが、自己保存機能がある。外からの侵入を防いでいる。
なら——内側から攻める方法は?
洗一は、ふと思いついた。
蓄積されていた生命力。
それは、五十年以上かけて、多くの人間から吸い取られたもの。
その中には——呪いをかけた本人の生命力も、含まれているのではないか?
呪いは、かけた者の「執念」で作られている。
なら、その執念を——「浄化」することはできないか?
洗一は、目を閉じた。
【溶剤生成】を発動する。
今度は——「執念を溶かす」のではなく、「執念を昇華させる」溶剤を。
恨み、憎しみ、悲しみ——そういった負の感情を、別の形に変える。
浄化ではなく——昇華。
手のひらに、新しい液体が生まれた。
今度は——銀色だった。
月の光のような、静かな輝き。
洗一は、その溶剤を外套に塗布した。
そして——祈った。
祈りなど、柄ではない。前世では、宗教に関心を持ったことなどなかった。
だが、この瞬間——洗一は、確かに祈っていた。
この呪いをかけた者の魂が——安らかに眠れますように。
五十年以上前の執念が——解き放たれますように。
変化は、静かに起きた。
外套の奥から——光が滲み出てきた。
黒ではない。
淡い、金色の光。
それは、ゆっくりと上昇し、天井に向かって——そして、消えた。
魂が——解放された。
洗一は、そう直感した。
【汚染鑑定】を発動する。
——呪術汚染:検出されず
——素材状態:良好
——浄化:完了
落ちた。
呪いが——落ちた。
洗一は、深く息を吐いた。
手が——震えていた。
疲労ではない。
何か別の感情が、体の奥から湧き上がってきていた。
達成感。
そして——畏怖。
呪いを落とせた。
だが同時に、洗一は理解していた。
これは——ただの汚れ落としではない。
誰かの魂を——解放したのだ。
五十年以上前に呪いをかけた誰か。その人の執念を、怨念を、悲しみを——
洗一は、自分が「何をしたのか」を、完全には理解できていなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
この力は——世界を変えられる。
穢れを落とす。呪いを落とす。
もしかしたら——この世界を覆っている「穢れ」そのものを——
洗一は、窓の外を見た。
夜空には、星が輝いていた。
神が言っていた。この世界は穢れに侵されている、と。
百年を待たずに滅ぶ、と。
なら——俺がすべきことは、決まっている。
落とすのだ。
この世界の穢れを、全て。
一つずつ、一着ずつ、一人ずつ——
清浄にする。
翌日、商人が外套を受け取りに来た。
彼の顔色は、昨日よりも良くなっていた。呪いの影響から回復し始めているのだろう。
「これは——」
商人は、外套を手に取った。
そして、目を見開いた。
「軽い……」
「呪いが落ちた。もう危険はない」
「本当に——本当に落ちたのか?」
「ああ。だが、念のため、しばらくは着ないでおけ。素材に残留している穢れが、完全に抜けるまで」
商人は、しばらく無言で外套を見つめていた。
やがて、その目から——涙がこぼれた。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
彼は、洗一の手を握りしめた。
「恩人だ。あなたは——私の命の恩人だ」
「大げさだ。俺は——汚れを落としただけだ」
「汚れ? これが、ただの汚れだと?」
商人は、首を振った。
「いや——あなたには、わからないのかもしれない。あの呪いが、どれほど恐ろしかったか。毎晩、悪夢を見た。自分が死んでいく夢を。体が冷たくなって、心臓が止まって——」
彼は、深呼吸をした。
「でも、今は——何も感じない。体が軽い。頭がすっきりしている。生きている、という実感がある」
洗一は、何も答えなかった。
商人は、懐から財布を取り出した。
「いくらだ。いくらでも払う」
「金貨三枚でいい」
「三枚? そんな——」
「それ以上は受け取れない。俺は、仕事に見合った対価しか取らない」
商人は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、金貨を三枚——そして、それ以上をカウンターに置いた。
「三枚は、仕事の対価だ。残りは——贈り物として受け取ってくれ」
「贈り物は——」
「頼む」
商人の目が、真剣だった。
「命を救ってもらったんだ。せめて、これくらいは——」
洗一は、しばらく考えた。
そして、頷いた。
