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第七章
宿敵との邂逅1
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戦闘が止んでしばらく経ったとき、アドルフは鉄兜団の軍人から停戦をもちかけられた。理由は戦いに負けたからではなく、落命した司令官を放置するわけにはいかないからだと説明された。
アドルフはみずから話し合いに応じ、軍人と具体的な部分を詰めた。そこで求めた内容は、彼が行政官に突きつけた統治権の委譲だった。敵側は不服そうではあったが、継戦能力の喪失は明らかだった為、要求はさしたる抵抗もなく通った。
停戦条件を固めた後も、アドルフはどこか上の空だった。ノインのことが頭の片隅に残っていたし、街の火災を消し止めることに兵力を割き、その行方が気がかりだったからだ。
儀礼的な意味しかもたない停戦協定。会談場に集結した敵軍は規律だった姿を見せたが、同じことをする余裕は自軍になく、アドルフ自身は集中力を欠いた。
そんな中、気に留めたのはたったひとつのことだ。敵軍を率いる代理の司令官は、先ほどまで死闘をくり広げたあの幼女であった。彼女は周囲の取り巻きたちに「殿下」と呼ばれ、丁重に扱われていた。幕僚との会話に意識を向ける一方で、そのまま真っすぐ歩いてくる幼女に、アドルフは単純な不快感を抱いた。
ひとつ間違えばあいつに殺されていた。そうした思いにくわえ、王族への嫌悪までもが湧きあがったのだ。建国当初の立憲君主制にもとづく統治を骨抜きにした連邦の国家体制。理想をねじ曲げた現実の歪みを、この幼女の存在は端的に物語っている。
敵としてまみえたことで、嫌悪はさらに怒りを招いた。むろん、その程度の感情でこの場を汚す気はアドルフにない。ただ、自分を窮地に追い込んだ輩に嫌みのひとつでも言い放ちたくなったのは確かだ。
「ローゼよ、始めてくれ」
タイミングを測り、まずは臨席した行政官の娘に声をかける。助命を引き換えとして、彼女には統治権の移行作業を手伝わせていた。肝心のヴァインベルガーは腰を抜かして動けないというし、委譲書の署名見届け人という初仕事は彼女に任せることになったわけだ。
腹の内は勿論わからないが、ローゼはきわめて従順だった。中立的立場で構わないと言ったのが功を奏したか、机に委譲書を広げ、用意した署名用のペンを恭しく差し出してくる。それを受け取りつつ、アドルフは着席した幼女に視線を向ける。
敗軍の将となった幼女は、戦闘の時とはうってかわり妙に大人しかった。緊張のせいか、あるいはこの場の優劣をわきまえたとでもいうのか。いすれにしろ、アドルフは幼女の悄気た様子をほろ苦い紅茶と一緒に味わってやりたくなった。昼下がりに頂く甘酸っぱいレモンケーキのように。
ところが、彼の思惑はあてが外れてしまう。幼女が垂れ落ちた前髪を払うと、その下から薄気味悪い笑みが顔を覗かせたのだ。瞳の焦点はおぼろげで、口許は弛み、相手を小馬鹿にした態度である。
無礼と言えば無礼だし、状況が違えばアドルフは激怒していたかもしれない。けれど彼は、その醜悪な微笑を精一杯の虚勢と受け取った。敗軍を率いる目に見えない重圧感を思えばこそ、咄嗟に同情を覚えてしまったのだ。
気晴らしのために嫌みを言ってやりたかったはずが、負の感情は急速に萎んでいく。ようするにアドルフは、政治家の苦労を知る者として幼女が不憫に思えてきたのだ。重責と一人で向き合い、健気とさえ映ったかもしれない。その認識が壮大な勘違いであることも知らずに。
ローゼとのやり取りを経て、問題の書類に幼女が向かった。俯き加減のまま、数秒ほど沈黙を漂わせた後、片手に握ったペンをさらさらと走らせ、おもむろに顔をあげて言う。
