7 / 66
1話◆白皙の紫水晶
7
しおりを挟む
「俺に出来ることなら」
「お前は俺を囲う気は無いと言った。……なら、ここには居られない。お前の見立てで構わないから、精霊族が欲しそうな奴を紹介してくれないか。……出来ればあまり暴力的じゃない奴が良いが、贅沢は言わない」
あまりの願いにカイは絶句した。冷や水を浴びせられた気がして、胸の内がざわつく。けれども、イルにとって現実とはそういうことだ。自分が糧を提供出来ないのなら、彼はここにいても生きてはいけない。至極尤もなことなのだが、その事実にカイは心を抉られる。かといって、彼に手を出せるかといえばそれも躊躇われた。何故なら、イルはカイにとっての――――……
「相手が思い付かないか?……お前に精霊族の知識を教えた奴でも良い。複数人所持しているのならそれなりに扱いにも長けているんだろう。……何にせよ、そろそろ限界なんだ。なるべく早い方が有難い」
カイの葛藤など知る由も無いまま、イルは続ける。不穏なものを感じてカイはそっと訊ねた。
「……限界……、というのは」
「枯渇……、飢餓状態と言えば解りやすいか。糧を絶たれて一ヶ月以上経つし、ここに来るまでにも力を使い過ぎた。……必要に迫られてお前から少し貰ったが、それも怪我を治すのに殆ど費やしたから」
そういえば、とカイは古城の檻で唐突に口付けられたことを思い出す。急な出来事に動転するばかりだったが、あの時前歯を舐めた程度の唾液、即ち人間の体液で、彼は背に鞭打たれた際の裂傷を全快させたということか。
「一ヶ月以上……どうしてそんなに」
想像以上の長期間にわたる絶食にも耐え得るのかという驚きは有ったが、それ以上に意図的に糧を絶たれていた口調であることに衝撃を受けた。言葉を無くすカイに、イルは事も無げに答えを寄越す。
「競売にかける準備というやつだ。……魔法にしろ筋力にしろ精霊族は人間よりも高い能力を持つ。戦闘に長けた一族や個体で主従関係を結んでいない者は、人間に対して脅威となる。……そういったそのままでは会場の舞台に出せない奴は、競売の日程に合わせて断食させ、徐々に弱らせて下手に抵抗出来ないまでに力を削いでいく」
「……そんなことを……」
そうして力を削いだ上で、イルに関しては大量の黒呪石で周りを固めてのお目見えとなった。それでも彼の魔法を完全に封じることが出来なかったことを考えると、本調子の彼は一体どれだけの強さとなるのだろう。
「舞台上に上げる際の安全性も有るし、……あとは単純に、枯渇していれば糧を得ることに貪欲になる。お前だって空腹時に食べ物を寄越されればどんなものでも貪るし美味いと思うだろう。それと同じことだ。……欲しがる姿はとても喜ばれる」
悪趣味だと思うと同時に、彼も誰かに糧を強請るのかと思うと、カイの内側がざわりと波打った。見知らぬ何者かに、この理知的で意思の強い綺麗な人も媚びるのだろうか。
「解っただろう。お前に俺を自由にすることは出来ない。そもそも俺には何処に行ったって自由なんて無いんだ。……お前に譲渡先の心当たりが無いのならそれでいい。とりあえず明日の朝には出ていく」
城下街の裏路地にでも赴けば、イルの容姿なら糧などいくらでも得られるに違いない。ただ、裏社会では今頃リカリアの青年が逃げ出したという情報が広まっていることだろう。判る者には判る稀少価値の高さに加え、もしかしたら懸賞金も掛けられているかもしれない。のこのこ捕まえられに行くようなものであることは明白で、けれども彼もそれを承知の上でそう言っているのだ。精霊族に自由は無いという言葉をカイは痛感する。それと同時にこみ上げる思い。胸に渦巻く感情全てが、彼にここから去ってほしくないと叫んでいた。そうして、青年は決意する。
