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第七章
オフラーナの伝書鳩2
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そのマップには、昨日検討した机上演習の跡が残っていた。
鮮やかな赤い光点が一騎の魔導師である。そのうちの一つを動かしながらパベルが口を開く。
「既存の案だと、余は三名の手勢を率いて城壁に陣取り、魔獣の殲滅を図ることになっていたが、その人数を四名に増員する。緒戦で確実に押し返し、城壁の向こうへ出た時点で大規模魔法にて殲滅をはかる」
城壁沿いに移動させた光点をじっと眺め、オットーが大仰に頷き返す。
しかしそこからパベルは「もっともこれは、些細な変更点に過ぎない」と付けくわえ、一同をぐるりと見まわした。ルツィエは兄の勿体ぶった説明に辟易したが、すぐに間違いであったと気づかされる。
「よいか、お前たち。真に重要なのは、ルツィエと二名の鉄兜団員を、後方支援に特化することだ。主に遠距離攻撃に徹し、行政府庁舎及び公邸の防衛任務も務めて貰う。なおそのうち一名の団員をヴァインベルガーたちの警護にあたらせる」
この発言にルツィエは飛びあがるほど驚き、おぼろな睡魔は一気にさめた。
パベルが立てたプランは対魔獣戦を重視した布陣で、昨日の話だと彼女は守備隊として城内に第二防衛線を張り、比較的自由に動きまわれることになっていた。しかしいまの発言が本当なら、その部分が大幅に修正された形である。
「残りの鉄兜団は街をエリアごとに守り、敵の本隊を各個撃破する。何か質問は?」
赤い光点を再配置したパベルを見つめ、ルツィエが言った。
「納得がいかないわ、ベル兄様」
彼女は肩を怒らせ、不満も露に噛みついていた。理由は明白である。後方支援への配置転換が気に食わなかったのだ。
敵軍は〈空飛ぶヒトデ〉を兵器に前線突破を目論んでおり、魔獣を蹴散らせば戦力はガタ落ちになるばかりか、敵主力はむき出しになる。そこをルツィエ率いる守備隊が効果的に叩き、相手を総崩れにさせる。
以上が修正前の方針。けれど後方支援などにまわされたら活躍の場を失うのは確実だ。ルツィエはこのとき、グレアムが発した捨て台詞を鮮明に思い出した。
――貴様の長兄はただの人格者ではないな。ぼんやりしてると功績を独り占めされるぞ。
ひょっとして、と彼女は思った。パベルは自分が手柄を立てる芽を摘むべく、配置換えを決めたのではないだろうか。
ルツィエにとって兄はライバルなのだから、思い込みとも言える想像には妥当性があった。
しかし同じ考えをパベルは共有していないようだった。彼は彼で、独自の観点にもとづいていることがすぐさま明確に示される。
「そんな顔で余を睨むとは。どうやらお前を勘違いさせてしまったようだね」
憤然とした様子のルツィエに視線をむけ、表情を崩しながらパベルが言った。
「安心なさい。負担を軽減しただけで、出番まで取りあげたりはしないよ」
――どういうこと?
