蟲公主と金色の蝶

沖田弥子

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第二章

新月 2

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「水仙花でいい? 最近、練習してるの」
「ああ」

 宴以来、琵琶の演奏を頑張っている。けれど才能がないのか、中々上達しない。
 愛用の琵琶と義甲を構える。優しく、労わるように弦を爪弾く。紡がれる旋律は、夕暮れの茜射す庭に溶けていった。
 難しい箇所で引っ掛かり、音が途切れる。
 黒狼は、ふいに呟いた。

「結蘭の琵琶の音は落ち着くな」
「ええ? そんなこと言ってくれるの黒狼だけよ。朱里なんか、『虫の断末魔の悲鳴のようです』って感想くれるわ」
「そうかもな。上手いとは言ってない」

 がくりと肩を落とす。
 黒狼もやはり、下手だと認識しているのだ。

「そんなにがっかりするな。上手だから居心地が良いわけじゃない。少なくとも俺にとってはな」
「慰められても嬉しくないなぁ」

 上手くなりたいのに。師匠に師事するべきだろうか。独学では限界を感じる。

「慰めているわけじゃないんだが。例えば踊りの上手い人を見ても、上手いとは思うが、大抵はそれだけだ」
「ふうん?」
「心に染み入る芸能というものは上手下手の問題じゃない。魂が込められていなくては、伝わらないだろう」

 先ほど兵営から戻ってきたときは無口だったのに、どういうわけか機嫌が直ったらしい黒狼は結蘭の琵琶がいかに技術の問題ではないということを饒舌に語る。

「つまり、私の琵琶は、魂の込められている虫の断末魔なのね」
「……そういうことになるな。俺は好きだぞ。琵琶の音色のことだが」

 褒められるほど下手だとけなされている気分になるのは何故だろう。
 悔しいので拙いながらも再び奏で始める。
 ほろほろと音を紡ぎながら、結蘭はそれとなく尋ねた。

「さっき、黒狼は何に怒ってたの?」
「……」

 ほら、都合が悪いとまた無口に戻る。黒狼はいつもそうだ。自分のこととなると貝のように口を閉ざしてしまう。もっと話してほしいのに。

「兵営に公主が来るなんて礼節に欠ける、っていうこと?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ何?」
「教えない」
「ええ……」

 そんなに頑なにされたら、余計に気になってしまう。結蘭は一計を講じた。

「じゃあ、私が出す謎解きに答えてみて。間違えたら教えてよ。正解したら、もう聞かないわ」
「いいだろう」
「子どもの頃は、葉を食べて、頭には二本の角。大人になれば高く飛べる。これはなあに?」
「蝶」

 即答して呆れた視線を投げられる。結蘭は満面の笑みを浮かべた。

「不正解よ。さあ、教えてちょうだい」
「……何だと? 草食で成虫になれば飛べるなら蝶だろう。それ以外に何がある」

 黒狼は眉根を寄せて俄かに食らいついてきた。

「違うわ」
「正解を教えろ」
「教えない」
「何だと……」

 してやられたと気づいた黒狼は、がしがしと頭を掻く。やがて腰に手を宛て項垂れると降参した。

「わかった。言おう。新月が髪に触れていただろう。あれが不愉快だったんだ」
「あれは……柱に歩揺を引っかけたのよ。新月さまはそれを直してくれたの」
「わかっている。もう少し見るのが早ければ、新月の手を叩き落としていたところだ」
「そんなことしたら降格されちゃうわ!」
「構わない。誰にも触らせるな。次は剣を抜く」

 どうしてそんなことで黒狼は不愉快になるのかよくわからないが、城内で抜刀したら大変なことになる。今後は誰にも髪に触らせないよう気をつけようと、結蘭はそっと心に誓う。
 真剣味を帯びていた双眸を瞬かせると、黒狼は今の会話を恥じるかのように薄らと頬を染めた。

「さあ、言ったぞ。教えてくれ。答えは何だ?」

 詰め寄られ、壁に背を付けた結蘭は言いづらそうに答えた。

「えっとね、鹿」
「何だと……」

 まさかの動物に、黒狼は衝撃を受けたようだ。高く飛べるとは言ったが、空までとは言っていない。鹿の跳躍力は侮れないものだ。
 深い溜息を吐いて額に手を宛てている。

「虫だと思うだろう。……やられたな」

 結蘭は笑顔を咲かせながら、琵琶を抱えた。

「もう誰にも髪を触らせないよう気をつけるね」
「蒸し返すな……」

 照れたように黒狼は顔を背ける。
 夕餉を告げる朱里が訪れるまで、房室からは辿々しくも穏やかな琵琶の音色が鳴り響いていた。
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