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五章 千鶴
☆【2】鳳蝶[あげはちょう]
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捺夏と千鶴の会話
「捺夏さん」
「捺夏でいいよ。……ちょっといい?」
千鶴は目だけで肯いて見せる。
「叉雷のことなんだけど」
「最近、体の調子が悪いみたいなんだ」
「まあ……」
「特に、目が。たぶん、ろくに見えてないんじゃないかと思う」
「私の薬で良ければ、すぐに差し上げます」
「ありがと。降魔師は、治療もできるんだよね? 叉雷を診てやってほしいんだ」
「分かりました」
「ちーちゃん」
「はい」
「叉雷はねえ、不思議な奴なんだ」
「……」
「おれは薄々知ってる。もう知ってるんだ。これだけ一緒に過ごしてれば、気づかない方がおかしいよ。あいつはきっと、おれたちとは違う生き物なんだって。でも……。叉雷は叉雷だから」
「あいつ、絶対泣かないんだ」
優しさに満ちた声が暗い夜に溶ける。
「どっかで隠れて泣いてるのかもしれないけど。人前じゃ泣いたことがない。最後に叉雷が泣くのを見たのなんて――いつだったかな。おれが五つで、叉雷が七つの時だ」
「その時は、どんなご様子でした?」
「ひどかったよ」
捺夏が呟く。千鶴は真っ直ぐな目で彼を見つめている。
「あの日のことは、忘れられないなあ。夏の終わりだった」
やがて、遠い夏の記憶を語り始める。
「おれは孤児だったから、兄貴代わりになってくれてた叉雷だけが頼りだったんだ……」
その場にいながらにして、捺夏は一人で時を遡ってゆく。
十五年前の夏――。当時の捺夏は、まだ絽々を得てはいなかった。一人で眠る小屋は怖ろしく、虚ろで、淋しかった。
あの夏の叉雷は、それまでの叉雷ではなかった。捺夏の知らない叉雷だった。重い足取りで歩き、血走った目で何かを探していた。叉雷が別人になってしまったようで、近寄りがたかったのを鮮明に覚えている。あれほど叉雷と疎遠だった季節は、後にも先にもなかった。
捺夏は怯えていた。叉雷に見捨てられたら、いよいよ自分は生きられなくなるのではないかと感じていた。泣き暮らす、とまでは行かなかったが、捺夏はひたすら祈って過ごした。神様。どうか、叉雷がもとの叉雷に戻りますように。
ある日のことだ。その時、捺夏は寝ぼけていた。少し前に目が覚めてから、ぐずぐずと布団の上で寝転んでいたせいだ。
突然扉が開いて、光が射した。昇りかけの太陽を背にした叉雷が、暗い小屋の中へ入ってくる。幼い顔には不釣り合いな、酷く思い詰めた表情をしていた。
「捺夏」
「……なに?」
久し振りに見る叉雷は、どこか現実味が薄い。まるで夢の中のようだと思った。
「お前、今いくつだ」
捺夏は無言で手のひらを広げて見せた。
「そうか。五つか」
「どしたの?」
「お前が大人になるまで、ぼくが育ててやる。だから何も心配するな」
「えぇ?」
「ぼくは……」
叉雷の顔が崩れた。眉が寄り、唇をぎゅっと喰いしばる。あっと思った時には、叉雷はもう泣いていた。
「どうして、ぼくだけが」
振り絞るようにそれだけ云って、両手で目頭を押さえて泣き崩れる。あの瞬間の叉雷ほど、幼い捺夏の心を激しく揺さぶったものはなかった。
「さ、さらい」
立ち上がって駆け寄る。叉雷に抱きついた。叉雷の泣き声は、まるで大人が泣いているように聞こえた。暴れようとする声を押し殺し、咳き込むように叉雷は泣いた。どうしよう。捺夏は焦燥しながら思う。叉雷が壊れてしまう。
「――ぼくだって、忘れてしまいたかった」
「何を」とも、「誰を」とも訊けなかった。ただ叉雷の両肩に手を置いて、しゃくり上げる声を耳元で聞いていた。
「さらい、泣かないで……」
「大丈夫。大丈夫だよ」
震える声が応える。
「ぼく……おれ、何があってもお前を守ってやるから」