「…………教えてくれ、イル」
「何だ」
「精霊族を……、君を『所持』するには、どうしたらいい」
カイの言葉に、伏せた目を持ち上げたイルは、当然のように怪訝な表情をしている。
「……俺を囲う気は無いんじゃなかったのか」
「……そのつもりだった」
未だに迷うところは有る。それでも告げずにはいられない。
「君の指摘の通り、俺は浅はかだ。……人間の体液が栄養になるという話も、捕らえる側の人間が捕縛の大義名分にしているだけなのだと勝手に思っていた。……『女王蜂』の話を知らなかったのも大きい。言い訳にしかならないが、核の加護を受けられない精霊族が深刻な飢餓状態に陥るのだと知っていれば、君の身の振り方も含めての計画を練っていたことだろう」
もう過ぎたこととはいえ、彼を激昂させたことへの後悔は尽きない。カイはどう伝えれば思いを届けられるのか、思考しつつ言葉を選びながら相手を見据える。
「先にも言った通り、君をあの会場から連れ出してあげさえすれば自由に出来るのだと思っていたけれど、それが叶わない事情を知れば、話は変わってくる。……俺が君を望んで良いものか、正直悩んでいるし答えは出ていない。それでも、君がこの先どんな環境に置かれるのか分からないくらいなら……、ここに居てくれないか」
「……望んで良いか悩むというのがよく分からないが、俺が欲しいのなら力尽くでもそうすればいい。精霊族に伺いを立てる人間などいない」
眉根を寄せるイルの語調は、苛立ちや皮肉ではなく本気でカイの本意が理解出来ないという訝りを孕んでいる。文字通り力尽くで奪われ続けてきたであろう彼にとって、カイの言葉は解せないものでしかないのだろう。
「君は物じゃない。……心を通わせられる相手を、俺は蔑ろにしたくない」
「…………」
きっぱりと言い切ったカイに相手は黙ってしまうが、表情が変わらないところを見るに、やはり怒気は感じられない。単純に、カイの言動に困惑しているだけと見られる。
「俺は君に、何物にも縛られない存在で居て欲しかった。だからあの檻から助け出したいと思ったし、解放して自由にしてあげたいと思ったんだ。……けれど、それが不可能だというなら……、人間に縛られる以外に君が生きられる方法が無いというのなら、俺が君の鎖になりたい」
説得などのつもりは無い。そもそもイルは、自分が持ち主にならないのならここには居られない、と言っている。つまりカイさえその気であれば、イルがこのままここに残るという選択肢は最初から有るということだ。それでもカイは、出来ることなら自分の気持ちよりも、イルの意志でここに居て欲しかった。当のイルはじっとカイを見つめていたが、長く思案するような間を置いてからふっと視線を落とす。
「…………」
視線を合わせないままイルは更に何事か考え込んでいる様子だったが、ふと一人掛けソファから緩慢な動きで立ち上がると、ゆっくりと机を回り込んでカイの隣に立つ。肩に片手を置いてくる相手を不思議そうに見上げるカイに対して、イルはソファに腰掛けた相手の腿の間に片膝を割り込ませ、正面から相対する形で両肩に手を置いて至近距離で相手を見下ろす。
「何……、――――っ、」
流石に怪訝に思うも、問いを投げる前にカイの唇は相手のそれによって塞がれてしまう。思わず伸びた手がイルの服の裾を掴むが、引き離すよりも早く、柔らかな熱が半端に開いた歯列を割って口内に差し入れられたことで、タイミングを失してしまう。下手に抵抗すれば相手の舌を噛むかと、カイは顔を背けることすら出来ない。熱い粘膜が自分のものと擦り合わされ、緩やかに動けば動くほどぞわりとした何かが全身を巡り、身震いにも似たそれとは逆に耳先に一気に熱が集まっていくのを感じる。覆われている筈の唇の内からくぐもった水音が小さく響き、非日常なその音に喉がひくりと震えた。緩々と熱を分け合った舌先がやがてゆっくりと下がり、押し付けられていた唇が離れていく。温度の無い逆光の双眸に見つめられ、カイはいよいよ何も言えなかった。
