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第二章
新月 1
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後宮での暮らしにもようやく慣れてきた頃。
房中術の講義をこっそり抜け出した結蘭は、役人が追ってこないのを確認して安堵の息を吐いた。
「ああ、もういやになっちゃう」
講義のたびに同じ台詞と溜息ばかりが零れる。しかも閨での作法だなんて恥ずかしくて仕方ない。虫とばかり話している公主なんて嫁のもらい手がないだろうから、結婚は諦めているというのに。
雨上がりの金木犀が雫を含んでしっとりと佇む道を歩み、西門を潜る。
時間も余ったことだし、兵営を覗いてみよう。黒狼の鍛錬を積む姿が見られるかもしれない。
結蘭は胸を弾ませながら兵営へ赴いた。訓練所からは威勢の良い掛け声が響いてくる。禁軍は外敵の侵入や国内での紛争に備えて日夜訓練を欠かさない。
公主が堂々と入るわけにもいかず、結蘭は戸口に張り付いて中を覗こうとした。
「何か御用でしょうか」
はっとして振り向く。
すらりとした体躯に燦爛たる美貌。声の主である麗人は、腰に倭刀を佩いている。
「すみません。見学したかったんです」
「貴女は蟲公主と名高い結蘭さまですね。はじめまして。私は新月と申します」
麗人は完璧な所作で拱手する。丁寧だが、眸の奥の光は鋭い。
「新月さまは軍吏なのですか?」
刀を挿して兵営にいるということは軍吏に違いないが、新月が官職を名乗らないので不思議に思う。佇まいから察するに一兵士には見えないのだけれど。
「光禄勲です」
さらりと最上位の階級を告げられ、仰天した結蘭は数歩後ずさりして壁に背を付けた。
光禄勲は九卿の一人で、皇帝を守護する近衛の任に就く大臣である。
けれど目の前にいる麗人は剛健でもなく、辣腕を振るう権力者には到底見えない。何より若い。黒狼と同じくらいだろう。
「見えませんか?」
考えを見通されたようで、新月はくすりと笑んだ。
「ええ、とても……お若いので」
「光栄です。とりあえず壁から背を離してください。衣が汚れますよ」
新月は兵営を案内すると言って内部を見せてくれた。営舎の中央に位置する広場は砂埃が落ち着き、兵が散開していた。訓練は終了したようだ。
九卿といっても名ばかりで、城を散歩するのが趣味なのだと、新月は冗談を真顔で話す。
黒狼はどこかしら?
結蘭が黒衣を探して頭を巡らせたとき、かつり、と柱に何かがぶつかる。
「あっ……」
歩揺を引っかけてしまったようだ。取ろうと手を伸ばすが、余計に髪が乱れてしまうばかりで焦ってしまう。
「そのままで。大丈夫ですよ」
新月はすい、と歩揺を外す。結蘭の髪を手櫛で整え、歩揺を挿し直してくれた。
ふと、新月の衣袍から覗いた手首の煌めきに目がいく。
精巧な細工が施された深い碧の珠鐶は翡翠だ。偶然にも、今日挿していた結蘭の歩揺と同じ代物だった。
「ありがとうございます。それ、私の歩揺と同じ玉ですね」
新月は珠鐶の嵌った手首を軽く掲げ、優美に微笑んだ。
「私は翡翠が好きなのです」
そのとき、酷薄な気配を感じた。つと振り返った先には、南刀を携えた黒狼が無表情を浮かべてこちらを凝然と見ている。
「黒……」
呼びかけるより早く、黒狼は無言で踵を返した。
え、無視? どうして……。
新月に礼を述べ、慌てて後を追いかける。
訓練に使用したのであろう南刀を兵庫に片付け、兵営を出て後宮に戻ってきても、黒狼は歩を緩めず無言を貫いた。秘めた怒りを全身から漲らせる背に、結蘭は肩を竦めながら声を掛ける。
「新月さまに挨拶しないの? 光禄勲だから上官でしょ?」
「……」
「今日は南刀の訓練だったの? 黒狼は両手剣のほうが得意よね。どうだった?」
「……」
「何を怒ってるの?」
「……怒ってなどいない」
どう見ても怒ってるんですけど。
勝手に兵営に赴いたことで機嫌を損ねたのだろうかと、結蘭は首を捻る。
清華宮の奥にある結蘭の房室まで送り届けた黒狼は辞さず、隅に置いた椅子に腰掛けた。
「琵琶を弾いてくれ」
送り届けたというより、本日は黒衣の後ろにくっついてきたような形だけれど。
