緋黒の焔〜ヒトラー異世界戦記〜

影山ろここ

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第八章

戦勝式典4

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 ――よいか、アドルフ・ヒトラー。転生して以後、お主がなし遂げた事を評価すれば、その通信簿は満点じゃ。しかしここから難易度はあがっていくし、同時に《主》の願望にかなう《勇者》の候補者はお主だけ、負けて貰っては元も子もない。与えた宝呪を有効活用し、目的に邁進して貰わねばならんの。

 そしてその間にも、群衆の雄叫びが断続的に上がり、アドルフの鼓膜を打ち震わせる。

「ヒト族万歳! 亜人族万歳!」

 長らく疎遠だった亜人族を受け入れる意志が、その叫びには含まれていた。それはまさしく、アドルフの唱えた〈融和〉が成立することを示した瞬間である。しかし彼自身は立ちくらみを覚え、細い体をよろめかした。そんな彼の耳に響くのは、依然として天使の残した思わせぶりな言葉である。

 ――せっかくだし答えあわせをしてやろうかの。お主が判じた先代の《勇者》は何者じゃと思う?

 腹の内を見透かしたような声で、ネーヴェはアドルフを値踏みした。そのときは特に不快など覚えなかったが、いまありありと思い出すと嫌悪感のようなものが湧いてくる。
 だがそのとき交わした会話で、アドルフは思いついた答えをそっけなく述べ、天使の顔色を窺った。なぜなら彼は、自分の出した答えに絶対的な確信がなかったからである。

 はたせるかな、ネーヴェは底意地の悪い笑みを浮かべつつ、口の端を吊り上げながらこう返した。

 ――ほう、大正解じゃ。お主の言うとおり、この世界から《勇者》という概念を消した先代の《勇者》とは、イェドノタ連邦の創始者である初代《魔王》のことよ。儂らの調査だと、やつとその後継者は、あらゆる事物から《勇者》の痕跡を消し、おのれの地位の安定を図った。その意味は瞭然のよ?

 挑戦的な問いにアドルフは仕方なく乗っかり、自分の考えを述べたが、ネーヴェはそれを否定せず、愉快そうに微笑んで言った。

 ――まあ、正解と言えば正解じゃが、ちょっぴり頭を使えばわかりそうなものよの。《勇者》の出現を不可能にしてしまえば、おのれに歯向かう存在を永久に抹消できる。《勇者》を生み出すこの世界独自の仕組みを危険視する、そのような発想が初代《魔王》にあったわけじゃな。とはいえいまの答えと真逆な話だが、お主はこの異世界に転生して以後、一度《勇者》の存在について耳にしたことがあるのと違うか?

 ネーヴェの疑問にアドルフはしばらく記憶を遡り、答えを見つけた。
 彼はうっすらとだが、覚えていた。生前の院長先生が、まるで口を滑らせたかのごとく、《勇者》という言葉を洩らしたことを。

 その体験を教えてやると、ネーヴェは肩をすくめて飄々と呟いた。

 ――ふむ、図星じゃったみたいよの。けれども不思議がることはない。どんなに証拠隠滅を図っても、人の口に戸は立てられぬ。書物をいくら燃やしても口伝という手段が残っている。知識に貪欲な者たち、古い時代の名残を知る老人などは、公言こそしないが《勇者》の存在を把握していると見てよい。お主の教師はまさにそのたぐいだったわけよ。

 そうだったのか、とアドルフは天使の話に納得を覚えたが、思えば院長先生の死は《勇者》について語ってからすぐの出来事であったはずだ。あまりに遠くまで来てしまったため忘れかけていたことだが、アドルフの心は懐かしさのあまり、死者を悼む気持ちに染まった。それは戦勝をさらなる戦いに仕向けようとする彼にとってイレギュラーな出来事だった。

 時間にすればたった数秒の出来事である。ネーヴェとの会話を脳裏に思い浮かべていたアドルフだが、やがて薄らいだ意識を回復させると彼は壇上にかろうじて踏み止まっていた。

勝利万歳ジークハイル!」

 群衆は演説に酔いしれ、口々に喝采を叫んでいる。耳は聞こえるようになったが、アドルフはまだ、先ほどの老婆から目を離せなかった。その理由が何であるかを、彼は自覚できない。

 しかし傍目から見た彼は、演説を終えかけた瞬間、突然ふらつき、軍旗を床に突き立てながらテラスの真下を覗き込んでいた。不安定で危うい体勢であることに幕僚の一人が気づき、慌てて駆け寄ってきた。驚きを隠せない顔のフリーデである。

