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3話◆アスモダイの尖鋭
22
夕暮れの端から宵闇が訪れ、茜色の空を紺青が緩やかに覆っていく。かたかたと音を立てて、朱い夕陽に染まった小さな幌馬車がゴルディニア邸敷地内の道を走っている。その車内では、インバネスコートを肩に掛けたクレフトが上体を座席に横たえて目を閉じていた。青褪めた貌は憔悴の色が濃く、生気に欠けていたが、邸まであともう少しという時点でゆっくりと目を開ける。
やがて建物の前で馬車が止まると、緩慢な仕草ながらも身を起こし、そのタイミングで御者によって開けられた扉からよろよろと馬車の外に出た。片手には小さな持ち手付きの紙袋。ふらつく身体を支えるべきか躊躇う御者をやんわりと制して、クレフトは邸内へと進む。エントランス奥の階段を上り、主の部屋へと辿り着く頃には、その足取りは確りしたものになっている。クレフトは部屋の前で数回ゆっくりと呼吸して息を整えた。観音開きの扉をノックすれば、内側からゴルディニア公爵の返事が返ってきた。腕を持ち上げ、扉を開けようとしてから何かに気付いて手前で手を止めると、小さな音を立ててその扉が開く。
「クレフト!」
「アンバー様……?申し訳ありません、お手を煩わせまして」
「戸を開けることくらい煩わしくも何ともないさ。お帰りクレフト、少し遅かったな?」
主人に扉を開けさせてしまったことに恐縮して眉尻を下げるクレフトに、気にした風も無く寝着姿の公爵は笑うが、ふと見上げる先のものに気が付いてまじまじとそれを見つめる。
「……君、何だか濡れていないか?」
片手を持ち上げてクレフトの前髪をそっと摘まむ。ずぶ濡れとまではいかないが、彼の髪は少ししっとりとしていて、部分的に水滴で束になっていた。
「王都で通り雨に遭いまして。……ですが、これは死守しました」
クレフトは手にしていた小さな紙袋を公爵に差し出す。袋の側面に施されているのは、王都で有名な老舗のショコラトリーのロゴ。ぱちくりと目を丸くして公爵はその紙袋を受け取ると、くしゃりとはにかんだ笑顔を見せる。
「君という子は……!こないだ話したことを覚えていたのかい」
数日前に、雑誌の広告に載っていた期間限定商品の話を何気なく公爵がしたことが有った。美味しそうだな、くらいの話だったが、それを律儀に覚えていたのかと面映ゆい気持ちになる。クレフトはにこりと笑んだ。照れ隠しのように公爵は紙袋を片手で抱えながらクレフトの腕を取って部屋の中へと歩き出す。
「ほら、こっちにおいで。そのままだと冷えて風邪を引いてしまう」
腕を引かれながらクレフトは後ろ手に扉を閉めて、主人に連れられるまま部屋の中へと歩を進める。精霊族は寒暖の差が健康状態に響くことは無いし、ましてや軽く水に濡れた程度で体調を崩すことも無い。それは知識として公爵にも伝えた筈なのに、当然のように案じてくれることにクレフトは何も言えなかった。公爵は自室の椅子にクレフトを座らせると、部屋続きになっている隣のワードローブから、両手ほどの大きさのハンカチを持って戻ってくる。
「すまないな、今手元にはこんなものしか無くて……」
「そんな、アンバー様。畏れ多いです」
「いいんだよ。君が濡れてる方が大ごとだ」
ゴルディニア公爵はハンカチをクレフトの頭に乗せると、よしよしと撫でるように水気を拭き始める。
「……あんまり意味無いかなぁ。やっぱり湯殿に置いてあるやつくらいじゃないとね」
濡れ鼠ではないといっても、小さく上品な薄いハンカチ一枚では当然ながら追い付かない。しっとりとしてしまったハンカチを持ち上げて苦笑する公爵に、クレフトは目を細めた。
「十分です。……申し訳ありません、アンバー様のハンカチが……」
「気にしなくていい。ハンカチなんて、何かを拭くために有るんだから」
片手にハンカチを掴んだまま、公爵は少しはましになったクレフトの頭を柔らかい手付きで撫でる。視線を落として大人しく撫でられていたクレフトは、片腕を持ち上げると撫でてくる公爵の手をそっと取って頬を寄せた。
