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第五章

チョビひげ騒動2

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「フハハ、お前もその呼び名を知っておるとは。我も幼少期、古典文学を通読したことがあってな、作中で描かれた偉大な男が口ひげを短く刈り揃えることを目にし、子供心に深く感銘を受けたものだ」

 チョビひげを馬鹿にして貶したはずが、アドルフは愉快で仕方ないといった具合に笑い続ける。まるでチョビひげという暴言を褒め言葉として受けとったような反応だ。いったいなぜこんな行き違いが生じたのか。咄嗟にその理由を思いめぐらせたリッドは、アドルフの勘違いという結論に到った。

 アドルフはチョビひげのことを古典小説から学んだと言ったが、時代の異なる作品の価値観は現在のそれと異なることが多い。じつはチョビひげを〈偉大さ〉の象徴として扱うのは古典小説が書かれた時代の価値観に他ならず、現代それらを教養として読む人々はチョビひげのことを〈傲慢さ〉の象徴と見なす。つまり数世紀の間に、言葉の受けとり方が変わっているのだ。

 簡単に言うと、社会的地位にものを言わせる男を徐々に女の側が敬遠するようになり、モテたい男たちは傲慢に見られる格好をしなくなった、というどの世界にもありがちな話がこの異世界でも起きていたのである。

 リッドがアドルフをチョビひげ呼ばわりしてしまったのも、妙に偉そうな態度を見て、こいつ少し傲慢だなとカチンときたからなのだった。

 彼女は司祭という教養高い職に就く人間だから、当然このときチョビひげを揶揄する目的で使っていた。しかしこの場に教養と無縁な者がいたとしたらどうだろうか。リッドの与り知らぬ話だが、それが冒険者協会の幹部職員、ガンテという男であった。

 彼は、リッドとアドルフのやり取りに口を挟み、何気なく言い放った。

「確かにチョビひげは珍しいよな。けど、他人と違うことをする意気は俺様好みだ。近頃の冒険者は型にハマりすぎだからな」

 まさに無教養ゆえの好意的発言だった。しかしリッドは、相手の教養の有無など知ったことではなく、自分の価値観に沿って反応してしまう。

「何を言っているんだ、ガンテ。それは褒め過ぎだろう。お前はあれを見て傲慢だと感じないのか?」
「いいや、感じないな」

 彼女の理解とは違う答えを返すガンテにリッドは困惑を深めるが、その理由を隣で頬杖をつくディアナが教えてくれた。
「馬鹿野郎。ああいうひげはな、魂のでっけぇやつがするって相場が決まってんの」
「魂だと?」
「ああ、そうさ」

 ディアナの発言でリッドの困惑がさらに深まった。言い返す言葉もない彼女に今度はノインが助け舟を出した。

「ディアナの説明だと余計混乱するわ。ようするにね、リッド。ああいうひげは〈偉大さ〉の象徴なの、正直アドルフには生意気だと思うけど」

 態度こそ対照的だが、二人ともチョビひげを好意的に捉えていることは判然としている。チョビひげは〈偉大さ〉の象徴。だがそれだと意味が元に戻っている。どうしてそんなことになっているのか。

「所詮はお偉い司祭様さ。庶民のことなんざ、わからねぇことだらけってわけだぜ」

 ディアナが適当に話をまとめはじめたのを察し、リッドは猛然と食い下がった。

「待って欲しい。これでも教会活動を通じていろんな立場の庶民と付き合ってきた。しかしそのいかなる場においてもチョビひげの男性を私は見たことがない。もしお前たちの話が本当なら、なぜ口ひげを短く刈る庶民の男たちは皆無なんだ!」

 パスンと音を鳴らして手を突き、勢いよく立ち上がってしまったリッド。その発言には一理あったが、他方で彼女は薄々理解しはじめていた。この場で自分だけが教養の高い人間であり、他の者たちはそうでないことに。

 だがそれらはまだ確信へと到っていない。認識の不十分なリッドにたいし、だめ押しをするかのようにガンテがため息を吐いて言った。

「僭越ながら言わせて貰うとだな、雲の上の連中は知らねぇが、庶民の男はおしなべて自信がないのさ。〈偉大さ〉みたいな大層なもんを名乗れる度胸もなければ、大人物に見られるだけの功績もない。迂闊にチョビひげなんざできねぇわけよ。その点、このアドルフ君、いやヒトラー君は――」

 頬骨の辺りを指でポリポリかき、ガンテは隣で腕組みをするチョビひげの男を見た。

「彼は何つうか、町の連中に笑われるのをこれっぽっちも恐れてないっていうか。まだ会ったばかりだが、度胸だけは規格外に見えちまうっていうか。チョビひげの収まりも悪くねぇのよ」

