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第八章
戦勝式典3
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「異議なし! 異議なし!」
同意を示す声は各所から飛び交い、あっという間に大合唱となる。まるで腹の底から突きあげるような群衆の叫びは、アドルフの演説をかき消すほどになったが、彼はそれを押し止めようとしない。いくども胸を叩き、むしろ群衆の心を鼓舞する。
そんなやり取りが一分ほど続いただろうか。高揚感が落ち着きを見せはじめたのを合図に、アドルフはフリーデを見た。軽く手を振り、「こっちへ来い」というジェスチャーを送った。
フリーデがすぐさま動くと、アドルフの横に軍旗がひるがえった。そこに描かれたシンボルを指差し、彼は先刻フリーデには伏せていた説明を群衆にむけておこなった。
すなわち、斜めに傾けた十字に四つの欠落があり、それを埋めれば本来あるべき鉤十字になるという、軍旗のシンボルに隠された本当の狙いを。
「四つの欠落とは何か。そのうち三つまではすでに述べた、経済、軍事、食糧の諸問題に対応しておる。深刻化する一方の不況は、今日より悪い明日を招いた。それを放置して魔人族は、高い枕に寝そべりぬくぬくしておる。おまけに貴重な小麦を灼き尽くし、まさに諸悪の根源だ。我が示す新党の綱領、すなわち諸君との約束は、三つの問題解決を通じて魔人族の支配を永久に終わらすことである!」
勇ましい目標を掲げた途端、割れんばかりの拍手が巻き起こった。演説は大成功であるかのように見える。しかしアドルフは、群衆一人ひとりに眼を向けており、注意を逸らしていない。だから気づくことができた。魔人族との全面戦争を意味しかねない台詞を聞き、後ろめたい顔を浮かべた者たちが少なからず存在していたことに。
なぜそんな者が現れるのか、アドルフは熟知している。大胆な政策は反発を呼ぶのだ。人間の三割は臆病者である。どんなに気持ちを高めても、ネガティブなことを考えだし、あと一歩が踏み出せない。
むろん、無視してもよかったはずだ。けれどアドルフは、支持者どうしの絆が弛むことを嫌い、もうひとつ隠し球を用意していた。
そもそも軍旗のシンボルには四つの欠落がある。だが、彼はまだ三つまでしか口にしておらず、最後の四つめは宙に浮いていた。その第四の約束こそが、声なき臆病者へのメッセージだった。
「次にいうことは、諸君にとって非常に重要なことだ。このなかで〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉という言い方をされたりしたことがある者、手を挙げてくれないかね?」
この問いの意図を正確に理解した者はいなかったであろう。しかしそれでも、後ろ暗い顔をした者たちから、ぱらぱらと手が挙がる。全員ではないが、それなりの数だ。
「よろしい。ただ、これはたんなる質問でなく、我はそうした考えの押しつけが、あるいは自発的に思い込むことが、諸君らを及び腰にし、魔人族の独裁を許してきたと考える。なぜなら我自身、長らく囚人としてやつらの支配に甘んじてきたからだ。強制的な労務に従事するのは〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉と直属の上司に言われながら」
アドルフの脳裏には、同様の台詞をくり返し、薄ら笑いで罵倒するゼーマンの姿が浮かんでいた。その不快なイメージを払いのけながら、視線を隈なくめぐらせると、群衆の表情に苦悩の色が見えた。
きっと各々が一度は魔人族に反発心を抱きながら、彼ら自身、あるいは同胞たるヒト族のだれかから〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉と言われ、負の感情を抱かないようにしてきたのだろう。
アドルフはふいに、フリーデの掲げる軍旗を掴み取った。その動作はひどく緩慢だが、気持ちがダレたのではない。わざと時間を稼ぎ、群衆に考える余地を与えているのだ。その証拠に彼は、ゆっくりとだが言葉を刻みつけていく。