「確認して頂戴」
その表情は、白い前髪に隠れて見えなかった。アドルフは大して怪訝に思うことなく、「うむ」と短くつぶやき、幼女に突き返された統治権委譲書を受け取る。
ここからサインを確かめ、書類をローゼ嬢に渡し、一切の不備なきことを宣告して貰った時点で、停戦協定は効力をもつ。
彼は儀礼の一過程として統治権委譲書に目を落とした。ほぼ同じタイミングで声が聞こえた。
「アドルフ・ヒトラー」
目線をあげると、幼女が顔を赤くして睨んでいた。雪のような肌を血の色に染め、机の端を掴んだ指先は小刻みに震えている。態度の豹変とはこういうことを言うのだろう。
「何事だ、出し抜けに?」
釈然としない気持ちでアドルフが問い返した。
「貴方、その防塵マスクを外しなさい。この場に反する無礼な態度だわ」
憤怒の色を隠さない幼女の要望は一見、些末なものだった。
「ああ、これか。まあ我が軍の装備でな。大気が燃え盛ったせいで一帯の空気が悪いし、呼吸が楽なため着用させて貰っておる」
「でも妾と臣下たちはそんなもの着けてないでしょ」
「む……」
確かに防塵マスクはアドルフ軍の必須装備だったが、攻城を終えたいま、外しても実害はないと言える。それに幼女も言ったように、相手側は同一の状況を気高く耐え忍んでいる。
だとすれば、マスクを外すのにやぶさかでない。アドルフは後ろを振り返り、幕僚や兵を含む味方の全員にマスクを外すよう命じた。むろん彼自身が真っ先にマスクを脱いだ。しかしその間隙を縫って、幼女が再び想定外の発言をくり出してきた。
「清潔感のある黒髪、小さく刈り揃えた口ひげ、大きな水色の瞳。ねぇ貴方、妾はそんな特徴をもった男に見覚えがあるの。そいつの名前はアドルフ・ヒトラー」
声を低めた幼女の指摘はアドルフの表情を不可解に染めた。すでにサインを入れたため、その名で呼ばれることに違和感はないが、二度もくり返されるとさすがに奇妙に感じられる。しかも自分の容姿にかかわる特徴を、この幼女は「見覚えがある」と言った。その意味が皆目わからない。
「なんの話だ、司令官代理よ。貴公と会った覚えなど我は持ち合わせておらん」
しごく当然の答えを述べたが、幼女は気にも止めず、さらに奇怪なことを口走った。
「貴方の特徴はモロトフから聞いたわ」
幼女の挙げた名前にアドルフは聞き覚えがあった。それはこの世界ではなく、前世で関わりのあった人物の名だ。後に敵国となるソビエトの外務大臣、ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ。
――そんなやつの名をどうしてこのガキが口走った?
根本的な疑問が頭をよぎるも、目の前の幼女は堰を切ったように語りだす。
「モロトフは妾の片腕だった男よ。ドイツを訪問したときモロトフは、リッベントロップと一緒に貴方と会った、そう言っていたわ。ひょっとして昔のことはお忘れ?」
リッベントロップというえらく懐かしい名前が聞けるとは、アドルフはこのとき微塵も思っていなかった。
いうまでもなくリッベントロップとは、ドイツ国の外相を務め、アドルフの寵愛を受けた部下のこと。とはいえ問題はそこではない。机を挟んで対面するこの幼女は、前世の政治家の名前を二人も口にした。モロトフに到っては、自分の片腕だったと言い放った。
そんな真似のできる人間がこのセクリタナにいるはずがない。
「誰なんだ、お前は?」
アドルフの放った疑問に、幼女は虫酸の走ったような顔で答える。
「サインを見なさい、サインを」
正解はそこにあるといわんばかりの態度。アドルフは急いで書類に目をやった。
「実はアドルフって名前を聞いたときから怪しいとは思ってたのよね……なんて冗談よ。そんなこと、これっぽちも想像してなかったわ。気づいたのはいまさっき、貴方のサインを見たとき」