「……っ」
相手の頬に、唇に、自身の指が当たって公爵は顔を朱に染めて固まってしまうが、クレフトは構わずにその手の甲に触れるだけの口付けを落として放した。火照る顔を隠すことも出来ずに公爵は解放された片手をさする。
「まったく……。君は本当に、息をするように私を惑わせてくる」
「そのような心算は無いのですが……」
言葉ではしおらしいが、悪戯っぽく肩を竦めるクレフトに、ゴルディニア公は溜息をついた。ふふ、と楽しげに笑っていたクレフトだが、掛けていた椅子から立ち上がると、主を寝台の方へと促す。
「さぁ、もうおやすみなさいませ。私に付き合って貴方が夜更かしすることもありません」
「うん」
導かれてベッドに腰掛けた公爵は、僅かに逡巡する間が有ってから、傍に立つクレフトに両手を伸べて、彼の両手をそっと握る。もう少し居ろということか、と解釈してクレフトはその場で両膝を床についた。見上げる先で公爵は口端を持ち上げる。
「明日は朝からまた二人を護衛につけて出掛けるけど……良い子で留守番していてくれるかな」
「はい」
視線を落として頷いたクレフトは、再び相手を見上げて暫く見つめていたが、ふと繋いだ両手をくいっと手前に引いた。ぎょっとしつつも不意打ちで抵抗出来ずに傾いだ公爵に顔を寄せて、唇を合わせる。ひく、と身を強張らせた相手の唇をそろりと一舐めして、クレフトは顔を離した。名残惜しそうに見上げる先で、公爵の顔が林檎のように紅い。
「きゅ……急にびっくりするだろう」
「申し訳ありません」
「申し訳ないなんて思っていないな、君」
真っ赤な仏頂面の公爵と対照的に、呼気で柔く笑ってクレフトはその場で立ち上がる。
「ベッドにお入りください、アンバー様。……朝からということはお早いのでしょう?」
「う……うん」
まだ火照る頬を誤魔化すように片手でさすりながら、公爵はもそもそと布団の中に身を沈める。照明を落とし、寝台から離れようとしたクレフトに、ゴルディニア公はそっと声を掛けた。
「クレフト。……お願いが有るんだ」
「何でしょう」
「……私が眠るまで、傍に居て欲しいんだ」
「…………」
珍しいことを言う、とクレフトは思った。公爵は、素顔はわりと気さくで大らかな人物であるものの、やはり規律を重んじる役職に従事しているからなのか、あまり遅い時間に自室にクレフトが居ることを良しとしない。だからこそ公爵とは未だに口付け止まりというのもある。それがこうして向こうの方から強請ってくるとはどういう心境の変化なのだろう。思わず怪訝な顔をしてしまっていたのか、慌てて公爵が横になったまま顔をぶんぶんと左右に振る。
「あっ、べ、別に言葉以上の意味は無いぞ!断じて無い!本当に、ただここに居て欲しいだけで……!」
しどろもどろの公爵に、クレフトはにこやかに首を傾げてみせる。
「眠るまで傍に居るだけで良いのですか?お望みとあらば朝まで添い寝もいたしますが……」
「そッ!?……い、いい、いい……!」
思った通り茹蛸のような顔を、先程以上に高速で左右に振る公爵に、くく、とクレフトは向こうを向いて肩を震わせる。そんな従者の態度に、流石に公爵は涙目で不貞腐れてしまう。
「ああもう……!君はいつもいつも私を揶揄う……!」
「申し訳ありません、アンバー様」
「心が籠ってない!」
「どうかお許しください」
まだ火照り冷めやらぬまま、むすっと唇を尖らせる公爵と、口先だけと言われても仕方ないくらいににこにこと楽しげなクレフトの応酬が続く。許さない絶対許さないと言い募る公爵の、布団の端を掴んでいる片手をそっと外させて、クレフトは自身の手の内にそっと包み込んだ。
「……もうお眠りください。これ以上語らっていると眠れなくなりますよ」
「……うん」
流石にこのまま騒いでいるわけにもいかないと思うのか、公爵は片手を握られたまま目を閉じる。クレフトはベッドの端に腰掛ける形で、公爵の片手をとりつつ見守った。ふと、息遣いが落ち着いて、そろそろ入眠するのかと思われた頃。
