異世界行っても喘息は治らなかった。

万雪 マリア

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ミッドガルド国からの出立

三十六話・戦乙女の力

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 瞬時、感覚と色彩が世界に戻った。
 目の前では、真剣そうに膝を突き合わせるみんな。私の事には気づいてないっぽい。
 怒られるのも怖いし、黙っておこう、と思ったとき、誰かがつぶやいた。

「お前らは、このまま死ぬのか」

 音の出どころはセラだった。張りのある、ボーイソプラノにも近いテノールだ。
 部屋に静寂が訪れた。
 誰もしゃべれなかった。


【魔王にかなうものはいない】



【魔王は中央大陸の誰より強い】


 情報が頭を駆け巡る。
 勇者とは名ばかりの、人身御供の集団。
 みなが顔を曇らせると、そんな空気に耐えかねたのか、ライが立ち上がった。


「辛気臭い顔すんなよ! ほら、景気づけに一曲歌ってやるから!」


 ………え、この状況で歌?
 セラは、本気か、とでも言いたげに目を見開き、水瀬くんは唖然としていて、レイに至っては気にもせず地図を眺めている。
 ライは、そっと目を閉じると、ゆっくりと開いた。
 その時、私は気づいた。
 ライの、赤ワインのような深い赤紫の目が、白と黒を同分量混ぜたような灰色に変わったのだ。
 そして、静かにつぶやいた。




「【Sigrdrífa】」




 すると、急に視界がクリアになった。いや、視界だけじゃない。五感すべてが、研ぎ澄まされた日本刀みたいに鋭利になった。




「栄えある日、栄えある日の子ら、栄えある夜と姉妹らよ。
 優しい目でこの私達を見、私達に勝利を与え給え。
 栄えあるアース神、栄えあるアース女神よ、栄えある豊穣なこの大地よ、
 誉れ高い私達に、勇気と英知の心得を与え給え。
 栄えあれ、全ての生命よ。栄えあれ、全ての善悪よ。
 私に加護を与え給うた、勝利と幸運の女神シグルドリーヴァよ、
 誇れ高い私達に、勝利と希望の歌を授け給え」



