氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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1話◆白皙の紫水晶

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 暗夜を駆ける影が一つ。漆黒を頭から爪先まで深く纏うそれは、殆ど音を立てずに下草を踏み抜けて迷い無くひた走る。その先には夜半前に一騒動が有った古城が有った。周辺に見張りの姿は無い。罠などではなく単純に人員が割かれていないことは調べがついている。すらりとした背丈の高いその影は、古城の外壁に近い木々の陰で一旦立ち止まっては人の気配の無いことを改めて確認し、再び走り始める。外壁沿いに半周ほどしたところで、影は纏うローブの内側から金属を練り込んだ縄を取り、勢いを付けて上方へと放り投げた。目算通り縄の先に取り付けられた金具が石造りの尖塔の端に引っ掛かる。何度か引っ張って強度を確かめると、影は慣れた手付きでするすると城壁を伝い登っていく。縄を回収し懐に仕舞い、尖塔の端から一飛びに別棟へ移ると、更に姿勢を低くした状態で壁陰の暗がりに溶け込みつつ目的地を目指して走る。足取りはやはり迷いが無い。古城の内部構造は全て頭の中に叩き込まれているからだ。そして更にその情報は、先刻催しの休憩中に古城をあちこち歩き回ることで確固たるものとなっている。
 別棟の屋根を走り、暫くすると高い城壁に囲まれた中庭が視界の下方に見えてくる。淡い光を放つ照明が点在しているだけで人の気配は無いが、中庭に気配が無くとも城内には見張りがいる筈だ。影は中庭を見下ろす城壁の角へと辿り着くと、慎重な動きで屋根から音も無く一気に地面へ着地し、再び夜闇に溶け込んで柱の陰を縫いつつ急ぎ走る。ここからはもういつ見張りや関係者に出くわすか分からない。気配を感じる度に扉の陰や階段の端に身を潜め、足音をやり過ごす。そうして幾つかの階段を上っては降りて、次第に古城の地下へと潜っていく。
 黴や錆の臭いが漂う石造りの地下は、序盤は貯蔵庫や倉庫の様相を呈した部屋や広間が見受けられたが、階を重ねて降りていくうちに剣呑な雰囲気を醸していく。最後の階へと到達する手前で、影は上階と下階の中間に位置する通風管に取り付けられた格子を外して、その中へと潜り込んだ。通風管は狭く、成人男性が寝転んだ体勢で這って何とか通れる程度。微かに流れる風が、その奥に存在する下階の部屋からの物音を運んでくる。断続的に聞こえてくる空気を割く重い音に、影は目深に被ったフードの奥で眉を潜めた。通風管を進んで暫し、前方の床から微かに灯りが漏れている。正確には下階の天井に設けられた通風孔兼明り取りからであり、その下の部屋が今正に使われていることを示している。影は音を立てぬように近寄ると、下階に陰を作らない角度からそっと下を見下ろす。
(――――……っ)
 影はフードの奥で目を眇めた。風を切って生まれる鋭い破裂音と共に、金属が擦り合う小さな音が聞こえる。見下ろした視界には数人の人物がいた。三人の男は制服めいた似たような格好をしており、そして彼等に囲まれる形で天井から手錠の付いた鎖に繋がれた人物が一人項垂れている。シャツは剝ぎ取られており下半身にズボンを纏うのみ。取り囲む三人のうち一人の手には、先端に革製の房が付けられた鞭が握られている。大きく振り被って撓らせる度に、天井から繋がれた人物の背から痛々しい音が響き、同時に吊るされた鎖が軋むのである。鞭は牛追い用の音が出るだけのものなどではないことは一目瞭然で、角度的に見える吊り下げられた人物の背中は血で真っ赤に染まっている。明らかに殺傷力の有る拷問用の鞭で痛め付けられているのだ。
「顔はやるなよ。背中以外傷付けたらこっちが殺される」
「分かってるって」
 笑っている様子は無いが、下卑た声音であることは確かだった。鞭打たれるのは古城の催しの目玉だったリカリアの青年。薄明りの牢獄でも目を引く真っ白い肌は無残にも血に染まり、初めて舞台上に出て来たときのように顔は項垂れたまま長い黒髪に隠れて見えないが、激痛が走っている筈なのに声一つ上げないでいる。気を失っているのか、若しくは痛みを感じていないのかといえば、鞭が無情な音を立てる度に鎖で繋がれた手指が微かに強張るので、意識は有るらしい。天井の穴から見下ろすばかりの黒尽くめは言いようのない感情に拳を強く握り締める。その情動のままに下階へと通風孔を通り抜けようと身を乗り出しかけたとき、鞭を持つ男が短く息をついた。
「とりあえず一旦休憩しようぜ。疲れたし一服してぇ」
 鞭を振るうのは大きく振り被る必要も有って体力を使う。男の提案に否やを唱える者も無く、三人の男達はぞろぞろと連れ立って檻の向こう側へと出て、格子の扉を閉めて鍵を掛ける。最下層であるこの階は、やはり全体が牢獄となっているのだ。やがて三人の足音が聞こえなくなった頃、影は城の屋根から一気に飛び降りたときのように音も無くするりと通風孔から下へ降りた。低い姿勢で視線を上げれば、俯き垂れた髪の隙間からこちらを見遣る薄紫とかち合った。