黒狼の住まいは特別に宮の離れに設えてもらっているが、いつもはすぐに房室を出て行ってしまうので、申し出は嬉しかった。
房中術の講義をこっそり抜け出した結蘭は、役人が追ってこないのを確認して安堵の息を吐いた。
「ああ、もういやになっちゃう」
講義のたびに同じ台詞と溜息ばかりが零れる。しかも閨での作法だなんて恥ずかしくて仕方ない。虫とばかり話している公主なんて嫁のもらい手がないだろうから、結婚は諦めているというのに。
雨上がりの金木犀が雫を含んでしっとりと佇む道を歩み、西門を潜る。
時間も余ったことだし、兵営を覗いてみよう。黒狼の鍛錬を積む姿が見られるかもしれない。
結蘭は胸を弾ませながら兵営へ赴いた。訓練所からは威勢の良い掛け声が響いてくる。禁軍は外敵の侵入や国内での紛争に備えて日夜訓練を欠かさない。
公主が堂々と入るわけにもいかず、結蘭は戸口に張り付いて中を覗こうとした。
「何か御用でしょうか」
はっとして振り向く。
すらりとした体躯に燦爛たる美貌。声の主である麗人は、腰に倭刀を佩いている。
「すみません。見学したかったんです」
「貴女は蟲公主と名高い結蘭さまですね。はじめまして。私は新月と申します」
麗人は完璧な所作で拱手する。丁寧だが、眸の奥の光は鋭い。
「新月さまは軍吏なのですか?」
刀を挿して兵営にいるということは軍吏に違いないが、新月が官職を名乗らないので不思議に思う。佇まいから察するに一兵士には見えないのだけれど。
「光禄勲です」
さらりと最上位の階級を告げられ、仰天した結蘭は数歩後ずさりして壁に背を付けた。
光禄勲は九卿の一人で、皇帝を守護する近衛の任に就く大臣である。
けれど目の前にいる麗人は剛健でもなく、辣腕を振るう権力者には到底見えない。何より若い。黒狼と同じくらいだろう。
「見えませんか?」
考えを見通されたようで、新月はくすりと笑んだ。
「ええ、とても……お若いので」
「光栄です。とりあえず壁から背を離してください。衣が汚れますよ」
新月は兵営を案内すると言って内部を見せてくれた。営舎の中央に位置する広場は砂埃が落ち着き、兵が散開していた。訓練は終了したようだ。
九卿といっても名ばかりで、城を散歩するのが趣味なのだと、新月は冗談を真顔で話す。
黒狼はどこかしら?
結蘭が黒衣を探して頭を巡らせたとき、かつり、と柱に何かがぶつかる。
「あっ……」
歩揺を引っかけてしまったようだ。取ろうと手を伸ばすが、余計に髪が乱れてしまうばかりで焦ってしまう。
「そのままで。大丈夫ですよ」
新月はすい、と歩揺を外す。結蘭の髪を手櫛で整え、歩揺を挿し直してくれた。
ふと、新月の衣袍から覗いた手首の煌めきに目がいく。
精巧な細工が施された深い碧の珠鐶は翡翠だ。偶然にも、今日挿していた結蘭の歩揺と同じ代物だった。
「ありがとうございます。それ、私の歩揺と同じ玉ですね」
新月は珠鐶の嵌った手首を軽く掲げ、優美に微笑んだ。
「私は翡翠が好きなのです」
そのとき、酷薄な気配を感じた。つと振り返った先には、南刀を携えた黒狼が無表情を浮かべてこちらを凝然と見ている。
「黒……」
呼びかけるより早く、黒狼は無言で踵を返した。
え、無視? どうして……。
新月に礼を述べ、慌てて後を追いかける。
訓練に使用したのであろう南刀を兵庫に片付け、兵営を出て後宮に戻ってきても、黒狼は歩を緩めず無言を貫いた。秘めた怒りを全身から漲らせる背に、結蘭は肩を竦めながら声を掛ける。
「新月さまに挨拶しないの? 光禄勲だから上官でしょ?」
「……」
「今日は南刀の訓練だったの? 黒狼は両手剣のほうが得意よね。どうだった?」
「……」
「何を怒ってるの?」
「……怒ってなどいない」
どう見ても怒ってるんですけど。
勝手に兵営に赴いたことで機嫌を損ねたのだろうかと、結蘭は首を捻る。
清華宮の奥にある結蘭の房室まで送り届けた黒狼は辞さず、隅に置いた椅子に腰掛けた。
「琵琶を弾いてくれ」
送り届けたというより、本日は黒衣の後ろにくっついてきたような形だけれど。
黒狼の住まいは特別に宮の離れに設えてもらっているが、いつもはすぐに房室を出て行ってしまうので、申し出は嬉しかった。
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