CALL~鬼来迎~ 

黒駒臣

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第一章

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 絶え間なく車両の行きかう大通りの歩道を文也は塾に向かって歩いていた。
 もう夕方だというのにまだ蒸し暑く、首筋に流れ落ちる汗を手で拭う。
 文也の通う北尾塾は通りに面した三階建てのビルにある。小学生から高校生、予備校も併設されているその塾は親切丁寧な講師たちがそろっていると人気があった。
 文也は四年生から通い始め、もう二カ月経つ。
「おーい。野地ぃ」 
 後ろから呼ばれ文也は振り向いた。
 宮島が駆けてくる。幼稚園からの親友で、小学校も塾も一緒だった。
「よっ」
 声を掛け合い二人並ぶと他愛のない会話をしながら歩き出す。宮島となら好きなゲームや漫画の話を一日中していても飽きなかった。
 しばらくして北尾塾の茶色い外壁が見えてきた。
「野地、あれ見ろ」
 宮島が指さした。
 講師のひとり、佐野が玄関先で声を荒げている。
「なんだろ。佐野先、怒ってるみたいだね」
 文也は宮島と顔を見合わせた。
 近付くにつれ、佐野がガラスドアの横に座り込む大男に大声で注意していることがわかってきた。
 それを眺めながらアプローチの階段を上がる。
 太った男は佐野の大声にも微動だにしなかった。もとからそういう色なのか、汚れてそうなったのかわからないが黒ずんだ灰色の作業着がひどく臭う。
 ぼさぼさの髪が垂れたうつむいた顔は半開きの分厚い唇しか見えず、そこからよだれが糸を引いているので眠っているのだと思った。
「こら、見てないでさっさと入れ」
 佐野がこっちに気付いて『行けっ』と手で合図する。
「なになに? 先生どうしたの? なんかあったの?」
 常に好奇心旺盛の宮島は不躾な視線で男をじろじろ眺めていた。
「何もないから。ほら早く行きなさい」
 佐野が寄って来て宮島の背中を押す。
「教えてくれてもいいじゃん。ケチぃ」
 先生と親友の後に続きながら、文也はさりげなく男の様子を窺った。
 男が顔を上げていた。血の塊のような赤い目がぐりっと動き佐野と宮島を追っている。
 その異様な眼球を見て文也の背中に怖気が走った。慌てて佐野と宮島の後ろにくっつく。
「ここまでくっせー。先生、何なのあのおっさん」
「こらっ。そんなこと言うもんじゃない」
 自動ドアが開くと、佐野は「ほら入った入った」と二人の背中を押した。
 ドアが閉まると佐野はすぐ戻っていった。
 またうつむいている男を見て、さっきの薄気味悪い目は見間違いだったんだろうかと文也は思った。
「さっきから何度も言うけど、そんなとこに居られちゃ迷惑なんだよ。早くどっかに移動してくれ。でないと警察呼ぶよ」
 佐野の怒声がガラス越しに聞こえてくる。
 男は座り込んだまままったく動こうとしない。
「佐野先も大変だな」
 成り行きを見守る宮島がつぶやいた。
 業を煮やした佐野が男の腕を引っ張り上げて無理やり立たせた。思いのほか身長が高い男に一瞬ぎょっとなった佐野だったが、階段下の歩道まで誘導する。
 よたよたと階段を下りる男の姿はとても愚鈍に見え、やっぱりさっきは見間違いだったんだと文也はほっとした。
 歩道に下ろされた男は立ったまま眠っているように見えた。
「役に立たなくなったサーカスの熊みたいだな」
 宮島が嘲りを含んで笑う。
 とりあえず敷地内から追い出したからか、佐野が安心した表情で玄関に戻ってきた。
 何度も振り返り、中に入ってからもガラス越しに男を監視している。
「先生、あのおっさんなに?」
「なんだ。お前らまだいたのか」
 佐野は呆れた顔で「玄関先で眠り込んでたのを女子たちが見つけてな。気味悪いってんで、注意しに来たんだけどまったく動かないんで参ったよ。ちょっとおかしいのかもなぁ―― 
 おっとっと、こういうこと言っちゃあいかんな。
 お前ら、からかったりすんなよ」
「はーい。気を付けまーす」
「ほんとにわかってんのか」
 宮島の軽口に苦笑し、佐野は額にかかった白髪混じりの前髪を指でかき上げた。
 二人の後ろにつき、文也は窓から男を窺った。
 歩道に立ったままの男が顔を上げ、血の塊のような目でこっちをじっと見ている。
 見間違いなどではなかったんだ。
 分厚い唇が笑っているように歪むのを見て、文也はまた背筋が寒くなった。
 だけどもう追い出したから大丈夫さ。
 そう自分に言い聞かせて窓から目を逸らし、宮島の横に並んだ。
「じゃ、がんばれよ」
 事務室の前で佐野が手を振って中に入っていく。
 開け放された廊下側の事務室の窓から事務員たちや他の講師たちが佐野に集まって来るのが見えた。みな不安な表情をしている。
「きょうは塾長、研修でいないんだって、さっき佐野先言ってたよ」
 宮島の言葉に「そっか」と返し、文也は再び窓を覗いた。
 佐野の隣で腕を組んだ河津が眉をひそめていた。若くてイケメンで女子に人気がある文也たちの担当講師だ。 
「河先ならああいう場合、さっさと警察に連絡しちゃうだろうね。面倒なこと嫌いだから」 
 文也の言葉に「ふん。それを言うなら塚先だよっ」と宮島が鼻を鳴らす。
 嫌悪感丸出しで佐野の話を聞いている塚田に宮島と二人同時に視線を向けた。
 美人だが性格がきつく、勉強だけでなく生活態度にも厳しい塚田は生徒みんなから敬遠されていた。五年担当なのに宮島はよく注意されている。もちろんいつも一緒にいる文也もだ。
「うんうん。もし塚先なら超速で警察に通報だろうね」
 特にあんな不気味な奴は佐野先みたいにあのまま放っておくより、そのほうが良かったかもしれない。
 文也は心の中でそう続け、男の赤い目を思い出して身震いした。
 六年やその他の講師たちもみな顔を曇らせている。塚田の一一〇番という声も聞こえてきたが佐野は首を横に振った。塾長が留守の間の警察沙汰は極力避けたいのだろう。
 佐野は中学担当の一講師だが、塾長の北尾に信頼されていて、さっきのような厄介ごとの処理から研修など出張時の塾長代理も任せられていた。
「おーい。野地。早く行こうぜ」
 いつまでも事務室を覗いていた文也をとっくに先に進んでいる宮島が呼ぶ。
「あっごめん」
 駆け足で追いつくとふたり並んで四年クラスに向かった。 

