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第三章
夏氏の狗 3
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傍に、いてほしいな。
どこにも行かないでほしい。
不安に駆られてしまい身を起こすと、黒狼は変わらず戸口に座していた。質問の返事がないので眠っているのかと思ったが、彼はいつもの鋭利な、けれど熱の籠もった眼差しを結蘭にむける。
「眠れないか」
「あ、うん。答えが返ってこないから眠っちゃったのかと思った」
「ああ……。大事なものか」
「沢山あって、一番が決められないの?」
「沢山あるのは結蘭だろう。まずは、虫だろ」
「う……。そうね」
「それから弟の皇帝と、それを取り巻く国のこと。奏州に残した屋敷のこと。母上との思い出、それから……」
黒狼の低い声音が眠りを誘う。結蘭は臥台に身を横たえた。
大事なものは沢山あるけれど、一番となると難しい。それに、もっとも大切なものが、欠けている。
結蘭は瞼を半分閉じながら口を開いた。
「黒狼は……?」
「目の前にある。俺の大事なものはひとつしかない」
「うん……。ある……」
そう。一番大事なものは、目の前の人。
ゆらゆらと揺れていた蝋燭の灯が消える。結蘭は、すうと寝息を立てた。
黒狼は口元に笑みを浮かべた。
「おやすみ」
濃い霧が立ち込める早朝、劉青の先導で一行は塩湖へ向けて出発した。
充分に身体を休めた子翼は、堂々とした足取りで山道を進む。
「良い馬ですね。何という名ですか」
劉青が誉めると、子翼は当然というように鼻を鳴らして応える。
「子翼です。小さいときから一緒なんです」
「軍吏のお嬢さんにしては乗馬が上手だ。馬と心が通じ合っているんですね」
「あ……ええ。そうですね。言葉はわからないですけど」
劉青の猜疑が浮かぶ眼差しが投げられる。
「そういえば宮廷には、虫の言葉がわかるという公主がいるとか。名は結蘭でしたか」
「あ。そ、そうですね」
どうしよう。もはや正体は九割ばれている。
結蘭が困っていると、黒狼は子翼を遮るように前へ進み出てきた。先頭を行く劉青の左側に馬を付ける。
「俺が禁軍だと、何故知っていた?」
詰問する口調に、劉青は眦の端だけで脇を見遣る。手綱を操作して若干馬身を傾け、距離をとった。
「見ればわかりますよ」
抜刀した場合、位置的に劉青のほうが剣を反さなければならないので一拍遅れる。
両者に漲る緊迫感に、霧さえも避けて通るようだ。
「どこかで会ったか? 俺が軍吏になったのは、つい最近なんだがな」
「そうですか。腕が立ちそうなので軍吏だと思っただけです。それよりも、塩湖がもうすぐ見えてきます。あの山の向こうです」
黒狼は劉青が腰に佩いている倭刀に目を配ったが、指を差された前方を見遣った。
霧が晴れて山並みが姿を現す。雪が降ってもいないのに、山々は雪化粧を施していた。
「寒くないのに、どうして雪が積もってるのかしら」
「これは塩です。風に運ばれて、この辺りの山は塩で白くなるんです」
幻想的な風景に目を奪われる。山を下りると、荒涼とした大地は一面の銀世界に覆われていた。
太陽に照らされた粒子が、きらきらと輝きを放っている。まるで宝玉が散りばめられた海のようだ。あまりの眩しさに、結蘭は双眸を眇めた。
「湖といっても、浅いんですね」
一般的な湖とは違い、雨上がりの水溜りくらいしか深度がない。水面に反射した天が、鏡のように映っている。もうひとつの天が現れる現象を、鏡張りというのだと劉青は語った。条件が揃ったときしか出現しない珍しいものだという。
「いずれ塩湖は消えてなくなってしまうのだそうです。夏太守はそれまでの辛抱だと、常々仰っています」