「……クレフト」
「はい」
「……クレフト」
「……はい」
目を閉じたままのゴルディニア公爵の声音はぼんやりとしていて、夢うつつの様子である。うとうとと眠りに就き始めた公爵の次の言葉を、クレフトは『まて』と命令された忠犬のように静かに待った。
「……ずっと傍に居ておくれ」
「…………」
返事をしようとしてクレフトは僅かに口を開けたまま押し黙る。目を閉じた主人の顔をじっと見つめて何事か考えた後、薄く笑んで、相手の耳元にそっと問い掛ける形で言葉を紡ぐ。
「それは、朝までここに居て欲しいという意味ですか……?」
「……違う、よ……」
むにゃ、と呂律の回らない呆れたような声音が小さく空気に融けて、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。すうすうと眠る公爵の顔を暫く真顔で見下ろしていたクレフトは、やがて繋いだ片手をゆっくりと持ち上げて、相手の指の付け根に口付けを落とす。
(……アンバー様)
こんな時間に主の部屋に招かれて入ったことは無い。こうしてベッドで眠る姿を目にするのも然り。出会ってからほんの僅かしか経っていないのに、随分心を開かれたと感じる。出会いも、ここまでに至る経緯も、付き従うようになった今も、全てが『酷い目に遭って逃げてきた可哀相な精霊族』に対する同情に因るものだと理解している。そう思われるようにお膳立てされたし、そう思われるように振舞った。けれども、いつからだろうか、相手に笑みを見せるのが演技ではなくなっていたのは。
(私の、大切な……)
クレフトは握っていた公爵の片手をそっと布団の中に仕舞うと、身を屈めて顔を寄せる。控えめに頬に擦り寄ると、滑らかで温かい人肌に触れた。今まで大勢に触られてきたし、大勢の生々しい部分に触れてきた。そんな劣情を煽る熱とは全く異なる、優しい温もりから離れ難かった。
(この先、お傍に居ることが叶わなくても)
片隅に満ちる常夜灯の仄かな明かりは、さながら夜闇のようなこれまでの己の人生を優しく照らす、彼の人の優しさのようだった。
(――――ずっと、見守っています)
やがて建物の前で馬車が止まると、緩慢な仕草ながらも身を起こし、そのタイミングで御者によって開けられた扉からよろよろと馬車の外に出た。片手には小さな持ち手付きの紙袋。ふらつく身体を支えるべきか躊躇う御者をやんわりと制して、クレフトは邸内へと進む。エントランス奥の階段を上り、主の部屋へと辿り着く頃には、その足取りは確りしたものになっている。クレフトは部屋の前で数回ゆっくりと呼吸して息を整えた。観音開きの扉をノックすれば、内側からゴルディニア公爵の返事が返ってきた。腕を持ち上げ、扉を開けようとしてから何かに気付いて手前で手を止めると、小さな音を立ててその扉が開く。
「クレフト!」
「アンバー様……?申し訳ありません、お手を煩わせまして」
「戸を開けることくらい煩わしくも何ともないさ。お帰りクレフト、少し遅かったな?」
主人に扉を開けさせてしまったことに恐縮して眉尻を下げるクレフトに、気にした風も無く寝着姿の公爵は笑うが、ふと見上げる先のものに気が付いてまじまじとそれを見つめる。
「……君、何だか濡れていないか?」
片手を持ち上げてクレフトの前髪をそっと摘まむ。ずぶ濡れとまではいかないが、彼の髪は少ししっとりとしていて、部分的に水滴で束になっていた。
「王都で通り雨に遭いまして。……ですが、これは死守しました」
クレフトは手にしていた小さな紙袋を公爵に差し出す。袋の側面に施されているのは、王都で有名な老舗のショコラトリーのロゴ。ぱちくりと目を丸くして公爵はその紙袋を受け取ると、くしゃりとはにかんだ笑顔を見せる。
「君という子は……!こないだ話したことを覚えていたのかい」