「我は諸君らに四つの約束をすると言った。それを埋めれば、この軍旗におけるシンボルは完成する。経済、軍事、食糧。そしてこれにつぐ最後の約束が、心の問題だ。〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉、そんな言葉で我々は隷属を肯定してきた。しかしこれからは、その言葉を打破することで奴隷根性を叩き直さねばならん。もちろんそれを可能とするのは、諸君らの強い心だ。今日、我は戦いを制することで独裁に抗えることを示した。もしそれで勇気づけられた者がいるとすれば、我にその力を貸して欲しい。諸君らの強い心が、先ほど言った三つの問題解決に必要なのだ」
アドルフの演説は佳境に差しかかった。戦勝式典は、たんに勝利を祝うイベントではなく、ビュクシの住民から支援を引き出すことにある。
もしそれを自発的になせれば、彼ら一人ひとりが問題解決の主体となる。新たな統治者となったアドルフに全てを委ね、うまくいかないときは文句を言うだけの存在ではなくなるわけだ。
とはいえ群衆の反応を見る限り、アドルフの希望は叶えられようとしている。全体を見渡すと、彼らの表情には深い後悔が滲んでいたからだ。
ある種の自己欺瞞によって魔人族の独裁を許してしまってきたこと。その挙句、不況に苦しみ、生活苦を強いられてきたこと。しかし本来、それは自分たちの責任でもあったのだ。心の問題を正面から問われ、群衆の目つきがこれまでにないほど真剣に変わった。
アドルフはここで、ようやく静かに息を吐き、軍旗を突き出しながら、新たな言葉を紡ぎだす。
「だれかに言われたであろう〈みんな頑張ってる〉という台詞に同調してはならん。なぜならば〈みんな〉とは、苦しみをやり過ごすために使うのではなく、幸せを分かち合う人々のために使う言葉だ。我はその当たり前さを取り戻していきたい。辺境に住む諸人種という〈みんな〉のために」
一気呵成に言ったあと、アドルフの動作に再び熱が入った。力強く拳を振り、演説全体をまとめていく構えだった。
「先ほど我が述べた党とは、そうした〈みんな〉のためにおこなう全ての行動の受け皿である。むろん、評議会に議席を得られるわけではない。だが何かを実現させるためには、人々の英知と努力を結集せねばならん。ヒト族と亜人族という区分けを取り外せば、我々は同胞たりえるのだ、貧しき辺境に住む同じ民として」
このとき提示された概念は、従来存在しないまったく新しいものだった。しかしそのビジョンは、アドルフのなかには元々秘められていたものである。神聖ローマ帝国、プロイセン帝国、ナチスドイツ。それらに継ぐ第四のドイツ国を彼は辺境から打ち立てていくつもりなのだ。
そしてそのルーツは、いまは亡き〈施設〉の院長先生にあった。アドルフ自身、それをはっきりと意識したうえで静かに高揚している。先生が体現していた亜人族とヒト族の共存を肯定する精神。彼はそれを受け継ぎ、新たな政治運動へと発展させるつもりなのだ。彼は軍旗をひるがえし、そこに刻まれた文言を群衆へと見せつけた。
「設立する組織の党名はドイツ党にしようと思う。言うまでもないが、党名の由来は〈融和〉である。我はこの政治運動に味方する者全てと融和していくつもりだ。先刻述べた三つの問題をともに解決していき、この世界に調和を取り戻そうではないか。我とその同胞たちは率先して邁進する。諸君らも後に続いて欲しい。黄金期は待っていてもはじまらない。みずからの手で未来へと築いていくのだ」
最初はまるで救世主のように振る舞っておきながら、最後はその責任を住民一人ひとりに託していく。意地悪い見方をすれば、アドルフは体よく群衆を巻き込んでいったわけだが、現実を認識したことで彼らの外見には明らかな変化があった。実際アドルフの眼には、群衆の瞳にともった決然たる意志の力がはっきりと見える。移ろいやすい気分で一喜一憂するのではなく、いまを変えたいという強い気持ちを宿したことが。
やがて、だれかが言った。
「異議なし!」
その言葉は、一斉に唱和される。互いの声を打ち消し合い、群衆の叫びは形をなさなくなった。あとに続くのは万雷の拍手。地鳴りのごとき震えが壇上にまで届く。