「……慣れていないな」
言葉の無いカイに対し、相手の声音はいっそ冷淡なほどに落ち着いている。感情の窺えない紙のように白い貌が見つめる自分は、きっと朱に染まっているのだろう。手先は緊張で冷え切っているのに、まるで耳元に心臓が有るかのように鼓動が近しい。恐らく全てを把握した上で、イルは依然として片膝をソファに、両手をカイの肩に乗せた状態でじっと見据えてくる。
「精霊族を所持……、従属させるには、その精霊族の心を、身体を、自分に強く繋ぎ止める必要が有る。……恐怖、怒り、……そして憎しみ。痛みと羞恥、屈辱は耐え難い記憶となって当人を蝕む。凌辱が手っ取り早い方法として効果的だというのが分かるだろ。……お前にそれが出来るのか」
考えるまでもなく、カイにそんなことは出来そうにない。そもそもがそんな境遇にあったイルを救おうとしての一連の行動なのだ、同じことを強いては本末転倒になる。
「ここが精霊族が居たことの無い家なら、そのまま居ない方が良い。……迎えるにしても俺を入れるのは薦めない。どうしてそんなに俺の気持ちを重視したり助けたいと思うのか分からないが、俺はお前がここまで心を砕くほどの存在じゃない」
肩に手を置いたまま、イルは背を丸めて相手の耳元に口を寄せ、吹き込むように囁いた。
「――――男に股を開くことに何の躊躇いも無い屑だ」
ゆっくりと顔を上げれば、睨むとまではいかないものの、眉を寄せて強い視線を向けてくるカイの表情と直面する。イルは見下ろしつつ僅かに目を細めた。
「朝を待つまでもない。……世話になったな」
肩から手を離し、相手の腿の間に立てた膝を引いて、ソファと机の間から離れるとイルは踵を返す。そのまま部屋の扉へと歩み寄り取っ手に手を掛けようとするが、延ばした手が触れる直前にもう片方の手首を掴まれる。腕を引く相手を振り向いた途端に、イルは正面からカイに抱き留められる。予想外に強い力で抱き締められ、圧迫に息が漏れた。
「……っ……、何の真似だ」
ぎゅう、と抱き締めてくる相手の肩に手を掛けるが、さして大柄でもなく、イルとそう体格は変わらない筈なのに、戒めるカイの体はびくともしない。
「それはこっちの台詞だ」
さっきまでの、戸惑いに言葉も無かった相手とは思えないほどの冷えた声音がイルの耳元で響く。僅かに腕の力が緩んだ隙に片手を互いの胸の間に差し込んで押し返すが、視線を交わす程度の隙間が出来ただけで、振り解くには至らない。正面から見据える相手の双眸に、囁いた直後と同じ強い感情が籠ったままであることにイルは眉を寄せた。対してカイは前触れ無く膝を落とすと、片腕を相手の腿の裏へと滑らせ、有無を言わさず相手を担ぎ上げて歩き出す。
「……おい!」
流石に抵抗の意思を見せるものの、迷い無く大股で進むカイは、見る間に部屋の端に据えられたベッドとの距離を縮める。イルをベッドの上へと下ろしたカイは、抗う隙を与えずに自らもベッドに乗り上げ、相手の肩を押し倒すと共に、腹の上に跨って彼をその場に縛り付けてしまう。
「…………」
肩に男の体重の半分が掛かっている状態とはいえ、腹から下は特に戒められてはいない。やりようによっては形勢逆転も可能だろうが、イルは次第に身体から力を抜いていく。ベッドに転がされた時点では抗う意思は有ったが、自分に跨って見下ろしてくるカイの表情を見つめているうちにその気が失せていったのだ。
「お前は俺を囲う気は無いと言った。……なら、ここには居られない。お前の見立てで構わないから、精霊族が欲しそうな奴を紹介してくれないか。……出来ればあまり暴力的じゃない奴が良いが、贅沢は言わない」
