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矜持 1
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尊大に言い放ち、帳簿を閉じる。鴇の正体を知り、無理やり抱かれた夜以来、ふたりの間には亀裂が生じていた。
「帳簿を見ていたんですか」
「それは見るだろう。月の王子がいくら使っているのか確認したいからな」
「月の王子とは?」
「知らないのか。鳴海神父が姿を見せない寄付者にそう名付けたんだ。おまえなんだろう」
「……そうですか」
鴇は隠すつもりはないらしく、否定はしない。月の王子のことを全く知らないということは、孤児院へは顔を出していないのだ。もっとも、鳴海神父に会えば死んだ鴇に成り代わったことが明らかにされてしまうので、この男は生涯名乗り出ることはないだろう。
安珠は真実を誰にも打ち明けなかった。
公爵家には世間体というものがある。今さら鴇は偽物だと騒ぎ立てても、公爵の座を逃した弟の悪足掻きと捉えられてしまうだろう。鴇に当主を譲るという意向は父の明確な意思で、それは多くの者が目にしている。父が生きていれば考えを改めさせることも可能だが、襲爵の済んだ今ではもはや手遅れだった。安珠が爵位を継げなかったのは先代が長男を優先させたという理由が公にされているので、オメガだという事実は伏せられているものの、庶子が当主に就任したというだけでも恥さらしなのだ。これ以上、公爵家の醜聞を広めるわけにはいかない。
ところが矜持のため、自らの心に重荷を抱え続けることこそが、純粋な安珠には耐えがたい苦痛だった。鴇に裏切られたことも許せない。それらすべてが苛立ちとなり、原因を作った男に向かっていく。
「安珠……許してほしいとは言いませんが、俺の目を見て話をしてください。どうしてそんなに頑ななんです」
「どうしてだと? おまえ自身が一番良く分かってるんじゃないのか」
許してほしいとは思っていないと、鴇は何度も口にするが、それこそが許されたいと願っている証だ。成り代わりで公爵に就いたくせに図々しい。
脇を擦り抜けて部屋を出ようとすると、寸前で腕を掴まれた。その腕を乱暴に振り払う。
「さわるな」
「出かけるんですか。どこへ行くんです」
三つ揃えのグレースーツは仕事用だ。地味すぎないよう胸元のクラヴァットにプラチナのピンを通している。
「レッスンだ。今日は大滝男爵の子息だ」
安珠は、ピアノ講師の仕事を始めた。
鴇に飼われている立場に嫌気が差したからだ。それに仕事をして稼いでいれば、もし鴇が母への支援を打ち切ったとき金銭的に対応できる。ピアノの腕前を生かして良家の子息子女にレッスンしているのだが、金を稼ぐというのは想像以上に大変なことなのだと思い知った。
鴇は始めは講師の仕事に反対していたが、やがて何も言わなくなった。自分がやましいからといって生徒も同じと考えるな、と容赦なくぶつけてやったからだろう。鴇へのレッスンは正体を知ったのと同時に消滅している。もう、この男に教えてやる気はない。
「レッスンの時間にはまだ早いでしょう。その前に、俺の相手をしてください」
軽蔑を込めた眼差しをむけてやるが、直視はせず視界の端で鴇の顔を捉える。
この男は、子どもたちに会う前に男根をしゃぶれというのか。
だが、それが鴇の望みなら応えなくてはならない。
支援を打ち切るという決定的な台詞を決して鴇は口にしない。金が支払われている以上、契約は続行している状態だ。
「いいだろう。座れ」
けれど主導権を握るのはこちらだ。
長椅子を指し示した安珠は鴇を座らせると、床に跪いた。
慣れた仕草で事務的に男のスラックスを寛げ、男根を取り出す。いつものように根元を扱きながら先端を口腔に含んだ。無心に手と唇を使い、一刻も早い射精を促す。
大きな掌が髪に纏わりついてきたので、即座に払い除ける。
「さわるな。気が散る」
今度は耳に触れようとした指先を払う。
無理やり抱かれた夜を最後に、鴇には指一本触らせていない。求められたら口淫を施すだけにしている。元々はそういう契約だったのだから問題ないはずだ。
頭上から嘆息が零れたが、やがて与えた刺激により肉棒は極限まで膨張した。喉奥まで深く銜え込み、放たれた精をひと息に飲み下す。
べつに呑みたいわけじゃない。顔や服を汚されたら困るからだ。
顔を背けながらハンカチで口元を拭い、終わればすぐさま立ち上がる。鴇は前立てを直すと、辛そうな表情で安珠を見上げた。
「……安珠。さわらせてほしい。あなたに触れないと俺は満足できません」
「はっきり言えばどうだ。支援を打ち切られたくなければ黙って抱かれろと、命令すればいいだろう。僕が首肯するかは別だけどな」
鼻で嗤えば、鴇は眉間に深い皺を刻んで立ち上がる。息がかかるほどの近さで見据えられた。