「…………」
 今の今まで鞭打たれていたとは思えない程の冷ややかな双眸で、精霊族の青年はじっとこちらを見つめてくる。
「――――……誰だ」
 今迄に聞いたことの無い、硬質だが甘やかな落ち着いた低音。それが彼の声。野生の獣が茂みから窺うかの如く緊張感を伴う静寂が訪れるが、影は相手を刺激しないようゆるりとした所作で立ち上がると、目深に被っていたフードを後ろへと払った。柔らかな淡い梔子色の髪が露となり、精霊族の青年の肌にも劣らぬ明るさで暗闇に浮かぶ。
「今、助ける」
 彼の問いには答えずにそれだけ小声でそっと呟くと、金髪の青年はローブの下に隠した長剣の柄に手を掛け、鞘から一気に引き抜きつつ相手の頭上目掛けて斜めに薙ぐ。青い閃光が一瞬走ったかに見えた直後、戒めていた鎖の先を切られた精霊族は、吊糸を失った操り人形のようにがくりとその場に膝をついて蹲った。端を切ったとはいえ未だ両手首を戒めたままの鎖が硬い床の上で小さく音を立てる。
「……大丈夫か」
 剣を収めた青年は、座り込む相手の傍で同じように膝を折って屈んだ。思わずそうしてしまったのだが、つと持ち上がった精霊族の青年の貌が思いの外近くて咄嗟に息を飲む。紫水晶の瞳も、縁取る長い睫も、白皙の膚も、整った鼻筋も、艶の有る黒髪も、全てがほんの僅か手を伸べた先に触れられる位置に在る。魅入られたかのように動けないでいる青年をじっと見つめていた精霊族だったが、不意に視線を背後に位置する通路の方へと一瞬走らせた後、半端に切れた鎖が付いた手錠に戒められたままの両手を躊躇無く延べて、目の前の黒いローブの胸倉を掴んで一気に引き寄せる。
「っ!?」
 ぎょっとした金髪の青年が制止するよりも早く、歯がぶつかるような勢いで互いの唇が重なる。柔い感触の直後に、唖然と開いた隙間からぬるりと入ってきた相手の熱が、前歯の辺りをそっと舐めるだけしてすぐに口内から出ていく。突然の出来事に固まった青年をよそに、胸倉を掴んだまま顔を離した精霊族の青年は、何の感慨も無い無機質な表情で己の口端を舐めた。煽情的な赤い舌先を目にして、今何が起こったのかを理解した青年の心臓が跳ねる。
「何者だ!」
 動揺も束の間、檻の向こうから怒号が飛ぶ。金髪の青年がはっと檻の外の通路を見遣ると同時に、精霊族の青年も先ほど一瞬そうしたように視線を檻の外へと投げた。今正に掛けられた鍵が開けられようとしている。派手な音を立てて鍵が開き男達が雪崩れ込んでくるのと、精霊族が迷いの無い動作で目の前の黒いローブ内の柄に手を掛けて振り向きざまに引き抜くのは同時だった。刀身の蒼い白刃は鞘を走り速度を増して孤を描き、音も無く先頭の男の首を薙ぐ。返す刃が振り上がりながら隣の男の脇腹から首までを斜めに走り、二人の末路を目にして勢いを削がれた最後の一人が立ち止まるよりも先に、その喉に切っ先が突き立てられる。時間にしてはほんの一瞬。目にも止まらぬ鮮やかな斬撃で、三人は悲鳴すら上げることも叶わずに鮮血の海に沈んだ。だが金髪の青年はそれとは全く別の事柄に言葉を失くしていた。三人を斬る為に後ろを向いた精霊族の青年の背中は、あれだけ手酷く鞭打たれて血に染まっていた筈なのに、傷など跡形も無く消え失せていたのだ。乾ききっていない血液が滴った痕跡は有っても、痛々しく内側の肉が露出した傷口は一つも見られない。狐につままれたような表情の青年をよそに、精霊族は振り返り慣れた手付きで長剣を逆手に持つと、柄を持つ腕を上げて相手の黒いローブの内側の鞘へと器用に納めた。納刀の涼やかな音が小さく闇に溶ける。金髪の青年はその音に気を取り直してか口を引き結ぶと、上半身に何も着ていない目の前の相手を暫し見つめ、自らが纏う黒いローブを脱いで相手の肩へと掛けてやる。庇護を思わせる所作に僅かばかり訝しく眉根が寄るが、精霊族から抗議や疑問の言葉は出てこない。
「……出よう。ここから離れなければ」
 元々シャツ一枚着せられているかいないかくらいを想定していたので、纏っていたローブは最初から相手に渡す予定だった。金髪の青年自身はそれを見越した上で細身の黒いコートに身を包んでおり、折返しの逃走も問題ない。先ほど自分が降りてきた通風孔を見上げてから次いで相手を見遣り、ここから上がれるのだと言外に示せば、返答は無かったが精霊族は理解したようだった。姿勢を低くして一飛びに通風孔に上がり、再び狭い通風管を這って元来た道筋を辿っていく。通風管を出て上りの階段に辿り着き、振り返れば、ちょうど同じように通風管から出てきた精霊族は既にローブに袖を通しており、確認するまでもなく黙ってついてきている。安堵しつつ青年は進行方向に向き直ると、周囲を窺いながら慎重な足取りで深夜の古城を駆け抜ける。精霊族を気遣って時折後ろを見遣るのだが、彼は先ほどまで鞭打たれていたとは思えない様子で危なげなくぴったりと後をついてくる。精霊族とはかように頑強なものなのだろうか。
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