77 / 112
椿小路公爵家の誕生パーティー 3
しおりを挟む
「いや、いい。何でもないんだ。さっき見たことはお父さまに報告しないでほしい」
公成に襲われたなどと事を大きくすれば、五条子爵家との関係も気まずくなる。父に余計な憂慮を抱かせたくない。
分かりました、と了承した鴇に着替え室へ導かれた。シャツとベストのみの格好なので、このまま広間には行けない。ハンガーにずらりと並べられた衣装の中から元々着ていた上着に似た白のジャケットを手に取った鴇は、着せかける前に安珠の眼前に立って首元のクラヴァットを直した。
熱い指先がわずかに首筋に触れる。
公成に触れられたときは嫌悪が湧いたのに、鴇が触れても何ともない。
なぜだろう。鴇には既に自慰の手伝いとして体に触れさせているから、慣れたということなのだろうか。でも初めてのときも嫌だという気持ちは湧かなかった。
部屋にふたりきりなのに、鴇は身を屈めて声をひそめる。
「まだ震えてる……。怖かった?」
「あ……」
恐怖を覚えたことを自覚させられてしまい、眦に涙が滲む。
泣いてはいけない。瞬きを繰り返して視線を彷徨わせる安珠の背を、逞しい腕が抱き込んだ。
「もう大丈夫。誰にも言わないよ。安珠は俺が守るから、何も心配しなくていい」
鴇の腕の中は熱くて、頼もしくて、心地良かった。大丈夫と告げられて、動揺していた心が凪いでいく。
震える指でジャケットの背に触れたとき、廊下を通る人の足音が聞こえたので我に返る。ぐい、と強靱な肩を押し戻すと、鴇は腕を解いて一歩下がった。
「……お父さまが呼んでいるんだったな。広間に戻る」
「涙は止まりました?」
鼻先がくっつくほど間近から覗き込まれる。そんなに近づかなくても見えると思う。
「泣いてない。少し動揺しただけだ。鴇が変なこと言うから」
微笑んだ鴇は精悍な顔を傾けた。頬から耳朶にかけて、熱い唇の感触が掠める。
「えっ」
そこは、公成に口づけられた箇所だ。
鴇は何事もなかったかのように背後に回り、上着を着せかけてくる。偶然触れたのだろうかと思わせるほど、刹那的な出来事だった。
着替え室を出る際、扉を閉める音に紛れて鴇はぽつりと呟いた。
「消毒です」
「……なんだって?」
「いえ。温かいお飲み物をお持ちしましょう。少しだけブランデーを入れますね」
パーティーが行われている広間から、紳士淑女の楽しげなさざめきが波のように伝わってくる。
次期公爵の顔を完全に取り戻した安珠は、招待客に囲まれて談笑している父の元へ向かった。
「お父さま、お待たせしました。僕をお呼びだと伺いましたが?」
「うん? 呼んではいないが、折角来たのだから皆さんの話を聞いていきなさい」
父が呼んでいるので、鴇は安珠を捜しに来たのではなかったのか。
紳士たちの隣で黙然としていると、音もなく近寄った鴇が慇懃な仕草で安珠に銀盆を差し出した。
琥珀色の飲み物が羹用のグラスに入れられて、湯気を立ち上らせている。わずかに漂うブランデーの芳醇な香りが鼻をくすぐる。取っ手を掴んでグラスを持ち上げた安珠は横目を投げた。
「嘘つきめ」
鴇は頭を下げたまま、唇に弧を描いた。
パーティーでは楽しげに振る舞っていた父は無理が祟ったのか、翌日から体調を崩した。
診察を終えた高野の表情は硬い。
応接室で待っていた安珠や山崎を始めとした古参の使用人たちに、重苦しく公爵家の専属医師は告げる。
「ご家族をお呼びください。史子さまと、奥様にもご連絡を」
「先生、まさか……!」
「旦那さまのお命は、後一週間ほどでございます」
冷静に宣告された台詞が、安珠の中で空回りしていく。肘掛けに置いた己の手が震えるのを止められない。その手を、温かくて大きな掌が包む。
ぎこちなく目をむければ、鴇に間近から覗き込まれていた。
「大丈夫です。旦那さまは必ず回復されます」
医師の高野が余命僅かだと見立てたのである。鴇の言い分には何も根拠がない。
言い返す気力もない安珠は唇を噛みしめることくらいしかできなかった。
山崎が男爵家に使いを遣り、事情を聞いた姉の史子はすぐさま来訪した。
「安珠、お父さまのご様子はどうなの?」
「お姉さま……それが……」
公成に襲われたなどと事を大きくすれば、五条子爵家との関係も気まずくなる。父に余計な憂慮を抱かせたくない。
分かりました、と了承した鴇に着替え室へ導かれた。シャツとベストのみの格好なので、このまま広間には行けない。ハンガーにずらりと並べられた衣装の中から元々着ていた上着に似た白のジャケットを手に取った鴇は、着せかける前に安珠の眼前に立って首元のクラヴァットを直した。
熱い指先がわずかに首筋に触れる。
公成に触れられたときは嫌悪が湧いたのに、鴇が触れても何ともない。
なぜだろう。鴇には既に自慰の手伝いとして体に触れさせているから、慣れたということなのだろうか。でも初めてのときも嫌だという気持ちは湧かなかった。
部屋にふたりきりなのに、鴇は身を屈めて声をひそめる。
「まだ震えてる……。怖かった?」
「あ……」
恐怖を覚えたことを自覚させられてしまい、眦に涙が滲む。
泣いてはいけない。瞬きを繰り返して視線を彷徨わせる安珠の背を、逞しい腕が抱き込んだ。
「もう大丈夫。誰にも言わないよ。安珠は俺が守るから、何も心配しなくていい」
鴇の腕の中は熱くて、頼もしくて、心地良かった。大丈夫と告げられて、動揺していた心が凪いでいく。
震える指でジャケットの背に触れたとき、廊下を通る人の足音が聞こえたので我に返る。ぐい、と強靱な肩を押し戻すと、鴇は腕を解いて一歩下がった。
「……お父さまが呼んでいるんだったな。広間に戻る」
「涙は止まりました?」
鼻先がくっつくほど間近から覗き込まれる。そんなに近づかなくても見えると思う。
「泣いてない。少し動揺しただけだ。鴇が変なこと言うから」
微笑んだ鴇は精悍な顔を傾けた。頬から耳朶にかけて、熱い唇の感触が掠める。