数日前に、雑誌の広告に載っていた期間限定商品の話を何気なく公爵がしたことが有った。美味しそうだな、くらいの話だったが、それを律儀に覚えていたのかと面映ゆい気持ちになる。クレフトはにこりと笑んだ。照れ隠しのように公爵は紙袋を片手で抱えながらクレフトの腕を取って部屋の中へと歩き出す。
「ほら、こっちにおいで。そのままだと冷えて風邪を引いてしまう」
腕を引かれながらクレフトは後ろ手に扉を閉めて、主人に連れられるまま部屋の中へと歩を進める。精霊族は寒暖の差が健康状態に響くことは無いし、ましてや軽く水に濡れた程度で体調を崩すことも無い。それは知識として公爵にも伝えた筈なのに、当然のように案じてくれることにクレフトは何も言えなかった。公爵は自室の椅子にクレフトを座らせると、部屋続きになっている隣のワードローブから、両手ほどの大きさのハンカチを持って戻ってくる。
「すまないな、今手元にはこんなものしか無くて……」
「そんな、アンバー様。畏れ多いです」
「いいんだよ。君が濡れてる方が大ごとだ」
ゴルディニア公爵はハンカチをクレフトの頭に乗せると、よしよしと撫でるように水気を拭き始める。
「……あんまり意味無いかなぁ。やっぱり湯殿に置いてあるやつくらいじゃないとね」
濡れ鼠ではないといっても、小さく上品な薄いハンカチ一枚では当然ながら追い付かない。しっとりとしてしまったハンカチを持ち上げて苦笑する公爵に、クレフトは目を細めた。
「十分です。……申し訳ありません、アンバー様のハンカチが……」
「気にしなくていい。ハンカチなんて、何かを拭くために有るんだから」
片手にハンカチを掴んだまま、公爵は少しはましになったクレフトの頭を柔らかい手付きで撫でる。視線を落として大人しく撫でられていたクレフトは、片腕を持ち上げると撫でてくる公爵の手をそっと取って頬を寄せた。
「……っ」
相手の頬に、唇に、自身の指が当たって公爵は顔を朱に染めて固まってしまうが、クレフトは構わずにその手の甲に触れるだけの口付けを落として放した。火照る顔を隠すことも出来ずに公爵は解放された片手をさする。
「まったく……。君は本当に、息をするように私を惑わせてくる」
「そのような心算は無いのですが……」
言葉ではしおらしいが、悪戯っぽく肩を竦めるクレフトに、ゴルディニア公は溜息をついた。ふふ、と楽しげに笑っていたクレフトだが、掛けていた椅子から立ち上がると、主を寝台の方へと促す。
「さぁ、もうおやすみなさいませ。私に付き合って貴方が夜更かしすることもありません」
「うん」
導かれてベッドに腰掛けた公爵は、僅かに逡巡する間が有ってから、傍に立つクレフトに両手を伸べて、彼の両手をそっと握る。もう少し居ろということか、と解釈してクレフトはその場で両膝を床についた。見上げる先で公爵は口端を持ち上げる。
「明日は朝からまた二人を護衛につけて出掛けるけど……良い子で留守番していてくれるかな」
「はい」
視線を落として頷いたクレフトは、再び相手を見上げて暫く見つめていたが、ふと繋いだ両手をくいっと手前に引いた。ぎょっとしつつも不意打ちで抵抗出来ずに傾いだ公爵に顔を寄せて、唇を合わせる。ひく、と身を強張らせた相手の唇をそろりと一舐めして、クレフトは顔を離した。名残惜しそうに見上げる先で、公爵の顔が林檎のように紅い。
「きゅ……急にびっくりするだろう」
「申し訳ありません」
「申し訳ないなんて思っていないな、君」
真っ赤な仏頂面の公爵と対照的に、呼気で柔く笑ってクレフトはその場で立ち上がる。
「ベッドにお入りください、アンバー様。……朝からということはお早いのでしょう?」
「う……うん」
まだ火照る頬を誤魔化すように片手でさすりながら、公爵はもそもそと布団の中に身を沈める。照明を落とし、寝台から離れようとしたクレフトに、ゴルディニア公はそっと声を掛けた。
「クレフト。……お願いが有るんだ」
「何でしょう」
「……私が眠るまで、傍に居て欲しいんだ」
「…………」