そして叉雷は、初めて叉雷自身を「おれ」と呼んだ。胸騒ぎに支配されながら、涙に濡れた碧の瞳を見つめる。これは一体誰なんだろう。そこには、これまでとは明らかに違う、新しい叉雷がいた。
「分かったな」
これほどまでに真剣な眼をした叉雷を見るのは初めてだった。叉雷が本気なのだと分かって、捺夏は思わず声を上げて泣きたくなる。
「ありがと。――でも、なんで?」
叉雷から体を離して問いかけた。
「……」
問われた叉雷が押し黙る。捺夏は叉雷の言葉を待っていた。服の袖で涙に濡れた頬を拭ってから、ようやく叉雷が云う。
「同じだから」
その頃には、叉雷は大分落ち着いた様子に見えた。ただ、泣き腫らした目元だけが痛々しかった。
「おなじ?」
「そう。おれも、お前と同じ孤児だったんだ」
「うそだ」
「嘘じゃないよ。サトばあちゃんが教えてくれた。でも、このことは人に知られない方がいい」
「なんで?」
「長の息子っていうせっかくの立場を、利用しない手はないだろ?」
そう云って、にやっと笑った叉雷を見て、捺夏は心の底から安堵した。
叉雷が帰ってきた。前と全く同じではないけれど、前よりもっと強くなって、おれの所へ帰ってきたんだ――。
「なんだろうなあ。あの時から、叉雷は、おれにとってただの友達じゃなくなったんだ。親でもあり、兄貴でもあり……。だけど、いつからか気づいたんだ」
「叉雷は、おれの前では泣かなくなった。何が起きても泣かなくなった」
「おれのせいかなって、やっぱり思ったなあ。おれを護るために、叉雷はどんどん強くなった。もちろん、おれだけのためじゃなかっただろうけどね」
「さっき、叉雷と二人で並んで立ってたよね。あれを見た時、急に思ったんだ」
つがいの鳳凰のように寄り添って立つ姿が、妙に心に残った。
「もしかしたら、叉雷は君のために泣くんじゃないかって」
「なぜ……?」
「当たるんだよ、おれの勘。叉雷ほどじゃないけどね」
「叉雷さんの勘は、あなたよりも鋭い?」
「うん。でも、叉雷は自分のことは分からないんだ。もし君が嫌じゃなければ、叉雷と仲良くしてあげてよ」
「ええ、喜んで」
「捺夏さん」
「捺夏でいいよ。……ちょっといい?」
千鶴は目だけで肯いて見せる。
「叉雷のことなんだけど」
「最近、体の調子が悪いみたいなんだ」
「まあ……」
「特に、目が。たぶん、ろくに見えてないんじゃないかと思う」
「私の薬で良ければ、すぐに差し上げます」
「ありがと。降魔師は、治療もできるんだよね? 叉雷を診てやってほしいんだ」
「分かりました」
「ちーちゃん」
「はい」
「叉雷はねえ、不思議な奴なんだ」
「……」
「おれは薄々知ってる。もう知ってるんだ。これだけ一緒に過ごしてれば、気づかない方がおかしいよ。あいつはきっと、おれたちとは違う生き物なんだって。でも……。叉雷は叉雷だから」
「あいつ、絶対泣かないんだ」
優しさに満ちた声が暗い夜に溶ける。
「どっかで隠れて泣いてるのかもしれないけど。人前じゃ泣いたことがない。最後に叉雷が泣くのを見たのなんて――いつだったかな。おれが五つで、叉雷が七つの時だ」
「その時は、どんなご様子でした?」
「ひどかったよ」
捺夏が呟く。千鶴は真っ直ぐな目で彼を見つめている。
「あの日のことは、忘れられないなあ。夏の終わりだった」
やがて、遠い夏の記憶を語り始める。
「おれは孤児だったから、兄貴代わりになってくれてた叉雷だけが頼りだったんだ……」
その場にいながらにして、捺夏は一人で時を遡ってゆく。
十五年前の夏――。当時の捺夏は、まだ絽々を得てはいなかった。一人で眠る小屋は怖ろしく、虚ろで、淋しかった。
あの夏の叉雷は、それまでの叉雷ではなかった。捺夏の知らない叉雷だった。重い足取りで歩き、血走った目で何かを探していた。叉雷が別人になってしまったようで、近寄りがたかったのを鮮明に覚えている。あれほど叉雷と疎遠だった季節は、後にも先にもなかった。
