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第二章
暗号機エニグマ1
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結論から言うと、アドルフは詠唱魔法とは何かを概ね理解した。もちろんリッドに確認するまでそれは思い込みの域を出ないが。
教会を去り際、リッドはアドルフにこんなことを言った。
――詠唱魔法とは言語による物理的世界への干渉だ。目には見えないが、術式を通じて現象を再構成していると思えばいい。魔導書にはそのための言語が〈文字にできない言葉〉で記述されている。
思わせぶりなひと言だった。それでなくてもアドルフは三つのテキストのうち、もっとも難解だとされている魔導書に興味を惹かれていた。独裁者にありがちなプライドの高さが、どうせ学ぶならクラスの高い魔法を身につけたいという衝動をかき立てたからだ。
三つのテキストのうち、参考書は普通のゲルト語が、教則本には古代ゲルト語が記されていた。アドルフは勉学に熱心だったのでその両方とも難なく読み解ける。
そしていよいよ、満を持して魔導書と向き合った。ページを開くと、そこにはほとんど無意味としか思えない文字の羅列が刻まれていた。単語の綴りにくわえ、文法がめちゃくちゃなのだ。
もしその文字列が先史時代に遺された未解読文字とかであったなら、アドルフは完全にお手上げだっただろう。そうした文字の読解には言語学者のような才能が必要だからだ。
有名なロゼッタ・ストーンがある。そこに記された古代エジプトの神聖文字はジャン=フランソワ・シャンポリオンが解読した。同じ行為はアドルフには到底真似できない。
リッドはしかし、そんなことを承知で魔導書を託した。単語や文法は支離滅裂だが、表音文字自体は古代ゲルト語のものである。ということは、解読の鍵はもしかしたら全然べつのところにあるのではないだろうか。
こうした直感が、アドルフに恐るべき集中力を生んだ。それは彼の非凡さだ。解放が得られるという報酬を一時忘れ、魔導書に食らいついた。
晩秋の空は変わりやすい。朝方の曇り空が少しずつ晴れてくる。
その間、でたらめとも思える発想で、思いつく限りの読解法を探った。
問題は〈文字にできない言葉〉だった。それは古代ゲルト語のアルファベットで書かれていた。後から思うとそこに着目したことが突破口を開いた。
軍法会議を経た疲労は一日眠った程度ではとれなかったが、そんな疲れを吹き飛ばすほどの着想がある瞬間を境にようやく彼に降りてきた。
看守に借りた紙と鉛筆を駆使して彼の見つけた方法で読み解くと、たとえば〈火焔〉という魔法の項目は一ページ丸ごと〈文字にできない言葉〉とおぼしき言語で詠唱文が記述され、短縮方法らしき注釈まであることがわかったのだ。
くり返しになるがそれは思い込みかもしれない。だが法則性と呼べるものを発見したことは間違いなかった。
リッドとの正午過ぎに落ち合うこと。その時間が来るまでにアドルフは、魔導書に刻まれた詠唱文のいくつかを必死に暗記し、やがて日が真上に来た頃を見計らって収容所の付設教会へ向かった。
***
「そう言えば、貴公の魔法クラスはCだったな?」
到着して早々、藪らかぼうに訊いたアドルフ。裏庭にいたリッドは困ったような顔をして言い返した。
「そのとおりだが、もっと位階が高くないと不満か?」
「いや、そういうわけではないが、だとすると我が同僚であるフリーデはCクラスだというし、言い方は失礼だが同等である。貴公はもっと高位の魔導師だと判じておった」
「ああ、そのことか。事情を知らぬ者にはよく誤解されるんだ」
両腕を体にまわし、体を揺らしながらリッドは言った。
「実はな、聖職者には高位魔法を禁じるという掟があるんだ。かつて《主》の権威を冒す者が現れたのが原因で、代わりに白兵戦を磨くのが習わしだ。私もそうしている」
セクリタナ独自の歴史的背景を述べ、リッドは体の動きを止めた。その疑問を掘り下げるつもりはなかったらしく、アドルフはべつの話題を口にした。
「ところで貴公のようなCクラスの魔導師はどのテキストを読み解き、その位階を得たのか?」
アドルフがベンチのようなものに座りながら言うと、リッドは正面の椅子に腰かけて答える。
「教則本で得られる最高位のクラスがBになる。だから私も教則本までしか読み解いていない」
「ほう? それはそれは」
答えを耳にして、アドルフは表情を崩す。小さな変化ではあったが、軽く鼻息を吐いた辺りに、何やら嘲笑めいたものを感じさせる。
いかにも聖職者然としたリッドだが、その性格は案外幼いところがある。口調から醸しだされる凛々しさはフリーデと通じる部分があったものの、何気ないことで気持ちが変わる。ようするに、無礼なアドルフを見てカチンと来たのだ。