両手の拳を握ったままルツィエは思案げになるが、パベルは温厚さを湛えた声で話を続ける。
「戦いに絶対はない。魔獣を押し返すと言ったが、突破されるかもしれない。だがそうなったとき、兵力の手薄な第二防衛線にお前をつけたら、魔獣や敵主力の餌食となるだろう? 配置を後方に下げたのはそうなることを回避するためだ」
これだけ念入りに説明されれば、さすがのルツィエもある程度得心がいった。
作戦を立てた兄は、この度の防衛作戦をあらゆる角度から検証した結果、敵の侵攻ルートを陣形の中央で塞ぐ形となったルツィエに負担が集中することを危惧したわけだ。
確かに自軍が不利に陥る状況を想定すれば、パベルの作戦変更は正しい判断である。しかし単純に負担を軽減するだけなら、べつのやり方があるようにも思えた。
「防衛線を築かないかわりに守備隊を両翼に開けばよいのでは?」
ソファに身を投げ出したルツィエは、華奢なあごをツンと上向かせて言い放った。まだ不満は収まっていないというしぐさだが、パベルはそんな妹の児戯を不快と思わなかったようだ。
「悪くないアイデアだが、それだと貴重な戦力を有効活用できない。後方待機の意味は、お前を温存することにあるんだ」
「……温存?」
珍しくルツィエがおうむ返しになった。
「そのとおり。お前には是非ともやって貰いたいことがある。出番は取りあげないと言っただろ?」
軽く腕組みをしたパベルは、涼しげな目つきで笑い顔を見せた。俗にいう「目が笑っていない表情」というやつだ。ルツィエはほんの少しだけその変化を気味悪く感じた。
猜疑心の強い者は裏を返せば臆病である。そして臆病な者ほど、相手の心に敏感だ。実際、彼女の得た直感は正しく機能していた。
「しばらく悩んでいたことなんだが、条件つきでお前に特別な権限を与えておく。基本的に無理をさせる気はなかったものの、それで負けたら意味がないだろう?」
兄の顔は優しい。どこか天使のようだ。
けれどそんな慈悲深い顔が、似ても似つかぬ言葉をゆっくりと紡いでいく。
「ルツィエ、お前はこのあいだ〈爆縮〉を詠じてみせたそうだね。補佐官から訊いたよ」
補佐官とはたぶん、ルツィエの率いた部下のことだ。
パベルは鉄兜団を隷下に収めるに際して団員と個別に面談をおこなった。ルアーガ遭遇戦に関わる経緯をそこで聞き取ったのだろう。
しかし切迫した状況下、あえて話題に出した意味は何か。その理由に考えが及ばないほど、ルツィエは愚鈍な将校ではなかった。
「〈爆縮〉……ですと?」
一拍遅れで声をあげたのは怪訝な顔つきのオットーである。魔導師でない彼にはレア魔法の知識がなく、戸惑いを覚えたのだろう。
慌ててフォローにまわるローゼ嬢がオットーに耳打ちをした。その動きを横目に、ルツィエはパベルのむけた顔を凝視してしまう。
首筋の辺りがぞわぞわした。それを見透かしたように兄は厳かに告げた。
「我々の思惑が外れ、魔獣の突破を許したときは、お前の全力を尽くしても構わない。むろんその対応のなかに〈爆縮〉も含む」
天使のごとき顔は依然、優しさを湛えていた。けれどルツィエはもう、そこに慈悲を見出だせない。
ビュクシは多数の人口を抱える城塞都市だ。街の内部で〈爆縮〉を使うと何が起こるか、魔法の威力を知る者なら二の足を踏むのは間違いない。
現に事情を理解したとおぼしきオットーは、急に青ざめた表情となり口を挟んできた。
「し、しかしですぞ、お待ちください殿下。それではこの街の住民が犠牲に――」
規模の大きな〈爆縮〉は周囲に原因不明の毒をバラまく。ローゼ嬢の説明によってその事実を知ったのだろう。肥満体を腹を揺らし、オットーは慌てふためいていた。
街の安全を第一に考えるなら、当然の態度である。もっともパベルは平静な態度を前に押し出し、そうした常識に縛られるつもりは毛頭ない様子だった。