捺夏は怯えていた。叉雷に見捨てられたら、いよいよ自分は生きられなくなるのではないかと感じていた。泣き暮らす、とまでは行かなかったが、捺夏はひたすら祈って過ごした。神様。どうか、叉雷がもとの叉雷に戻りますように。
ある日のことだ。その時、捺夏は寝ぼけていた。少し前に目が覚めてから、ぐずぐずと布団の上で寝転んでいたせいだ。
突然扉が開いて、光が射した。昇りかけの太陽を背にした叉雷が、暗い小屋の中へ入ってくる。幼い顔には不釣り合いな、酷く思い詰めた表情をしていた。
「捺夏」
「……なに?」
久し振りに見る叉雷は、どこか現実味が薄い。まるで夢の中のようだと思った。
「お前、今いくつだ」
捺夏は無言で手のひらを広げて見せた。
「そうか。五つか」
「どしたの?」
「お前が大人になるまで、ぼくが育ててやる。だから何も心配するな」
「えぇ?」
「ぼくは……」
叉雷の顔が崩れた。眉が寄り、唇をぎゅっと喰いしばる。あっと思った時には、叉雷はもう泣いていた。
「どうして、ぼくだけが」
振り絞るようにそれだけ云って、両手で目頭を押さえて泣き崩れる。あの瞬間の叉雷ほど、幼い捺夏の心を激しく揺さぶったものはなかった。
「さ、さらい」
立ち上がって駆け寄る。叉雷に抱きついた。叉雷の泣き声は、まるで大人が泣いているように聞こえた。暴れようとする声を押し殺し、咳き込むように叉雷は泣いた。どうしよう。捺夏は焦燥しながら思う。叉雷が壊れてしまう。
「――ぼくだって、忘れてしまいたかった」
「何を」とも、「誰を」とも訊けなかった。ただ叉雷の両肩に手を置いて、しゃくり上げる声を耳元で聞いていた。
「さらい、泣かないで……」
「大丈夫。大丈夫だよ」
震える声が応える。
「ぼく……おれ、何があってもお前を守ってやるから」
そして叉雷は、初めて叉雷自身を「おれ」と呼んだ。胸騒ぎに支配されながら、涙に濡れた碧の瞳を見つめる。これは一体誰なんだろう。そこには、これまでとは明らかに違う、新しい叉雷がいた。
「分かったな」
これほどまでに真剣な眼をした叉雷を見るのは初めてだった。叉雷が本気なのだと分かって、捺夏は思わず声を上げて泣きたくなる。
「ありがと。――でも、なんで?」
叉雷から体を離して問いかけた。
「……」
問われた叉雷が押し黙る。捺夏は叉雷の言葉を待っていた。服の袖で涙に濡れた頬を拭ってから、ようやく叉雷が云う。
「同じだから」
その頃には、叉雷は大分落ち着いた様子に見えた。ただ、泣き腫らした目元だけが痛々しかった。
「おなじ?」
「そう。おれも、お前と同じ孤児だったんだ」
「うそだ」
「嘘じゃないよ。サトばあちゃんが教えてくれた。でも、このことは人に知られない方がいい」
「なんで?」
「長の息子っていうせっかくの立場を、利用しない手はないだろ?」
そう云って、にやっと笑った叉雷を見て、捺夏は心の底から安堵した。
叉雷が帰ってきた。前と全く同じではないけれど、前よりもっと強くなって、おれの所へ帰ってきたんだ――。
「なんだろうなあ。あの時から、叉雷は、おれにとってただの友達じゃなくなったんだ。親でもあり、兄貴でもあり……。だけど、いつからか気づいたんだ」
「叉雷は、おれの前では泣かなくなった。何が起きても泣かなくなった」
「おれのせいかなって、やっぱり思ったなあ。おれを護るために、叉雷はどんどん強くなった。もちろん、おれだけのためじゃなかっただろうけどね」
「さっき、叉雷と二人で並んで立ってたよね。あれを見た時、急に思ったんだ」
つがいの鳳凰のように寄り添って立つ姿が、妙に心に残った。
「もしかしたら、叉雷は君のために泣くんじゃないかって」
「なぜ……?」
「当たるんだよ、おれの勘。叉雷ほどじゃないけどね」
「叉雷さんの勘は、あなたよりも鋭い?」
「うん。でも、叉雷は自分のことは分からないんだ。もし君が嫌じゃなければ、叉雷と仲良くしてあげてよ」
「ええ、喜んで」
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