幼女の発言はアドルフの頭を素通りした。彼の意識は書類のサインに釘づけだ。
――ルツィエ・スターリン・バロシュ。
バロシュ家とは、言うまでもなく《魔王》の一族である証拠だ。穴が空くほど見つめた文字列はそこではない。問題は幼女のセカンドネームだ。
魔人族が用いるセルヴァ語の綴りではあったが、発音は前世で言うロシア語の響きを色濃く持つ名前。確かそれは、鋼鉄の人という意味だったか。
「……スターリン?」
周囲を慮り、かろうじて叫びを押し殺したアドルフだが、呻き声は唇から洩れ出た。
「あまりびっくりしないのね。直接会うのは初めてかしら、アドルフ・ヒトラー」
視界の隅で、憮然とした幼女が低めた声で吐き捨てる。
「待て……意味がわからん。お前があのスターリンなのか?」
アドルフはそう口にしたが、考えて発した言葉ではなかった。驚きにたいする条件反射。結果として、意志の中枢を奪った衝撃は、すぐさま人体に異変をもたらしていく。
指先から順に血の気が失せ、喉の奥が急速に乾きはじめる。気づけば体は凍りつき、鳥肌があわのように立った。セクリタナに転生して以来、数々の戦いを強い精神力で乗り越えてきた。そんなアドルフが、恐怖に怯えたような反応を示し、その両脚は音もなく震えだす。
トラウマ、というやつだろうか。彼のなかで最悪の記憶が甦ろうとしていた。
幼女はしかし、それらの異変には気づかなかったと見える。わずかな笑みを口許に浮かべ、ゆっくりと顔を寄せ近づき、アドルフだけに聞こえるような小さい声を発した。
「妾は本物のスターリンよ。貴方と同じく、この異世界に転生してきたの。死亡時期が八年ずれているから、貴方が一七歳、妾が九歳というわけ。当たりでしょ?」
頷き返すかわりにアドルフは、揺らいだ意識のなかで思考をめぐらした。
天使と、その創造者である《主》によって数奇な運命を与えられた彼は、どんなに突飛な出来事も受けとめる柔軟さがある。たとえ転生者がもう一人いたとしても、数ある偶然のひとつに過ぎないだろうと考えられる柔軟さが。
ただし、相手は他ならぬスターリンだと名乗った。アドルフの率いたドイツ国防軍を蹴散らし、首都ベルリンへ攻め込み、彼を自死に追いやった軍の最高司令官。敗者の烙印をおした張本人だと。
現実を受け入れるには相手が悪すぎた。暴れだしそうな感情を抑え込み、彼は統治権委譲書に目を落とした。
こんなはずではなかった。勝者として迎えた停戦協定の場で、屈辱の記憶を思い出すはめになるとは想像もしていなかった。
人は脅威を感じたとき、主に二つの行動をとる。ひとつは逃げること。もうひとつは戦うことだ。
前者はさらなる恥辱を上塗りする行為。そうなるとアドルフは、後者の選択をとるより他ない。
忽然と浮かびあがったのは殺意である。もちろんそれは、常識的に考えるなら行動に変えてはならないこと。ゆえに必死に抑え込もうとするが、一度芽生えた感情はそう簡単には消えてくれない。
彼の脳裏に、いまにも溢れそうなティーカップが思い浮かんだ。心の傷を呼び覚ました現実を拒絶すべく、紅茶がこぼれだすのは時間の問題に思えた。
しかし先に爆発したのは、どういうわけか幼女、つまりスターリンのほうだった。
「お前がアドルフ・ヒトラーだと知っていたら、停戦なんて認めなかったわ!」
喉で押し潰されたカナリアのような声は、周囲にはただの喚き声としか聞こえなかっただろう。けれどスターリンはお構いなしだった。拳を勢いよく振りあげ、呆気にとられたアドルフの眉間へ容赦なく叩き込んでくる。
たいするアドルフは、スターリンが激高した理由がさっぱり腑に落ちない。不名誉な死を選ばされ、憎悪を抱く資格があるのは自分のほうだという思いからだ。
――畜生め、殴りたいのはこっちのほうだ!