 華やかなコロラトゥーラ、自然な抑揚、一音のブレもない跳躍音程。
 目の前に、ゆたかな自然や、暖かい日の出が見えるような、恐ろしい表現力。
 静かで穏やかなのに、雄大な音楽。今まで聞いた、どの歌手でも、目の前で歌うライにはかなわないだろうと確信した。腹式呼吸を地でいってる。歌が笑ってる。ブレスや休符なのに、が聞こえる。ソットヴォーチェが殺人レベルのウィスパーボイス。そう感じるレベルの。難しい旋律なのに、見事に歌っている。ライドールは聖歌隊にでも所属しているのか。してないならいますぐすべきだ。してその歌声を世間に知らしめるべきだ。
 アカペラだからこその、圧倒的な存在感。女神を歌うライの向こうには、光に満ちた神々の世界が見える。なんだこれは。ヴァルハラってやつか。神々の都か。ライドールは神なのか。ああそうか神か。だからあんなに美しいのか。そんな悟りと諦めをたして二で割ったような考えまで浮かんでくるぐらいだから。
 プロだと言われたなら、いや違う、彼女は暴力的なまでの才能を持っているのだから、そんじょそこらのと一緒にしないでくれ、わたしならそういう。ピアノやパイプオルガンなんかの楽器が混じっても美しいかもしれないが、ライの歌声を一番引き立てるのはアカペラだ。絶対。
 カラオケなら文句なしの100点。声楽とかの、歌のテストであれば、単純にこれだけで最高評価がとれるだろう。絶対評価なら確実に満点を超える。100点中1000点。私がやっても半分も取れないぐらい難しい歌なのに。でも、だからこそ、表現の余地が残され、クレッシェンドやディミヌエンドがあまりに鮮明に感じ取れる。
 自然なビブラードや、まっすぐなロングトーン。一音一音が、あまりに壮大なリズムとなる。
 重厚に響く低音が出たと思いきや、今度はソプラノ歌手顔負けの美しい高音が飛び出す。
 ちぐはぐなはずなのに、見事に調和がとれていて、不思議と耳に残る響き。
 たったこれだけの歌なのに、五感を研ぎ澄まし、頭に残す。
 きっともっと歌われてたら、いい意味で発狂してた。虜になってた。喉がかれ血を吐き歌えなくなるまで歌わせてた。癇癪を起した子供みたいに泣きわめいてアンコールを乞うていた。
 ライは、右にひとさし、左にひとさし、ゆったりと舞い踊っていた。
 あまり派手に動いたら、曲の雰囲気を壊してしまいそうなものだが、そうと気付かせることもせず端から端へ移動し、ステップを踏み、大きくターンする。そのすべては、曲の雰囲気を全く邪魔していない、言うなれば最適解、模範解答の上の上を言っていた。まるで、自分の動きをみたいに。
 神懸かって見えるレベル。たぶんこのへんは、黙っていれば女神レベルの美少女であるライの見た目の補正もだいぶかかっている。動くたびに揺れる青紫の髪の毛が、光を通して半透明に輝く。
 聞いたこともないような、不思議なリズム。オペラでもバラードでもジャズでもない。ありとあらゆる音楽に合わない。
 この部屋という小さな世界に、空間に響き渡るには、あまりにおしい。ホールやドームじゃ足りない。雄大な海の、大地の、空の真ん中で、世界中に響くのがふさわしい。
 これがあれか。天才ってやつか。形のいい、桃色の唇から紡がれるのは、細い糸のように繊細で、かつ大胆さを兼ね備え、大海原のように雄大。華やかなのに深く落ち着いている、聞くものすべてが感嘆の息を吐くような、場合によっては狂信者が生まれるような、異常なまでに美しい歌声だった。だから、「ドール」なのか。こんなに美しい歌声、本当に人間なのか、確かに疑う。人形、というより、女神だ。歌の女神だ。


「っと」


 最後の一小節を歌いきると、一礼。ダンパーペダルを押したり、マイクを使ったわけでもないのに、耳にロングトーンの余韻が響く。
 ぱちり、と瞬きすると、瞳はもとの葡萄酒の色に戻っていた。
 茫然自失。
 本当に素晴らしいものを聞いたとき、拍手をする余裕すらないことを、初めて知った。
 面白いぐらいに目をかっぴらいて、ライを凝視している自分がいた。
「これが私がシグルドリーヴァヴァルキュリー様から与えられた力! 『聖なる盾【土の女神の盾】』っすよ! 別名、『シグルドリーヴァの加護』!」
 耳に余韻が残るも、それを崩すのは、なぜか歌った本人だ。
 ちっちゃな胸を張って、ふんすと鼻息をつく。
 先ほどの、喉を開いた歌声とは違い、高くも低くもないのだが、なぜか幼く__というより子供っぽく__感じる声だ。
 この体から、あの麗しい歌声が出たのか?
 すっかり消え失せたヴァルハラは、しかし私の瞼に焼き付いていた。






 正直、他の人が天才だのなんだの褒めたたえるあたしの歌声は、まあいい線言ってると思う。
 だってあたしは__なんと称せばいいのだろうか。その時々に、どう踊ればいいか、どう歌えばいいかを、見る事ができる。体が自然に動き、だいたいの曲はある程度曲のイメージを壊さず舞い歌うことができていると思う。人、それを天才と呼ぶ。あたしは異常だから、普通じゃないから、こうなったんだろう。
 感覚に任せているから、人に教えるのは苦手だけど、才能__なのだろうか。
 やっぱりわからない。
 この歌声だって、漠然と違和感を感じている。これでいいのか。もっと磨けるところが、があるのではないか。

 考えたってわからない。だってあたしは異常だから。
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