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第一章 カマクラコモリ
同級生からの依頼 2
「いや……ふつうの人間の女だよ。実は、圭史郎に相談したいことがあるんだ。今日はそのために花湯屋を訪ねた」
「何だ? だいたい察しはつくが」
帽子が鬱陶しいのか、光希君は自分で外してしまう。そうすると獣の耳が現れた。褐色で三角の形なので、まるでキツネの耳のようだ。
「光希君、おやつを食べましょうか。クッキーがありますよ」
「くっき」
まだ三歳という年齢のためか、光希君自身は自らの姿に違和感を覚えていないようだ。クッキーの小袋を差し出すと、「ありあと」と言い、ぺこりとお辞儀している。もう涙は引っ込んだようで、小袋を小さな手でいじるさまは可愛らしい。
高橋さんはそんな光希君を心配そうな眼差しで見つめつつ、口を開いた。
「見てのとおり、光希のことだ……。一週間前、仕事から家に帰ったら、光希に耳と尻尾が生えていたんだ。嫁さんが言うには、いつの間にかこうなっていたらしい。本人に痛がってる様子はないから、そのうち医者に連れて行こうなんてのんびりかまえてた。ところがその夜に、困ったことが起こった」
「困ったこととは?」
腕組みをして問いかけた圭史郎さんに、高橋さんは前のめりになって必死に訴えかけた。
「光希は夜中に、こっそりどこかへ出かけていくんだ。初めは俺も目を疑った。幽霊みたいに、すうっと布団から起き上がって、裸足で外を走っていく。しかも尋常な足の速さじゃない。追いかけようとしたけど見失ってしまったんだ」
「ほう……。だが今こうしているということは、見つかったんだな?」
「ひとりで戻ってきたんだ。夜が明けるまで俺と嫁さんで探し回って、家に戻ったらいつの間にか布団で寝てた。夢じゃない。本当なんだ。そんなことが毎晩、続くんだ」
「毎晩だと? じゃあ、もう七回は夜中に出かけてるのか」
「そうだ。どこに行ってるのか突き止めようと追いかけるんだが、とんでもない足の速さで追いつけない。この耳と尻尾が生えたおかげで、光希はふつうの人間じゃなくなってしまったのか? 俺たちは毎晩夜中に探し回ってへとへとだ。嫁さんは心労で寝込んでる」
がくりと項垂れた高橋さんの隣で、光希君は無垢な笑顔を見せている。まだ小さいので、本人の口から事情を説明するのは難しそうだ。光希君自身、自分の身に何が起こっているのか理解していないのかもしれない。
ふと、キャビネットに目を向けた光希君が声を上げた。
「ぱーぱ、ちっちゃい!」
彼が指差した先には、キャビネットの陰から顔を出した茜と蒼龍がいた。
花湯屋に長らく住んでいる茜と蒼龍は仲のよい双子の子鬼だ。双子だけれど同時に産まれたそうなので、どちらが姉や兄という区別がない。
「あたしは茜。子鬼だね」
「オレは蒼龍。この子はオレたちが見えてるんだな」
おなじみの自己紹介をしたふたりは光希君の傍へ、ててて……と駆けていく。
ハムスターほどの大きさの子鬼たちを、光希君は身を屈めて珍しげに眺めていた。
「にゃんにゃん?」
「猫じゃないよ。こーおーに、だね」
「こおに」
「上手だぞ。自分の名前は言えるか?」
「みちゅき」
「よくできました!」
子鬼ふたりに褒められた光希君は両手を挙げて、きゃあきゃあとはしゃいだ。
ふつうの人間があやかしを認識できる条件のひとつとして、死期が近いことが挙げられるが、光希君は健康そうだ。薔薇色の頰は血色がよく、顔も体もぷっくりとして栄養状態はよい。父親の高橋さんのほうが、げっそりしていて倒れてしまわないか心配になるほどである。きっと毎晩、行方不明になった光希君を捜索しているから疲労困憊なのだろう。
子鬼たちと楽しく話している光希君を切ない目で見守っていた高橋さんは苦渋に満ちた声を絞り出した。
「これも耳と尻尾が生えてからだ……。何もないところに向かって、誰かと会話しているんだ」
「あ……これは、あやかしと話しているんです。子鬼の茜と蒼龍がいるんですよ。彼らは何もしませんから大丈夫ですよ」
「そうなんですか……。しかし、若女将さんや圭史郎はあやかしが見えても、ご本人はふつうの人間ですよね? 光希は違う。耳と尻尾だけでなく、このまま動物の姿に変わってしまったら……それに、夜中に出かけて二度と帰ってこなかったらと思うと……もう、どうしたらいいのかわからない。光希は俺たちの子どもじゃなくなるのかと考えると、自分の想像にぞっとしてしまうんだ」
両手で顔を覆った高橋さんだけれど、思い立ったように身をのり出した。
「頼む、圭史郎! 光希をもとの姿に戻してくれ!」
懇願された圭史郎さんは何も答えず、子鬼たちと遊んでいる光希君を横目で眺めている。言葉が足りないと思ったのか、高橋さんはテーブルに手を突いて頭を下げた。
「十数年ぶりにやってきて一方的に頼み事をするなんて無礼だとわかってる。でも俺たち夫婦にとって光希はかけがえのない子どもなんだ。俺たちはもとの静かな生活を取り戻したいだけなんだ。だから……」
軽く手を挙げて高橋さんの訴えを遮った圭史郎さんは、眉をひそめる。