「言いたいことはわかっているが、これはすでに戦争なのだ。力を出し惜しんで負けることなど許されない。それに余が頼りにするルツィエを凡百な魔導師と一緒にされては困る」
逆らうなら不敬と言わんばかりの返答。オットーはごくりと息をのみ、恐怖で染まった顔をルツィエにむけてきた。
――〈爆縮〉の使用許可。
それは確かに思いもよらない命令だった。
彼女の知る兄なら、むしろ使用を禁じてもおかしくないと考えられたからだ。
ヘレナ王妃系統の長兄であるパベルは、すぐれた点がいくつかあっても、結局のところ善人という殻を破れない王位継承者としては魅力のない人物。それがルツィエの見立てだった。
なのに鋭く嗅覚を働かせ、戦況をシビアに読み取ったふしがある。自分への命令も変わったし、住民の保護を最優先するといった軟弱さも垣間見せない。
ここ数日の働きぶりに表れていたが、パベルはごく短期間で決然と腹を括ったようだ。天使の顔を捨て、鬼の仮面をかぶることによって。
もし後者の彼こそ本当の姿なら、案外大物に化けるかもしれない。
そう、ちょっとしたきっかけが人の運命を変える。貧民の子に生まれたルツィエ、つまりスターリンが図らずもロシア革命という偉業に関わり、赤い皇帝として世界第二位の超大国に君臨する人生をたどったように。
――ただでさえ王位継承順位で負けている男にこれ以上差をつけられるわけにいかないわ。
ルツィエは得意の薄笑いをやめ、ソファから立ちあがり、暗い瞳を隠しながらパベルを見つめて言った。
「ありがとうございます、ベル兄様。必ずや期待に応えてご覧にいれましょう」
「良い意気込みだ。よろしく頼む」
すかさず敬礼をしたルツィエに応じ、パベルもこめかみに右手を添えて返した。
「一人前の魔導師になったからには子供扱いはしないのがバロシュ家の教えだ。昨日告げたとおり、余の身にもしものことがあったときは、司令官の権限はお前に委譲される。責任感に潰されないよう、職務に邁進してほしい」
簡潔なひと言ではあったが、そこには妙な力がこもっていた。
パベルとルツィエ。余人が立ち入れないほど見つめ合った二人の心はどこまでもすれ違っている。兄は妹に信頼を与え、妹は兄に不信を深めた。
絡み合った視線が解けたときだった。応接間の扉が乱暴に数回ノックされた。
副官であるローゼ嬢が小走りでむかい、扉を開けた。顔をぬっと突き出したのは、本来ルツィエの部下である鉄兜団員の男であった。背丈のあるローゼ嬢より頭一つ半ぶん高い、長身赤髪の若者だ。
「パベル殿下にお取り次ぎ願いたい」
そんな声が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはその鉄兜団員は派手な靴音を鳴らし、部屋の奥へと侵入してきた。ローゼ嬢は呆気にとられている。父であるオットーも同様だ。
「会議中だぞ!」
叫んだのは憤然とした構えのオットーだ。しかしその声は意味をなさなかった。ほぼ同時に教会の鐘が荘厳な音を奏で、応接間に詰めた者たちは一瞬、自由を奪われたようになったからだ。
決して小さくない鐘の音が広い応接間まで響き渡った。その重厚な音の圧力を、長身赤髪の鉄兜団員がうわずった声で破った。
「殿下、距離およそ二ギロメーテルの空域に敵影が現れました」
くり返し教会の鐘が鳴る。一時間まえは九時だった。すなわちいまは午前一〇時だ。
だいたいオフラーナのよこした予想開戦時刻は正しかったわけである。しかしルツィエは状況を冷静に顧みて瞬時に違和感を抱いてしまう。敵の行動が予想どおりならば、伝令に現れた部下はなぜ焦りの色を濃厚に浮かべているのかと。
釣り鐘の揺れる厳かな音が、大窓を通して行政官公邸の応接間を隅々まで満たした。その音が途切れる間を見きわめて鉄兜団員は早口で告げた。
「魔獣が現れましたが、事前の作戦どおりではありません。敵影は少なくとも三体おります」
