緋黒の焔〜ヒトラー異世界戦記〜

影山ろここ

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第七章

宿敵との邂逅2

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「バッカじゃないのあんた!?」

 腹の底から叫んだ者がいた。振り返ると、ノインである。彼女はアドルフの腕を力ずくで掴み取ってきた。

「お前らしくないぞ、アドルフ。相手は子供なんだ、場所をわきまえろ!」

 頭を冷まそうとしてきた相手に目をやると、それはリッドだった。机に乗り出したアドルフにしがみつき、全体重をかけて彼の直進を阻む。

「停戦の約束をみずから破ってどうする。君は指揮官なんだ!」

 怒りを含むような声の出どころは、その口調からフリーデだとわかった。彼女の手は背後から長剣の柄を握り、これ以上血なまぐさい事態が起きないようアドルフの激高を腕ずくで食い止める。

 そして腰の辺りに手をまわし、梃子でも動かぬとばかりにしがみついたのはディアナだろう。愛用の海軍帽がずれ落ち、その必死さ加減が伝わってくる。

 こうした制止により、さすがのアドルフも踏み止まらずをえなかった。そして乗り出した机から降り、椅子に着こうとして、ふいに気づいた。ノインとリッドは街の火事を止めに陣地を離れたはず、それがなぜこの場にいるのか。

「どういうことだ、お前たち!? 消火活動はどうした!」
「それならあらかた終わった」

 息をはずませながら答え、リッドはさらに言った。

「一部の兵には穀物倉庫で頑張って貰っているが、それ以外はもう沈静化している」

 消火活動が順調なら、リッドたちを叱責する意味はなかった。懸念が取り除かれつつあることを知り、アドルフは自分の感情のスイッチが切れたのを自覚した。一瞬で燃えあがった怒りの炎も、急速に萎んでいく。

 同じことは実のところ、相手方であるスターリンにも言えた。鉄兜団の強者たちに取り押さえられたことで、彼女は状況を把握し直したのだろう。マナの枯渇した状況では、徹底抗戦する余地など元よりなかったことを。

 アドルフは関知できないことだが、このときスターリン、すなわちルツィエは考えをあらためたのだ。この停戦は終結ではない、幕開けに過ぎないのだと。
 契約を結んだ悪魔グレアムは彼女を次のように定義した。つまり、ヒトラーを《勇者》へ導くために用意されたチェスの駒だと。そして、彼が正義の使徒になるために絶対的な悪であり続けるべき存在であると。もちろん、その背後には《主》の意志があるという話だった。

 無神論者だったルツィエは、その目で見るまで《主》の存在など信じない。けれど自分の行動にその意志が介在しているかのように、彼女はヒトラーと出会うことができた。それも、連邦国家に弓を引く逆賊として。何とも出来過ぎた設定ではないか。

「放して頂戴。もう暴れないわ。嘘なんてつかないから」

 頭を切り替えたルツィエは、鉄兜団員たちの手を乱暴に振りほどいた。気づいてみれば、勢い任せに殴り合ったせいで軍服はしわくちゃになっている。彼女はそれを見て鼻を鳴らし、不満げに斜に構えた。

 たいするアドルフは、顔を寄せたフリーデに耳もとで囁かれた。

「ほら、殿下は機嫌を直した。君も謝るんだ」

 気持ちはもうすっかり落ち着いていたから、周囲の手をほどいて彼は椅子に座り直す。
 しかし本当を言えば、アドルフが平静を取り戻せたのは幕僚たちの制止があったせいではなかった。スターリンと出会うことで、彼は自分の身に起きたある変化を感じ取ったのだ。

 もし総統時代、互いに勝者と敗者として相まみえていたら、アドルフは自分の尊厳を完膚なきまでに破壊し尽くされていただろうし、ベルリンで命を断ったのはそんな結末を拒むためでもあった。

 普段は意識下に沈めている永遠に癒せない心の傷。それを想起したことで、確かにアドルフは激しく取り乱した。けれど衝動にかられひと暴れした結果、ふいに気づけたのである。因縁の相手を前にして、自分が決して逃げ出そうとしなかったことを。

 アドルフにとっても漠然とした認識だが、それは間違いなく変化の表れだった。
 異世界セクリタナに転生して一七年が経ち、その間、片手に余るほどの出来事があった。ほとんどは苦難の道のりだったが、それを乗り越えていくたび、彼は少しずつ変わっていったのだ。スターリンに敗北し、命を絶った惨めな自分でない、まだ見ぬ何者かへと。
 やがてアドルフは自分がなすべきことを淡々と思い出し、深い息を吐きながらこう言った。

「いまのは悪かったな、急に引っ叩いたりいて」

 自分の椅子に背を預け、彼はスターリンに謝意を示した。いや、違う。いまは転生名であるルツィエと呼ぶべきか。連邦国家を統べる《魔王》の血を分けた王女、いわば魔王姫として。

