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第5章
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「さて」と、穂坂さんはティラミスをじぶんのほうに引き寄せてフォークで小さく割ると、お皿を私へ戻した。
「とりあえず、食べよう?」
声を出さずに頷いた。いや、出せなかった。なにかを口にしたら、違うなにかが溢れてしまいそうで。
お互い涙でぐしょぐしょのひどい顔をしながら、ケーキを食べた。
鼻が詰まっているせいで、味も香りもぜんぜん分からないけれど、舌に乗ったマスカルポーネのムースはふわっととろけて、甘い余韻を残して消えていく。
「よく、思うんだ」
レアチーズケーキを食べながら、穂坂さんは口を開いた。
「もしあの日君を見捨てていたら、俺はたぶん潜水士を続けられていなかったと思うんだ」
目の縁に涙を光らせ、穂坂さんは笑う。
「だからね、君が俺を救ってくれたんだ。君が生きたいって俺の手を握ってくれたから、俺は今も潜水士を続けていられる。海に潜るたびにいつも思い出すんだよ、君が俺の手を握った感触を」
きっと、一生忘れない。俺たちは要救助者が生きていようが生きていまいが、家族の元へ連れていくのが仕事だ。死んでしまった人を前にすると、遺族の泣き崩れる姿を見ると、どうしたって無力感に絶望する。だけどそういうとき、君の手を思い出すんだ。ここでやめちゃダメだ。ここでやめたら、この先助けられるはずの何人もの人を見捨てることになる。そう思って、毎日踏ん張ってるんだよ。
そう、穂坂さんは言った。
その言葉に、私はやっぱり堪えきれずに涙をぼろぼろと溢れ出す。
私は、どうしてこんな大切なことに気付かなかったのだろう。
あの日、フェリーの事故で死にかけていた私が今ここにいるということは、死にかけた私を死ぬ気で助けてくれた人がいたからなのに。
綺瀬くんに言われるまで気付かないどころか、今こうして葛藤する穂坂さんを見るまで、その現実を本当の意味では受け止められていなかった。
「私……穂坂さんが命をかけて助けてくれたのに、それなのに、命を捨てようとして……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
穂坂さんは首を横に振って笑った。
「ほら、涙を拭いて。そんなに泣いたら目が腫れちゃうよ。可愛い顔が台無しだ」
ティッシュを差し出され、受け取る。
「……すみません」
「俺にはまだ子供がいないから、君を責めた来未ちゃんのお母さんの気持ちは想像することしかでしない。だから、彼女を責めることはできない」
ごめん、と穂坂さんは目を伏せる。
私はそんな穂坂さんに首を振る。
「……いえ。そのとおりだと思います」
「とりあえず、食べよう?」
声を出さずに頷いた。いや、出せなかった。なにかを口にしたら、違うなにかが溢れてしまいそうで。
お互い涙でぐしょぐしょのひどい顔をしながら、ケーキを食べた。
鼻が詰まっているせいで、味も香りもぜんぜん分からないけれど、舌に乗ったマスカルポーネのムースはふわっととろけて、甘い余韻を残して消えていく。
「よく、思うんだ」
レアチーズケーキを食べながら、穂坂さんは口を開いた。
「もしあの日君を見捨てていたら、俺はたぶん潜水士を続けられていなかったと思うんだ」
目の縁に涙を光らせ、穂坂さんは笑う。
「だからね、君が俺を救ってくれたんだ。君が生きたいって俺の手を握ってくれたから、俺は今も潜水士を続けていられる。海に潜るたびにいつも思い出すんだよ、君が俺の手を握った感触を」
きっと、一生忘れない。俺たちは要救助者が生きていようが生きていまいが、家族の元へ連れていくのが仕事だ。死んでしまった人を前にすると、遺族の泣き崩れる姿を見ると、どうしたって無力感に絶望する。だけどそういうとき、君の手を思い出すんだ。ここでやめちゃダメだ。ここでやめたら、この先助けられるはずの何人もの人を見捨てることになる。そう思って、毎日踏ん張ってるんだよ。
そう、穂坂さんは言った。
その言葉に、私はやっぱり堪えきれずに涙をぼろぼろと溢れ出す。
私は、どうしてこんな大切なことに気付かなかったのだろう。
あの日、フェリーの事故で死にかけていた私が今ここにいるということは、死にかけた私を死ぬ気で助けてくれた人がいたからなのに。
綺瀬くんに言われるまで気付かないどころか、今こうして葛藤する穂坂さんを見るまで、その現実を本当の意味では受け止められていなかった。
「私……穂坂さんが命をかけて助けてくれたのに、それなのに、命を捨てようとして……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
穂坂さんは首を横に振って笑った。
「ほら、涙を拭いて。そんなに泣いたら目が腫れちゃうよ。可愛い顔が台無しだ」
ティッシュを差し出され、受け取る。
「……すみません」
「俺にはまだ子供がいないから、君を責めた来未ちゃんのお母さんの気持ちは想像することしかでしない。だから、彼女を責めることはできない」
ごめん、と穂坂さんは目を伏せる。
私はそんな穂坂さんに首を振る。
「……いえ。そのとおりだと思います」
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