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第七章
停戦交渉2
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はたして何分経ったのだろうか。
再びルツィエが目を開くと、歩哨に立っていた鉄兜団員が空を見あげていた。
「どうだった?」
その団員の問いに、誰かが答えた。声はひどく途切れがちで、会話は聞き取れない。
横目で見ると、低空飛行で滑り込んだチェイカが地面を擦りながら着陸した。操縦士は素早い動作で飛び降り、歩哨に立った団員がそれを掴まえ、同じ問いをくり返している。
会話は早口だが、段々輪郭をおびてきた。
しばらくするとそれは明瞭な会話となり、ルツィエの耳に飛び込んできた。
「殿下のご裁可があればよいのだな?」
「向こうはそう言ってる」
なるほど、と彼女は心のなかで息を吐く。
どうやら自分がうたた寝をしているあいだに停戦交渉が進んでいたらしい。覚束なかったルツィエの頭もめきめきと回復へと向かう。
そんな彼女の視界のなかで、歩哨に立った男が、操縦士と装備を交換した。チェイカに乗る準備と思われるが、それを終えると歩哨の男はルツィエに歩み寄り、彼女を抱き起こしつつ言った。
「お目覚めでしたか、姫殿下」
こくりと頷くルツィエに微笑みかけ、男は軽く頭を下げた。
「敵側との話がついたようです。早速にも交渉の場へお連れしたく思いますが、よろしいですか?」
「……ええ。わかったわ」
やっと絞り出した声はか細かったものの、気分はだいぶ落ち着いた。体調が良くなったうえに、命令どおりの交渉を部下たちはやり遂げていたのだ。地獄の出口は間近まで見えている。
「こちらにお乗りください、殿下」
交代要員となった歩哨の男は、おもむろに背中向きでしゃがみ込んだ。ルツィエは一瞬ためらいを覚えつつも、すぐに迷いを捨て、彼の体に抱きついた。
広くて厚い背中は、背負われてみれば実に心地が良かった。事前準備を経て、正式にはじまる交渉へ赴く将帥。そんな自分の立場をしばし忘れそうなほどに。
なぜそんな気持ちになったのだろう。
ふとした疑問を浮かべた途端、ルツィエは思い出した。だれかに背負われてチェイカに乗るのは、今回が初めてではなかったことを。
それは、いまより数歳幼かった頃の記憶だ。記憶というより、むしろ思い出に近い。
前世の頃から高所恐怖症だった彼女は、家庭教師であるイェーガー少将のしごきに耐えかね、チェイカの演習から逃げまくっていた。けれど、こんなことでは魔導師として、軍人として先がないと宣告を下され、何としても苦手を克服すべく、最初は他人の操縦で空を舞うことを決めたのだった。
無理を押しつけた相手はパベルだった。操縦するチェイカに乗せて欲しいとせがんだところ、あまりにしつこくねだるのに折れ、パベルは同乗を許可してくれた。そのかわり、背中に紐できつく縛りつけられ、赤子のような真似をさせられた。
はじめてチェイカに乗った感想は、想像以上の恐怖体験だった。離陸するまでは怖さしかなく、空を舞ってからは生きた心地がしなかった。高度をあげるつにれ、目がまわりパニックになった。
重力に逆らうということ自体、きわめて不自然な現象だ。生命の摂理に反している。そんな四角四面な考えがルツィエを、そしてスターリンを空から遠ざけてきた。
ほとんど無意識の反応だから、気持ちでどうなるものでもない。ショックでおしっこを漏らすことはかろうじて耐えたが、チェイカが加速を止め、滑らかに風を掴んでも、ルツィエは号泣し続けた。
パベルがたしなめても涙は止まることはなかった。怖いものは怖いのだ。そんな駄々をこねながら、兄の背中に必死にしがみつき、こんなひどい目に遭うなら魔導師失格でいいとさえ思った。
そんなルツィエがなぜ高所恐怖を克服できたのか。
はじめて空を飛んだとき、彼女の心は九九パーセント重力との戦いを放棄していた。しかし不思議な話だが、わずか一パーセント未満の要素が心のどこかに埋もれていたのだ。
あえて言葉にするなら、それはロマンになる。
ルツィエがまだスターリンだった頃、その幼少期において彼女は父親から日常的に暴力を受け続けた。心の傷は性格をねじ曲げ、後のスターリンを残忍なサディストにするばかりか、極度の小心者へと変える要因となった。