「……わかった。ありがたく受け取る」
商人は、安堵したように笑った。
「この店のことは、広めさせてもらう。清浄亭——呪いすら落とせる、奇跡の店だと」
「大げさな宣伝はいらない。普通のクリーニング店だ」
「普通? とんでもない」
商人は、首を振りながら去っていった。
外套を大切そうに抱えて。
セラが、奥から顔を出した。
「終わりましたか?」
「ああ」
「呪い——落ちたんですね」
「ああ」
セラは、洗一の顔をじっと見つめていた。
「セイイチさん——大丈夫ですか?」
「何がだ」
「なんだか——疲れているように見えます」
洗一は、自分の手を見た。
確かに、疲れていた。
昨夜の作業は、これまでのどの仕事よりも消耗した。魔力を大量に使ったせいもあるだろうが、それだけではない。
精神的な疲労。
誰かの執念と向き合い、それを解放するという作業は——想像以上に重かった。
「少し休む。午後の依頼は、お前が対応しろ」
「わかりました」
セラは、真剣な顔で頷いた。
「任せてください」
洗一は、奥の部屋に向かった。
簡素な寝床に横たわり、目を閉じる。
疲れている。
だが——充実している。
呪いを落とせた。
誰かの命を救った。
それは——前世では経験したことのない達成感だった。
クリーニング。
汚れを落とす仕事。
だが、この世界では——それ以上の意味を持つ。
命を救う。
魂を救う。
世界を——救う。
そういう可能性が、この仕事にはある。
洗一は、眠りに落ちる前に、そう思った。
俺は——正しい道を歩いている。
たぶん、きっと。
【第4章・了】
依頼人は、中年の商人だった。恰幅のいい体躯を高級そうな服で包み、首には金の鎖をかけている。だが、その顔色は土気色で、額には脂汗が浮いていた。
「これを——頼む」
商人は、布の包みをカウンターに置いた。
その瞬間、洗一の背筋に悪寒が走った。
【汚染鑑定】が、自動的に起動する。
——警告:高濃度穢れ検出
——分類:呪術汚染(生命吸収型)
——危険度:極めて高い
——直接接触を避けよ
赤い警告が、視界に浮かび上がった。
これまで見たどの穢れよりも、強い。
「セラ、下がれ」
洗一は、静かに言った。
「え——?」
「今すぐ。奥の部屋に行って、ドアを閉めろ」
セラは、洗一の表情を見て、何かを察したらしい。無言で頷き、足早に奥へ消えた。
商人は、不安げな顔で洗一を見ていた。
「……やはり、危険なものか」
「ああ。これは——呪いだ」
洗一は、包みに手を伸ばした。
直接触れるのは避け、布越しに中身を確認する。
外套だった。
深い紺色の、立派な外套。仕立ては上等で、裏地には絹が使われている。おそらく、かなりの高級品だろう。
だが、その表面には——黒い靄が、這うように渦巻いていた。
普通の人間の目には見えないだろう。だが、【汚染鑑定】を持つ洗一には、はっきりと見える。外套全体を覆うように、呪いが——生きているかのように蠢いている。
「どこで手に入れた」
「三週間前だ。隣国との国境にある、古道具屋で——」
商人の声が、震えていた。
「店主が言うには、ある貴族の遺品だと。確かに、素晴らしい品に見えた。値段は高かったが——」
「着たのか」
「……ああ。一度だけ」
商人は、自分の首元を無意識に触った。
「その夜から、おかしくなった。悪夢を見る。朝起きても疲れが取れない。体重が——三週間で十キロ以上落ちた」
洗一は、商人を観察した。
【汚染鑑定】を商人自身に向ける。
——対象:人間(成人男性)
——汚染状況:軽度の穢れ浸透(魂の表層)
——症状:生命力低下、慢性疲労、精神的不安定
——処置推奨:汚染源からの隔離、自然回復を待つ
軽度——とはいえ、放置すれば悪化する。
だが、今のところは「自然回復を待つ」ことが可能なレベルだ。呪いの本体である外套から離れれば、時間と共に回復するだろう。
「外套を手放してから、体調は」
「少しだけ——マシになった気がする。だが、完全には——」
「三週間も持っていたんだ。回復には、同じくらいの時間がかかる」
洗一は、包みを持ち上げた。
重い。
物理的な重さではない。呪いの「質量」が、手のひらに伝わってくる。
「これを——落とせるか?」
商人の目が、縋るように洗一を見つめていた。
「教会に持っていったが、浄化の儀式は——効かなかった。神殿の司祭に見せたら、『これは我々の手に負えない』と。処分しようとも思ったが、燃やしても——」
「燃やしても、燃えなかったか」