「……三体?」
動揺した声をあげるのはパベルだった。彼はもう一度同じ問いをくり返すが、返答は変わらなかった。
「そんな馬鹿な」
ひと言洩らしたきり、パベルは片手で胸を抑え込む。気持ちを落ち着かせようとしているのだろうが、安らかな表情とは言いがたい。それもそのはずだ。オフラーナのよこした情報では、敵の使役する魔獣は母親であるエディッサ一体のはずだった。
短い準備時間のなかでパベルは最善を尽くしたが、その前提が早くも揺らいでいく。降って湧いたかのような敵情報により、室内に詰めた者たちの狼狽は部屋じゅうを騒然とさせはじめた。
――あら。どうやら出ばなをくじかれたみたいね。
突如沸き立った不穏さを邪悪な瞳で見つめ、ルツィエは忍び笑いを洩らした。その悪意は当然パベルにたいしてむけられている。緒戦に挑む前から足許を掬われたとおぼしき状況だが、何の失点もなくパベルに勝たれるほうが彼女にとって都合が悪い。
けれど、そんな不埒な考えを抱くルツィエの孤立した佇まいに意識をむける者は、あいにくこの場には皆無なのであった。
鮮やかな赤い光点が一騎の魔導師である。そのうちの一つを動かしながらパベルが口を開く。
「既存の案だと、余は三名の手勢を率いて城壁に陣取り、魔獣の殲滅を図ることになっていたが、その人数を四名に増員する。緒戦で確実に押し返し、城壁の向こうへ出た時点で大規模魔法にて殲滅をはかる」
城壁沿いに移動させた光点をじっと眺め、オットーが大仰に頷き返す。
しかしそこからパベルは「もっともこれは、些細な変更点に過ぎない」と付けくわえ、一同をぐるりと見まわした。ルツィエは兄の勿体ぶった説明に辟易したが、すぐに間違いであったと気づかされる。
「よいか、お前たち。真に重要なのは、ルツィエと二名の鉄兜団員を、後方支援に特化することだ。主に遠距離攻撃に徹し、行政府庁舎及び公邸の防衛任務も務めて貰う。なおそのうち一名の団員をヴァインベルガーたちの警護にあたらせる」
この発言にルツィエは飛びあがるほど驚き、おぼろな睡魔は一気にさめた。
パベルが立てたプランは対魔獣戦を重視した布陣で、昨日の話だと彼女は守備隊として城内に第二防衛線を張り、比較的自由に動きまわれることになっていた。しかしいまの発言が本当なら、その部分が大幅に修正された形である。
「残りの鉄兜団は街をエリアごとに守り、敵の本隊を各個撃破する。何か質問は?」
赤い光点を再配置したパベルを見つめ、ルツィエが言った。
「納得がいかないわ、ベル兄様」
彼女は肩を怒らせ、不満も露に噛みついていた。理由は明白である。後方支援への配置転換が気に食わなかったのだ。
敵軍は〈空飛ぶヒトデ〉を兵器に前線突破を目論んでおり、魔獣を蹴散らせば戦力はガタ落ちになるばかりか、敵主力はむき出しになる。そこをルツィエ率いる守備隊が効果的に叩き、相手を総崩れにさせる。
以上が修正前の方針。けれど後方支援などにまわされたら活躍の場を失うのは確実だ。ルツィエはこのとき、グレアムが発した捨て台詞を鮮明に思い出した。
――貴様の長兄はただの人格者ではないな。ぼんやりしてると功績を独り占めされるぞ。
ひょっとして、と彼女は思った。パベルは自分が手柄を立てる芽を摘むべく、配置換えを決めたのではないだろうか。
ルツィエにとって兄はライバルなのだから、思い込みとも言える想像には妥当性があった。
しかし同じ考えをパベルは共有していないようだった。彼は彼で、独自の観点にもとづいていることがすぐさま明確に示される。
「そんな顔で余を睨むとは。どうやらお前を勘違いさせてしまったようだね」
憤然とした様子のルツィエに視線をむけ、表情を崩しながらパベルが言った。
「安心なさい。負担を軽減しただけで、出番まで取りあげたりはしないよ」
――どういうこと?