「えっ」
そこは、公成に口づけられた箇所だ。
鴇は何事もなかったかのように背後に回り、上着を着せかけてくる。偶然触れたのだろうかと思わせるほど、刹那的な出来事だった。
着替え室を出る際、扉を閉める音に紛れて鴇はぽつりと呟いた。
「消毒です」
「……なんだって?」
「いえ。温かいお飲み物をお持ちしましょう。少しだけブランデーを入れますね」
パーティーが行われている広間から、紳士淑女の楽しげなさざめきが波のように伝わってくる。
次期公爵の顔を完全に取り戻した安珠は、招待客に囲まれて談笑している父の元へ向かった。
「お父さま、お待たせしました。僕をお呼びだと伺いましたが?」
「うん? 呼んではいないが、折角来たのだから皆さんの話を聞いていきなさい」
父が呼んでいるので、鴇は安珠を捜しに来たのではなかったのか。
紳士たちの隣で黙然としていると、音もなく近寄った鴇が慇懃な仕草で安珠に銀盆を差し出した。
琥珀色の飲み物が羹用のグラスに入れられて、湯気を立ち上らせている。わずかに漂うブランデーの芳醇な香りが鼻をくすぐる。取っ手を掴んでグラスを持ち上げた安珠は横目を投げた。
「嘘つきめ」
鴇は頭を下げたまま、唇に弧を描いた。
パーティーでは楽しげに振る舞っていた父は無理が祟ったのか、翌日から体調を崩した。
診察を終えた高野の表情は硬い。
応接室で待っていた安珠や山崎を始めとした古参の使用人たちに、重苦しく公爵家の専属医師は告げる。
「ご家族をお呼びください。史子さまと、奥様にもご連絡を」
「先生、まさか……!」
「旦那さまのお命は、後一週間ほどでございます」
冷静に宣告された台詞が、安珠の中で空回りしていく。肘掛けに置いた己の手が震えるのを止められない。その手を、温かくて大きな掌が包む。
ぎこちなく目をむければ、鴇に間近から覗き込まれていた。
「大丈夫です。旦那さまは必ず回復されます」
医師の高野が余命僅かだと見立てたのである。鴇の言い分には何も根拠がない。
言い返す気力もない安珠は唇を噛みしめることくらいしかできなかった。
山崎が男爵家に使いを遣り、事情を聞いた姉の史子はすぐさま来訪した。
「安珠、お父さまのご様子はどうなの?」
「お姉さま……それが……」
0
あなたにおすすめの小説
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
クローゼットは宝箱
織緒こん
BL
てんつぶさん主催、オメガの巣作りアンソロジー参加作品です。
初めてのオメガバースです。
前後編8000文字強のSS。
◇ ◇ ◇
番であるオメガの穣太郎のヒートに合わせて休暇をもぎ取ったアルファの将臣。ほんの少し帰宅が遅れた彼を出迎えたのは、溢れかえるフェロモンの香気とクローゼットに籠城する番だった。狭いクローゼットに隠れるように巣作りする穣太郎を見つけて、出会ってから想いを通じ合わせるまでの数年間を思い出す。
美しく有能で、努力によってアルファと同等の能力を得た穣太郎。正気のときは決して甘えない彼が、ヒート期間中は将臣だけにぐずぐずに溺れる……。
年下わんこアルファ×年上美人オメガ。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
8/16番外編出しました!!!!!
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
3/6 2000❤️ありがとうございます😭
4/29 3000❤️ありがとうございます😭
8/13 4000❤️ありがとうございます😭
運命じゃない人
万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。
理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
【完結済】極上アルファを嵌めた俺の話
降魔 鬼灯
BL
ピアニスト志望の悠理は子供の頃、仲の良かったアルファの東郷司にコンクールで敗北した。
両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。
しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。
コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。
回帰したシリルの見る夢は
riiko
BL
公爵令息シリルは幼い頃より王太子の婚約者として、彼と番になる未来を夢見てきた。
しかし王太子は婚約者の自分には冷たい。どうやら彼には恋人がいるのだと知った日、物語は動き出した。
嫉妬に狂い断罪されたシリルは、何故だかきっかけの日に回帰した。そして回帰前には見えなかったことが少しずつ見えてきて、本当に望む夢が何かを徐々に思い出す。
執着をやめた途端、執着される側になったオメガが、次こそ間違えないようにと、可愛くも真面目に奮闘する物語!
執着アルファ×回帰オメガ
本編では明かされなかった、回帰前の出来事は外伝に掲載しております。
性描写が入るシーンは
※マークをタイトルにつけます。
物語お楽しみいただけたら幸いです。
***
2022.12.26「第10回BL小説大賞」で奨励賞をいただきました!
応援してくれた皆様のお陰です。
ご投票いただけた方、お読みくださった方、本当にありがとうございました!!
☆☆☆
2024.3.13 書籍発売&レンタル開始いたしました!!!!
応援してくださった読者さまのお陰でございます。本当にありがとうございます。書籍化にあたり連載時よりも読みやすく書き直しました。お楽しみいただけたら幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる