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第二章
暗号機エニグマ2
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きちんとした形で魔法を使うのはいつぶりだろう。労務のとき補助的に使う以外、アドルフは魔法に縁がない。
小さく息を吸い込み、その呼吸によって彼は〈外気〉を掌から吸い上げる。何かに喩えるなら、一気に飲み干した水が全身の隅々に拡散していく様子だ。こうしたマナを扱う基本動作を、アドルフはもっとも平易な参考書から学び取った。
「待て、アドルフ」
いまさらリッドが制止を呼びかけた。不穏な動きに懸念を覚えたのだろうか。
しかしアドルフは止まらない。
このとき彼は小声で、三大攻性魔法のひとつである〈火焔〉を練りあげはじめていた。それはやや緊張を孕んだゲルト語の詠唱文となる。
「暁の光よ、灼熱よ、命の源たる炎よ。我が命に応え、万物を灼き尽くせ」
血流に乗って頭の先から爪先までマナが循環する感覚。アドルフはいまや歴然たる魔導師と化した。
「その詠唱文はどこで覚えた?」
「決まっておるであろ、貴公に借りた魔導書だ」
「そんな、たった半日で〈文字にできない言葉〉を理解したなどと、だれが信じるものか。でたらめだ!」
顔色こそ変えないが、席を立ったリッドが理屈に合わないとばかりに険しい声で言った。
「うそではない。これより紡ぎあげる魔法を見ればわかるであろ」
そう、現に魔法は形をなし、アドルフの掌上に林檎大の火球が出現した。
アドルフは詠唱魔法をモノにしていたわけだ。しかしどういった理屈で?
種明かしをすればそれはきわめて単純である。彼はリッドに借りた魔導書を読み、数時間ほど格闘して、そこに記述されていた〈暗号〉を解いたのだ。
思うに〈文字にできない言葉〉とは謎めいた概念だ。初心者であるアドルフは自覚などしていないが、それは最高度の魔法が無秩序に拡散するのを防ぐため、初期に魔法体系を築いた人々が生み出した苦心の作だった。文字にできないはずの言葉で編まれた魔導書が存在する理由。それはすなわち、正しい魔法の詠唱文はそこには記されていない、という意味だったのだ。
代わりに魔導書にはダミーとして支離滅裂な文章が羅列され、頭の賢い者のみがそこに秩序を見いだし、意味をもった暗号文を取り出す。そうしてその暗号文を読み解けた者だけが、封じられし高位魔法を身につけられるわけだ。
そしてこの過程は自力で突破せねばならない。だれかに教えて貰うといったズルをした場合、リッドが再三強調したとおり、魔法は発動しない。
しかしズルと言えば、アドルフが魔導書を暗号化された詠唱文の束だと見破れたのは彼ひとりの力とは言いがたい。なぜなら前世とセクリタナの間には知識の差があったからだ。
彼はドイツ国総統に就いて以降、あらゆる軍事機密にふれ、ドイツの叡智がいかなるものかを徹底的に理解しようと努めた。
そのなかにエニグマという暗号機があった。彼がエニグマを管理する博士にその技術の核心を学ぶべく講義させたことは二度や三度ではない。仕組みを理解し、実際に何種類もの暗号を読み解くことができるまで食い下がった。
そのとき身につけた暗号に関する知識によって彼は、セクリタナの魔法文明が高度な暗号技術によって支えられていたことを偶然発見できたのだ。その具現化として熱気を放つ〈火焔〉が球形の炎を形成し、周囲の空気を激しく焦がしている。
「もうやめろ。マナが燃焼して呼吸が苦しい」
リッドが口を抑え、ゲホゲホと咳をしている。アドルフは規模の大きい魔法を目の当たりにしたことがないため、その現象の意味がわからない。
実を言うとこのとき発生した現象はマナの特性と関わっていた。多くの攻性魔法がそうであるように、燃焼は酸素と同時にマナを消費する。それは裏を返すと、アドルフの発現させた〈火焔〉が周囲のマナと酸素を一瞬で燃やすほど激しい勢いであったことを意味し、大量の燃焼反応がマナを一時的に枯渇させる現象を引き起こしたわけだ。
けれど、いまはそんなことを気にしている場合ではない。