「自信満々だな、アドルフ。どら、いかなる成果を上げたか聞こうじゃないか」
文句こそ抑え込んだが、皮肉っぽい笑みでリッドは言った。
「ふふん、単刀直入に答えようか。我は見事、魔導書を読み解いてやったぞ」
リッドに負けず劣らず、アドルフも笑みを浮かべた。どこかうぬぼれを感じさせる目つきで表情筋を弛め、ニタニタと嫌みっぽいくらいだ。
挑発なのか、単なる自慢なのか判然としない強気な態度である。リッドはますます気分を害し、あえて意地悪な反応を返した。
「なるほど魔導書を。だがアドルフ、ひょっとして仲間の手を借りたんじゃないか? お前が言ったフリーデとかいう同僚の助言を得つつ、それをヒントに読解を試みたのだとしたら無効だぞ」
リッドが言ったとおり、魔導書には不思議な作用があり、独力で解かねば魔法が身につかない。
つまりこのとき、恐ろしく短時間に魔導書を解いたと寝言をいうからには、意図せぬズルをしたに違いないとリッドは踏んだのだ。
魔導書に関する規則など知らないアドルフは、目の前の司祭が身に覚えのない不正を疑っていることにしばらく経ってから気がついた。
冗談ではない。口を突いたのは身の潔白をあらわにする反論だ。
「ズルはしておらん。自力で魔導書を読み、詠唱魔法の秘密に近づけたと思っておる」
そう言って憮然とするアドルフに滑稽さでも覚えたのか、リッドは唐突に「ふわはは」と軽やかな声をあげる。
「なるほどな、狙い澄ましたギャグだ。ここに来るまでのあいだひっそり練っていたな?」
ツボに入ったのか、鈴を鳴らした声で笑うリッド。しかしアドルフはさらに憤慨としてしまう。
「ふざけてはおらんのだが。詠唱文の解読法が正しいかどうか貴公にチェックして貰いに来た。我はきわめて真面目に言っておる」
「そんな、たった数時間で……無理に決まってる」
もはやリッドは頭っから否定にかかっていた。
恐らく彼女の思惑では、魔導書の読解を勧めた理由はべつにあったのだろう。わざと難解な問題を与え、それをクリアした高位魔導師や、魔法体系それ自体に尊敬を抱かせることが狙いだったのかもしれない。そして明確な壁にぶつかり、限界を知った教え子を導くところまでがワンセットだったと考えれば辻褄が合う。
「よかろう。あくまで否定するつもりなら論より証拠だ」
仕方なくアドルフはベンチから立ち上がり、自分が読解したとおりの詠唱文を朗々と澄んだ声で唱えはじめた。
教会を去り際、リッドはアドルフにこんなことを言った。
――詠唱魔法とは言語による物理的世界への干渉だ。目には見えないが、術式を通じて現象を再構成していると思えばいい。魔導書にはそのための言語が〈文字にできない言葉〉で記述されている。
思わせぶりなひと言だった。それでなくてもアドルフは三つのテキストのうち、もっとも難解だとされている魔導書に興味を惹かれていた。独裁者にありがちなプライドの高さが、どうせ学ぶならクラスの高い魔法を身につけたいという衝動をかき立てたからだ。
三つのテキストのうち、参考書は普通のゲルト語が、教則本には古代ゲルト語が記されていた。アドルフは勉学に熱心だったのでその両方とも難なく読み解ける。
そしていよいよ、満を持して魔導書と向き合った。ページを開くと、そこにはほとんど無意味としか思えない文字の羅列が刻まれていた。単語の綴りにくわえ、文法がめちゃくちゃなのだ。
もしその文字列が先史時代に遺された未解読文字とかであったなら、アドルフは完全にお手上げだっただろう。そうした文字の読解には言語学者のような才能が必要だからだ。
有名なロゼッタ・ストーンがある。そこに記された古代エジプトの神聖文字はジャン=フランソワ・シャンポリオンが解読した。同じ行為はアドルフには到底真似できない。
リッドはしかし、そんなことを承知で魔導書を託した。単語や文法は支離滅裂だが、表音文字自体は古代ゲルト語のものである。ということは、解読の鍵はもしかしたら全然べつのところにあるのではないだろうか。
こうした直感が、アドルフに恐るべき集中力を生んだ。それは彼の非凡さだ。解放が得られるという報酬を一時忘れ、魔導書に食らいついた。
晩秋の空は変わりやすい。朝方の曇り空が少しずつ晴れてくる。
その間、でたらめとも思える発想で、思いつく限りの読解法を探った。
問題は〈文字にできない言葉〉だった。それは古代ゲルト語のアルファベットで書かれていた。後から思うとそこに着目したことが突破口を開いた。
軍法会議を経た疲労は一日眠った程度ではとれなかったが、そんな疲れを吹き飛ばすほどの着想がある瞬間を境にようやく彼に降りてきた。