「消えてなくなる? どういうことです?」
どこにも行かないでほしい。
不安に駆られてしまい身を起こすと、黒狼は変わらず戸口に座していた。質問の返事がないので眠っているのかと思ったが、彼はいつもの鋭利な、けれど熱の籠もった眼差しを結蘭にむける。
「眠れないか」
「あ、うん。答えが返ってこないから眠っちゃったのかと思った」
「ああ……。大事なものか」
「沢山あって、一番が決められないの?」
「沢山あるのは結蘭だろう。まずは、虫だろ」
「う……。そうね」
「それから弟の皇帝と、それを取り巻く国のこと。奏州に残した屋敷のこと。母上との思い出、それから……」
黒狼の低い声音が眠りを誘う。結蘭は臥台に身を横たえた。
大事なものは沢山あるけれど、一番となると難しい。それに、もっとも大切なものが、欠けている。
結蘭は瞼を半分閉じながら口を開いた。
「黒狼は……?」
「目の前にある。俺の大事なものはひとつしかない」
「うん……。ある……」
そう。一番大事なものは、目の前の人。
ゆらゆらと揺れていた蝋燭の灯が消える。結蘭は、すうと寝息を立てた。
黒狼は口元に笑みを浮かべた。
「おやすみ」
濃い霧が立ち込める早朝、劉青の先導で一行は塩湖へ向けて出発した。
充分に身体を休めた子翼は、堂々とした足取りで山道を進む。
「良い馬ですね。何という名ですか」
劉青が誉めると、子翼は当然というように鼻を鳴らして応える。
「子翼です。小さいときから一緒なんです」
「軍吏のお嬢さんにしては乗馬が上手だ。馬と心が通じ合っているんですね」
「あ……ええ。そうですね。言葉はわからないですけど」
劉青の猜疑が浮かぶ眼差しが投げられる。
「そういえば宮廷には、虫の言葉がわかるという公主がいるとか。名は結蘭でしたか」
「あ。そ、そうですね」
どうしよう。もはや正体は九割ばれている。
結蘭が困っていると、黒狼は子翼を遮るように前へ進み出てきた。先頭を行く劉青の左側に馬を付ける。
「俺が禁軍だと、何故知っていた?」
詰問する口調に、劉青は眦の端だけで脇を見遣る。手綱を操作して若干馬身を傾け、距離をとった。
「見ればわかりますよ」
抜刀した場合、位置的に劉青のほうが剣を反さなければならないので一拍遅れる。
両者に漲る緊迫感に、霧さえも避けて通るようだ。
「どこかで会ったか? 俺が軍吏になったのは、つい最近なんだがな」
「そうですか。腕が立ちそうなので軍吏だと思っただけです。それよりも、塩湖がもうすぐ見えてきます。あの山の向こうです」
黒狼は劉青が腰に佩いている倭刀に目を配ったが、指を差された前方を見遣った。
霧が晴れて山並みが姿を現す。雪が降ってもいないのに、山々は雪化粧を施していた。
「寒くないのに、どうして雪が積もってるのかしら」
「これは塩です。風に運ばれて、この辺りの山は塩で白くなるんです」
幻想的な風景に目を奪われる。山を下りると、荒涼とした大地は一面の銀世界に覆われていた。
太陽に照らされた粒子が、きらきらと輝きを放っている。まるで宝玉が散りばめられた海のようだ。あまりの眩しさに、結蘭は双眸を眇めた。
「湖といっても、浅いんですね」
一般的な湖とは違い、雨上がりの水溜りくらいしか深度がない。水面に反射した天が、鏡のように映っている。もうひとつの天が現れる現象を、鏡張りというのだと劉青は語った。条件が揃ったときしか出現しない珍しいものだという。
「いずれ塩湖は消えてなくなってしまうのだそうです。夏太守はそれまでの辛抱だと、常々仰っています」
「消えてなくなる? どういうことです?」
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