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第三章
夏氏の狗 2
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「この男は禁軍だ。夏太守の許可なく軍吏を斬ることは許さん」
去ね、と命じられ、男は逃げるように客の波に紛れた。
黒狼の正体を見破ったこの青年は何者だろう。
その疑問に答えるように、青年は黒狼ではなく、結蘭に向き直る。
「失礼しました。私は劉青。夏太守の近侍です」
「はじめまして。結蘭と申します」
夏太守の近侍だとは幸運だったというべきか。
庇ってくれたからには好意的なはずと解釈したのは、結蘭の早合点だった。
「お嬢さんは敬州に何の御用でしょう。官吏には見えませんが、何者です」
怪訝な目つきで爪先まで眺められ、結蘭は狼狽えた。まさか公主で、闇塩について調べにきましたなどと言えるはずもない。
劉青の視線を遮るように、黒狼は結蘭の前に出た。
「彼女は俺の妹だ。俺たちは夏太守に会いに来た」
「妹? ……ほう。夏太守に面会したいのなら、私が屋敷まで御案内しましょう。塩湖の畔ですから、山を下りていかほどもありません」
感謝を述べようとする暇もなく、劉青はくるりと踵を返す。階の傍にいた男に、何か言いつけている姿が見えた。
彼はこの辺りで一目置かれる存在らしい。
「油断のならない男だな」
黒狼は眉をひそめると、蝋燭の灯りに煌々と照らされていた結蘭の黒髪に包袱皮を被せた。
「強そうな人ね」
「そういうことじゃない。騒ぎが起こる前から俺たちを見張っていた」
ここは敬州。夏太守の領域なのだ。
誰かに監視されているような気がして、結蘭はぶるりと背を震わせる。
飯屋の酔客たちは何事もなかったかのように、徳利の酒を注いでいた。
漆黒の闇が広がる森を縫い、梟の囁きが木霊する。
山奥の夜は月明かりも届かない。躍る松明の灯が、どこか不気味だ。
結蘭は静かに木窓を閉じた。所在なさげに臥台に腰掛ける。
「房室がひとつって、宿が混んでるのかしら?」
宛がわれた房室は一室だけで、臥台はふたつ並んでいる。今までの宿では、黒狼は隣の房室に寝ていたのだ。
いつも一緒にいる黒狼だが、一緒に寝るということは当然なかったので戸惑ってしまう。
「兄妹ということになってるからな」
平然と言う黒狼は、腰にしっかりと剣を佩いている。戸口に立って外の気配を確認した後、床に座り込んだ。
「寝ろ」
「黒狼は?」
「俺は起きている」
一晩中見張っているつもりだろうか。結蘭たちが警戒されているのは間違いないが、夏太守の許可がなければ役人を切れないと劉青は語った。少なくとも今夜は大丈夫だと思うのだけれど。
結蘭の不安が顔に表れていたのか、黒狼は静かに呟いた。
「心配するな。何もしない。万が一、賊に襲われるようなことがあったら困るからな。今夜はここで見張る」
「私が心配してるのは黒狼の寝不足のことなんだけど」
「……心配無用だ」
溜息を吐かれてしまった。臥台に入り、衾を掛けても目が冴えて眠れない。結蘭は幾度も寝返りを打った。
「黒狼……」
「何だ」
黒狼は掠れのない声で即座に返事をした。
寝物語というわけではないが、今ならば普段は距離が近すぎて聞けないことも、敢えて尋ねられる気がする。
「黒狼の一番大事なものって何?」
「……何だ、急に」
「その……知りたくて」
やっぱり、剣かな。
結蘭にはわからない、剣豪の世界。
金色蝶を捜しに行きたいと結蘭が願うように、黒狼にも似たような夢があるのかもしれない。聞いたことはないけれど。
もし黒狼が世界中の剣豪と戦って腕を磨きたいと言えば、結蘭は応援することしかできないだろう。
去ね、と命じられ、男は逃げるように客の波に紛れた。
黒狼の正体を見破ったこの青年は何者だろう。
その疑問に答えるように、青年は黒狼ではなく、結蘭に向き直る。
「失礼しました。私は劉青。夏太守の近侍です」
「はじめまして。結蘭と申します」
夏太守の近侍だとは幸運だったというべきか。
庇ってくれたからには好意的なはずと解釈したのは、結蘭の早合点だった。
「お嬢さんは敬州に何の御用でしょう。官吏には見えませんが、何者です」
怪訝な目つきで爪先まで眺められ、結蘭は狼狽えた。まさか公主で、闇塩について調べにきましたなどと言えるはずもない。
劉青の視線を遮るように、黒狼は結蘭の前に出た。
「彼女は俺の妹だ。俺たちは夏太守に会いに来た」
「妹? ……ほう。夏太守に面会したいのなら、私が屋敷まで御案内しましょう。塩湖の畔ですから、山を下りていかほどもありません」
感謝を述べようとする暇もなく、劉青はくるりと踵を返す。階の傍にいた男に、何か言いつけている姿が見えた。
彼はこの辺りで一目置かれる存在らしい。
「油断のならない男だな」
黒狼は眉をひそめると、蝋燭の灯りに煌々と照らされていた結蘭の黒髪に包袱皮を被せた。
「強そうな人ね」
「そういうことじゃない。騒ぎが起こる前から俺たちを見張っていた」
ここは敬州。夏太守の領域なのだ。
誰かに監視されているような気がして、結蘭はぶるりと背を震わせる。
飯屋の酔客たちは何事もなかったかのように、徳利の酒を注いでいた。
漆黒の闇が広がる森を縫い、梟の囁きが木霊する。
山奥の夜は月明かりも届かない。躍る松明の灯が、どこか不気味だ。
結蘭は静かに木窓を閉じた。所在なさげに臥台に腰掛ける。
「房室がひとつって、宿が混んでるのかしら?」
宛がわれた房室は一室だけで、臥台はふたつ並んでいる。今までの宿では、黒狼は隣の房室に寝ていたのだ。
いつも一緒にいる黒狼だが、一緒に寝るということは当然なかったので戸惑ってしまう。
「兄妹ということになってるからな」
平然と言う黒狼は、腰にしっかりと剣を佩いている。戸口に立って外の気配を確認した後、床に座り込んだ。
「寝ろ」
「黒狼は?」
「俺は起きている」
一晩中見張っているつもりだろうか。結蘭たちが警戒されているのは間違いないが、夏太守の許可がなければ役人を切れないと劉青は語った。少なくとも今夜は大丈夫だと思うのだけれど。
結蘭の不安が顔に表れていたのか、黒狼は静かに呟いた。
「心配するな。何もしない。万が一、賊に襲われるようなことがあったら困るからな。今夜はここで見張る」
「私が心配してるのは黒狼の寝不足のことなんだけど」
「……心配無用だ」
溜息を吐かれてしまった。臥台に入り、衾を掛けても目が冴えて眠れない。結蘭は幾度も寝返りを打った。
「黒狼……」
「何だ」
黒狼は掠れのない声で即座に返事をした。
寝物語というわけではないが、今ならば普段は距離が近すぎて聞けないことも、敢えて尋ねられる気がする。
「黒狼の一番大事なものって何?」
「……何だ、急に」
「その……知りたくて」
やっぱり、剣かな。
結蘭にはわからない、剣豪の世界。
金色蝶を捜しに行きたいと結蘭が願うように、黒狼にも似たような夢があるのかもしれない。聞いたことはないけれど。
もし黒狼が世界中の剣豪と戦って腕を磨きたいと言えば、結蘭は応援することしかできないだろう。
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