みちのく銀山温泉

沖田弥子

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閑話 影

なりかわり 1

 これは、圭史郎の体だ。どうやら頭に血が上って、無意識に圭史郎の中に入ってしまったらしい。

「そうか。死期が迫っていたから、俺が見えたというわけか……」

 圭史郎の声で呟いた俺は、ふらふらと歩き出した。
 この状態で体から出れば、こいつはこのまま誰にも見つからず息絶えるだろう。
 あやかしが見えたからといって、死を決定づけるわけではない。まだ間に合うかもしれない。村へ行って手当てを施せば、圭史郎は助かるかもしれないのだ。
 屈託のない笑みで俺に握り飯を差し出してくれたこの男を、死なせることはしたくなかった。
 重い体を引きずり、村の方角へ足を運ぶ。
 すると、畑を耕していた村人が俺に気づき、驚いた顔をして話しかけてきた。

「圭史郎さま⁉ なにしたんだっす。お屋敷に知らせっから、休んででけらっしゃい」

 意識が朦朧として、何を言っているのかよくわからない。首に刺さった矢が痛痒いので抜きたいが、貧弱な人間の体は血を噴き出すかもしれない。首に手をやると、ぬるりとした感触があった。見ると、掌が真紅に染まっている。すでに出血していたようだ。だから足が重いのか。

「人間の体は、不便だな……」

 呟いた俺は、がくりと膝をつく。もう歩けないようだ。道の向こうから、慌てた様子の人間たちがこちらに向かってくるのが見えた。
 それきり俺の視界は真っ暗になる。
 いつもの、暗闇に溶け込む影のように。



 ふっと意識が戻った刹那、ひどい痛みに襲われた。

「うぐっ……」

 体のすべてが痛い。重くて、とてもじゃないが動かせない。人間の体に入って、疲労というものを感じたことはあるが、こんなにも強烈な痛覚は初めてだ。
 かろうじて身を起こすと、かけられていた布団が剥がれる。
 俺が寝ていたのはどこかの屋敷の室内だった。道で倒れたので、ここまで運ばれたらしい。
 呼吸を整えていると、豪奢な襖が開いた。
 桶を持った中年の女が、俺を目にして驚きの声を上げる。

「ぼ、坊ちゃまが、目を覚まされました……! 旦那さまをお呼びして!」

 慌てた女が人を呼びに走る。ややあって、室内には大勢の人間たちがやってきた。
 皆、心配そうな表情を浮かべて布団の傍へにじり寄る。
 その中でも上等な羽織を纏った壮年の男が、緊張を滲ませつつ声をかけてきた。

「圭史郎、具合はどうだ? おまえは死ぬところだったのだぞ。だが目が覚めたからには、もう大丈夫だ」

 何が大丈夫なものか。俺は痛みに耐えながら、訝しげに男を見返した。

「誰だ、あんたは。ここはどこなんだ?」

 そう言った途端、詰めかけた人々が一様に息を呑む。
 動揺して視線をさまよわせた男だったが、すぐに俺に縋りついてきた。

「何を言っているのだ! わしはおまえの父親ではないか。ここは圭史郎の生まれ育った屋敷だぞ」

 そうだった。俺は今、花野圭史郎に成り代わっているのだ。だからといって演技などしてやるつもりはない。
 縋りついてくる圭史郎の父親とやらが鬱陶しく、乱暴に振り払う。

「離せ。おまえらがいると痛みが増す。散れ」

 低い声音で命じると、父親は信じられないものを見るように驚愕した。背後にいた屋敷の使用人らしき男女が戸惑った顔で目線を交わし合っている。

「先生を呼ぶのだ、すぐに」
「はい、旦那さま」

 ようやく人間たちは部屋からいなくなった。
 俺はどさりと重い体を布団に横たえる。
 静かになったと思えば、またすぐに医者がやってきて、圭史郎の体をいじくり回した。
 背中と首の傷以外に目立った外傷はなく、記憶がなくなったのは怪我による一時的なものである、と医者は見解を示した。
 背中の傷とは、俺が圭史郎の体に入ったときにできたものだ。
 医者は不安げに顔を曇らせる父親へ穏やかに告げた。

「背中の傷は塞がっておりますので、ごく浅かったのでしょう。対して首の矢傷は深く、命を失っていてもおかしくありませんでした。坊ちゃまは大変幸運な御方です」

 強張っていた父親の頰が綻ぶ。
 ――幸運か。
 あの洞窟で圭史郎と会わなければ、俺たちの道筋が交わることはなかっただろう。
 そもそも圭史郎が俺に握り飯を差し出すような真似をしなければ、こいつを助けてやる義理もなかった。山賊に襲われる人間なんぞ珍しくもない。あのまま遺体を放置していれば、面倒もなかったのだ。

「……ったく、何が幸運なものか」

 ぼやいた俺は顔を背けて、ごろりと寝転んだ。
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