あまりの願いにカイは絶句した。冷や水を浴びせられた気がして、胸の内がざわつく。けれども、イルにとって現実とはそういうことだ。自分が糧を提供出来ないのなら、彼はここにいても生きてはいけない。至極尤もなことなのだが、その事実にカイは心を抉られる。かといって、彼に手を出せるかといえばそれも躊躇われた。何故なら、イルはカイにとっての――――……
「相手が思い付かないか?……お前に精霊族の知識を教えた奴でも良い。複数人所持しているのならそれなりに扱いにも長けているんだろう。……何にせよ、そろそろ限界なんだ。なるべく早い方が有難い」
カイの葛藤など知る由も無いまま、イルは続ける。不穏なものを感じてカイはそっと訊ねた。
「……限界……、というのは」
「枯渇……、飢餓状態と言えば解りやすいか。糧を絶たれて一ヶ月以上経つし、ここに来るまでにも力を使い過ぎた。……必要に迫られてお前から少し貰ったが、それも怪我を治すのに殆ど費やしたから」
そういえば、とカイは古城の檻で唐突に口付けられたことを思い出す。急な出来事に動転するばかりだったが、あの時前歯を舐めた程度の唾液、即ち人間の体液で、彼は背に鞭打たれた際の裂傷を全快させたということか。
「一ヶ月以上……どうしてそんなに」
想像以上の長期間にわたる絶食にも耐え得るのかという驚きは有ったが、それ以上に意図的に糧を絶たれていた口調であることに衝撃を受けた。言葉を無くすカイに、イルは事も無げに答えを寄越す。
「競売にかける準備というやつだ。……魔法にしろ筋力にしろ精霊族は人間よりも高い能力を持つ。戦闘に長けた一族や個体で主従関係を結んでいない者は、人間に対して脅威となる。……そういったそのままでは会場の舞台に出せない奴は、競売の日程に合わせて断食させ、徐々に弱らせて下手に抵抗出来ないまでに力を削いでいく」
「……そんなことを……」
そうして力を削いだ上で、イルに関しては大量の黒呪石で周りを固めてのお目見えとなった。それでも彼の魔法を完全に封じることが出来なかったことを考えると、本調子の彼は一体どれだけの強さとなるのだろう。
「舞台上に上げる際の安全性も有るし、……あとは単純に、枯渇していれば糧を得ることに貪欲になる。お前だって空腹時に食べ物を寄越されればどんなものでも貪るし美味いと思うだろう。それと同じことだ。……欲しがる姿はとても喜ばれる」
悪趣味だと思うと同時に、彼も誰かに糧を強請るのかと思うと、カイの内側がざわりと波打った。見知らぬ何者かに、この理知的で意思の強い綺麗な人も媚びるのだろうか。
「解っただろう。お前に俺を自由にすることは出来ない。そもそも俺には何処に行ったって自由なんて無いんだ。……お前に譲渡先の心当たりが無いのならそれでいい。とりあえず明日の朝には出ていく」
城下街の裏路地にでも赴けば、イルの容姿なら糧などいくらでも得られるに違いない。ただ、裏社会では今頃リカリアの青年が逃げ出したという情報が広まっていることだろう。判る者には判る稀少価値の高さに加え、もしかしたら懸賞金も掛けられているかもしれない。のこのこ捕まえられに行くようなものであることは明白で、けれども彼もそれを承知の上でそう言っているのだ。精霊族に自由は無いという言葉をカイは痛感する。それと同時にこみ上げる思い。胸に渦巻く感情全てが、彼にここから去ってほしくないと叫んでいた。そうして、青年は決意する。
「…………教えてくれ、イル」
「何だ」
「精霊族を……、君を『所持』するには、どうしたらいい」
カイの言葉に、伏せた目を持ち上げたイルは、当然のように怪訝な表情をしている。
「……俺を囲う気は無いんじゃなかったのか」
