妖都陰陽録 ―妲己は僕に人間をやめさせたい―

蛇足

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10話

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 馬車の車輪が、道の石を踏むたびに、わずかな揺れが腰に伝わってくる。

 黒瀬の屋敷を出て、まだそう時間は経っていないはずだが、こうして外を眺めるのは、実に久しぶりだった。

 「夜斗よ。馬車は……数年ぶりか」

 向かいに座る父が、窓の外にちらりと目をやってから、そう口を開いた。

 「はい、父上。ここ三年ばかりは、修行に明け暮れておりましたから。世間を見ている暇は、あまりございませんでした」

 それは、半分は謙遜で、半分は事実だ。

 息を整えれば呼吸。
 目を閉じれば霊力の流れ。
 影に意識を落とせば、朧の気配。

 庭と座敷と屋敷のまわり――世界がその範囲で完結していた三年間でもあった。

 「本家に住まい、学舎に通って陰陽道を学ぶことになるとはいえ」

 父は腕を組み、わずかに表情を引き締める。

 「心ばかり浮き立たせ、遊びに耽るのではないぞ。あそこは戯れに行く場所ではない」

 「承知しております、父上」

 素直に頭を下げる。

 「本家は、黒葛の名を支える柱。その目に晒されるということがどういう意味か、肝に銘じております」

 父は短く「ふむ」とうなずき、それきり口を閉ざした。

 窓の外では、街道沿いの家々が、ゆっくりと後ろへ流れていく。

 ――今年、玄明八十一年。

 十の年を迎えた子どもは、年の明けたこの時期に、本家へ呼ばれる。

 式神師の名家・黒葛家と、その分家筋に生まれた者たち。
 同じ年に十歳になった子どもたちが、本家の広間に一堂に会し、霊力の見立てを受けるのだ。

 (本家と分家。……表向きは、血筋に上下などないと言うが)

 その実、扱いにははっきりと差がある。

 本家に直に連なる者は、幼い頃から優れた師のもとで育てられ、十で霊力見立てを経たのち、すぐさま本家修練の中心に組み込まれる。

 分家の子らは、そのふるいにかけられてからだ。
 霊力の量、質、五行との相性。
 式神との適性。呪符との馴染み。

 それらを見立てたうえで、ようやく本家の門内に入る資格を与えられる。

 今回、召し出されたのは――黒葛家と、その分家に属する十歳の子どもたち。
 僕も、その一人にすぎない。

  * * *

 十歳から十二歳までの三年間。

 このあいだを、黒葛本家の屋敷内で過ごすことになる。

 名目としては、「黒葛童生」。

 本家の敷地の一角に設けられた寮で、同年代の者たちと寝起きを共にし、それぞれに与えられた小さな個室を持つ。

 「童生」の三年は、陰陽師としての前座だ。

 朝は本家の師範による座学と実技。
 昼は書と礼法、式神に関する基礎知識。
 朔や満月ごとには、簡単な実戦演習もあるらしい。


 実際に怪異の前に立つわけではない。
 本家屋敷という、大きな結界と結界に守られた箱庭の中で、将来の陰陽師の卵として走り回る三年間。

 その先が、本当の意味での「学び場」だ。

 十二を過ぎれば、黒葛に連なる者は、ほとんどが京の陰陽学舎に入る。

 名を、「玄都陰陽院(げんとおんみょういん)」という。

 院のうち、最初の三年――十五歳までの課程は、「下級課程」と呼ばれている。
 通称、「下級陰陽生」。

 そこでは、式神や呪符、五行術の基礎を、より実戦に近い形で叩き込まれるそうだ。
 小怪や邪気の祓い、簡易結界の構築、護衛任務の真似事。

 (前世で言うなら、中等教育……といったところか)

 そして、その先が本番だ。

 玄都陰陽院の後半三年――十六から十八にかけての課程。

 こちらは、「高等課程」、あるいは「星鎧科(せいがいか)」と呼ばれている。
 星の下で鎧を着る者、という意味合いらしい。

 ここに進む者だけが、「上級陰陽生(じょうきゅうおんみょうせい)」を名乗ることを許される。

 町単位の結界の補修。
 中位以上の怪異の調伏。
 御三家や七大名家の護衛任務への随行。

 机上の学びではなく、「死線の手前まで」を学ぶ場所だ。

 十八を過ぎれば、それぞれが師を選び、あるいは選ばれ、弟子として数年を過ごす。
 そこでようやく、一人前の陰陽師として世に出る。

 ――その長い道のりの、ごく最初の踏み石が。

 今、僕が向かっている「霊力見立て」であり、その後の「童生」としての三年間

 その先に待つのが、師匠との数年と、ようやく掴む一人前の座。

 「……長い」

 思わず、小さく息が漏れた。

 父がこちらをちらりと見てくる。

 「不服か」

 「いえ。道のりを思えば、気の遠くなるような長さだと思っただけです」

 「道が長いのは、悪いことではない」

 父は、淡々とした声で言う。

「短い道は、たいてい、どこかで崖にぶつかる。迂回路が多いぶんには、逃げ場も多かろう」

 「……肝に銘じておきます」

 ――術を磨き上げながら、本家の目からどこまで身をかわすか。

 今日から先の数年は、その綱渡りでもある。

 「夜斗」

 父が、わずかに声を落とした。

 「霊力見立ての日、本家にはお前と同じ十の子が何人も集まる。本家筋の子らもいれば、分家筋の者もいるだろう」

 「はい」

 「誰と競えとも言わぬ。……だが、誰と比べられるかは、覚悟しておけ」

 「比べられること自体は、構いません」

 僕は、穏やかな声で返す。

 「比べられたうえで、都合のよい場所に置いていただければ、それで十分で御座います…」

 父の口元が、わずかに動いた。

 それが苦笑なのか、感心なのか、判じかねる。

 「都合のよい場所、か」

 「はい。」

 前世で学んだことは、そう多くはない。

 が、「上に立つ者のすぐ傍」と「誰にも見向きもされない場所」のどちらが生きづらいかと問われれば――答えは難しいだろう。

 目立ちすぎても、埋もれすぎても、潰される。

 ならば、その中間。
 有用だが、替えが利かないほどではないという位置に滑り込むのが、一番息がしやすい。

 父はしばし黙し、やがて小さくため息をついた。

 「……本当に十なのか、お前は」

 「その問いは、ここ数年で何度かうかがいました」

 「そうだな」

 口の端だけで笑いながら、父はそっと窓の外へ目を向ける。

 馬車の揺れが、わずかに変わった。

 舗装の甘い土の道から、かたい石畳に乗り換わった感触。

 黒葛本家の敷地が近い、という合図だった。

 僕は、無意識に右手首の数珠を指でなぞる。

 玉の一つが、かすかに冷たく震えた。
 足元の影が、わずかに濃くなる。

 (ここから先は――)

 十歳の黒瀬夜斗として。
 黒葛家分家の長男として。

 僕が、どこまで影に潜り込めるかの、最初の舞台だ。

 馬車がゆるやかに減速し始める。

 父は何も言わず、ただ静かに背筋を伸ばした。

 僕もまた、呼吸をひとつだけ整えた。

 霊力の流れを、胸の奥でしずかに沈めたところで――
 車輪が、完全に止まった。

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