「火球がデカすぎる。まさかお前、本当に魔導書を――?」
リッドは明言していなかったが、魔導書を正しく読み解いたのだとすれば、魔法体系の頂点に位置するSクラスの〈火焔〉を発現可能だ。
彼女はようやく疑念を確信に変え、目の前の状況を素直に受け入れた。アドルフが高度な詠唱を行っているのは否定できず、他方で魔法の制御自体を誤れば、突発的な事故が起きると危惧したのだ。
「わかった、本当のことを言っているのは認めよう。だが初心者のお前だからこそ、魔法がコントロールを失う危険がある。火球を縮小できるか?」
リッドの心配を耳にして、アドルフもようやく、自分がヤバいものを生み出してしまったことに意識を向けだした。
「確かに制御が効かんな。むしろ膨らむ一方である」
「言ってるそばからそういうオチか!」
火属性の魔法に対抗すべく、リッドが採りうる手段は限られる。
彼女が方策を思いつき、身構えたとき、アドルフもまた緊急避難的な策を講じようとしていた。
「安心するがよい。我は同時に水属性の魔法も覚えておる。それを使えば――」
「どアホ! 一度に二つの魔法を使えるか!」
ツッコミというには憤然と吐き捨て、リッドは直ちに火球を消し止める魔法を発動させた。相手の攻撃を弾き返す〈反動〉という魔法も存在したが、それはアドルフの体に損傷をもたらす。咄嗟に選択されたのは、そのものズバリ水属性の魔法であった。
「――〈放水〉!」
詠唱をほぼ完全にスキップして発動した魔法は巨大な渦をもつ水流を生み、アドルフの掲げる火球へと轟音とともに殺到した。
水流の勢いに圧倒され、アドルフが恐慌をきたしたのは言うまでもない。よって彼は押し寄せる水流を阻むべく、新たな詠唱文を矢継ぎ早に唱えてしまう。
一度に二つの魔法が詠じられたことを目の当たりにし、リッドは言葉にならない衝撃を受けたが、実際には驚く余裕すら与えられなかった。
「逆しまなる守護者よ、あらゆる災いを撃ち返せ!」
時間にして一秒もかからない。アドルフの放つ魔法はリッドが躊躇った〈反動〉そのものであった。
しかしやはりと言うべきか、二つの魔法を同時に発動させるのは、技量不足のアドルフにとって無理があったようである。詠唱が不十分だったせいで〈反動〉は不成立に終わり、二つめの魔法は形をなす前に消えた。
アドルフは自分の行為がどんなに無謀かを理解していなかったから、一瞬呆けた顔で立ちすくみ、全身の動きを止めた。けれどその隙をつき、大量の水が怒濤のように押し寄せてきた。
あんぐりと開いた彼の口内にそれは容赦なく流れ込む。
「おごぼごごぼぼぼぼっ!? 溺れるであろがぼぼごっ!!」
アドルフが陸地でのたうちまわる鯨のような絶叫を洩らした直後、教会の裏手は荒れ狂う洪水のような有様となり、蒼天の空に水しぶきが散った。
小さく息を吸い込み、その呼吸によって彼は〈外気〉を掌から吸い上げる。何かに喩えるなら、一気に飲み干した水が全身の隅々に拡散していく様子だ。こうしたマナを扱う基本動作を、アドルフはもっとも平易な参考書から学び取った。
「待て、アドルフ」
いまさらリッドが制止を呼びかけた。不穏な動きに懸念を覚えたのだろうか。
しかしアドルフは止まらない。
このとき彼は小声で、三大攻性魔法のひとつである〈火焔〉を練りあげはじめていた。それはやや緊張を孕んだゲルト語の詠唱文となる。
「暁の光よ、灼熱よ、命の源たる炎よ。我が命に応え、万物を灼き尽くせ」
血流に乗って頭の先から爪先までマナが循環する感覚。アドルフはいまや歴然たる魔導師と化した。
「その詠唱文はどこで覚えた?」
「決まっておるであろ、貴公に借りた魔導書だ」
「そんな、たった半日で〈文字にできない言葉〉を理解したなどと、だれが信じるものか。でたらめだ!」
顔色こそ変えないが、席を立ったリッドが理屈に合わないとばかりに険しい声で言った。
「うそではない。これより紡ぎあげる魔法を見ればわかるであろ」
そう、現に魔法は形をなし、アドルフの掌上に林檎大の火球が出現した。
アドルフは詠唱魔法をモノにしていたわけだ。しかしどういった理屈で?