もしここで演説を終えれば、予定したプランを完璧になし遂げたという充実感に浸れただろう。実際アドルフは、目的の達成を確信し、人知れずほくそ笑んでいた。しかしそんな彼の意識が、群衆の人波に紛れたある一点で止まる。
彼の目に入ったのは一人の老婆だ。老婆は群衆の最前列にいた。
隣に寄添うのは老婆にとって孫のごとき年齢の男子である。老婆はその男子をそっちのけで、さめざめと涙を流していた。節くれ立った手に白地に赤のマフラーを握り締めて。
このときアドルフが注目したのは老婆の涙ではない。最初マフラーの色柄だと思ったのは、よく見るとべっとり張りついた赤い鮮血であった。
それが何を意味するか、勘の良いアドルフが見逃すはずもない。今回の戦闘に巻き込まれ、肉親のだれかが死んだのである。おそらく老婆にとって子供であり、孫らしき男子にとっては親にあたる人物であろう。
もっともアドルフはこの手の涙に冷淡なタイプで、意識を向けたのも偶然に他ならない。現に彼は乱れた髪をかきあげ、息を整えながら、四つの綱領を再度復唱し、群衆の承認にだめ押しするつもりだった。
ところが老婆を目にした途端、呼吸が突然速まった。視界の隅では、群衆が再びナチス式敬礼をはじめ、喝采を叫んでいる。しかしそんな大音量の声たちがどんどん遠のいていき、あっという間に無音となった。音がなくなったのではない。自分の耳が聞こえなくなったのだ。
アドルフは異常を感じとり、反射的に胸を抑え込んだ。
そのとき、抑えつけた左手が指にはめたリングに触れる。片方は〈増幅器〉であり、もう片方はネーヴェに授かった宝呪だった。けれどもその冷たい感触は、アドルフの冷淡さを溶かしていく。なぜならいまや互いに見つめあった格好の老婆が、人一倍大きな声を張りあげたからだ。
「おお、貴方こそまさに伝説の《勇者》様じゃ!」
その台詞が自分にむけられたものであることに、アドルフはすぐには気づけなかった。それでも《勇者》という単語が、つい先刻おこなわれたネーヴェとの会話を思い起こさせた。
天使はこの異世界の仕組みを操作し、彼以外にも《勇者》となるべき者を生み出したと言った。いわば争いを運命づけられた連中との戦いを通して、アドルフを《主》の願望に近づけるために。
そんなネーヴェとの会話が、彼の脳裏に鮮やかな光景として甦る。
同意を示す声は各所から飛び交い、あっという間に大合唱となる。まるで腹の底から突きあげるような群衆の叫びは、アドルフの演説をかき消すほどになったが、彼はそれを押し止めようとしない。いくども胸を叩き、むしろ群衆の心を鼓舞する。
そんなやり取りが一分ほど続いただろうか。高揚感が落ち着きを見せはじめたのを合図に、アドルフはフリーデを見た。軽く手を振り、「こっちへ来い」というジェスチャーを送った。
フリーデがすぐさま動くと、アドルフの横に軍旗がひるがえった。そこに描かれたシンボルを指差し、彼は先刻フリーデには伏せていた説明を群衆にむけておこなった。
すなわち、斜めに傾けた十字に四つの欠落があり、それを埋めれば本来あるべき鉤十字になるという、軍旗のシンボルに隠された本当の狙いを。
「四つの欠落とは何か。そのうち三つまではすでに述べた、経済、軍事、食糧の諸問題に対応しておる。深刻化する一方の不況は、今日より悪い明日を招いた。それを放置して魔人族は、高い枕に寝そべりぬくぬくしておる。おまけに貴重な小麦を灼き尽くし、まさに諸悪の根源だ。我が示す新党の綱領、すなわち諸君との約束は、三つの問題解決を通じて魔人族の支配を永久に終わらすことである!」
勇ましい目標を掲げた途端、割れんばかりの拍手が巻き起こった。演説は大成功であるかのように見える。しかしアドルフは、群衆一人ひとりに眼を向けており、注意を逸らしていない。だから気づくことができた。魔人族との全面戦争を意味しかねない台詞を聞き、後ろめたい顔を浮かべた者たちが少なからず存在していたことに。
なぜそんな者が現れるのか、アドルフは熟知している。大胆な政策は反発を呼ぶのだ。人間の三割は臆病者である。どんなに気持ちを高めても、ネガティブなことを考えだし、あと一歩が踏み出せない。
むろん、無視してもよかったはずだ。けれどアドルフは、支持者どうしの絆が弛むことを嫌い、もうひとつ隠し球を用意していた。