両手の拳を握ったままルツィエは思案げになるが、パベルは温厚さを湛えた声で話を続ける。
「戦いに絶対はない。魔獣を押し返すと言ったが、突破されるかもしれない。だがそうなったとき、兵力の手薄な第二防衛線にお前をつけたら、魔獣や敵主力の餌食となるだろう? 配置を後方に下げたのはそうなることを回避するためだ」
これだけ念入りに説明されれば、さすがのルツィエもある程度得心がいった。
作戦を立てた兄は、この度の防衛作戦をあらゆる角度から検証した結果、敵の侵攻ルートを陣形の中央で塞ぐ形となったルツィエに負担が集中することを危惧したわけだ。
確かに自軍が不利に陥る状況を想定すれば、パベルの作戦変更は正しい判断である。しかし単純に負担を軽減するだけなら、べつのやり方があるようにも思えた。
「防衛線を築かないかわりに守備隊を両翼に開けばよいのでは?」
ソファに身を投げ出したルツィエは、華奢なあごをツンと上向かせて言い放った。まだ不満は収まっていないというしぐさだが、パベルはそんな妹の児戯を不快と思わなかったようだ。
「悪くないアイデアだが、それだと貴重な戦力を有効活用できない。後方待機の意味は、お前を温存することにあるんだ」
「……温存?」
珍しくルツィエがおうむ返しになった。
「そのとおり。お前には是非ともやって貰いたいことがある。出番は取りあげないと言っただろ?」
軽く腕組みをしたパベルは、涼しげな目つきで笑い顔を見せた。俗にいう「目が笑っていない表情」というやつだ。ルツィエはほんの少しだけその変化を気味悪く感じた。
猜疑心の強い者は裏を返せば臆病である。そして臆病な者ほど、相手の心に敏感だ。実際、彼女の得た直感は正しく機能していた。
「しばらく悩んでいたことなんだが、条件つきでお前に特別な権限を与えておく。基本的に無理をさせる気はなかったものの、それで負けたら意味がないだろう?」
兄の顔は優しい。どこか天使のようだ。
けれどそんな慈悲深い顔が、似ても似つかぬ言葉をゆっくりと紡いでいく。
「ルツィエ、お前はこのあいだ〈爆縮〉を詠じてみせたそうだね。補佐官から訊いたよ」
補佐官とはたぶん、ルツィエの率いた部下のことだ。
パベルは鉄兜団を隷下に収めるに際して団員と個別に面談をおこなった。ルアーガ遭遇戦に関わる経緯をそこで聞き取ったのだろう。
しかし切迫した状況下、あえて話題に出した意味は何か。その理由に考えが及ばないほど、ルツィエは愚鈍な将校ではなかった。
「〈爆縮〉……ですと?」
一拍遅れで声をあげたのは怪訝な顔つきのオットーである。魔導師でない彼にはレア魔法の知識がなく、戸惑いを覚えたのだろう。
慌ててフォローにまわるローゼ嬢がオットーに耳打ちをした。その動きを横目に、ルツィエはパベルのむけた顔を凝視してしまう。
首筋の辺りがぞわぞわした。それを見透かしたように兄は厳かに告げた。
「我々の思惑が外れ、魔獣の突破を許したときは、お前の全力を尽くしても構わない。むろんその対応のなかに〈爆縮〉も含む」
天使のごとき顔は依然、優しさを湛えていた。けれどルツィエはもう、そこに慈悲を見出だせない。
ビュクシは多数の人口を抱える城塞都市だ。街の内部で〈爆縮〉を使うと何が起こるか、魔法の威力を知る者なら二の足を踏むのは間違いない。
現に事情を理解したとおぼしきオットーは、急に青ざめた表情となり口を挟んできた。
「し、しかしですぞ、お待ちください殿下。それではこの街の住民が犠牲に――」
規模の大きな〈爆縮〉は周囲に原因不明の毒をバラまく。ローゼ嬢の説明によってその事実を知ったのだろう。肥満体を腹を揺らし、オットーは慌てふためいていた。
街の安全を第一に考えるなら、当然の態度である。もっともパベルは平静な態度を前に押し出し、そうした常識に縛られるつもりは毛頭ない様子だった。
「言いたいことはわかっているが、これはすでに戦争なのだ。力を出し惜しんで負けることなど許されない。それに余が頼りにするルツィエを凡百な魔導師と一緒にされては困る」
逆らうなら不敬と言わんばかりの返答。オットーはごくりと息をのみ、恐怖で染まった顔をルツィエにむけてきた。
――〈爆縮〉の使用許可。
それは確かに思いもよらない命令だった。
彼女の知る兄なら、むしろ使用を禁じてもおかしくないと考えられたからだ。
ヘレナ王妃系統の長兄であるパベルは、すぐれた点がいくつかあっても、結局のところ善人という殻を破れない王位継承者としては魅力のない人物。それがルツィエの見立てだった。