心のなかで絶叫したアドルフだが、それは声にならなかった。彼が怯んだ一瞬の隙を突き、スターリンは連続して殴打を叩き込んだきたからだ。
咄嗟に両腕でかばっても、まるで役に立たない。幼女とは思えぬ腰のはいった一撃がついにアドルフの鼻っ面を捉え、咄嗟に怒りは臨界点を超えた。
スターリンの手を掴みとり、行動の自由を奪うと、アドルフはその頬を強かに平手打ちした。
彼の行動はおそらく、傍目にはきつい折檻に映ったことだろう。交渉の場で敗者、つまり司令官代理の幼女が、悔しさに耐えかねて敵の将帥に暴力をふるった。これにたいし、立場的に大人であるアドルフが、彼女の狼藉を咎めるべく、平手で目を覚まさせてやったという具合だ。
裏を返すなら、そうとでも捉えない限り、両軍の将帥が暴れだした理由を、彼らの幕僚たちはまともな光景として受け入れることができなかったはずである。
先に手を出したのはルツィエのほうだ。その認識をだれより持っていたのは傍に控える鉄兜団員たちだったであろう。その証拠に彼らは、「おやめください姫殿下。名誉を傷つける行為となります!」と叫びだし、ルツィエの体をアドルフから引き剥がしにかかった。
むろん、一度頭に血がのぼったアドルフも容易には止まるに止まれない。何しろ相手はあのスターリンなのだ。セクリタナに転生しているのなら、どうしてもっと早くに知ることができなかったのか。最初から敵がスターリンだと知っていたら、停戦などするわけがなかった。命を断つまで攻撃を続行させたし、実際可能だったはずだ。
――ふざけおってあの腐れ天使めっ!!
怒りの矛先はもはやスターリンを素通りしてネーヴェにむいた。転生を管理しているのは天界の住人である。ならばネーヴェは、スターリンの転生を知れる立場にあったはずだし、それを通知する義務もあったはずだ。
珍しく自棄になったアドルフは、普段の冷静さを失い、背負った長剣に手をかけた。幼女がスターリンなら、この場で叩き斬ってやるしかない。迷いのない衝動は彼に殺戮を命じた。
しかし、それを許さなかったのは彼の仲間たちだ。(続く
アドルフはみずから話し合いに応じ、軍人と具体的な部分を詰めた。そこで求めた内容は、彼が行政官に突きつけた統治権の委譲だった。敵側は不服そうではあったが、継戦能力の喪失は明らかだった為、要求はさしたる抵抗もなく通った。
停戦条件を固めた後も、アドルフはどこか上の空だった。ノインのことが頭の片隅に残っていたし、街の火災を消し止めることに兵力を割き、その行方が気がかりだったからだ。
儀礼的な意味しかもたない停戦協定。会談場に集結した敵軍は規律だった姿を見せたが、同じことをする余裕は自軍になく、アドルフ自身は集中力を欠いた。
そんな中、気に留めたのはたったひとつのことだ。敵軍を率いる代理の司令官は、先ほどまで死闘をくり広げたあの幼女であった。彼女は周囲の取り巻きたちに「殿下」と呼ばれ、丁重に扱われていた。幕僚との会話に意識を向ける一方で、そのまま真っすぐ歩いてくる幼女に、アドルフは単純な不快感を抱いた。
ひとつ間違えばあいつに殺されていた。そうした思いにくわえ、王族への嫌悪までもが湧きあがったのだ。建国当初の立憲君主制にもとづく統治を骨抜きにした連邦の国家体制。理想をねじ曲げた現実の歪みを、この幼女の存在は端的に物語っている。
敵としてまみえたことで、嫌悪はさらに怒りを招いた。むろん、その程度の感情でこの場を汚す気はアドルフにない。ただ、自分を窮地に追い込んだ輩に嫌みのひとつでも言い放ちたくなったのは確かだ。
「ローゼよ、始めてくれ」
タイミングを測り、まずは臨席した行政官の娘に声をかける。助命を引き換えとして、彼女には統治権の移行作業を手伝わせていた。肝心のヴァインベルガーは腰を抜かして動けないというし、委譲書の署名見届け人という初仕事は彼女に任せることになったわけだ。
腹の内は勿論わからないが、ローゼはきわめて従順だった。中立的立場で構わないと言ったのが功を奏したか、机に委譲書を広げ、用意した署名用のペンを恭しく差し出してくる。それを受け取りつつ、アドルフは着席した幼女に視線を向ける。
