68 / 88
閑話 影
なりかわり 1
しおりを挟む
これは、圭史郎の体だ。どうやら頭に血が上って、無意識に圭史郎の中に入ってしまったらしい。
「そうか。死期が迫っていたから、俺が見えたというわけか……」
圭史郎の声で呟いた俺は、ふらふらと歩き出した。
この状態で体から出れば、こいつはこのまま誰にも見つからず息絶えるだろう。
あやかしが見えたからといって、死を決定づけるわけではない。まだ間に合うかもしれない。村へ行って手当てを施せば、圭史郎は助かるかもしれないのだ。
屈託のない笑みで俺に握り飯を差し出してくれたこの男を、死なせることはしたくなかった。
重い体を引きずり、村の方角へ足を運ぶ。
すると、畑を耕していた村人が俺に気づき、驚いた顔をして話しかけてきた。
「圭史郎さま⁉ なにしたんだっす。お屋敷に知らせっから、休んででけらっしゃい」
意識が朦朧として、何を言っているのかよくわからない。首に刺さった矢が痛痒いので抜きたいが、貧弱な人間の体は血を噴き出すかもしれない。首に手をやると、ぬるりとした感触があった。見ると、掌が真紅に染まっている。すでに出血していたようだ。だから足が重いのか。
「人間の体は、不便だな……」
呟いた俺は、がくりと膝をつく。もう歩けないようだ。道の向こうから、慌てた様子の人間たちがこちらに向かってくるのが見えた。
それきり俺の視界は真っ暗になる。
いつもの、暗闇に溶け込む影のように。
ふっと意識が戻った刹那、ひどい痛みに襲われた。
「うぐっ……」
体のすべてが痛い。重くて、とてもじゃないが動かせない。人間の体に入って、疲労というものを感じたことはあるが、こんなにも強烈な痛覚は初めてだ。
かろうじて身を起こすと、かけられていた布団が剥がれる。
俺が寝ていたのはどこかの屋敷の室内だった。道で倒れたので、ここまで運ばれたらしい。
呼吸を整えていると、豪奢な襖が開いた。
桶を持った中年の女が、俺を目にして驚きの声を上げる。
「ぼ、坊ちゃまが、目を覚まされました……! 旦那さまをお呼びして!」
慌てた女が人を呼びに走る。ややあって、室内には大勢の人間たちがやってきた。
皆、心配そうな表情を浮かべて布団の傍へにじり寄る。
その中でも上等な羽織を纏った壮年の男が、緊張を滲ませつつ声をかけてきた。
「圭史郎、具合はどうだ? おまえは死ぬところだったのだぞ。だが目が覚めたからには、もう大丈夫だ」
何が大丈夫なものか。俺は痛みに耐えながら、訝しげに男を見返した。
「誰だ、あんたは。ここはどこなんだ?」
そう言った途端、詰めかけた人々が一様に息を呑む。
動揺して視線をさまよわせた男だったが、すぐに俺に縋りついてきた。
「何を言っているのだ! わしはおまえの父親ではないか。ここは圭史郎の生まれ育った屋敷だぞ」
そうだった。俺は今、花野圭史郎に成り代わっているのだ。だからといって演技などしてやるつもりはない。
縋りついてくる圭史郎の父親とやらが鬱陶しく、乱暴に振り払う。
「離せ。おまえらがいると痛みが増す。散れ」
低い声音で命じると、父親は信じられないものを見るように驚愕した。背後にいた屋敷の使用人らしき男女が戸惑った顔で目線を交わし合っている。
「先生を呼ぶのだ、すぐに」
「はい、旦那さま」
ようやく人間たちは部屋からいなくなった。
俺はどさりと重い体を布団に横たえる。
静かになったと思えば、またすぐに医者がやってきて、圭史郎の体をいじくり回した。
背中と首の傷以外に目立った外傷はなく、記憶がなくなったのは怪我による一時的なものである、と医者は見解を示した。
背中の傷とは、俺が圭史郎の体に入ったときにできたものだ。
医者は不安げに顔を曇らせる父親へ穏やかに告げた。
「背中の傷は塞がっておりますので、ごく浅かったのでしょう。対して首の矢傷は深く、命を失っていてもおかしくありませんでした。坊ちゃまは大変幸運な御方です」
強張っていた父親の頰が綻ぶ。
――幸運か。
あの洞窟で圭史郎と会わなければ、俺たちの道筋が交わることはなかっただろう。
そもそも圭史郎が俺に握り飯を差し出すような真似をしなければ、こいつを助けてやる義理もなかった。山賊に襲われる人間なんぞ珍しくもない。あのまま遺体を放置していれば、面倒もなかったのだ。
「……ったく、何が幸運なものか」
ぼやいた俺は顔を背けて、ごろりと寝転んだ。
「そうか。死期が迫っていたから、俺が見えたというわけか……」