とはいえ人間とは面白いもので、何も失うものがないときは臆病さは影を潜め、むしろ命知らずな大胆さが前面に出たりする。革命家時代のスターリンはその典型だった。
理論の構築を得意とする者、労働者を組織することに長けた者。様々な同志たちがいたなか、スターリンが得意としたのは資金調達だった。ロシア帝国の秘密警察網を出し抜き、銀行を襲って金を奪うこと。プロのギャングも裸足で逃げ出すほどの腕前を彼は誇っていた。
むろん、何度も逮捕されてはシベリアの刑務所に送られ、そのたびに脱獄をくり返した。本当に若い、青年期の話だ。実際、革命をなし遂げ、権力の階段を昇りはじめると、スターリンはもう二度とみずからの手でリスクをとらなくなった。集団指導体制を装い、悪事は部下に押しつけた。
まだ何者でもないルツィエは、いわば革命家時代のスターリンに近い。転生時に老人だった彼女だが、人はどんなに年老いても若い頃のまま心の成長が止まった部分があるものだ。
はじめてチェイカに乗ったとき、ルツィエの心でかすかなロマンがうずいた。それは社会のしがらみから逃れ、奔放だった青年期スターリンの残滓だ。重力を振り切って、空を自由に舞うこと。教えてくれたのは奇しくも、温厚だが疎ましいパベルだった。
「ルツィエ、鳥に憧れたことはあるかい? チェイカは人を鳥に変えるための道具だ。その喜びが恐怖を上まわるなら、お前は良いチェイカ乗りになれる。必ずなれるさ」
泣き喚く一方だったルツィエの心に、そのひと言は驚くほどスッと沁み込んだ。恐怖がいきなり消えたわけではないが、花の種が大地に芽吹くかのごとく、控え目なロマンは彼女の心から怖々と顔を覗かせた。パベルはそれを自由な鳥に喩え、チェイカを操りながら空を飛ぶことの憧憬を惜しみなく説いて聞かせた。
きっと彼の導きがなければ、高所恐怖症を克服できなかったと思う。魔導師として成長したいまとなっては、感謝の念は微塵もない。けれど意識の底には残っているのだ。いまだ消えることなきロマンと、そこに刻まれたパベルとの思い出。心がくすぐったくなるような幼き日のエピソードが。
部下の鉄兜団員にしがみつきながら、彼女は過去を追想し、自分が葬り去った兄のことを思った。疎ましい競争相手ではあったが、彼はルツィエにどこまでも優しかった。その優しさが命取りとなったものの、好きか嫌いかでいえば、憎む理由はどこにもなかったと思う。
再びルツィエが目を開くと、歩哨に立っていた鉄兜団員が空を見あげていた。
「どうだった?」
その団員の問いに、誰かが答えた。声はひどく途切れがちで、会話は聞き取れない。
横目で見ると、低空飛行で滑り込んだチェイカが地面を擦りながら着陸した。操縦士は素早い動作で飛び降り、歩哨に立った団員がそれを掴まえ、同じ問いをくり返している。
会話は早口だが、段々輪郭をおびてきた。
しばらくするとそれは明瞭な会話となり、ルツィエの耳に飛び込んできた。
「殿下のご裁可があればよいのだな?」
「向こうはそう言ってる」
なるほど、と彼女は心のなかで息を吐く。
どうやら自分がうたた寝をしているあいだに停戦交渉が進んでいたらしい。覚束なかったルツィエの頭もめきめきと回復へと向かう。
そんな彼女の視界のなかで、歩哨に立った男が、操縦士と装備を交換した。チェイカに乗る準備と思われるが、それを終えると歩哨の男はルツィエに歩み寄り、彼女を抱き起こしつつ言った。
「お目覚めでしたか、姫殿下」
こくりと頷くルツィエに微笑みかけ、男は軽く頭を下げた。
「敵側との話がついたようです。早速にも交渉の場へお連れしたく思いますが、よろしいですか?」
「……ええ。わかったわ」
やっと絞り出した声はか細かったものの、気分はだいぶ落ち着いた。体調が良くなったうえに、命令どおりの交渉を部下たちはやり遂げていたのだ。地獄の出口は間近まで見えている。
「こちらにお乗りください、殿下」
交代要員となった歩哨の男は、おもむろに背中向きでしゃがみ込んだ。ルツィエは一瞬ためらいを覚えつつも、すぐに迷いを捨て、彼の体に抱きついた。
広くて厚い背中は、背負われてみれば実に心地が良かった。事前準備を経て、正式にはじまる交渉へ赴く将帥。そんな自分の立場をしばし忘れそうなほどに。
なぜそんな気持ちになったのだろう。
ふとした疑問を浮かべた途端、ルツィエは思い出した。だれかに背負われてチェイカに乗るのは、今回が初めてではなかったことを。
それは、いまより数歳幼かった頃の記憶だ。記憶というより、むしろ思い出に近い。