なのに鋭く嗅覚を働かせ、戦況をシビアに読み取ったふしがある。自分への命令も変わったし、住民の保護を最優先するといった軟弱さも垣間見せない。
ここ数日の働きぶりに表れていたが、パベルはごく短期間で決然と腹を括ったようだ。天使の顔を捨て、鬼の仮面をかぶることによって。
もし後者の彼こそ本当の姿なら、案外大物に化けるかもしれない。
そう、ちょっとしたきっかけが人の運命を変える。貧民の子に生まれたルツィエ、つまりスターリンが図らずもロシア革命という偉業に関わり、赤い皇帝として世界第二位の超大国に君臨する人生をたどったように。
――ただでさえ王位継承順位で負けている男にこれ以上差をつけられるわけにいかないわ。
ルツィエは得意の薄笑いをやめ、ソファから立ちあがり、暗い瞳を隠しながらパベルを見つめて言った。
「ありがとうございます、ベル兄様。必ずや期待に応えてご覧にいれましょう」
「良い意気込みだ。よろしく頼む」
すかさず敬礼をしたルツィエに応じ、パベルもこめかみに右手を添えて返した。
「一人前の魔導師になったからには子供扱いはしないのがバロシュ家の教えだ。昨日告げたとおり、余の身にもしものことがあったときは、司令官の権限はお前に委譲される。責任感に潰されないよう、職務に邁進してほしい」
簡潔なひと言ではあったが、そこには妙な力がこもっていた。
パベルとルツィエ。余人が立ち入れないほど見つめ合った二人の心はどこまでもすれ違っている。兄は妹に信頼を与え、妹は兄に不信を深めた。
絡み合った視線が解けたときだった。応接間の扉が乱暴に数回ノックされた。
副官であるローゼ嬢が小走りでむかい、扉を開けた。顔をぬっと突き出したのは、本来ルツィエの部下である鉄兜団員の男であった。背丈のあるローゼ嬢より頭一つ半ぶん高い、長身赤髪の若者だ。
「パベル殿下にお取り次ぎ願いたい」
そんな声が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはその鉄兜団員は派手な靴音を鳴らし、部屋の奥へと侵入してきた。ローゼ嬢は呆気にとられている。父であるオットーも同様だ。
「会議中だぞ!」
叫んだのは憤然とした構えのオットーだ。しかしその声は意味をなさなかった。ほぼ同時に教会の鐘が荘厳な音を奏で、応接間に詰めた者たちは一瞬、自由を奪われたようになったからだ。
決して小さくない鐘の音が広い応接間まで響き渡った。その重厚な音の圧力を、長身赤髪の鉄兜団員がうわずった声で破った。
「殿下、距離およそ二ギロメーテルの空域に敵影が現れました」
くり返し教会の鐘が鳴る。一時間まえは九時だった。すなわちいまは午前一〇時だ。
だいたいオフラーナのよこした予想開戦時刻は正しかったわけである。しかしルツィエは状況を冷静に顧みて瞬時に違和感を抱いてしまう。敵の行動が予想どおりならば、伝令に現れた部下はなぜ焦りの色を濃厚に浮かべているのかと。
釣り鐘の揺れる厳かな音が、大窓を通して行政官公邸の応接間を隅々まで満たした。その音が途切れる間を見きわめて鉄兜団員は早口で告げた。
「魔獣が現れましたが、事前の作戦どおりではありません。敵影は少なくとも三体おります」
「……三体?」
動揺した声をあげるのはパベルだった。彼はもう一度同じ問いをくり返すが、返答は変わらなかった。
「そんな馬鹿な」
ひと言洩らしたきり、パベルは片手で胸を抑え込む。気持ちを落ち着かせようとしているのだろうが、安らかな表情とは言いがたい。それもそのはずだ。オフラーナのよこした情報では、敵の使役する魔獣は母親であるエディッサ一体のはずだった。
短い準備時間のなかでパベルは最善を尽くしたが、その前提が早くも揺らいでいく。降って湧いたかのような敵情報により、室内に詰めた者たちの狼狽は部屋じゅうを騒然とさせはじめた。
――あら。どうやら出ばなをくじかれたみたいね。
突如沸き立った不穏さを邪悪な瞳で見つめ、ルツィエは忍び笑いを洩らした。その悪意は当然パベルにたいしてむけられている。緒戦に挑む前から足許を掬われたとおぼしき状況だが、何の失点もなくパベルに勝たれるほうが彼女にとって都合が悪い。
けれど、そんな不埒な考えを抱くルツィエの孤立した佇まいに意識をむける者は、あいにくこの場には皆無なのであった。
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