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第一章

少年期1

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 アドルフが異世界に転生し、早くも一七年の歳月が経った。

 そこでの暮らしを振り返るにあたり、いったいどれから話せばいいのだろう。
 べつに勿体ぶっているわけではない。転生直後の自分についてはアドルフにもわからないことが多々あるのだ。

 特に転生したての頃、母親の母乳を必要とする乳飲み子の頃は、残念ながら記憶がない。忘れたわけではなくて物心つくまえだから、記憶という仕組み自体発揮されなかったとアドルフは理解している。

 だから、そのへんは丸ごと空白。人生のカレンダーが埋まりはじめたのは、彼が辺境州東部の町であるトルナバの〈施設〉で生活をはじめた頃になる。

 前世の知識に照らし合わせると、〈施設〉とはいわゆる孤児院で、そこには国家の保護を得られなかった亜人族の孤児たちが集団生活を送る学び舎があった。

 亜人族。なかでもアドルフは人狼と呼ばれる種族の子供だった。

 前世の知識に照らすと異端も異端だが、転生前に言われた剣と魔法が支配する世界とはこういうものかという納得はあった。彼はそうした予備知識を、ワーグナーのオペラから学んでいた。

 アドルフを悩ませる問題はむしろ他のところにあった。
 孤児院などに放り込まれたことから想像しうるように、彼は両親に捨てられた子供だった。

 その証拠にアドルフには苗字がない。てっきり転生後も、ヒトラーという姓をもつ家に生まれると思い込んでいたが、受け継がれたのは名前だけ。

 困ったことになったと思ったが、時すでに遅しである。
 たとえ二度目の人生といえど、セクリタナは見知らぬ土地だ。そこへ両親の庇護もなく生れ落ちたことで、アドルフは最初から不遇を背負い込むはめとなった。

 その一方で、前世の記憶を引き継いでいるため、物心ついた頃には自分がセクリタナに転生した目的自体は思い出せていた。
 おのれが志した理想と栄光を再興すべく、今度こそ勝利を掴みとること。そんな野望だ。

 どさくさで《主》の願いとやらも聞き入れた覚えはあるが、大事なのは政敵との戦いを勝ち抜くこと。《勇者》になるという試練を与えられはしたものの、せめてそのスタート地点にくらい立てるだろうとアドルフは高を括っていた。

 ところが現実は彼に試練を与える。富豪か権力者の息子なら、初めから社会的地位を高めるステップを踏めただろうに、孤児という境遇は家柄や資産と無縁で、正直出ばなを挫かれたというのがアドルフの偽りなき本心だった。

 しかも腹立たしいことに、試練はそれだけではなかった。

 彼は生まれつき、骨の成長に体が追いつかず、歩行が困難になるという病気の持ち主だった。普段は杖を突き行動しているが、医師の診断ではあと三年ほど経ち、思春期になって成長のバランスがとれてくるまで、この病気の治癒は諦めるべきとのことだった。

 そして最後の試練はアドルフに決して小さくない衝撃をを与えた。

 八歳になった頃、彼は〈施設〉の院長先生が行う授業をはじめて受けた。先生の名前はヴィクトル・ニミッツ。金細工の取引で財をなし、莫大な富を〈施設〉の運営に投じた若い篤志家だ。

 そのとき院長先生に教わった情報、とりわけセクリタナという世界のなりたちと社会構造は、すでに予備知識のあったアドルフでさえ、注目せざるをえないものだった。

「この世界は三つの大陸で出来ている。亜人族が統治する北方大陸シレジア。そこにある国家はムスカウ共和国という。次に魔獣たちの楽園となっている南方大陸オルガビア。ここはまだ開拓の手が入ったばかりだ。最後に私たちが住む中央大陸カルヴィナ。この大陸に成立した国家イェドノタ連邦の支配者は私たち亜人族ではない。君たちは見たこともないだろうが、魔人族という非常に戦闘的な人種だ」

 魔人族。彼らが強い権力をもち、そのなかに王族がいることをアドルフは書物を通して知っていた。彼らが美しい赤毛や白髪をたくわえ、髪の色からして他の人種と隔絶していることも。

 しかしはっきり言葉で告げられると衝撃はひとしおだし、他の孤児たちに到ってはなおさらそうだろう。彼らは思いもよらない告白に騒然とし、ざわめきは狭い教室をあっという間に満たした。

 沈黙を守っていたのはアドルフひとりと思われたが、その視線の向こうで院長先生が真剣な顔つきで孤児たちを見つめている。

 生来のクセなのか、落ちてくる髪をかきあげるようにして、尖った長い耳を触るしぐさが目に入った。院長先生はノインの父親なので、種族としては妻も含めてエルフである。

 そんな院長先生は、片手で孤児たちを制しつつ、落ち着いた声を教室に響かせた。

「君たちは〈施設〉に囲われて過ごしてきたから、実情を理解できないのは無理もない。このセクリタナにはヒト族、魔人族、亜人族がいる。君たちが見たことのある人種はかろうじてヒト族だと思う。彼らは魔人族の支配下にあるが、連邦の大多数を構成する人種として一級市民の扱いを受けている。翻って亜人族は、人口の少なさなどの理由もあって、いまから四半世紀前頃、二級市民という被差別人種に甘んじるようになった。悲しいことだが、私たちは虐げられし民という不本意な立場にあるんだ」

 書物を通じて大人の知識を得ていたアドルフにとって、亜人族の社会的な立場が弱そうなことも薄々勘づいていたことだった。だがそれも、彼が異世界の知識を手に入れることに特別熱心だったからだ。

 察するに院長先生は、こうした事実をある程度物の分別がつく年齢になるまで黙っていたのだろう。アドルフの知る限り、トルナバで暮らすヒト族との交流は最低限でしかなかたったし、事情を知らない孤児たちがいることも察しがつくことだった。

 そんな彼自身も、さすがに権力の頂点に君臨する魔人族とやらを直に目にしたことはないが、答えはたぶん〈施設〉のあるトルナバが金鉱労働者が多くを占める田舎町だからであろう。前世でいう貴族のような存在が関わるには、トルナバはあまりにも僻地だった。

 二度めの人生をやり直したアドルフは、読書家だったから知識も豊富で、何より年齢よりも知能が高いから院長先生の話を自分なりに咀嚼できた。そこで意識をむけたのは縁の薄い魔人族よりも、隣人にあたるヒト族のほうだ。

 アドルフの数少ない観察によると、彼らは実に平均的な人種である。濃淡の差こそあれど髪の色は茶褐色を基本とし、背丈や身体的特徴に大きなばらつきもない。そんな彼らが自分たちより社会的地位が明確に上だと言うのだから、アドルフは強い不快感を抱いた。しかしそれを口に出すようなまねはせず、新たに得た情報から何が導き出せるかを考えはじめた。

 しかし他の孤児たちはアドルフより激しいショックを受けていたから、ひとりが口火を切ると不満の声が次々とあがっていった。
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