 彼が思い出したなすべき第一のことは、ルツィエと穏便に停戦を結ぶことだ。

 しかし宿敵の邪魔が入ったことにより、もうひとつ別のことも意識していた。それは、異世界に転生するときに芽生えた気持ちというか、生まれ直しを受け入れた際にどんな意志を抱いたかという疑問だ。

 少なくともアドルフは、もう一度野心を抱いた。同じような情熱がルツィエにもあるのだろうか。

 たったいま目の当たりにしたとおり、相手は自分を蛇蝎のごとく憎んでいる。だが本当にそれだけがこの異世界で生きる動機なのだろうか。最後に浮かんだ疑問は何の前ぶれもなく口をついた。

「教えてくれんか、ルツィエとやら。お前はどんな願望を抱いてこの世界を生きておる?」

 あまりに唐突な問いだったのだろう、ルツィエは一瞬、呆けたように黙りこくった。わざと間をもたせたのではない、純粋な沈黙が辺りに漂う。しかしそれも、ほんの短い間だった。

 なぜなら彼女は急に目を細め、机越しに顔を近づけながら、吐息のかかるような距離でこう言い放ったからだ。

「貴方を取り逃がしたのが悔しくて悔しくて堪らないわ。ソビエトが超大国と呼ばれ、だれひとり逆らえない勝者となってもその思いは死ぬまで消えなかった。それなのにこうしてまた同じ思いを味わって……。三度目はないから。悪あがきを終わらせてあげるわ、アドルフ・ヒトラー」

 そこまで言って吐き捨てると、やることはやり終えたとばかりにルツィエはつまらなそうな顔つきへ表情を変化させた。

 とはいえ二人の会話は、囁きにも似た小声でなされたから、両者にしか通じないものだった。肝心な部分は周囲のだれにも聞こえなかったらしく、いまのやり取りはアドルフとルツィエだけが持つ秘密となった。

「行くわよ」

 椅子から降りたルツィエは踵を返し、アドルフに背中を向けた。そして鉄兜団員たちに号令をかけると、右手はなぜか脇腹を抑え込んでいる。

 どこか痛めていたのだろうかと、アドルフはこのときはじめて相手の負傷に思いを寄せた。けれど、無様な姿をさらすまいとする意志を湛え、ルツィエの背中は遠ざかっていった。
 まだ九歳の幼女が放つものとは思えぬ風格を漂わせ、さながら真夏の海辺に立ちのぼる蜃気楼のように。

 ***

 停戦協定の締結後、アドルフにとって目下の懸念は収束していった。なぜならリッドの指揮した消火活動の甲斐もあって、ビュクシに放たれ、各所に燃え広がった炎はおさまりを見せたからだ。

 降雨の少ない辺境州には貯水池があり、管理が義務づけられている。その水を民家のバケツを借りて汲み上げ、チェイカに乗り放水したのが奏功したようだ。

 懸念といえば、敵軍勢はチェイカで街を発つまえ、敵司令官であるパベルの遺体を収容していった。現地に埋葬する手もありえたはずだが、王族の亡骸は是が非でも回収せねばならない事情でもあったのだろう。

 いずれにしろこれで肩の荷は降りた。
 両手を腰に置き、アドルフがため息を吐いた瞬間、背後から声がかかった。

「いまのやり取りはなんだったんだ? あの幼女殿下とお前、まるで知り合いみたいだったが」

 鋭いツッコミ入れてきたのは、振り返るとリッドである。

 秘密のやり取りを偶然目にしてしまったのだろう。不思議そうというか、怪訝な目つきだ。
 もっとも他の面々は大して違和感は抱いていなかったと見え、フリーデやディアナなどは特に注意も向けず、二人で何事か談笑している。

 そうした様子を見る限り、言い逃れできる余地は十分にありそうだ。スターリンの転生体との間柄を詮索されたくないアドルフは、姑息な読みを働かせ、でまかせを口にした。

「チョビひげの男が珍しかったようだ。下世話な興味を持たれた過ぎん」

 まさに即席の言い訳であるものの、そのひと言でリッドは納得したようだ。

「そういうことだったのか。まあ確かに、お前の口ひげはいまやカルヴィナでも有数の珍品だからな」

 くわえてリッドは「あははは」と笑った。深刻な疑問がたんなるジョークにすり替わった瞬間だが、余計な疑いが消えてアドルフは胸をなでおろす。とはいえ気を楽にしたのも束の間、今度はべつの角度から問題が持ちあがった。

「ちょっと、リッド。いまの言い方はさすがにないんじゃない?」

 声をあげたのはノインである。リッドの言葉尻をとらえ、体を割り込ませてきた。
 軽くたしなめる程度の物言いで、不穏な空気にはむろんならない。指摘をされた側のリッドも調子に乗ったとばかりに苦笑を浮かべて言う。