「……そのつもりだった」
未だに迷うところは有る。それでも告げずにはいられない。
「君の指摘の通り、俺は浅はかだ。……人間の体液が栄養になるという話も、捕らえる側の人間が捕縛の大義名分にしているだけなのだと勝手に思っていた。……『女王蜂』の話を知らなかったのも大きい。言い訳にしかならないが、核の加護を受けられない精霊族が深刻な飢餓状態に陥るのだと知っていれば、君の身の振り方も含めての計画を練っていたことだろう」
もう過ぎたこととはいえ、彼を激昂させたことへの後悔は尽きない。カイはどう伝えれば思いを届けられるのか、思考しつつ言葉を選びながら相手を見据える。
「先にも言った通り、君をあの会場から連れ出してあげさえすれば自由に出来るのだと思っていたけれど、それが叶わない事情を知れば、話は変わってくる。……俺が君を望んで良いものか、正直悩んでいるし答えは出ていない。それでも、君がこの先どんな環境に置かれるのか分からないくらいなら……、ここに居てくれないか」
「……望んで良いか悩むというのがよく分からないが、俺が欲しいのなら力尽くでもそうすればいい。精霊族に伺いを立てる人間などいない」
眉根を寄せるイルの語調は、苛立ちや皮肉ではなく本気でカイの本意が理解出来ないという訝りを孕んでいる。文字通り力尽くで奪われ続けてきたであろう彼にとって、カイの言葉は解せないものでしかないのだろう。
「君は物じゃない。……心を通わせられる相手を、俺は蔑ろにしたくない」
「…………」
きっぱりと言い切ったカイに相手は黙ってしまうが、表情が変わらないところを見るに、やはり怒気は感じられない。単純に、カイの言動に困惑しているだけと見られる。
「俺は君に、何物にも縛られない存在で居て欲しかった。だからあの檻から助け出したいと思ったし、解放して自由にしてあげたいと思ったんだ。……けれど、それが不可能だというなら……、人間に縛られる以外に君が生きられる方法が無いというのなら、俺が君の鎖になりたい」
説得などのつもりは無い。そもそもイルは、自分が持ち主にならないのならここには居られない、と言っている。つまりカイさえその気であれば、イルがこのままここに残るという選択肢は最初から有るということだ。それでもカイは、出来ることなら自分の気持ちよりも、イルの意志でここに居て欲しかった。当のイルはじっとカイを見つめていたが、長く思案するような間を置いてからふっと視線を落とす。
「…………」
視線を合わせないままイルは更に何事か考え込んでいる様子だったが、ふと一人掛けソファから緩慢な動きで立ち上がると、ゆっくりと机を回り込んでカイの隣に立つ。肩に片手を置いてくる相手を不思議そうに見上げるカイに対して、イルはソファに腰掛けた相手の腿の間に片膝を割り込ませ、正面から相対する形で両肩に手を置いて至近距離で相手を見下ろす。
「何……、――――っ、」
流石に怪訝に思うも、問いを投げる前にカイの唇は相手のそれによって塞がれてしまう。思わず伸びた手がイルの服の裾を掴むが、引き離すよりも早く、柔らかな熱が半端に開いた歯列を割って口内に差し入れられたことで、タイミングを失してしまう。下手に抵抗すれば相手の舌を噛むかと、カイは顔を背けることすら出来ない。熱い粘膜が自分のものと擦り合わされ、緩やかに動けば動くほどぞわりとした何かが全身を巡り、身震いにも似たそれとは逆に耳先に一気に熱が集まっていくのを感じる。覆われている筈の唇の内からくぐもった水音が小さく響き、非日常なその音に喉がひくりと震えた。緩々と熱を分け合った舌先がやがてゆっくりと下がり、押し付けられていた唇が離れていく。温度の無い逆光の双眸に見つめられ、カイはいよいよ何も言えなかった。