珍しいことを言う、とクレフトは思った。公爵は、素顔はわりと気さくで大らかな人物であるものの、やはり規律を重んじる役職に従事しているからなのか、あまり遅い時間に自室にクレフトが居ることを良しとしない。だからこそ公爵とは未だに口付け止まりというのもある。それがこうして向こうの方から強請ってくるとはどういう心境の変化なのだろう。思わず怪訝な顔をしてしまっていたのか、慌てて公爵が横になったまま顔をぶんぶんと左右に振る。
「あっ、べ、別に言葉以上の意味は無いぞ!断じて無い!本当に、ただここに居て欲しいだけで……!」
しどろもどろの公爵に、クレフトはにこやかに首を傾げてみせる。
「眠るまで傍に居るだけで良いのですか?お望みとあらば朝まで添い寝もいたしますが……」
「そッ!?……い、いい、いい……!」
思った通り茹蛸のような顔を、先程以上に高速で左右に振る公爵に、くく、とクレフトは向こうを向いて肩を震わせる。そんな従者の態度に、流石に公爵は涙目で不貞腐れてしまう。
「ああもう……!君はいつもいつも私を揶揄う……!」
「申し訳ありません、アンバー様」
「心が籠ってない!」
「どうかお許しください」
まだ火照り冷めやらぬまま、むすっと唇を尖らせる公爵と、口先だけと言われても仕方ないくらいににこにこと楽しげなクレフトの応酬が続く。許さない絶対許さないと言い募る公爵の、布団の端を掴んでいる片手をそっと外させて、クレフトは自身の手の内にそっと包み込んだ。
「……もうお眠りください。これ以上語らっていると眠れなくなりますよ」
「……うん」
流石にこのまま騒いでいるわけにもいかないと思うのか、公爵は片手を握られたまま目を閉じる。クレフトはベッドの端に腰掛ける形で、公爵の片手をとりつつ見守った。ふと、息遣いが落ち着いて、そろそろ入眠するのかと思われた頃。
「……クレフト」
「はい」
「……クレフト」
「……はい」
目を閉じたままのゴルディニア公爵の声音はぼんやりとしていて、夢うつつの様子である。うとうとと眠りに就き始めた公爵の次の言葉を、クレフトは『まて』と命令された忠犬のように静かに待った。
「……ずっと傍に居ておくれ」
「…………」
返事をしようとしてクレフトは僅かに口を開けたまま押し黙る。目を閉じた主人の顔をじっと見つめて何事か考えた後、薄く笑んで、相手の耳元にそっと問い掛ける形で言葉を紡ぐ。
「それは、朝までここに居て欲しいという意味ですか……?」
「……違う、よ……」
むにゃ、と呂律の回らない呆れたような声音が小さく空気に融けて、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。すうすうと眠る公爵の顔を暫く真顔で見下ろしていたクレフトは、やがて繋いだ片手をゆっくりと持ち上げて、相手の指の付け根に口付けを落とす。
(……アンバー様)
こんな時間に主の部屋に招かれて入ったことは無い。こうしてベッドで眠る姿を目にするのも然り。出会ってからほんの僅かしか経っていないのに、随分心を開かれたと感じる。出会いも、ここまでに至る経緯も、付き従うようになった今も、全てが『酷い目に遭って逃げてきた可哀相な精霊族』に対する同情に因るものだと理解している。そう思われるようにお膳立てされたし、そう思われるように振舞った。けれども、いつからだろうか、相手に笑みを見せるのが演技ではなくなっていたのは。
(私の、大切な……)
クレフトは握っていた公爵の片手をそっと布団の中に仕舞うと、身を屈めて顔を寄せる。控えめに頬に擦り寄ると、滑らかで温かい人肌に触れた。今まで大勢に触られてきたし、大勢の生々しい部分に触れてきた。そんな劣情を煽る熱とは全く異なる、優しい温もりから離れ難かった。
(この先、お傍に居ることが叶わなくても)
片隅に満ちる常夜灯の仄かな明かりは、さながら夜闇のようなこれまでの己の人生を優しく照らす、彼の人の優しさのようだった。
(――――ずっと、見守っています)
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