看守に借りた紙と鉛筆を駆使して彼の見つけた方法で読み解くと、たとえば〈火焔〉という魔法の項目は一ページ丸ごと〈文字にできない言葉〉とおぼしき言語で詠唱文が記述され、短縮方法らしき注釈まであることがわかったのだ。
くり返しになるがそれは思い込みかもしれない。だが法則性と呼べるものを発見したことは間違いなかった。
リッドとの正午過ぎに落ち合うこと。その時間が来るまでにアドルフは、魔導書に刻まれた詠唱文のいくつかを必死に暗記し、やがて日が真上に来た頃を見計らって収容所の付設教会へ向かった。
***
「そう言えば、貴公の魔法クラスはCだったな?」
到着して早々、藪らかぼうに訊いたアドルフ。裏庭にいたリッドは困ったような顔をして言い返した。
「そのとおりだが、もっと位階が高くないと不満か?」
「いや、そういうわけではないが、だとすると我が同僚であるフリーデはCクラスだというし、言い方は失礼だが同等である。貴公はもっと高位の魔導師だと判じておった」
「ああ、そのことか。事情を知らぬ者にはよく誤解されるんだ」
両腕を体にまわし、体を揺らしながらリッドは言った。
「実はな、聖職者には高位魔法を禁じるという掟があるんだ。かつて《主》の権威を冒す者が現れたのが原因で、代わりに白兵戦を磨くのが習わしだ。私もそうしている」
セクリタナ独自の歴史的背景を述べ、リッドは体の動きを止めた。その疑問を掘り下げるつもりはなかったらしく、アドルフはべつの話題を口にした。
「ところで貴公のようなCクラスの魔導師はどのテキストを読み解き、その位階を得たのか?」
アドルフがベンチのようなものに座りながら言うと、リッドは正面の椅子に腰かけて答える。
「教則本で得られる最高位のクラスがBになる。だから私も教則本までしか読み解いていない」
「ほう? それはそれは」
答えを耳にして、アドルフは表情を崩す。小さな変化ではあったが、軽く鼻息を吐いた辺りに、何やら嘲笑めいたものを感じさせる。
いかにも聖職者然としたリッドだが、その性格は案外幼いところがある。口調から醸しだされる凛々しさはフリーデと通じる部分があったものの、何気ないことで気持ちが変わる。ようするに、無礼なアドルフを見てカチンと来たのだ。
「自信満々だな、アドルフ。どら、いかなる成果を上げたか聞こうじゃないか」
文句こそ抑え込んだが、皮肉っぽい笑みでリッドは言った。
「ふふん、単刀直入に答えようか。我は見事、魔導書を読み解いてやったぞ」
リッドに負けず劣らず、アドルフも笑みを浮かべた。どこかうぬぼれを感じさせる目つきで表情筋を弛め、ニタニタと嫌みっぽいくらいだ。
挑発なのか、単なる自慢なのか判然としない強気な態度である。リッドはますます気分を害し、あえて意地悪な反応を返した。
「なるほど魔導書を。だがアドルフ、ひょっとして仲間の手を借りたんじゃないか? お前が言ったフリーデとかいう同僚の助言を得つつ、それをヒントに読解を試みたのだとしたら無効だぞ」
リッドが言ったとおり、魔導書には不思議な作用があり、独力で解かねば魔法が身につかない。
つまりこのとき、恐ろしく短時間に魔導書を解いたと寝言をいうからには、意図せぬズルをしたに違いないとリッドは踏んだのだ。
魔導書に関する規則など知らないアドルフは、目の前の司祭が身に覚えのない不正を疑っていることにしばらく経ってから気がついた。
冗談ではない。口を突いたのは身の潔白をあらわにする反論だ。
「ズルはしておらん。自力で魔導書を読み、詠唱魔法の秘密に近づけたと思っておる」
そう言って憮然とするアドルフに滑稽さでも覚えたのか、リッドは唐突に「ふわはは」と軽やかな声をあげる。
「なるほどな、狙い澄ましたギャグだ。ここに来るまでのあいだひっそり練っていたな?」
ツボに入ったのか、鈴を鳴らした声で笑うリッド。しかしアドルフはさらに憤慨としてしまう。
「ふざけてはおらんのだが。詠唱文の解読法が正しいかどうか貴公にチェックして貰いに来た。我はきわめて真面目に言っておる」
「そんな、たった数時間で……無理に決まってる」
もはやリッドは頭っから否定にかかっていた。
恐らく彼女の思惑では、魔導書の読解を勧めた理由はべつにあったのだろう。わざと難解な問題を与え、それをクリアした高位魔導師や、魔法体系それ自体に尊敬を抱かせることが狙いだったのかもしれない。そして明確な壁にぶつかり、限界を知った教え子を導くところまでがワンセットだったと考えれば辻褄が合う。
「よかろう。あくまで否定するつもりなら論より証拠だ」
仕方なくアドルフはベンチから立ち上がり、自分が読解したとおりの詠唱文を朗々と澄んだ声で唱えはじめた。
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