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第一章 ファミレス店長
しおりを挟む第一話 ファミレス店長
十月の午後、場外馬券場から出た外山要は、いつものようにバイクのエンジンをかけた。四十歳の店長の休日の楽しみは、競馬とパチンコ、そして馬券を片手に喫茶店でのテレビ観戦だった。
ところが、いつもの喫茶店のガラスドアには「しばらく臨時休業いたします」という張り紙が貼られていた。
「参ったな…」
要はスマートフォンを取り出し、近くのカフェを検索した。すると、これまで見たことのない店名が表示された。「カフェ・昴」。山の上にあるらしい。
「こんなところにカフェなんてあったっけ?」
バイクを飛ばして山道を登っていくと、確かに小高い丘の上にヨーロッパ調の可愛らしい建物が見えてきた。要は不思議に思いながらも、駐車場にバイクを停めた。
店内に足を踏み入れると、落ち着いた雰囲気の空間が広がっていた。カウンターの奥から、三十代ほどに見える美しい女性が現れた。
「いらっしゃいませ」
その声は不思議と心に響いた。
「あの、テレビはありますか?競馬を見たいんですが…」
「申し訳ございません。テレビはないのですが、お客様はもしかして…何か後悔されていることがおありですか?」
突然の質問に要は戸惑った。
「後悔って…急になんですか?」
「私、昴と申します。こちらのカフェでは、少し特別なサービスを提供させていただいているんです」
昴は要にコーヒーを出しながら続けた。
「お客様の人生で、『あの時、違う選択をしていれば…』と思われることはありませんか?」
要の心に、封印していた記憶がよみがえった。三十歳の時、独立して自分の店を持つという夢。貯めた資金、独学で学んだ経営知識。しかし、両親や友人、恩師に相談するたびに返ってきたのは同じ言葉だった。
『独立なんて、こんな不景気の時にやめておけ』
「…ありますね」
要は静かに答えた。
「三十歳の時、独立しようと思っていました。でも周りに相談したら、みんな反対して…結局、諦めてしまった」
昴は微笑んだ。
「もしその時、違う相談相手を選んでいたら?実際に独立して成功した飲食店のオーナーに相談していたら、どうなっていたと思われますか?」
「それは…きっと背中を押してくれていたでしょうね」
「では、その記憶を新しく作り直してみませんか?」
昴の瞳が不思議な光を放った。
「記憶を…作り直す?」
「はい。あの時、あなたが違う選択をした人生の記憶を、新しく植え付けることができます。ただし」
昴は少し間を置いた。
「現実は変わりません。今のあなたの状況は同じです。変わるのは、そこに至るまでの記憶と、それに対する感情だけです」
要は混乱した。
「意味がわからない…現実が変わらないなら、何の意味があるんですか?」
「お客様にとって、本当に大切なのは何でしょう?過去の選択でしょうか?それとも、これからの人生でしょうか?」
昴の言葉に、要は考え込んだ。
「私がお手伝いできるのは、過去の後悔から解放されることです。どんな道を選んだとしても、結果的に今のあなたがここにいる。それには必ず意味があるはずです」
「でも…もし独立していたら、今頃は自分の店を持っていたかもしれない」
「本当にそうでしょうか?」
昴は穏やかに微笑んだ。
「では、実際に体験してみませんか?三十歳の時、成功した飲食店オーナーに相談して、独立の道を選んだあなたの記憶を」
要の心は揺れた。二十年間抱え続けてきた後悔。それから解放される可能性があるなら…
「わかりました。お願いします」
昴は要の手を優しく取った。
「目を閉じて、三十歳の時のあなたを思い出してください…」
突然、要の頭の中に鮮明な記憶が流れ込んできた。
あの日、要は迷いながらも、新聞で見つけた成功した飲食店オーナーの田中さんという人に相談の電話をかけていた。
『外山さん、素晴らしい志ですね。確かにリスクはありますが、あなたの熱意と準備なら大丈夫だと思います。私もお手伝いしますよ』
田中さんの励ましに背中を押され、要は独立を決意した。小さなカフェを開店し、最初は苦労したが、持ち前のコミュニケーション能力と真面目さで、徐々に常連客が増えていった。
三年後には二号店を出すまでになった。しかし、その矢先にリーマンショックが直撃。経営は急激に悪化し、借金を抱えて店を畳むことになった。
結局、要は古巣のファミリーレストランに戻ることになった。独立の夢は破れ、失った時間と借金だけが残った。それでも要は諦めずに働き続け、四十歳になった今、店長として再び立っていた…
「どうでしたか?」
昴の声で要は我に返った。
「僕は…独立していたんですね。でも結局、失敗して…」
「はい。どの道を選んでも、あなたは今ここにいることになっていたのです」
要は愕然とした。
「じゃあ、あの時の選択は関係なかった?」
「そうです。大切なのは、過去の選択ではありません。今のあなたが、これからどう生きるかです」
昴の言葉が要の心に深く響いた。
「あなたは二十年間、ファミリーレストランで多くの人に慕われてきました。部下は成長し、昇進していった。あなたがいたからこそ、彼らは成長できたのです」
「でも僕は…何も成し遂げていない」
「本当にそうでしょうか?あなたの存在そのものが、多くの人の人生を支えてきたのではありませんか?」
要は、これまでの二十年間を振り返った。確かに多くの部下たちが成長し、今では立派に活躍している。お客様からも愛され続けている。
「あなたの人生は、決して無駄ではありません。どの道を選んだとしても、あなたはあなたらしく生きてきたのです」
昴は最後にこう付け加えた。
「後悔は、これからの人生を歩む糧にしてください。過去を変えることはできませんが、未来は変えられます」
要は深く頷いた。新しい記憶と共に、心の中で何かが変わったのを感じていた。
それから数日後、要は店で働きながら、ふと思った。四十歳の今からでも、新しい挑戦はできるかもしれない。今度は誰かに相談するのではなく、自分の心の声に従って。
カフェ・昴での出来事が夢だったのか現実だったのか、要にはもうわからなかった。ただ一つ確かなことは、あの日から彼の人生に対する見方が根本的に変わったということだった。
後悔という重荷を下ろした要の心は軽やかで、これからの人生に向けて新たな一歩を踏み出す準備ができていた。
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