「……どうしてわかる」
「呪いは物理的な存在じゃない。火で焼いても、水に沈めても、消えはしない」
洗一は、外套を作業台に置いた。
呪い。
前世には存在しなかった概念だ。
だが——この世界では、確かに存在する。
そして、洗一の【万物洗浄】は、穢れを「汚れ」として認識できる。
なら——
「やってみる価値はある」
洗一は、そう言った。
「ただし、保証はできない。呪いの浄化は——俺も初めてだ」
商人は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……頼む。どうか、頼む。あの外套さえなくなれば——私は——」
「落ち着け。必要以上に期待するな」
洗一は、冷静な声で言った。
「できることはやる。だが、無理なら無理だと言う。それでいいか」
商人は、顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「……ありがとう。本当に——ありがとう」
商人が去った後、洗一は店を閉めた。
セラを呼び戻す。
「今日の依頼は、これで終わりだ。明日まで、この外套には近づくな」
「セイイチさん——あれ、呪いなんですか」
「ああ」
「……大丈夫、ですか?」
セラの目には、不安が浮かんでいた。
洗一は、少し考えてから答えた。
「正直に言えば、わからない。だが——やってみなければ、わからないままだ」
それは、職人としての信条だった。
未知の汚れ、未知の素材、未知の技術。
三十年間、そういうものと向き合ってきた。
わからないなら、わかるまでやる。
それしか、方法はない。
夜、店の奥で、洗一は外套と対峙した。
作業台の上に広げられた外套。
黒い靄が、ゆっくりと脈動している。まるで、生きているかのように。
【汚染鑑定】を発動する。
今度は、より深く、より詳細に分析する。
——対象:外套(呪術汚染)
——素材:羊毛(高級品)、裏地:絹
——呪いの構造:
表層:接触吸収型(触れた者の生命力を吸収)
中層:蓄積型(吸収した生命力を蓄積)
深層:自己保存型(破壊を防ぐ自己修復機能)
——起源:不明(人為的呪術と推測)
——経過年数:推定50年以上
三層構造。
洗一は、その情報を噛みしめた。
表層——触れた者から生命力を吸収する。
中層——吸収した生命力を蓄積する。
深層——自己を守るために、破壊を防ぐ。
なるほど。
火で燃やしても燃えなかったのは、深層の「自己保存機能」のせいか。呪いが自らを守っている。
では、どうすれば——
洗一は、考えた。
シミ抜きの基本。
汚れは、構造を持っている。その構造を理解し、適切な順序で処理することで、落とすことができる。
呪いも——同じではないか?
構造がある。
表層から順に、処理していけば——
だが、問題がある。
シミ抜きでは、「油性処理→タンパク系処理→タンニン系処理→漂白」という順序がある。これは、汚れの性質に基づいている。
呪いの場合は?
何から始めればいい?
洗一は、外套を観察した。
黒い靄が、表面を這っている。
——表層は、「接触吸収型」だ。
つまり、触れるものから何かを「吸い取る」性質。
なら——逆に、「与える」ことはできないか?
吸収するものに、吸収させたくないものを与える。
それによって、吸収機能を飽和させる——
いや、それでは根本的な解決にならない。
別のアプローチを考える。
汚れを落とすとは、何か。
それは、「汚れと素材を分離する」ことだ。
汚れが素材にくっついている。その「くっつき」を解除し、汚れだけを取り除く。
呪いも——外套にくっついている。
なら、その「くっつき」を解除できれば——
洗一は、【溶剤生成】を発動した。
魔力溶剤。穢れを溶かす液体。
それを、外套の表面に塗布する。
——反応なし。
黒い靄は、溶剤を無視するように脈動を続けている。
やはり、単純な穢れとは違う。
呪いは——もっと「構造化」されている。
単に溶かすだけでは、落ちない。
では——
洗一は、記憶を辿った。
前世で、最も落としにくかった汚れは何か。
インク。
特に、油性インクは厄介だった。繊維の奥まで浸透し、乾燥すると固着し、通常の方法では落ちない。
だが、落とす方法はあった。
アルコールを使う。
インクの溶剤はアルコールだ。だから、アルコールを使えば、インクは再び溶け出す。
つまり——汚れを「作った」ものを使えば、汚れを「解除」できる。
呪いは——何で作られた?