「ああ、すまん。アドルフを貶める気はなかったんだが、思わずやつにとっては不本意な物言いに」
「不本意じゃ済まないでしょ?」

 ノインは呆れたように肩をすくめた。それはどこかしら説教じみた態度に映り、案の定会話はそこで終わらなかった。

「さっきの停戦協定でアドルフはビュクシの統治者になったのよ。仲間うちの冗談ならともかく、住民が聞いたら悪い噂がたつじゃない。あたしが言うのも何だけど、一致団結した姿を見せなきゃ揚げ足を取る連中も現れるわよ?」

 口ひげをネタにしたぐらいで大げさ過ぎではないか。そう思う一方でまもとな意見と言えなくもない。アドルフは我関せずの構えをとったが、注意を受けた形のリッドは慌てて取りなした。

「さすがにそこまで気が回らなかった。重ねて謝る。アドルフも許してくれ」

 謝罪一辺倒のリッドに規律を求めだすノイン。見慣れない取り合わせだが、戦勝を得たことで意識の持ち方も変わったのだろうか。

 そうした自覚は悪いことではないが、浮き足立つのもよろしくない。お呼びがかかったアドルフは、場の空気をなごます程度の声で仲裁に入った。

「確かに、意識の持ちようは大事であるな。だが同時に、あらゆる言動が住民に見られておる。議論や冗談のたぐいは宿を得てからにせよ。なに、いましばらくの我慢だ」

 アドルフは慎重に言葉を選びながら、ノインの気が逸るのをなだめつつ、リッドの顔も立てた。
 だれひとり傷つけることがない差配に、二人はむしろ拍子抜けしたように無言で頷いた。その反応を見届けたアドルフは、一旦空に目をやり、地上をぐるりと見渡した。

 相変わらず群衆は自分たちを取り巻いている。その視線の底にひそむのは、期待と不安が入り混じる感情だろう。何しろ彼らは目撃しているのだ。停戦協定が結ばれ、鉄兜団が撤兵したいま、ビュクシの支配権はアドルフたちが掌握したことを。次の一手を注視されるのは必然のなりゆきだ。

 とはいえ彼のなかで、やるべきことは決まっていた。だからしばらくのあいだ沈黙を続け、消火活動に向かっていた自軍の兵士が帰還するまで待機する。

 時間にして一五分は待ち続けただろうか。やがて二人組の兵士が慌ただしく合流し、無事任務を終えたことをアドルフに報告した。ろくすっぽ軍事教練も課していないはずだが、ぎこちなく敬礼する兵士たちを見つめ、満足そうな微笑を浮かべて彼は言った。

「ご苦労であった」

 戦争を勝利に導いた指揮官にはおのずと忠誠心が湧くのだろう。二人の兵士は晴れやかな表情となり、我先に隊列へとくわわった。

 ここでようやくアドルフは思った。行動を起こす機は熟したと。
 国民服の裾を翻し、彼は整列した自軍と向き合った。

「諸君、我らは最後の任務に移る」

 右端の幕僚から順に眺めやり、きわめて平静な声を出すアドルフ。犬の散歩でも頼むような気軽さは、配下を緊張させないための配慮である。

 逆に言うと彼は非常に慎重だった。消火作業より難儀な仕事を命じる以上、横暴に振る舞うわけにはいかない。

 しかしその任務自体は、軍を結成した際、各自へ通達済みである。よって今さら拒否することを許さないという威厳も示しつつ、彼はもの静かに言った。

「これより、亜人族収容所の解放に向かう。少々手こずるかもしれんが、ビュクシ攻略における最後の詰めである。戦闘態勢をとりながら我に続け」

 亜人族であるアドルフとその幕僚たちにとって、同胞を救うことは至上命題だ。けれどこの場にはヒト族の兵士もいる。人種感情を刺激しない中立的な態度をあえてとり、そっけない号令を発したアドルフが先陣を切った。その後を追って、フリーデとリッドが歩き出し、二列縦隊の行進がはじまった。

 彼らが群衆に近づくと、広場の端を埋め尽くす人々からどよめきが湧いた。感嘆と驚きが入り混じった言葉にならない声たちである。

 それを心地よい伴奏として、アドルフは迷いない足どりで群衆へと直進した。すると人垣は恐れ戦いて飛び退き、縦に割れた空間にはおのずと道ができた。

 旧約聖書の出エジプト記は、〈十戒〉で有名なモーセの奇跡を描いている。海水を二つに割り、それを渡って約束の地カナンに向かったという、奇跡のあり様を。

 群衆が譲った道はまさに割れた海のようだったから、悠々と足を踏み入れたアドルフは無意識に重ね合わせてしまった。三五〇〇年前に生まれたモーセの伝説と、これから伝説になろうとする己の姿とを。
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