敗軍の将となった幼女は、戦闘の時とはうってかわり妙に大人しかった。緊張のせいか、あるいはこの場の優劣をわきまえたとでもいうのか。いすれにしろ、アドルフは幼女の悄気た様子をほろ苦い紅茶と一緒に味わってやりたくなった。昼下がりに頂く甘酸っぱいレモンケーキのように。
ところが、彼の思惑はあてが外れてしまう。幼女が垂れ落ちた前髪を払うと、その下から薄気味悪い笑みが顔を覗かせたのだ。瞳の焦点はおぼろげで、口許は弛み、相手を小馬鹿にした態度である。
無礼と言えば無礼だし、状況が違えばアドルフは激怒していたかもしれない。けれど彼は、その醜悪な微笑を精一杯の虚勢と受け取った。敗軍を率いる目に見えない重圧感を思えばこそ、咄嗟に同情を覚えてしまったのだ。
気晴らしのために嫌みを言ってやりたかったはずが、負の感情は急速に萎んでいく。ようするにアドルフは、政治家の苦労を知る者として幼女が不憫に思えてきたのだ。重責と一人で向き合い、健気とさえ映ったかもしれない。その認識が壮大な勘違いであることも知らずに。
ローゼとのやり取りを経て、問題の書類に幼女が向かった。俯き加減のまま、数秒ほど沈黙を漂わせた後、片手に握ったペンをさらさらと走らせ、おもむろに顔をあげて言う。
「確認して頂戴」
その表情は、白い前髪に隠れて見えなかった。アドルフは大して怪訝に思うことなく、「うむ」と短くつぶやき、幼女に突き返された統治権委譲書を受け取る。
ここからサインを確かめ、書類をローゼ嬢に渡し、一切の不備なきことを宣告して貰った時点で、停戦協定は効力をもつ。
彼は儀礼の一過程として統治権委譲書に目を落とした。ほぼ同じタイミングで声が聞こえた。
「アドルフ・ヒトラー」
目線をあげると、幼女が顔を赤くして睨んでいた。雪のような肌を血の色に染め、机の端を掴んだ指先は小刻みに震えている。態度の豹変とはこういうことを言うのだろう。
「何事だ、出し抜けに?」
釈然としない気持ちでアドルフが問い返した。
「貴方、その防塵マスクを外しなさい。この場に反する無礼な態度だわ」
憤怒の色を隠さない幼女の要望は一見、些末なものだった。
「ああ、これか。まあ我が軍の装備でな。大気が燃え盛ったせいで一帯の空気が悪いし、呼吸が楽なため着用させて貰っておる」
「でも妾と臣下たちはそんなもの着けてないでしょ」
「む……」
確かに防塵マスクはアドルフ軍の必須装備だったが、攻城を終えたいま、外しても実害はないと言える。それに幼女も言ったように、相手側は同一の状況を気高く耐え忍んでいる。
だとすれば、マスクを外すのにやぶさかでない。アドルフは後ろを振り返り、幕僚や兵を含む味方の全員にマスクを外すよう命じた。むろん彼自身が真っ先にマスクを脱いだ。しかしその間隙を縫って、幼女が再び想定外の発言をくり出してきた。
「清潔感のある黒髪、小さく刈り揃えた口ひげ、大きな水色の瞳。ねぇ貴方、妾はそんな特徴をもった男に見覚えがあるの。そいつの名前はアドルフ・ヒトラー」
声を低めた幼女の指摘はアドルフの表情を不可解に染めた。すでにサインを入れたため、その名で呼ばれることに違和感はないが、二度もくり返されるとさすがに奇妙に感じられる。しかも自分の容姿にかかわる特徴を、この幼女は「見覚えがある」と言った。その意味が皆目わからない。
「なんの話だ、司令官代理よ。貴公と会った覚えなど我は持ち合わせておらん」
しごく当然の答えを述べたが、幼女は気にも止めず、さらに奇怪なことを口走った。
「貴方の特徴はモロトフから聞いたわ」
幼女の挙げた名前にアドルフは聞き覚えがあった。それはこの世界ではなく、前世で関わりのあった人物の名だ。後に敵国となるソビエトの外務大臣、ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ。
――そんなやつの名をどうしてこのガキが口走った?