「危ないじゃないか、アドルフ。大丈夫か?」

 彼女はいまにも転落しそうなアドルフを支え、心配そうに声をかけたが、反応は返ってこない。当然、フリーデは、その無反応に眉をしかめる。

 肝心のアドルフはと言えば、血のついたマフラーを抱きしめる老婆を見つめ、ひとつの思いに心を染めあげた。それもまた、院長先生にむけたのと同じ、死者を悼む気持ちだった。どうしてそんな感情が湧いたのか、彼にはわからない。だが、その思いは時間を刻むにつれ、猛然と膨れあがっていく。

 今日の戦闘で何人の死者が出たか、把握のしようがない。けれど確実に多くの者が死に到り、悲しみに暮れる遺族が出たのである。

 正真正銘の悪人で、慈悲の心からほど遠く、目的のためならばどこまでも残酷になれるのがアドルフ・ヒトラーという男だった。そんな彼が老婆に憐れみを抱いた。老婆の肉親が亡くなった事実と院長先生の死が重なりあい、過去と現在が結びついてしまったのだろうか。

 その結果アドルフは自分の奥底から何かが溢れ出そうとしていることに気づいた。群衆の喝采を間近で浴びながら、彼は眼下にむけて声を放った。

「申し訳ない。我の力足らずだ。本当に済まないことをした」

 周囲の声にかき消され、その言葉は老婆まで届くはずもなかった。けれどアドルフは、微かな罪悪感を抱き、気づけば行動に移していた。
 謝罪にこめられた意味を、彼自身持て余している。けれどアドルフの心は、ほんの少しだけ楽になった。

 彼はまだ演説にピリオドを打っていないことを思い出し、横から自分を支えているフリーデにかすれた声で「ありがとう、もう大丈夫だ」と言った。
 その声はフリーデに安心感を与えたらしく、彼女は静かに離れていった。

 アドルフは一人になって、心の内側に意識をむける。さっきまであった罪悪感は消えていたが、名残のようなものは残っていた。

 もし一連の出来事をネーヴェが観察しており、アドルフが助言を懇願すれば、客観的な意見をくれたに違いない。《勇者》になろうとする者は、たとえ悪人でも心の変化と無縁でいられないと。

 アドルフは《勇者》になるための仕組みを知ったとき、前世でなし得なかった勝利を手にすることで、おのれの正義を今度こそうち立てられると考えた。しかしそれは独り合点であり、事情を与り知らぬ者の思い込みであったのだ。

 偉大な人間はいつでも悪人である。

 けれど、聖者にならなくても《勇者》になれるわけではない。

 どんなに悪人でも、正義の使徒になる過程で、本来の自分と新しくなろうとする自分との落差に直面し、苦悩することになる。それこそが《勇者》を生み出す仕組みのもつ秘密であり、いずれ自覚するであろうことを織り込み、天使が教えずにいた真実なのである。

 その証拠に天使は、去り際に謎めいたひと言を洩らしていた。

 ――《主》の願望はいわば、最大の悪に最大の善が宿ることじゃ。おのれを変える必要はないが、変わらずともおのずと変わっていく。その理を忘れるでない。

 禅問答のような観念的やり取りを好まないアドルフは、勝利を積み重ねていけばよいという部分にとらわれ、ネーヴェの言葉に注意をむけなかった。
 そのため彼は、自分がわけもなく憐れみを抱いたことの意味を捉え損なった。老婆に謝罪をしたのは、群衆へのアピールだと理解した。整合性はないのだが、そう考えるより納得いく術がなかったのである。

 ゆえにアドルフは徹底して無頓着であった。本当は善性の欠片が彼のなかに芽生えはじめたことに。

 鮮明な意識を取り戻したアドルフは、やがてそれを現実へとむけた。わずかに存在したはずの葛藤を打ち払い、乱れた髪と姿勢を正しながら、見渡す大地を埋め尽くす群衆に視線を投げかける。

 彼らの興奮はいまや最高潮に達していたが、アドルフはその声に負けじと咳払いをし、わずかにためを作り、拳を握った。そして天に突きあげ、雷鳴のように叫んだ。

「諸君らの承認を得られたことを嬉しく思う。我はアドルフ・ヒトラー。明日からこの街の統治者として執務を開始する。各々が力を発揮すれば、必ずや状況を変えられる。我はその先頭に立つ。なお、新たに設立する党への参加希望者には、今後行政府にて手続きをおこなう。辺境から世界を刷新すべく、貴重な歩みを踏み出して欲しい!」