「俺が言いたいのはそういうことではありません。どうしてあなたは壊滅的な物の考え方をするんです。俺は安珠を服従させたいわけじゃない」
「帳簿を見ていたんですか」
「それは見るだろう。月の王子がいくら使っているのか確認したいからな」
「月の王子とは?」
「知らないのか。鳴海神父が姿を見せない寄付者にそう名付けたんだ。おまえなんだろう」
「……そうですか」
鴇は隠すつもりはないらしく、否定はしない。月の王子のことを全く知らないということは、孤児院へは顔を出していないのだ。もっとも、鳴海神父に会えば死んだ鴇に成り代わったことが明らかにされてしまうので、この男は生涯名乗り出ることはないだろう。
安珠は真実を誰にも打ち明けなかった。
公爵家には世間体というものがある。今さら鴇は偽物だと騒ぎ立てても、公爵の座を逃した弟の悪足掻きと捉えられてしまうだろう。鴇に当主を譲るという意向は父の明確な意思で、それは多くの者が目にしている。父が生きていれば考えを改めさせることも可能だが、襲爵の済んだ今ではもはや手遅れだった。安珠が爵位を継げなかったのは先代が長男を優先させたという理由が公にされているので、オメガだという事実は伏せられているものの、庶子が当主に就任したというだけでも恥さらしなのだ。これ以上、公爵家の醜聞を広めるわけにはいかない。
ところが矜持のため、自らの心に重荷を抱え続けることこそが、純粋な安珠には耐えがたい苦痛だった。鴇に裏切られたことも許せない。それらすべてが苛立ちとなり、原因を作った男に向かっていく。
「安珠……許してほしいとは言いませんが、俺の目を見て話をしてください。どうしてそんなに頑ななんです」
「どうしてだと? おまえ自身が一番良く分かってるんじゃないのか」
許してほしいとは思っていないと、鴇は何度も口にするが、それこそが許されたいと願っている証だ。成り代わりで公爵に就いたくせに図々しい。
脇を擦り抜けて部屋を出ようとすると、寸前で腕を掴まれた。その腕を乱暴に振り払う。
「さわるな」
「出かけるんですか。どこへ行くんです」
三つ揃えのグレースーツは仕事用だ。地味すぎないよう胸元のクラヴァットにプラチナのピンを通している。
「レッスンだ。今日は大滝男爵の子息だ」
安珠は、ピアノ講師の仕事を始めた。
鴇に飼われている立場に嫌気が差したからだ。それに仕事をして稼いでいれば、もし鴇が母への支援を打ち切ったとき金銭的に対応できる。ピアノの腕前を生かして良家の子息子女にレッスンしているのだが、金を稼ぐというのは想像以上に大変なことなのだと思い知った。
鴇は始めは講師の仕事に反対していたが、やがて何も言わなくなった。自分がやましいからといって生徒も同じと考えるな、と容赦なくぶつけてやったからだろう。鴇へのレッスンは正体を知ったのと同時に消滅している。もう、この男に教えてやる気はない。
「レッスンの時間にはまだ早いでしょう。その前に、俺の相手をしてください」
軽蔑を込めた眼差しをむけてやるが、直視はせず視界の端で鴇の顔を捉える。
この男は、子どもたちに会う前に男根をしゃぶれというのか。
だが、それが鴇の望みなら応えなくてはならない。
支援を打ち切るという決定的な台詞を決して鴇は口にしない。金が支払われている以上、契約は続行している状態だ。
「いいだろう。座れ」
けれど主導権を握るのはこちらだ。
長椅子を指し示した安珠は鴇を座らせると、床に跪いた。
慣れた仕草で事務的に男のスラックスを寛げ、男根を取り出す。いつものように根元を扱きながら先端を口腔に含んだ。無心に手と唇を使い、一刻も早い射精を促す。
大きな掌が髪に纏わりついてきたので、即座に払い除ける。
「さわるな。気が散る」
今度は耳に触れようとした指先を払う。
無理やり抱かれた夜を最後に、鴇には指一本触らせていない。求められたら口淫を施すだけにしている。元々はそういう契約だったのだから問題ないはずだ。
頭上から嘆息が零れたが、やがて与えた刺激により肉棒は極限まで膨張した。喉奥まで深く銜え込み、放たれた精をひと息に飲み下す。
べつに呑みたいわけじゃない。顔や服を汚されたら困るからだ。
顔を背けながらハンカチで口元を拭い、終わればすぐさま立ち上がる。鴇は前立てを直すと、辛そうな表情で安珠を見上げた。
「……安珠。さわらせてほしい。あなたに触れないと俺は満足できません」
「はっきり言えばどうだ。支援を打ち切られたくなければ黙って抱かれろと、命令すればいいだろう。僕が首肯するかは別だけどな」
鼻で嗤えば、鴇は眉間に深い皺を刻んで立ち上がる。息がかかるほどの近さで見据えられた。
「俺が言いたいのはそういうことではありません。どうしてあなたは壊滅的な物の考え方をするんです。俺は安珠を服従させたいわけじゃない」
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