根本的な疑問が頭をよぎるも、目の前の幼女は堰を切ったように語りだす。
「モロトフは妾の片腕だった男よ。ドイツを訪問したときモロトフは、リッベントロップと一緒に貴方と会った、そう言っていたわ。ひょっとして昔のことはお忘れ?」
リッベントロップというえらく懐かしい名前が聞けるとは、アドルフはこのとき微塵も思っていなかった。
いうまでもなくリッベントロップとは、ドイツ国の外相を務め、アドルフの寵愛を受けた部下のこと。とはいえ問題はそこではない。机を挟んで対面するこの幼女は、前世の政治家の名前を二人も口にした。モロトフに到っては、自分の片腕だったと言い放った。
そんな真似のできる人間がこのセクリタナにいるはずがない。
「誰なんだ、お前は?」
アドルフの放った疑問に、幼女は虫酸の走ったような顔で答える。
「サインを見なさい、サインを」
正解はそこにあるといわんばかりの態度。アドルフは急いで書類に目をやった。
「実はアドルフって名前を聞いたときから怪しいとは思ってたのよね……なんて冗談よ。そんなこと、これっぽちも想像してなかったわ。気づいたのはいまさっき、貴方のサインを見たとき」
幼女の発言はアドルフの頭を素通りした。彼の意識は書類のサインに釘づけだ。
――ルツィエ・スターリン・バロシュ。
バロシュ家とは、言うまでもなく《魔王》の一族である証拠だ。穴が空くほど見つめた文字列はそこではない。問題は幼女のセカンドネームだ。
魔人族が用いるセルヴァ語の綴りではあったが、発音は前世で言うロシア語の響きを色濃く持つ名前。確かそれは、鋼鉄の人という意味だったか。
「……スターリン?」
周囲を慮り、かろうじて叫びを押し殺したアドルフだが、呻き声は唇から洩れ出た。
「あまりびっくりしないのね。直接会うのは初めてかしら、アドルフ・ヒトラー」
視界の隅で、憮然とした幼女が低めた声で吐き捨てる。
「待て……意味がわからん。お前があのスターリンなのか?」
アドルフはそう口にしたが、考えて発した言葉ではなかった。驚きにたいする条件反射。結果として、意志の中枢を奪った衝撃は、すぐさま人体に異変をもたらしていく。
指先から順に血の気が失せ、喉の奥が急速に乾きはじめる。気づけば体は凍りつき、鳥肌があわのように立った。セクリタナに転生して以来、数々の戦いを強い精神力で乗り越えてきた。そんなアドルフが、恐怖に怯えたような反応を示し、その両脚は音もなく震えだす。
トラウマ、というやつだろうか。彼のなかで最悪の記憶が甦ろうとしていた。
幼女はしかし、それらの異変には気づかなかったと見える。わずかな笑みを口許に浮かべ、ゆっくりと顔を寄せ近づき、アドルフだけに聞こえるような小さい声を発した。
「妾は本物のスターリンよ。貴方と同じく、この異世界に転生してきたの。死亡時期が八年ずれているから、貴方が一七歳、妾が九歳というわけ。当たりでしょ?」
頷き返すかわりにアドルフは、揺らいだ意識のなかで思考をめぐらした。
天使と、その創造者である《主》によって数奇な運命を与えられた彼は、どんなに突飛な出来事も受けとめる柔軟さがある。たとえ転生者がもう一人いたとしても、数ある偶然のひとつに過ぎないだろうと考えられる柔軟さが。
ただし、相手は他ならぬスターリンだと名乗った。アドルフの率いたドイツ国防軍を蹴散らし、首都ベルリンへ攻め込み、彼を自死に追いやった軍の最高司令官。敗者の烙印をおした張本人だと。
現実を受け入れるには相手が悪すぎた。暴れだしそうな感情を抑え込み、彼は統治権委譲書に目を落とした。
こんなはずではなかった。勝者として迎えた停戦協定の場で、屈辱の記憶を思い出すはめになるとは想像もしていなかった。
人は脅威を感じたとき、主に二つの行動をとる。ひとつは逃げること。もうひとつは戦うことだ。
前者はさらなる恥辱を上塗りする行為。そうなるとアドルフは、後者の選択をとるより他ない。
忽然と浮かびあがったのは殺意である。もちろんそれは、常識的に考えるなら行動に変えてはならないこと。ゆえに必死に抑え込もうとするが、一度芽生えた感情はそう簡単には消えてくれない。
彼の脳裏に、いまにも溢れそうなティーカップが思い浮かんだ。心の傷を呼び覚ました現実を拒絶すべく、紅茶がこぼれだすのは時間の問題に思えた。
しかし先に爆発したのは、どういうわけか幼女、つまりスターリンのほうだった。
「お前がアドルフ・ヒトラーだと知っていたら、停戦なんて認めなかったわ!」
喉で押し潰されたカナリアのような声は、周囲にはただの喚き声としか聞こえなかっただろう。けれどスターリンはお構いなしだった。拳を勢いよく振りあげ、呆気にとられたアドルフの眉間へ容赦なく叩き込んでくる。
たいするアドルフは、スターリンが激高した理由がさっぱり腑に落ちない。不名誉な死を選ばされ、憎悪を抱く資格があるのは自分のほうだという思いからだ。
――畜生め、殴りたいのはこっちのほうだ!