種明かしをすればそれはきわめて単純である。彼はリッドに借りた魔導書を読み、数時間ほど格闘して、そこに記述されていた〈暗号〉を解いたのだ。
思うに〈文字にできない言葉〉とは謎めいた概念だ。初心者であるアドルフは自覚などしていないが、それは最高度の魔法が無秩序に拡散するのを防ぐため、初期に魔法体系を築いた人々が生み出した苦心の作だった。文字にできないはずの言葉で編まれた魔導書が存在する理由。それはすなわち、正しい魔法の詠唱文はそこには記されていない、という意味だったのだ。
代わりに魔導書にはダミーとして支離滅裂な文章が羅列され、頭の賢い者のみがそこに秩序を見いだし、意味をもった暗号文を取り出す。そうしてその暗号文を読み解けた者だけが、封じられし高位魔法を身につけられるわけだ。
そしてこの過程は自力で突破せねばならない。だれかに教えて貰うといったズルをした場合、リッドが再三強調したとおり、魔法は発動しない。
しかしズルと言えば、アドルフが魔導書を暗号化された詠唱文の束だと見破れたのは彼ひとりの力とは言いがたい。なぜなら前世とセクリタナの間には知識の差があったからだ。
彼はドイツ国総統に就いて以降、あらゆる軍事機密にふれ、ドイツの叡智がいかなるものかを徹底的に理解しようと努めた。
そのなかにエニグマという暗号機があった。彼がエニグマを管理する博士にその技術の核心を学ぶべく講義させたことは二度や三度ではない。仕組みを理解し、実際に何種類もの暗号を読み解くことができるまで食い下がった。
そのとき身につけた暗号に関する知識によって彼は、セクリタナの魔法文明が高度な暗号技術によって支えられていたことを偶然発見できたのだ。その具現化として熱気を放つ〈火焔〉が球形の炎を形成し、周囲の空気を激しく焦がしている。
「もうやめろ。マナが燃焼して呼吸が苦しい」
リッドが口を抑え、ゲホゲホと咳をしている。アドルフは規模の大きい魔法を目の当たりにしたことがないため、その現象の意味がわからない。
実を言うとこのとき発生した現象はマナの特性と関わっていた。多くの攻性魔法がそうであるように、燃焼は酸素と同時にマナを消費する。それは裏を返すと、アドルフの発現させた〈火焔〉が周囲のマナと酸素を一瞬で燃やすほど激しい勢いであったことを意味し、大量の燃焼反応がマナを一時的に枯渇させる現象を引き起こしたわけだ。
けれど、いまはそんなことを気にしている場合ではない。
「火球がデカすぎる。まさかお前、本当に魔導書を――?」
リッドは明言していなかったが、魔導書を正しく読み解いたのだとすれば、魔法体系の頂点に位置するSクラスの〈火焔〉を発現可能だ。
彼女はようやく疑念を確信に変え、目の前の状況を素直に受け入れた。アドルフが高度な詠唱を行っているのは否定できず、他方で魔法の制御自体を誤れば、突発的な事故が起きると危惧したのだ。
「わかった、本当のことを言っているのは認めよう。だが初心者のお前だからこそ、魔法がコントロールを失う危険がある。火球を縮小できるか?」
リッドの心配を耳にして、アドルフもようやく、自分がヤバいものを生み出してしまったことに意識を向けだした。
「確かに制御が効かんな。むしろ膨らむ一方である」
「言ってるそばからそういうオチか!」
火属性の魔法に対抗すべく、リッドが採りうる手段は限られる。
彼女が方策を思いつき、身構えたとき、アドルフもまた緊急避難的な策を講じようとしていた。
「安心するがよい。我は同時に水属性の魔法も覚えておる。それを使えば――」
「どアホ! 一度に二つの魔法を使えるか!」
ツッコミというには憤然と吐き捨て、リッドは直ちに火球を消し止める魔法を発動させた。相手の攻撃を弾き返す〈反動〉という魔法も存在したが、それはアドルフの体に損傷をもたらす。咄嗟に選択されたのは、そのものズバリ水属性の魔法であった。
「――〈放水〉!」
詠唱をほぼ完全にスキップして発動した魔法は巨大な渦をもつ水流を生み、アドルフの掲げる火球へと轟音とともに殺到した。
水流の勢いに圧倒され、アドルフが恐慌をきたしたのは言うまでもない。よって彼は押し寄せる水流を阻むべく、新たな詠唱文を矢継ぎ早に唱えてしまう。
一度に二つの魔法が詠じられたことを目の当たりにし、リッドは言葉にならない衝撃を受けたが、実際には驚く余裕すら与えられなかった。
「逆しまなる守護者よ、あらゆる災いを撃ち返せ!」
時間にして一秒もかからない。アドルフの放つ魔法はリッドが躊躇った〈反動〉そのものであった。
しかしやはりと言うべきか、二つの魔法を同時に発動させるのは、技量不足のアドルフにとって無理があったようである。詠唱が不十分だったせいで〈反動〉は不成立に終わり、二つめの魔法は形をなす前に消えた。
アドルフは自分の行為がどんなに無謀かを理解していなかったから、一瞬呆けた顔で立ちすくみ、全身の動きを止めた。けれどその隙をつき、大量の水が怒濤のように押し寄せてきた。
あんぐりと開いた彼の口内にそれは容赦なく流れ込む。
「おごぼごごぼぼぼぼっ!? 溺れるであろがぼぼごっ!!」
アドルフが陸地でのたうちまわる鯨のような絶叫を洩らした直後、教会の裏手は荒れ狂う洪水のような有様となり、蒼天の空に水しぶきが散った。
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