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第4章・降り積もる違和感
第21話
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カフェは、駅の通りから一本入った路地裏に立っていた。大きな石造りの二階建ての建物で、店内はカウンター席とテーブル席が数席用意されている。天井が高く、照明も明る過ぎず、落ち着いた雰囲気のカフェだ。
かつて銀行だったときの名残りか、壁には大きな時計があるが、時は刻まれていない。壊れているようだった。
僕たちはこのカフェで早お昼を食べることにして、オムライスをふたつと、シフォンケーキをひとつ頼んだ。
料理を待ちながら、千鳥さんはどこか落ち着かないようで、そわそわしていた。
「どうかしたの?」と訊ねると、千鳥さんは「あ、うん」と、どこか不自然に頬を掻く。しばらく様子をうかがっていると、千鳥さんは僕の視線に観念したように話し出した。
「あのさ……実はね、今日……涼太くんと彩ちゃんのデートを見守るっていう話で呼び出したんだけど……あれ、うそなんだ」
「は!? うそ!?」
僕が驚きの声を上げると、千鳥さんは慌てて弁明を始めた。
「いや! うそって言っても、ふたりは本当にデートしてるんだよ!? ただ……今日呼び出したのは、そのためじゃなくて……汐風くんとふたりで話がしたくて」
「話?」
「その……私の名前のこと」
千鳥さんは、うかがうような上目遣いで僕を見る。
「それって……」
ごくりと息を呑む。
ずっと気になっていたことだ。
彼女が学校で名乗っている『千鳥夢』という名前と、僕に名乗った『千鳥桜』という名前。それについて、僕はずっと聞きたくても聞けずにいた。
「汐風くんには、ちゃんと話しておきたいなと思って」
千鳥さんは小さな声で呟く。
「私……名前がふたつあるんだ」
千鳥さんの告白は、こういうものだった。
千鳥さんの戸籍上の名前は『千鳥夢』だという。しかし、その名前とはべつに、もうひとつ付けられた名前があるらしい。
それが、『桜』だった。
その名前は最愛の姉が付けてくれたものだと、彼女がかつてそう言っていたことを思い出す。
しかし、公的機関である学校では、戸籍上の名前を使わざるを得ないため、このような混乱する事態になってしまったのだとか。
「説明が遅くなってごめんなさい。……混乱したよね」
「……いや。でも、それならそうと、もっと早く言ってくれたらよかったのに」
千鳥さんの肩がわずかに上がる。手を握り込んで、力が入ったのだろう。見て分かった。
「うん……そうだよね。私もそう思う。あのときちゃんと説明できれば良かったんだけど……学校のみんなは私のことを千鳥夢だと思ってるし、名前がふたつあるなんてふつうじゃないから……その、こんなこと話したら、みんなにどう思われるかなって……ちょっと、怖くて」
「あ……」
その言葉で、彼女にとってこの告白がどれだけ勇気がいることだったのか察した。
最悪だ。また、不用意な発言をしてしまった。
「……いや、ごめん。君が悩んでることも知らずに」
「ううん。汐風くんが謝ることじゃないから」
「……あのさ、ひとつだけ聞いてもいい?」
「なに?」
彼女の話を聞いても、僕のなかではまだ解けない疑問がひとつだけあった。
「千鳥さんは、どうして僕に『桜』のほうを名乗ったの?」
僕に対しても、みんなと同じように『千鳥夢』だと名乗っていれば、こんなことにはならなかった。彼女が僕にわざわざ『桜』と名乗った理由が、なにかあるのだろう。
「それは……」
千鳥さんは目を泳がせ、口を閉ざした。話したくないことだったかもしれない。もしくは、話せないか。
「あ……ごめん。無理には聞く気はないから」
慌てて言うと、彼女はようやく顔を上げた。その眼差しは、思いのほかしっかりとしていた。
「……ううん、話す。話せるところまでは、汐風くんに聞いてほしいから」
彼女はそう、はっきりと口にする。僕は姿勢を正して、彼女の言葉を待った。
「私が君に『桜』だって名乗ったのは、私は、じぶんのことを『桜』だと思ってるから」
かつて銀行だったときの名残りか、壁には大きな時計があるが、時は刻まれていない。壊れているようだった。
僕たちはこのカフェで早お昼を食べることにして、オムライスをふたつと、シフォンケーキをひとつ頼んだ。
料理を待ちながら、千鳥さんはどこか落ち着かないようで、そわそわしていた。
「どうかしたの?」と訊ねると、千鳥さんは「あ、うん」と、どこか不自然に頬を掻く。しばらく様子をうかがっていると、千鳥さんは僕の視線に観念したように話し出した。
「あのさ……実はね、今日……涼太くんと彩ちゃんのデートを見守るっていう話で呼び出したんだけど……あれ、うそなんだ」
「は!? うそ!?」
僕が驚きの声を上げると、千鳥さんは慌てて弁明を始めた。
「いや! うそって言っても、ふたりは本当にデートしてるんだよ!? ただ……今日呼び出したのは、そのためじゃなくて……汐風くんとふたりで話がしたくて」
「話?」
「その……私の名前のこと」
千鳥さんは、うかがうような上目遣いで僕を見る。
「それって……」
ごくりと息を呑む。
ずっと気になっていたことだ。
彼女が学校で名乗っている『千鳥夢』という名前と、僕に名乗った『千鳥桜』という名前。それについて、僕はずっと聞きたくても聞けずにいた。
「汐風くんには、ちゃんと話しておきたいなと思って」
千鳥さんは小さな声で呟く。
「私……名前がふたつあるんだ」
千鳥さんの告白は、こういうものだった。
千鳥さんの戸籍上の名前は『千鳥夢』だという。しかし、その名前とはべつに、もうひとつ付けられた名前があるらしい。
それが、『桜』だった。
その名前は最愛の姉が付けてくれたものだと、彼女がかつてそう言っていたことを思い出す。
しかし、公的機関である学校では、戸籍上の名前を使わざるを得ないため、このような混乱する事態になってしまったのだとか。
「説明が遅くなってごめんなさい。……混乱したよね」
「……いや。でも、それならそうと、もっと早く言ってくれたらよかったのに」
千鳥さんの肩がわずかに上がる。手を握り込んで、力が入ったのだろう。見て分かった。
「うん……そうだよね。私もそう思う。あのときちゃんと説明できれば良かったんだけど……学校のみんなは私のことを千鳥夢だと思ってるし、名前がふたつあるなんてふつうじゃないから……その、こんなこと話したら、みんなにどう思われるかなって……ちょっと、怖くて」
「あ……」
その言葉で、彼女にとってこの告白がどれだけ勇気がいることだったのか察した。
最悪だ。また、不用意な発言をしてしまった。
「……いや、ごめん。君が悩んでることも知らずに」
「ううん。汐風くんが謝ることじゃないから」
「……あのさ、ひとつだけ聞いてもいい?」
「なに?」
彼女の話を聞いても、僕のなかではまだ解けない疑問がひとつだけあった。
「千鳥さんは、どうして僕に『桜』のほうを名乗ったの?」
僕に対しても、みんなと同じように『千鳥夢』だと名乗っていれば、こんなことにはならなかった。彼女が僕にわざわざ『桜』と名乗った理由が、なにかあるのだろう。
「それは……」
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「……ううん、話す。話せるところまでは、汐風くんに聞いてほしいから」
彼女はそう、はっきりと口にする。僕は姿勢を正して、彼女の言葉を待った。
「私が君に『桜』だって名乗ったのは、私は、じぶんのことを『桜』だと思ってるから」
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