心のなかで絶叫したアドルフだが、それは声にならなかった。彼が怯んだ一瞬の隙を突き、スターリンは連続して殴打を叩き込んだきたからだ。
咄嗟に両腕でかばっても、まるで役に立たない。幼女とは思えぬ腰のはいった一撃がついにアドルフの鼻っ面を捉え、咄嗟に怒りは臨界点を超えた。
スターリンの手を掴みとり、行動の自由を奪うと、アドルフはその頬を強かに平手打ちした。
彼の行動はおそらく、傍目にはきつい折檻に映ったことだろう。交渉の場で敗者、つまり司令官代理の幼女が、悔しさに耐えかねて敵の将帥に暴力をふるった。これにたいし、立場的に大人であるアドルフが、彼女の狼藉を咎めるべく、平手で目を覚まさせてやったという具合だ。
裏を返すなら、そうとでも捉えない限り、両軍の将帥が暴れだした理由を、彼らの幕僚たちはまともな光景として受け入れることができなかったはずである。
先に手を出したのはルツィエのほうだ。その認識をだれより持っていたのは傍に控える鉄兜団員たちだったであろう。その証拠に彼らは、「おやめください姫殿下。名誉を傷つける行為となります!」と叫びだし、ルツィエの体をアドルフから引き剥がしにかかった。
むろん、一度頭に血がのぼったアドルフも容易には止まるに止まれない。何しろ相手はあのスターリンなのだ。セクリタナに転生しているのなら、どうしてもっと早くに知ることができなかったのか。最初から敵がスターリンだと知っていたら、停戦などするわけがなかった。命を断つまで攻撃を続行させたし、実際可能だったはずだ。
――ふざけおってあの腐れ天使めっ!!
怒りの矛先はもはやスターリンを素通りしてネーヴェにむいた。転生を管理しているのは天界の住人である。ならばネーヴェは、スターリンの転生を知れる立場にあったはずだし、それを通知する義務もあったはずだ。
珍しく自棄になったアドルフは、普段の冷静さを失い、背負った長剣に手をかけた。幼女がスターリンなら、この場で叩き斬ってやるしかない。迷いのない衝動は彼に殺戮を命じた。
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聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
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・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
【完結保証】僕の異世界攻略〜神の修行でブラッシュアップ〜
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僕は十年程闘病の末、あの世に。
そこで出会った神様に手違いで寿命が縮められたという説明をされ、地球で幸せな転生をする事になった…が何故か異世界転生してしまう。なんでだ?
幸い優しい両親と、兄と姉に囲まれ事なきを得たのだが、兄達が優秀で僕はいずれ家を出てかなきゃいけないみたい。そんな空気を読んだ僕は将来の為努力をしはじめるのだが……。
※画像はAI作成しました。
※現在毎日2話投稿。11時と19時にしております。
※2026年半ば過ぎ完結予定→七月に完結(決定)
ダンジョンを拾ったので、スキル〈ホームセンター〉で好き勝手リフォームします
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異世界に転移した佐々木悠人は、召喚でも勇者でもなかった。ただ迷い込んだ先で見つけたのは、王都を望む郊外にひっそりと口を開けるダンジョン。足を踏み入れた瞬間、発動したスキルは
――〈ホームセンター〉
壁を張り替え、部屋を増やし、畑や牧場、カフェまで作れる不可思議な力だった。
気ままに始めたリフォームは、もふもふなネコミミ獣人の少女との出会いをきっかけに、思わぬ変化を呼び始める。
拡張され続けるダンジョンの先で、悠人が作り上げる“住める迷宮”とは――?
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