 リッドが抱えた認識のずれはこのとき猛スピードで修正されていった。彼女以外の面々はチョビひげを良いものとして扱い、同時にそれを恐れ多いものと感じていたわけだが、ことアドルフに到ってはそれが板につくと思っているらしい。その証拠に彼の仲間たちは、ガンテの意見に同調して次々と賛意を示してきたのだった。

「この野郎は一応、実績はあるからな。何しろあのルアーガをぶっ倒しやがった」
「魔導師としてもクラスだけはあるみたいだしね。あっ、でもだからって、こいつが偉大だなんて認めたわけじゃないわよ。そこは勘違いしないでよね」

 ディアナとノインの言い分を聞き、ついにリッドは自分の間違いを悟った。教養をもつ者たちの認識は一面的に過ぎず、庶民には独自の価値観があった。そしてたとえ庶民の価値観に立ったとしても、アドルフのチョビひげは嘲笑の的となりえるものだった。まだ何者でもない輩が偉大さの象徴を見せびらかせば、少なからぬトルナバ町民はそれを心の底で笑い者としていたはずだ。

 けれど眉ひとつ動かさず、アドルフは堂々としていた。おのれを偉大な人間に見せたい恥知らずであるのは間違いないが、彼を知る仲間はその風貌を各々の考えで認めた。先刻感じていたとおり、アドルフのなかには人を惹きつける不思議な力がある。それをいま一度思い出したリッドは、これまでの言動を顧みながらアドルフに言った。

「申し訳ない、勘違いしていたのは私のほうだった。本意ではないとはいえ、お前には無礼な発言をしたと思う。どうか謝らせてほしい」

 着席して頭を下げると、アドルフは腕組みを解き、グラスに手を伸ばして言った。

「気にすることはない。口ひげなど形に過ぎん。いまの我には、お前を納得させるだけの偉大さが足りておらん、それだけの話であろ」
「何だそのまとめ方は。でも、ありがとう」

 最後は気を遣われた格好だったが、短い騒動はようやく落ち着きを取り戻す。しかしこのとき、リッドの心にざらつく澱のようなものがあった。それはほんの少し前、フリーデが口にしたひと言だ。

 ――君の生やした口ひげのほうがよっぽど問題含みだ。

 仲間のなかで、彼女だけがチョビひげに疑念を呈していた。あれはいったい何を意味していたのだろう。評価の不一致があることに異存はないが、この機会に全員の考えを聞き、同じ失敗をくり返さない材料としたい。リッドはそんな思いを抱き、さりげなくフリーデに問いかけた。

「そう言えばお前だけさっきアドルフの口ひげを問題視してたけど、あれは何だったんだ?」
「ん? 口ひげ?」

 よく見るとフリーデは満腹感から睡魔に襲われていたようで目つきは胡乱だった。しかし、疑問の内容は伝わったらしく、わずかに動いているとおぼしき頭部を掌で抱え、ダルい調子で答えをよこした。

「あれは些細な話だ。口ひげがあると、トルナバ名物のクリヤーデが食べられなくなるだろ?」

 彼女によるとクリヤーデとは、長めの白パンに豚の腸詰めを挟み、特製のソースをかけたものだという。違う世界で食されているホットドッグに近いと言えるが、この時点でリッドは少々嫌な予感がした。口ひげの扱いを真面目にとらえていた彼女にたいし、フリーデの態度はひどくぞんざいに映ったのだ。

「その、クリヤーデを食べられないとはどういう意味だ?」

 及び腰になって質問をぶつけるが、フリーデは身ぶり手ぶりを交えて答えてきた。

「想像してみてくれ。口ひげがあるとクリヤーデにかぶりついた途端、ソースがひげにべったりついてしまう。そんなリスクをおかしてまで口ひげを生やす意味があるのか、と僕は心配してやったんだ。君は無視したけどな、アドルフ?」

 フリーデが横目で言うと、問題の張本人はあごをひと撫でした。

「そんなの当然であろ。我は肉を口にできんが、クリヤーデに関しては口ひげを汚してでも食し続けるし、その覚悟はできておる。何ならリッド、このあと腹ごなしに味わってみてはどうかね?」
「……いや、いい。もうお腹いっぱいだ」

 善良にして未熟な部分もある司祭は、愛想笑いを浮かべて顔の前で手を左右に振った。感性や価値観はひとそれぞれ。他人のお洒落など論評せず、今後は全てをあるがまま認めようとかたく心に誓いながら。
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