前世の頃から高所恐怖症だった彼女は、家庭教師であるイェーガー少将のしごきに耐えかね、チェイカの演習から逃げまくっていた。けれど、こんなことでは魔導師として、軍人として先がないと宣告を下され、何としても苦手を克服すべく、最初は他人の操縦で空を舞うことを決めたのだった。
無理を押しつけた相手はパベルだった。操縦するチェイカに乗せて欲しいとせがんだところ、あまりにしつこくねだるのに折れ、パベルは同乗を許可してくれた。そのかわり、背中に紐できつく縛りつけられ、赤子のような真似をさせられた。
はじめてチェイカに乗った感想は、想像以上の恐怖体験だった。離陸するまでは怖さしかなく、空を舞ってからは生きた心地がしなかった。高度をあげるつにれ、目がまわりパニックになった。
重力に逆らうということ自体、きわめて不自然な現象だ。生命の摂理に反している。そんな四角四面な考えがルツィエを、そしてスターリンを空から遠ざけてきた。
ほとんど無意識の反応だから、気持ちでどうなるものでもない。ショックでおしっこを漏らすことはかろうじて耐えたが、チェイカが加速を止め、滑らかに風を掴んでも、ルツィエは号泣し続けた。
パベルがたしなめても涙は止まることはなかった。怖いものは怖いのだ。そんな駄々をこねながら、兄の背中に必死にしがみつき、こんなひどい目に遭うなら魔導師失格でいいとさえ思った。
そんなルツィエがなぜ高所恐怖を克服できたのか。
はじめて空を飛んだとき、彼女の心は九九パーセント重力との戦いを放棄していた。しかし不思議な話だが、わずか一パーセント未満の要素が心のどこかに埋もれていたのだ。
あえて言葉にするなら、それはロマンになる。
ルツィエがまだスターリンだった頃、その幼少期において彼女は父親から日常的に暴力を受け続けた。心の傷は性格をねじ曲げ、後のスターリンを残忍なサディストにするばかりか、極度の小心者へと変える要因となった。
とはいえ人間とは面白いもので、何も失うものがないときは臆病さは影を潜め、むしろ命知らずな大胆さが前面に出たりする。革命家時代のスターリンはその典型だった。
理論の構築を得意とする者、労働者を組織することに長けた者。様々な同志たちがいたなか、スターリンが得意としたのは資金調達だった。ロシア帝国の秘密警察網を出し抜き、銀行を襲って金を奪うこと。プロのギャングも裸足で逃げ出すほどの腕前を彼は誇っていた。
むろん、何度も逮捕されてはシベリアの刑務所に送られ、そのたびに脱獄をくり返した。本当に若い、青年期の話だ。実際、革命をなし遂げ、権力の階段を昇りはじめると、スターリンはもう二度とみずからの手でリスクをとらなくなった。集団指導体制を装い、悪事は部下に押しつけた。
まだ何者でもないルツィエは、いわば革命家時代のスターリンに近い。転生時に老人だった彼女だが、人はどんなに年老いても若い頃のまま心の成長が止まった部分があるものだ。
はじめてチェイカに乗ったとき、ルツィエの心でかすかなロマンがうずいた。それは社会のしがらみから逃れ、奔放だった青年期スターリンの残滓だ。重力を振り切って、空を自由に舞うこと。教えてくれたのは奇しくも、温厚だが疎ましいパベルだった。
「ルツィエ、鳥に憧れたことはあるかい? チェイカは人を鳥に変えるための道具だ。その喜びが恐怖を上まわるなら、お前は良いチェイカ乗りになれる。必ずなれるさ」
泣き喚く一方だったルツィエの心に、そのひと言は驚くほどスッと沁み込んだ。恐怖がいきなり消えたわけではないが、花の種が大地に芽吹くかのごとく、控え目なロマンは彼女の心から怖々と顔を覗かせた。パベルはそれを自由な鳥に喩え、チェイカを操りながら空を飛ぶことの憧憬を惜しみなく説いて聞かせた。
きっと彼の導きがなければ、高所恐怖症を克服できなかったと思う。魔導師として成長したいまとなっては、感謝の念は微塵もない。けれど意識の底には残っているのだ。いまだ消えることなきロマンと、そこに刻まれたパベルとの思い出。心がくすぐったくなるような幼き日のエピソードが。
部下の鉄兜団員にしがみつきながら、彼女は過去を追想し、自分が葬り去った兄のことを思った。疎ましい競争相手ではあったが、彼はルツィエにどこまでも優しかった。その優しさが命取りとなったものの、好きか嫌いかでいえば、憎む理由はどこにもなかったと思う。
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