「……慣れていないな」
言葉の無いカイに対し、相手の声音はいっそ冷淡なほどに落ち着いている。感情の窺えない紙のように白い貌が見つめる自分は、きっと朱に染まっているのだろう。手先は緊張で冷え切っているのに、まるで耳元に心臓が有るかのように鼓動が近しい。恐らく全てを把握した上で、イルは依然として片膝をソファに、両手をカイの肩に乗せた状態でじっと見据えてくる。
「精霊族を所持……、従属させるには、その精霊族の心を、身体を、自分に強く繋ぎ止める必要が有る。……恐怖、怒り、……そして憎しみ。痛みと羞恥、屈辱は耐え難い記憶となって当人を蝕む。凌辱が手っ取り早い方法として効果的だというのが分かるだろ。……お前にそれが出来るのか」
考えるまでもなく、カイにそんなことは出来そうにない。そもそもがそんな境遇にあったイルを救おうとしての一連の行動なのだ、同じことを強いては本末転倒になる。
「ここが精霊族が居たことの無い家なら、そのまま居ない方が良い。……迎えるにしても俺を入れるのは薦めない。どうしてそんなに俺の気持ちを重視したり助けたいと思うのか分からないが、俺はお前がここまで心を砕くほどの存在じゃない」
肩に手を置いたまま、イルは背を丸めて相手の耳元に口を寄せ、吹き込むように囁いた。
「――――男に股を開くことに何の躊躇いも無い屑だ」
ゆっくりと顔を上げれば、睨むとまではいかないものの、眉を寄せて強い視線を向けてくるカイの表情と直面する。イルは見下ろしつつ僅かに目を細めた。
「朝を待つまでもない。……世話になったな」
肩から手を離し、相手の腿の間に立てた膝を引いて、ソファと机の間から離れるとイルは踵を返す。そのまま部屋の扉へと歩み寄り取っ手に手を掛けようとするが、延ばした手が触れる直前にもう片方の手首を掴まれる。腕を引く相手を振り向いた途端に、イルは正面からカイに抱き留められる。予想外に強い力で抱き締められ、圧迫に息が漏れた。
「……っ……、何の真似だ」
ぎゅう、と抱き締めてくる相手の肩に手を掛けるが、さして大柄でもなく、イルとそう体格は変わらない筈なのに、戒めるカイの体はびくともしない。
「それはこっちの台詞だ」
さっきまでの、戸惑いに言葉も無かった相手とは思えないほどの冷えた声音がイルの耳元で響く。僅かに腕の力が緩んだ隙に片手を互いの胸の間に差し込んで押し返すが、視線を交わす程度の隙間が出来ただけで、振り解くには至らない。正面から見据える相手の双眸に、囁いた直後と同じ強い感情が籠ったままであることにイルは眉を寄せた。対してカイは前触れ無く膝を落とすと、片腕を相手の腿の裏へと滑らせ、有無を言わさず相手を担ぎ上げて歩き出す。
「……おい!」
流石に抵抗の意思を見せるものの、迷い無く大股で進むカイは、見る間に部屋の端に据えられたベッドとの距離を縮める。イルをベッドの上へと下ろしたカイは、抗う隙を与えずに自らもベッドに乗り上げ、相手の肩を押し倒すと共に、腹の上に跨って彼をその場に縛り付けてしまう。
「…………」
肩に男の体重の半分が掛かっている状態とはいえ、腹から下は特に戒められてはいない。やりようによっては形勢逆転も可能だろうが、イルは次第に身体から力を抜いていく。ベッドに転がされた時点では抗う意思は有ったが、自分に跨って見下ろしてくるカイの表情を見つめているうちにその気が失せていったのだ。
52
あなたにおすすめの小説
平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
嫌われ将軍(おっさん)ですがなぜか年下の美形騎士が離してくれない
天岸 あおい
BL
第12回BL大賞・奨励賞を受賞しました(旧タイトル『嫌われ将軍、実は傾国の愛されおっさんでした』)。そして12月に新タイトルで書籍が発売されます。