人為的呪術。
誰かが、意図的にかけた呪い。
その「意図」は——何だ?
生命力の吸収。
蓄積。
自己保存。
——執念。
誰かの、強烈な執念が、この外套に込められている。
五十年以上前に。
その執念を——「溶かす」ことができれば——
洗一は、目を閉じた。
【溶剤生成】を発動する。
今度は、単なる魔力溶剤ではない。
「執念を溶かす溶剤」を——イメージする。
手のひらに、液体が生まれた。
だが、それは——これまでの溶剤とは違っていた。
透明ではない。淡い金色に輝いている。
温かい。
そして——優しい。
不思議な感覚だった。これが「溶剤」なのかどうか、洗一にもわからなかった。
だが、直感が告げている。
これが——正解だ。
洗一は、金色の溶剤を外套に塗布した。
ゆっくりと、丁寧に。表面全体に、ムラなく広げていく。
そして——変化が起きた。
黒い靄が、震えた。
脈動が乱れる。規則正しかったリズムが、不規則になる。
そして——靄の一部が、浮き上がってきた。
溶剤に溶け出している。
金色の液体の中に、黒い糸のような何かが混じっていく。
「……いける」
洗一は、作業を続けた。
溶剤を追加し、外套全体を浸す。
黒い靄が、次々と溶け出していく。
だが——完全には落ちない。
表層の靄は消えた。だが、中層と深層が残っている。
【汚染鑑定】で確認する。
——表層:浄化完了
——中層:蓄積型(未処理)
——深層:自己保存型(未処理)
予想通りだ。
表層だけでは、呪いは落ちない。
中層——蓄積されている生命力。
これを、どうにかしなければ——
洗一は、考えた。
蓄積されているものを、「取り出す」方法は?
シミ抜きでは、汚れを「吸い出す」ことがある。溶剤で溶かした汚れを、布やバキュームで吸い取る。
同じ原理が、使えないか?
洗一は、新しい布を用意した。
そして、外套を布で覆った。
【プレス&フォーム】を発動する。
熱と圧力を加え、中の「蓄積物」を外に押し出す——
布が、黒く染まった。
何かが、外套から布に移っている。
——成功だ。
洗一は、布を取り替え、作業を繰り返した。
三回、四回、五回——
やがて、布は黒く染まらなくなった。
【汚染鑑定】で確認する。
——表層:浄化完了
——中層:浄化完了
——深層:自己保存型(未処理)
残るは、深層のみ。
自己保存機能。
呪いが自らを守るための——最後の砦。
これを突破すれば——
洗一は、外套を観察した。
黒い靄は、ほとんど消えていた。だが、繊維の奥——最も深い部分に、何かが残っている。
核。
呪いの核が、そこにある。
それを取り除かなければ、呪いは再生する。
では、どうやって——
洗一は、記憶を辿った。
最も深い汚れを落とすとき、何をするか。
浸透。
溶剤を繊維の奥まで浸透させ、汚れを内側から溶かし出す。
だが、自己保存機能がある。外からの侵入を防いでいる。
なら——内側から攻める方法は?
洗一は、ふと思いついた。
蓄積されていた生命力。
それは、五十年以上かけて、多くの人間から吸い取られたもの。
その中には——呪いをかけた本人の生命力も、含まれているのではないか?
呪いは、かけた者の「執念」で作られている。
なら、その執念を——「浄化」することはできないか?
洗一は、目を閉じた。
【溶剤生成】を発動する。
今度は——「執念を溶かす」のではなく、「執念を昇華させる」溶剤を。
恨み、憎しみ、悲しみ——そういった負の感情を、別の形に変える。
浄化ではなく——昇華。
手のひらに、新しい液体が生まれた。
今度は——銀色だった。
月の光のような、静かな輝き。
洗一は、その溶剤を外套に塗布した。
そして——祈った。
祈りなど、柄ではない。前世では、宗教に関心を持ったことなどなかった。
だが、この瞬間——洗一は、確かに祈っていた。
この呪いをかけた者の魂が——安らかに眠れますように。
五十年以上前の執念が——解き放たれますように。
変化は、静かに起きた。
外套の奥から——光が滲み出てきた。
黒ではない。
淡い、金色の光。
それは、ゆっくりと上昇し、天井に向かって——そして、消えた。
魂が——解放された。
洗一は、そう直感した。
【汚染鑑定】を発動する。
——呪術汚染:検出されず
——素材状態:良好
——浄化:完了
落ちた。
呪いが——落ちた。
洗一は、深く息を吐いた。
手が——震えていた。
疲労ではない。
何か別の感情が、体の奥から湧き上がってきていた。
達成感。
そして——畏怖。
呪いを落とせた。
だが同時に、洗一は理解していた。
これは——ただの汚れ落としではない。
誰かの魂を——解放したのだ。
五十年以上前に呪いをかけた誰か。その人の執念を、怨念を、悲しみを——
洗一は、自分が「何をしたのか」を、完全には理解できていなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
この力は——世界を変えられる。
穢れを落とす。呪いを落とす。
もしかしたら——この世界を覆っている「穢れ」そのものを——
洗一は、窓の外を見た。
夜空には、星が輝いていた。
神が言っていた。この世界は穢れに侵されている、と。
百年を待たずに滅ぶ、と。
なら——俺がすべきことは、決まっている。
落とすのだ。
この世界の穢れを、全て。
一つずつ、一着ずつ、一人ずつ——
清浄にする。
翌日、商人が外套を受け取りに来た。
彼の顔色は、昨日よりも良くなっていた。呪いの影響から回復し始めているのだろう。
「これは——」
商人は、外套を手に取った。
そして、目を見開いた。
「軽い……」
「呪いが落ちた。もう危険はない」
「本当に——本当に落ちたのか?」
「ああ。だが、念のため、しばらくは着ないでおけ。素材に残留している穢れが、完全に抜けるまで」
商人は、しばらく無言で外套を見つめていた。
やがて、その目から——涙がこぼれた。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
彼は、洗一の手を握りしめた。
「恩人だ。あなたは——私の命の恩人だ」
「大げさだ。俺は——汚れを落としただけだ」
「汚れ? これが、ただの汚れだと?」
商人は、首を振った。
「いや——あなたには、わからないのかもしれない。あの呪いが、どれほど恐ろしかったか。毎晩、悪夢を見た。自分が死んでいく夢を。体が冷たくなって、心臓が止まって——」
彼は、深呼吸をした。
「でも、今は——何も感じない。体が軽い。頭がすっきりしている。生きている、という実感がある」
洗一は、何も答えなかった。
商人は、懐から財布を取り出した。
「いくらだ。いくらでも払う」
「金貨三枚でいい」
「三枚? そんな——」
「それ以上は受け取れない。俺は、仕事に見合った対価しか取らない」
商人は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、金貨を三枚——そして、それ以上をカウンターに置いた。
「三枚は、仕事の対価だ。残りは——贈り物として受け取ってくれ」
「贈り物は——」
「頼む」
商人の目が、真剣だった。
「命を救ってもらったんだ。せめて、これくらいは——」
洗一は、しばらく考えた。
そして、頷いた。
「……わかった。ありがたく受け取る」
商人は、安堵したように笑った。
「この店のことは、広めさせてもらう。清浄亭——呪いすら落とせる、奇跡の店だと」
「大げさな宣伝はいらない。普通のクリーニング店だ」
「普通? とんでもない」
商人は、首を振りながら去っていった。
外套を大切そうに抱えて。
セラが、奥から顔を出した。
「終わりましたか?」
「ああ」
「呪い——落ちたんですね」
「ああ」
セラは、洗一の顔をじっと見つめていた。
「セイイチさん——大丈夫ですか?」
「何がだ」
「なんだか——疲れているように見えます」
洗一は、自分の手を見た。
確かに、疲れていた。
昨夜の作業は、これまでのどの仕事よりも消耗した。魔力を大量に使ったせいもあるだろうが、それだけではない。
精神的な疲労。
誰かの執念と向き合い、それを解放するという作業は——想像以上に重かった。
「少し休む。午後の依頼は、お前が対応しろ」
「わかりました」
セラは、真剣な顔で頷いた。
「任せてください」
洗一は、奥の部屋に向かった。
簡素な寝床に横たわり、目を閉じる。
疲れている。
だが——充実している。
呪いを落とせた。
誰かの命を救った。
それは——前世では経験したことのない達成感だった。
クリーニング。
汚れを落とす仕事。
だが、この世界では——それ以上の意味を持つ。
命を救う。
魂を救う。
世界を——救う。
そういう可能性が、この仕事にはある。
洗一は、眠りに落ちる前に、そう思った。
俺は——正しい道を歩いている。
たぶん、きっと。
【第4章・了】
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