そもそも軍旗のシンボルには四つの欠落がある。だが、彼はまだ三つまでしか口にしておらず、最後の四つめは宙に浮いていた。その第四の約束こそが、声なき臆病者へのメッセージだった。
「次にいうことは、諸君にとって非常に重要なことだ。このなかで〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉という言い方をされたりしたことがある者、手を挙げてくれないかね?」
この問いの意図を正確に理解した者はいなかったであろう。しかしそれでも、後ろ暗い顔をした者たちから、ぱらぱらと手が挙がる。全員ではないが、それなりの数だ。
「よろしい。ただ、これはたんなる質問でなく、我はそうした考えの押しつけが、あるいは自発的に思い込むことが、諸君らを及び腰にし、魔人族の独裁を許してきたと考える。なぜなら我自身、長らく囚人としてやつらの支配に甘んじてきたからだ。強制的な労務に従事するのは〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉と直属の上司に言われながら」
アドルフの脳裏には、同様の台詞をくり返し、薄ら笑いで罵倒するゼーマンの姿が浮かんでいた。その不快なイメージを払いのけながら、視線を隈なくめぐらせると、群衆の表情に苦悩の色が見えた。
きっと各々が一度は魔人族に反発心を抱きながら、彼ら自身、あるいは同胞たるヒト族のだれかから〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉と言われ、負の感情を抱かないようにしてきたのだろう。
アドルフはふいに、フリーデの掲げる軍旗を掴み取った。その動作はひどく緩慢だが、気持ちがダレたのではない。わざと時間を稼ぎ、群衆に考える余地を与えているのだ。その証拠に彼は、ゆっくりとだが言葉を刻みつけていく。
「我は諸君らに四つの約束をすると言った。それを埋めれば、この軍旗におけるシンボルは完成する。経済、軍事、食糧。そしてこれにつぐ最後の約束が、心の問題だ。〈お前だけじゃない〉〈みんな頑張ってる〉、そんな言葉で我々は隷属を肯定してきた。しかしこれからは、その言葉を打破することで奴隷根性を叩き直さねばならん。もちろんそれを可能とするのは、諸君らの強い心だ。今日、我は戦いを制することで独裁に抗えることを示した。もしそれで勇気づけられた者がいるとすれば、我にその力を貸して欲しい。諸君らの強い心が、先ほど言った三つの問題解決に必要なのだ」
アドルフの演説は佳境に差しかかった。戦勝式典は、たんに勝利を祝うイベントではなく、ビュクシの住民から支援を引き出すことにある。
もしそれを自発的になせれば、彼ら一人ひとりが問題解決の主体となる。新たな統治者となったアドルフに全てを委ね、うまくいかないときは文句を言うだけの存在ではなくなるわけだ。
とはいえ群衆の反応を見る限り、アドルフの希望は叶えられようとしている。全体を見渡すと、彼らの表情には深い後悔が滲んでいたからだ。
ある種の自己欺瞞によって魔人族の独裁を許してしまってきたこと。その挙句、不況に苦しみ、生活苦を強いられてきたこと。しかし本来、それは自分たちの責任でもあったのだ。心の問題を正面から問われ、群衆の目つきがこれまでにないほど真剣に変わった。
アドルフはここで、ようやく静かに息を吐き、軍旗を突き出しながら、新たな言葉を紡ぎだす。
「だれかに言われたであろう〈みんな頑張ってる〉という台詞に同調してはならん。なぜならば〈みんな〉とは、苦しみをやり過ごすために使うのではなく、幸せを分かち合う人々のために使う言葉だ。我はその当たり前さを取り戻していきたい。辺境に住む諸人種という〈みんな〉のために」
一気呵成に言ったあと、アドルフの動作に再び熱が入った。力強く拳を振り、演説全体をまとめていく構えだった。
「先ほど我が述べた党とは、そうした〈みんな〉のためにおこなう全ての行動の受け皿である。むろん、評議会に議席を得られるわけではない。だが何かを実現させるためには、人々の英知と努力を結集せねばならん。ヒト族と亜人族という区分けを取り外せば、我々は同胞たりえるのだ、貧しき辺境に住む同じ民として」