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 ああ、なんか嫌な予感がする――
 レジ台の前に立つ祐子はさっきから妙に落ち着かなかった。
 いつも今頃は五時半にパートを終え、自転車に乗って帰宅の途についている。だがきょうは、急用ができた六時勤務の同僚に頼まれ代行していた。
 そのことは夫の健夫にすでに電話していたが、塾にいる文也には伝えていなかった。帰ってくるのは九時過ぎ、それから一緒に夕飯をとるので、連絡してもしなくても関係ないと判断したからだった。
 きょうは出来合いのお惣菜で済ませちゃおう。でもお味噌汁ぐらいは作らないとね。
 あっそうだ。いっそファミレスに行こうかしら。たまにはいいわよね。
 ああでも、さっきからこの胸騒ぎはなんなの? あの子ちゃんと塾に行ってるわよね? まさかゲームセンターで補導――なんていやよ。
 文也は週二回塾に通い、終了時間の夜九時に健夫が車で迎えに行くことになっている。夕食までお腹が空くだろうから、菓子パンやおにぎりを準備し、会話もできるだけ心掛けていたが、祐子も忙しく、ここ最近ちゃんとコミュニケーションがとれているのか正直不安だった。
 まだ早かったのかしら。
 塾に行かせることがいいのか悪いのか、文也はどう思っているのか、祐子は常に自問自答していた。
 子供のうちは思いきり遊んだほうがいいと健夫は反対していたし、祐子も心のどこかでそう思っている。
 だが、中学受験させるなら早いほうがいいとママ友がみんなそう言っていた。
 そうよ。大丈夫。間違ってない。母親はね、父親みたいにのんきなこと考えてちゃいけないのよ。文也もしんどいとは思うけど頑張らないと。未来のためだわ。
 弾き出す答えはいつもこうだった。
 文也もきっとそれに応えてくれている。だからわたしも信頼しなければいけない。塾をさぼって遊ぶなんて絶対しないわ。そうわかっているが胸騒ぎがおさまらない。いったいなぜ? 
 常に子供を気にかけていなければならないのが母親の務めだ。これといった理由もなく人生が狂う場合もある。ただの気のせいだと思いたいがどうしても不安がぬぐえず、祐子はこれが悪いことへの予兆に思えてならなかった。
 まさか緊急の連絡なんて入ってないよね。
 塾に通うようになった文也にはガラケーだが携帯電話を持たせている。そのため機械音痴なのに祐子も携帯を持ち、連絡を取り合えるようにしていた。
 ロッカーに入れたそれを確かめに行きたくて仕方なかったが、目の前に客が並び始める。
「いらっしゃいませ」
 裕子は仕方なく頭の中を仕事モードに切り替えた。