「事情はわかった。話は単純なようで不可思議だ。高橋に、いくつか聞きたいことがあるんだが」
「何でも聞いてくれ」
「何だ? だいたい察しはつくが」
帽子が鬱陶しいのか、光希君は自分で外してしまう。そうすると獣の耳が現れた。褐色で三角の形なので、まるでキツネの耳のようだ。
「光希君、おやつを食べましょうか。クッキーがありますよ」
「くっき」
まだ三歳という年齢のためか、光希君自身は自らの姿に違和感を覚えていないようだ。クッキーの小袋を差し出すと、「ありあと」と言い、ぺこりとお辞儀している。もう涙は引っ込んだようで、小袋を小さな手でいじるさまは可愛らしい。
高橋さんはそんな光希君を心配そうな眼差しで見つめつつ、口を開いた。
「見てのとおり、光希のことだ……。一週間前、仕事から家に帰ったら、光希に耳と尻尾が生えていたんだ。嫁さんが言うには、いつの間にかこうなっていたらしい。本人に痛がってる様子はないから、そのうち医者に連れて行こうなんてのんびりかまえてた。ところがその夜に、困ったことが起こった」
「困ったこととは?」
腕組みをして問いかけた圭史郎さんに、高橋さんは前のめりになって必死に訴えかけた。
「光希は夜中に、こっそりどこかへ出かけていくんだ。初めは俺も目を疑った。幽霊みたいに、すうっと布団から起き上がって、裸足で外を走っていく。しかも尋常な足の速さじゃない。追いかけようとしたけど見失ってしまったんだ」
「ほう……。だが今こうしているということは、見つかったんだな?」
「ひとりで戻ってきたんだ。夜が明けるまで俺と嫁さんで探し回って、家に戻ったらいつの間にか布団で寝てた。夢じゃない。本当なんだ。そんなことが毎晩、続くんだ」
「毎晩だと? じゃあ、もう七回は夜中に出かけてるのか」
「そうだ。どこに行ってるのか突き止めようと追いかけるんだが、とんでもない足の速さで追いつけない。この耳と尻尾が生えたおかげで、光希はふつうの人間じゃなくなってしまったのか? 俺たちは毎晩夜中に探し回ってへとへとだ。嫁さんは心労で寝込んでる」
がくりと項垂れた高橋さんの隣で、光希君は無垢な笑顔を見せている。まだ小さいので、本人の口から事情を説明するのは難しそうだ。光希君自身、自分の身に何が起こっているのか理解していないのかもしれない。
ふと、キャビネットに目を向けた光希君が声を上げた。
「ぱーぱ、ちっちゃい!」
彼が指差した先には、キャビネットの陰から顔を出した茜と蒼龍がいた。
花湯屋に長らく住んでいる茜と蒼龍は仲のよい双子の子鬼だ。双子だけれど同時に産まれたそうなので、どちらが姉や兄という区別がない。
「あたしは茜。子鬼だね」
「オレは蒼龍。この子はオレたちが見えてるんだな」
おなじみの自己紹介をしたふたりは光希君の傍へ、ててて……と駆けていく。
ハムスターほどの大きさの子鬼たちを、光希君は身を屈めて珍しげに眺めていた。
「にゃんにゃん?」
「猫じゃないよ。こーおーに、だね」
「こおに」
「上手だぞ。自分の名前は言えるか?」
「みちゅき」
「よくできました!」
子鬼ふたりに褒められた光希君は両手を挙げて、きゃあきゃあとはしゃいだ。
ふつうの人間があやかしを認識できる条件のひとつとして、死期が近いことが挙げられるが、光希君は健康そうだ。薔薇色の頰は血色がよく、顔も体もぷっくりとして栄養状態はよい。父親の高橋さんのほうが、げっそりしていて倒れてしまわないか心配になるほどである。きっと毎晩、行方不明になった光希君を捜索しているから疲労困憊なのだろう。
子鬼たちと楽しく話している光希君を切ない目で見守っていた高橋さんは苦渋に満ちた声を絞り出した。
「これも耳と尻尾が生えてからだ……。何もないところに向かって、誰かと会話しているんだ」
「あ……これは、あやかしと話しているんです。子鬼の茜と蒼龍がいるんですよ。彼らは何もしませんから大丈夫ですよ」
「そうなんですか……。しかし、若女将さんや圭史郎はあやかしが見えても、ご本人はふつうの人間ですよね? 光希は違う。耳と尻尾だけでなく、このまま動物の姿に変わってしまったら……それに、夜中に出かけて二度と帰ってこなかったらと思うと……もう、どうしたらいいのかわからない。光希は俺たちの子どもじゃなくなるのかと考えると、自分の想像にぞっとしてしまうんだ」
両手で顔を覆った高橋さんだけれど、思い立ったように身をのり出した。
「頼む、圭史郎! 光希をもとの姿に戻してくれ!」
懇願された圭史郎さんは何も答えず、子鬼たちと遊んでいる光希君を横目で眺めている。言葉が足りないと思ったのか、高橋さんはテーブルに手を突いて頭を下げた。
「十数年ぶりにやってきて一方的に頼み事をするなんて無礼だとわかってる。でも俺たち夫婦にとって光希はかけがえのない子どもなんだ。俺たちはもとの静かな生活を取り戻したいだけなんだ。だから……」
軽く手を挙げて高橋さんの訴えを遮った圭史郎さんは、眉をひそめる。
「事情はわかった。話は単純なようで不可思議だ。高橋に、いくつか聞きたいことがあるんだが」
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