「ガイ・デオタード将軍、そなたに邪竜討伐の任を与える。我が命を果たすまで、この国に戻ることは許さぬ」
――新王から事実上の追放を受けたガイ。
副官を始め、部下たちも冷ややかな態度。
ずっと感じていたが、自分は嫌われていたのだと悟りながらガイは王命を受け、邪竜討伐の旅に出る。
その際、一人の若き青年エリクがガイのお供を申し出る。
兵を辞めてまで英雄を手伝いたいというエリクに野心があるように感じつつ、ガイはエリクを連れて旅立つ。
エリクの野心も、新王の冷遇も、部下たちの冷ややかさも、すべてはガイへの愛だと知らずに――
筋肉おっさん受け好きに捧げる、実は愛されおっさん冒険譚。
※12/1ごろから書籍化記念の番外編を連載予定。二人と一匹のハイテンションラブな後日談です。
何も知らない人間兄は、竜弟の執愛に気付かない
てんつぶ
BL
連峰の最も高い山の上、竜人ばかりの住む村。
その村の長である家で長男として育てられたノアだったが、肌の色や顔立ちも、体つきまで周囲とはまるで違い、華奢で儚げだ。自分はひょっとして拾われた子なのではないかと悩んでいたが、それを口に出すことすら躊躇っていた。
弟のコネハはノアを村の長にするべく奮闘しているが、ノアは竜体にもなれないし、人を癒す力しかもっていない。ひ弱な自分はその器ではないというのに、日々プレッシャーだけが重くのしかかる。
むしろ身体も大きく力も強く、雄々しく美しい弟ならば何の問題もなく長になれる。長男である自分さえいなければ……そんな感情が膨らみながらも、村から出たことのないノアは今日も一人山の麓を眺めていた。
だがある日、両親の会話を聞き、ノアは竜人ですらなく人間だった事を知ってしまう。人間の自分が長になれる訳もなく、またなって良いはずもない。周囲の竜人に人間だとバレてしまっては、家族の立場が悪くなる――そう自分に言い訳をして、ノアは村をこっそり飛び出して、人間の国へと旅立った。探さないでください、そう書置きをした、はずなのに。
人間嫌いの弟が、まさか自分を追って人間の国へ来てしまい――
またのご利用をお待ちしています。
あらき奏多
BL
職場の同僚にすすめられた、とあるマッサージ店。
緊張しつつもゴッドハンドで全身とろとろに癒され、初めての感覚に下半身が誤作動してしまい……?!
・マッサージ師×客
・年下敬語攻め
・男前土木作業員受け
・ノリ軽め
※年齢順イメージ
九重≒達也>坂田(店長)≫四ノ宮
【登場人物】
▼坂田 祐介(さかた ゆうすけ) 攻
・マッサージ店の店長
・爽やかイケメン
・優しくて低めのセクシーボイス
・良識はある人
▼杉村 達也(すぎむら たつや) 受
・土木作業員
・敏感体質
・快楽に流されやすい。すぐ喘ぐ
・性格も見た目も男前
【登場人物(第二弾の人たち)】
▼四ノ宮 葵(しのみや あおい) 攻
・マッサージ店の施術者のひとり。
・店では年齢は下から二番目。経歴は店長の次に長い。敏腕。
・顔と名前だけ中性的。愛想は人並み。
・自覚済隠れS。仕事とプライベートは区別してる。はずだった。
▼九重 柚葉(ここのえ ゆずは) 受
・愛称『ココ』『ココさん』『ココちゃん』
・名前だけ可愛い。性格は可愛くない。見た目も別に可愛くない。
・理性が強め。隠れコミュ障。
・無自覚ドM。乱れるときは乱れる
作品はすべて個人サイト(http://lyze.jp/nyanko03/)からの転載です。
徐々に移動していきたいと思いますが、作品数は個人サイトが一番多いです。
よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる