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第二章

出発準備1

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 午後一時頃、アドルフは教会裏を離れた。

 定刻までには戻り、収容所の昼食を急いで食べ、あてがわれた部屋へと直行する。

「ふう、危なかった。あやうく体が凍傷だらけになるところだったぞ」

 真っ先に口を突いたのは愚痴。そして、強烈な冷気によって赤くなった肌を痛々しく撫でる。軽度で済んだが、これが重症なら冷気を浴びた部分がどす黒くなり、細胞組織が壊死していただろう。相手の攻撃を相殺できる自信がない限り、本物の魔導師を怒らせるものではない。

 さすがに調子に乗ったと反省しつつ、彼は思い出す。

 信徒には見せられないほどの恥ずかしめを受けたリッドだが、それでも託された使命には従順であったらしく、ひとしきりアドルフを苦しめたことで気が晴れたのか、魔法にかんするレクチャーを渋々ながら再開してくれた。
 ほんの三〇分前の出来事だが、それはこんな感じであった――。

 ***

「まったくお前は大馬鹿者だ。どうせ支援魔法を覚えるなら〈回復〉から手をつけろ。どうしてもっとも非道な魔法に着目するんだ」

 高位魔法という頂きにたどり着きながら、定石を外し、邪悪さに導かれたことを教師役であるリッドは怒っていた。その怒りのなかにはしかし、呆れと尊敬が半分ずつ入り混じっていた。

「俄には信じがたいが、お前が〈遵守〉を解き明かしたのは本当だと認めよう。それを前提で言うとだ、あの魔法は基本、使う側にも倫理を要求する。どういうことかわかるか?」
「人を傷つけることに使うべきではない、ということだな」
「まあ、平たく言えばそうなる。そうは言ってもお前は守る気などないのだろうが」

 リッドはすでに、アドルフの悪辣な所業を目の当たりにした。よって悪戯心といえど、高い倫理観からほど遠い男だと決めつけた顔で、それがアドルフにとっては気に入らない。

「我はこう見えて紳士的である」
「馬鹿を言え。紳士が司祭を裸にしようとするか、馬鹿者」

 聖職にある者が、馬鹿をしきりにくり返す。よほど腹にすえかねたのだろう。

「だがな、アドルフ。お前のような術者が現れることを見越して〈遵守〉には独自の制限がある」
「制限?」

 これは初耳だ。魔導書には一行も記されていなかったからだ。

「当たり前だろう。いかに最高難度の魔法と言えど、簡単に悪用できては秩序が乱れる。魔法体系を作りあげた偉人たちは、そうした危険をあらかじめ織り込んだわけだ」

 どういうことだろう。アドルフは怪訝な顔をした。もっともその裏側には純粋な興味がある。

「非常に威力のある魔法だけに〈遵守〉の運用は一筋縄ではいかない。具体的には命令する内容が対象にとって抵抗感が大きいものほど魔力の消耗が激しく、術者に負担を強いるようにできている。例えばどんな命令が思いつく?」

 すっかり教師の顔に戻って、リッドは上着を掌で扇ぐ。いまだに乾き切らず、水で張りついた部分が気持ち悪いのだろう。

「そうだな。確実に拒まれそうな命令は、相手に『死ね』ということだな」

 アドルフは平然と言い、リッドもおもむろに頷き返す。

「的確な答えだ。相手を〈遵守〉で殺したくとも、抵抗感の強さを鑑みるとちょっとやそっとでは実現しない。莫大な内気オドと、魔法を使いこなす経験が不可欠となる。下手に困難な命令を下そうとすれば、逆に自分がダメージを受け、一般的にそうした命令は不成立に終わる。制限があるとはこのような意味だ」

 なるほど、とアドルフを感心させる程度にその言葉は説得力があった。世の中は都合よくできていない。唯一の例外は、泣いた赤子が母乳を飲めることくらいだ。

「そうなるとリッドよ。先ほどお前にかけた〈遵守〉が抵抗に遭ったというのも……」
「お察しのとおり。お前の下した命令が、私の倫理観とあまりに隔絶していたことが原因だ」

 荒く鼻息を吐き、彼女はこれ見よがしに腕組みをした。「まだ怒っているんだぞ」というアピールに感じられる。
 だがアドルフは、恍けたふりをしてこんなことを尋ねてみた。

「少々疑問符がつくな」
「何だ、文句でもあるのか?」
「文句ではないが、お前の話が本当なら、無理なことを命じた結果、我は手ひどいしっぺ返しを食らっているべきではないのかね?」

 そう言って彼は、健康な体を誇示する。〈氷結〉のダメージは軽度な凍傷でしかなく、内気オドの目減りも大したことがなさそうだ。理屈の噛み合なさを彼は態度で示す。

「それはあれだ、お前の心身が頑丈なのだろう。私の岩のように固い倫理観を相手にしてなお、持ち前のタフさがそれをはね除けたと考えろ」

 整然とした答えが返ってきた。とはいえアドルフの疑問はまだ解消されない。

「べつの角度から考えてみるべきではないのかね。確かにお前は随分と嫌がった。しかし術者である我はさほど影響を受けていない。とすると、お前の倫理的抵抗とやらは見かけ倒しに過ぎず、本心ではあられもない姿になることを望んでいた……と考えるわけにはいかないかね?」

 話している内容は下ネタに近いが、表面上は哲学問答のような厳かさが漂いはじめる。そんな雰囲気に飲まれつつあったリッドだが、冷静にアドルフの問いを吟味して急に顔を赤らめた。

「待て待て。その言い分では私が裸体になることを望んでいたからこそ、お前はほぼ無傷だ、というふうに聞こえるが……」
「ずばり、そう言っておる。やはりお前はエロ司祭だったようだな、リッドよ」

 論理を重ねた結果、衝撃の事実が導き出され、アドルフは「ぐわはは」と高笑いした。

「ふざけるな、私はこれでもだいぶ抵抗したぞ。いや、めちゃくちゃ必死だった!」

 決然と反論をくり出すが、言えば言うほど露出した肌のいたるところが紅潮する。普段の行儀の良さをかなぐり捨て、リッドの表情はとっくの昔に崩壊していた。

「まあ少なくとも『死ね』と命じるよりは『脱げ』と命じたほうが、魔法が成立する可能性は高いということだな、たとえ相手が《主》に仕える神聖な司祭であっても」
「持ち出す事例が極端すぎる!」

 怒りの〈氷結〉は危険度が高いのか、リッドはもう魔法を撃ってこない。代わりにアドルフの首根っこを掴み、前後に揺さぶりはじめた。

「ああ、実にくだらない! 私が破廉恥だという認識を撤回しろ! 司祭を敬え、犯罪者!」
「乱暴だぞ、リッド。信徒はもっと優しく扱え、優しくな」

 バカげた結論を白日のもとにさらし、慌てふためく司祭がアドルフにはこの上なく愉快であった。長く退屈な囚人生活に欠けていたものがそこにはわずかに含まれていたから。
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