 党員を増やす一番の目的は軍資金を集めることにある。そんなことを考えだすアドルフの頭は、演説を終えた瞬間からはじまる実務へとむけられていた。けれど最後の文句を投げかけた後、おもむろに右腕を伸ばし、ナチス式敬礼をしたアドルフの真似をする者はだれもいなかった。

 もちろんそれは、彼にたいする支持が落ちたことを意味するのではない。事実はその逆であり、群衆は惜しみない嵐のような拍手をアドルフに送っていたから、敬礼をしようにも手が塞がっていたわけである。

 そんな割れんばかりの拍手の音は、アドルフの背中越しにも感じられた。後ろに控えた幕僚や兵士も、完全に群衆と一体化している。
 彼はいつの間にか鳴り止まぬ破裂音に包まれていき、陶然とした気持ちになった。

 よく見れば拍手の音に驚き、空を飛ぶ鳥が二羽、別方向に散っていくのが目に入る。

 政治の世界における拍手とは、全幅の信頼とイコールだ。戦闘に巻き込まれ、少なからぬ死者も出たとおぼしき状況下、ビュクシの民衆から否定的な声があがらず、小麦の備蓄が尽きるかもしれない危機を前にしてなお、非難を耳にしなかったのは紛れもない成功と言える。

 戦勝式典はたんなるお祭りでなく、これからはじまる苦難を分かち合うことが最大の眼目だった為、アドルフは所定の目的を達成し、望むもの全てを手に入れた。まさに譜面どおりの演奏を終えたわけだ。

 ひとつの終わりは、べつのはじまりと同義である。

 本来ならアドルフはテラスを辞し、味方を引き連れて、統治を具体化すべく会議をはじめたいと考えていた。とはいえ群衆の勢いが衰えぬなか、その場を立ち去るのは冷酷な印象を与えるため、望ましいことではない。

 アドルフは拍手が鳴り止むまで、壇上に止まり続けた。その間、およそ一分は時間を費やしただろう。汐が引くように静寂が生まれはじめたとき、またしても眼下から声が聞こえた。視線を下げると、それは先刻目にとまった血濡れのマフラーを抱きしめる老婆のものだった。

「私らをお導きくださいませ、偉大なる《勇者》様!」

 その叫び声は言うまでもないことだが、背後に生々しい死者を背負っていた。また同時に、別の慎重な意味合いを含んでいた。アドルフはその両方を受けとめたが、意識に残ったのは後者の側である。

 ネーヴェはこの世界で《勇者》という概念を知る者は二通り存在すると言った。一方が、特別な教養をもつ知識人。もう一方が、歴史の残滓を受け継いだ老人たち。視界に入った老婆はむろん、後者であろうが、周囲が同調しないことから察するに、群衆のほとんどは《勇者》の存在を知らぬ世代の者たちなのだろう。

 どちらにしろアドルフは、自分を《勇者》と呼ぶ老婆の声にそれほど重きを置かなかった。なぜならその称号は形だけのものであり、彼が手に入れようとしているのは大集団を自在に動かす権力と、自分が転生したこの異世界全てであったからだ。

 それでもわずかな興奮は押し隠せない。彼自身、理解していないことだが、《勇者》の名が政治的な場で公言されたのは、実に一五〇年ぶりの出来事であった。連邦国家の創始者である初代《魔王》がかつて白髪の勇者と称えられたときから数えると、もうすでに二〇〇年余りの時が経っている。

 もし先ほどネーヴェに教えられた歴史が本当だとすれば、《勇者》の復活は《魔王》がうち立てた政治体制を根底から揺るがす出来事である。アドルフが関心を抱くのはまさにこの点だった。

 彼は演説に没頭する傍ら、密かに思っていた。自分が進むのは反逆者が歩む覇道ではないと。
 たとえ連邦の統治者に弓を引き、魔人族の撃滅を図ろうと、この異世界を制覇するという野望にかなう限り、自分の行く道は正義に裏づけられた王道に他ならない。

 そんな真っすぐにぶれない生き様を、彼はこれからも貫いていくつもりだった。セクリタナを統べる正統な指導者、すなわち《勇者》アドルフ・ヒトラーとなる志高き未来を見あげて。(第一部了
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