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 四年クラスは一階の奥にあった。
 受付を兼ねた事務室の隣に塾長室があり、次に資料室。トイレと階段ホールを挟んだ次の教室が四年クラスだ。一番奥が五年クラス、廊下の突き当りは非常口になっている。
 一階から上に上がったことはないが、階段ホールの壁に取り付けられた配置図を見て、二階には六年と中学クラスが各二クラス、三階には高校と予備校の教室が各二クラスあることを文也は知っていた。
 教室に入ると同じ小学校に通う的場真奈香が足早に近づいてきた。
「ねえ、玄関にいた怖そうなおじさん見た?」
 真奈香は怯えたような上目遣いで文也の顔を覗き込む。
「もう、佐野先が追っ払ったぜ」
 文也より先に宮島が答え、「おれはあんなおっさん怖くねえな。ふんっ」と鼻を鳴らした。
「誰もあんたに聞いてないからっ」
 真奈香に突っぱねられ、彼女に好意を持っている宮島はたじろいだ。その顔を見て文也は吹き出しそうになったが笑ってはいけない。
 真奈香の好きなのは宮島ではなく文也だった。告白されてはないがなんとなくわかる。たぶん宮島も気付いている。笑えばきっと友情にひびが入るに違いない。今は女の子よりも親友のほうが大事だった。
「きゃっ」
 エレベーターが急下降したような床の揺れを感じ、真奈香が悲鳴を上げ机に縋った。
「今の地震だよね」
 と怯えた目で文也を見たが、宮島がふんっと胸をそらせた。
「バカか、地震なんか揺ってねえよ。なあ、野地」
 好きなら意地悪なこと言わなきゃいいのにと文也は小さくため息をついて、
「揺ったよ。ちょっと変な地震だったけど――」
「ほらあ。宮島君はがさつだから微妙な揺れには気付かないのよ」
「なんだとっ」
「なによっ」
 真奈香と宮島がにらみ合っている。
 なんだ。そういうことか。
 宮島の戦略を察し、文也はその場を離れいつもの席に着いた。

                   4  

 客足が途切れ、祐子はトイレに行く振りをして控室に戻った。文也、もしくは塾か警察から緊急の連絡が入っていないか不安で早く確認したかった。それをしないことには仕事に集中できない。
 エプロンのポケットから鍵を取り出しロッカーを開ける。文也の好きなアニメキャラクターのキーホルダーが激しく揺れて千切れ、リノリウムの床に転がった。
 不吉な予兆のように思え、血の気が引いていくのを感じながらそれを拾い、慌てて引っ張り出したバッグから携帯電話を取り出す。
 着信を示す光の点滅が心臓の鼓動を大きく跳ねさせた。
 震える手で携帯を開き履歴を見ると文也の名前が並んでいる。
「なんなの。これはいったいどういうこと?」
 最初は一時間前だった。
「な、何があったの、文也っ」
 リダイヤルを押そうとしたが指が震えてうまく押せない。
「落ち着いて。落ち着くのよ」
 祐子は深呼吸するとゆっくりとボタンを押し電話を耳に当てた。呼び出し音が鳴り始めるまでの時間が長く感じる。やっと鳴ったと思ったら水中で響いているような小さな音が数回鳴って切れてしまった。
「なによ、もうっ」
 祐子は再びリダイヤルして、さっきは意識しなかった奇妙な呼び出し音に気付いたが、文也のことが心配で気に留めなかった。 
「文也、早く出てっ」
 音の間にぷつっぷつっとノイズが混じっているのでまたいつ切れてしまうのか不安だ。
 このままずっと繋がらないのではないか――
 祐子の目に涙が浮かんだ。
 呼び出し音が止まった。
 だが文也が出たわけではなく、ただ静かで何の声も物音もしなかった。ツーツーという音も聞こえない。
 膝が震え出し立っていられなくなった祐子は床に座り込んだ。頭の中はぼうっとしているのに指が勝手にリダイヤルを押す。やはり始まったのはノイズ混じりの奇妙なコールだ。
「文也――出て――お願い」
 下瞼に溜まった涙が頬を伝い落ちる。
 また音が途切れ静寂が広がる。唇を噛み終話ボタンを押そうとした時、ごおっと突風の吹くような音が聞こえ、祐子は携帯電話を握り締め耳を澄ました。
 数秒、風の吹き荒れる音がした後、送話口を爪で引っ掻くようなノイズの向こうで文也の遠い声が聞こえた。

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