圭史郎の声で呟いた俺は、ふらふらと歩き出した。
この状態で体から出れば、こいつはこのまま誰にも見つからず息絶えるだろう。
あやかしが見えたからといって、死を決定づけるわけではない。まだ間に合うかもしれない。村へ行って手当てを施せば、圭史郎は助かるかもしれないのだ。
屈託のない笑みで俺に握り飯を差し出してくれたこの男を、死なせることはしたくなかった。
重い体を引きずり、村の方角へ足を運ぶ。
すると、畑を耕していた村人が俺に気づき、驚いた顔をして話しかけてきた。
「圭史郎さま⁉ なにしたんだっす。お屋敷に知らせっから、休んででけらっしゃい」
意識が朦朧として、何を言っているのかよくわからない。首に刺さった矢が痛痒いので抜きたいが、貧弱な人間の体は血を噴き出すかもしれない。首に手をやると、ぬるりとした感触があった。見ると、掌が真紅に染まっている。すでに出血していたようだ。だから足が重いのか。
「人間の体は、不便だな……」
呟いた俺は、がくりと膝をつく。もう歩けないようだ。道の向こうから、慌てた様子の人間たちがこちらに向かってくるのが見えた。
それきり俺の視界は真っ暗になる。
いつもの、暗闇に溶け込む影のように。
ふっと意識が戻った刹那、ひどい痛みに襲われた。
「うぐっ……」
体のすべてが痛い。重くて、とてもじゃないが動かせない。人間の体に入って、疲労というものを感じたことはあるが、こんなにも強烈な痛覚は初めてだ。
かろうじて身を起こすと、かけられていた布団が剥がれる。
俺が寝ていたのはどこかの屋敷の室内だった。道で倒れたので、ここまで運ばれたらしい。
呼吸を整えていると、豪奢な襖が開いた。
桶を持った中年の女が、俺を目にして驚きの声を上げる。
「ぼ、坊ちゃまが、目を覚まされました……! 旦那さまをお呼びして!」
慌てた女が人を呼びに走る。ややあって、室内には大勢の人間たちがやってきた。
皆、心配そうな表情を浮かべて布団の傍へにじり寄る。
その中でも上等な羽織を纏った壮年の男が、緊張を滲ませつつ声をかけてきた。
「圭史郎、具合はどうだ? おまえは死ぬところだったのだぞ。だが目が覚めたからには、もう大丈夫だ」
何が大丈夫なものか。俺は痛みに耐えながら、訝しげに男を見返した。
「誰だ、あんたは。ここはどこなんだ?」
そう言った途端、詰めかけた人々が一様に息を呑む。
動揺して視線をさまよわせた男だったが、すぐに俺に縋りついてきた。
「何を言っているのだ! わしはおまえの父親ではないか。ここは圭史郎の生まれ育った屋敷だぞ」
そうだった。俺は今、花野圭史郎に成り代わっているのだ。だからといって演技などしてやるつもりはない。
縋りついてくる圭史郎の父親とやらが鬱陶しく、乱暴に振り払う。
「離せ。おまえらがいると痛みが増す。散れ」
低い声音で命じると、父親は信じられないものを見るように驚愕した。背後にいた屋敷の使用人らしき男女が戸惑った顔で目線を交わし合っている。
「先生を呼ぶのだ、すぐに」
「はい、旦那さま」
ようやく人間たちは部屋からいなくなった。
俺はどさりと重い体を布団に横たえる。
静かになったと思えば、またすぐに医者がやってきて、圭史郎の体をいじくり回した。
背中と首の傷以外に目立った外傷はなく、記憶がなくなったのは怪我による一時的なものである、と医者は見解を示した。
背中の傷とは、俺が圭史郎の体に入ったときにできたものだ。
医者は不安げに顔を曇らせる父親へ穏やかに告げた。
「背中の傷は塞がっておりますので、ごく浅かったのでしょう。対して首の矢傷は深く、命を失っていてもおかしくありませんでした。坊ちゃまは大変幸運な御方です」
強張っていた父親の頰が綻ぶ。
――幸運か。
あの洞窟で圭史郎と会わなければ、俺たちの道筋が交わることはなかっただろう。
そもそも圭史郎が俺に握り飯を差し出すような真似をしなければ、こいつを助けてやる義理もなかった。山賊に襲われる人間なんぞ珍しくもない。あのまま遺体を放置していれば、面倒もなかったのだ。
「……ったく、何が幸運なものか」
ぼやいた俺は顔を背けて、ごろりと寝転んだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつもりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。