このとき提示された概念は、従来存在しないまったく新しいものだった。しかしそのビジョンは、アドルフのなかには元々秘められていたものである。神聖ローマ帝国、プロイセン帝国、ナチスドイツ。それらに継ぐ第四のドイツ国を彼は辺境から打ち立てていくつもりなのだ。
そしてそのルーツは、いまは亡き〈施設〉の院長先生にあった。アドルフ自身、それをはっきりと意識したうえで静かに高揚している。先生が体現していた亜人族とヒト族の共存を肯定する精神。彼はそれを受け継ぎ、新たな政治運動へと発展させるつもりなのだ。彼は軍旗をひるがえし、そこに刻まれた文言を群衆へと見せつけた。
「設立する組織の党名はドイツ党にしようと思う。言うまでもないが、党名の由来は〈融和〉である。我はこの政治運動に味方する者全てと融和していくつもりだ。先刻述べた三つの問題をともに解決していき、この世界に調和を取り戻そうではないか。我とその同胞たちは率先して邁進する。諸君らも後に続いて欲しい。黄金期は待っていてもはじまらない。みずからの手で未来へと築いていくのだ」
最初はまるで救世主のように振る舞っておきながら、最後はその責任を住民一人ひとりに託していく。意地悪い見方をすれば、アドルフは体よく群衆を巻き込んでいったわけだが、現実を認識したことで彼らの外見には明らかな変化があった。実際アドルフの眼には、群衆の瞳にともった決然たる意志の力がはっきりと見える。移ろいやすい気分で一喜一憂するのではなく、いまを変えたいという強い気持ちを宿したことが。
やがて、だれかが言った。
「異議なし!」
その言葉は、一斉に唱和される。互いの声を打ち消し合い、群衆の叫びは形をなさなくなった。あとに続くのは万雷の拍手。地鳴りのごとき震えが壇上にまで届く。
もしここで演説を終えれば、予定したプランを完璧になし遂げたという充実感に浸れただろう。実際アドルフは、目的の達成を確信し、人知れずほくそ笑んでいた。しかしそんな彼の意識が、群衆の人波に紛れたある一点で止まる。
彼の目に入ったのは一人の老婆だ。老婆は群衆の最前列にいた。
隣に寄添うのは老婆にとって孫のごとき年齢の男子である。老婆はその男子をそっちのけで、さめざめと涙を流していた。節くれ立った手に白地に赤のマフラーを握り締めて。
このときアドルフが注目したのは老婆の涙ではない。最初マフラーの色柄だと思ったのは、よく見るとべっとり張りついた赤い鮮血であった。
それが何を意味するか、勘の良いアドルフが見逃すはずもない。今回の戦闘に巻き込まれ、肉親のだれかが死んだのである。おそらく老婆にとって子供であり、孫らしき男子にとっては親にあたる人物であろう。
もっともアドルフはこの手の涙に冷淡なタイプで、意識を向けたのも偶然に他ならない。現に彼は乱れた髪をかきあげ、息を整えながら、四つの綱領を再度復唱し、群衆の承認にだめ押しするつもりだった。
ところが老婆を目にした途端、呼吸が突然速まった。視界の隅では、群衆が再びナチス式敬礼をはじめ、喝采を叫んでいる。しかしそんな大音量の声たちがどんどん遠のいていき、あっという間に無音となった。音がなくなったのではない。自分の耳が聞こえなくなったのだ。
アドルフは異常を感じとり、反射的に胸を抑え込んだ。
そのとき、抑えつけた左手が指にはめたリングに触れる。片方は〈増幅器〉であり、もう片方はネーヴェに授かった宝呪だった。けれどもその冷たい感触は、アドルフの冷淡さを溶かしていく。なぜならいまや互いに見つめあった格好の老婆が、人一倍大きな声を張りあげたからだ。
「おお、貴方こそまさに伝説の《勇者》様じゃ!」
その台詞が自分にむけられたものであることに、アドルフはすぐには気づけなかった。それでも《勇者》という単語が、つい先刻おこなわれたネーヴェとの会話を思い起こさせた。
天使はこの異世界の仕組みを操作し、彼以外にも《勇者》となるべき者を生み出したと言った。いわば争いを運命づけられた連中との戦いを通して、アドルフを《主》の願望に近づけるために。
そんなネーヴェとの会話が、彼の脳裏に鮮やかな光景として甦る。
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