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身代わり花嫁の受難 1
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煌は意外と忙しかった。志音のほうが本当に風邪を引いてしまったのである。
ロマンシアに到着した翌朝、咳をしていた志音は荷解きや片付けに勤しんでいたが、それが終わると熱を出してしまった。今は侍従部屋のベッドで横たわっている。
「志音。食事が来たぞ」
ダイニングテーブルに食事を運んだメイドがいなくなると、トレイに乗せて志音の元へ運ぶ。朦朧としていた志音は体を起こした。額に乗せた氷嚢が滑り落ちる。頬は熱で真っ赤だ。
「申し訳ありません、煌さま……。わたくしは侍従として、なんという失態を……」
「分かったから、早く風邪を治せ。食べられそうか?」
お粥のように柔らかく煮込まれた料理をスプーンで掬い、息を吹きかけて冷ましてから志音の口元へ運ぶ。熱のせいで食欲がないのか、三口ほどで体が受け付けなくなってしまった。
「もう食べたくありません……。煌さまにお世話をさせてしまうとは、わたくしは……」
「泣くな。涙を拭け。その前に鼻水を拭け」
ティシュを渡して鼻をかませてからベッドに寝かしつける。志音の額に手を宛ててみると、まだかなり熱い。
「これ以上悪化しないうちに医者に診せよう」
「それはいけません! わたくしが風邪を引いたと知られたら、煌さまと引き離されてしまいます」
「そうだろうけどな……」
ミハイルに侍従としての役目を果たせないとみなされて、紅宮殿には代わりの女官が配属されてしまうだろう。着替えや風呂も一切覗かないでほしいと言えば、怪しまれるのは目に見えている。
半ば勢いで身代わり花嫁としてロマンシアまで来てしまったが、早々に頓挫してしまいそうだ。今後のことを真剣に考えなければならないだろう。まずは志音の体調を回復させることが先決だ。
食器を片付けてから部屋を覗くと、志音は穏やかな寝息を立てていた。
病状は停滞しているようだ。煌はそっと扉を閉めると、応接室のソファに腰掛けて思案した。
目下の困りごとは、薬をもらえないことである。
風邪薬を用意してほしいと頼んだら、ミハイルに「では医師の診察をお受けください」と返されてしまった。皇族は医師の処方箋を医局が認可した薬しか口にしてはならず、無断で処方した医師や薬師は刑罰に処されるという。
今のところは婚約者という身分だが、紗綾姫はロマンシア帝国の未来の正妃となるわけなので重要な人物だ。三十番目の王子として気楽に暮らしていた頃とは訳が違うと痛感する。
「考えさせてくださいと断ったら、ミハイルは妙な顔してたな」
医師の診察を受けられない特別な理由があるのかと、怪訝に思われたかもしれない。診察などされれば健康なことがバレてしまう。その前に男だとバレる。実は風邪なのは志音だと明かすこともできない。
何とか薬を調達できないだろうか。街角の薬屋で売っているような市販薬で良いのだ。
「あっ、そうか。買いに行けばいいのか」
難しく考えすぎていた。元々男なのだから、従者の格好をして堂々と素顔のままで宮殿を出れば良いのだ。仮に誰かに問い質されても、紗綾姫の従者ですと言えば済む。
早速煌は行李の中からできるだけ質素な衣服を選び、ベルベットのドレスを脱ぎ捨てて身につけた。念のため男物の衣装も持参して良かった。
木綿で織られた前合わせの上衣にくるぶしまである褲子という瑠璃国では一般的な服装だが、ロマンシアでは目立つかもしれない。外は曇り空なので、この格好では寒いだろう。クローゼットから貂の毛皮が付いたケープを取り出す。濃茶なので女物に見えない、と思う。足袋に草履を履いて、準備は完了した。眠っている志音を扉の隙間からそっと伺い、小さく呟く。
「すぐに戻るからな。行ってくる」
紅宮殿には小型の厨房があり、その脇に勝手口が付いている。銀の取っ手を引こうとして、煌はふと気づいた。
お使いに行くのなら、お金が必要だ。いつも志音はお使いに行くとき、棚の中に置かれた漆塗りの文箱からお金を取り出していた。王宮の役人が時折確認して帳簿を付け、管理しているのだ。
室内に戻って見回すと、同じ文箱がサイドテーブルの上に乗っているのを見つけた。蓋を開ければ、異国の紙幣が入っている。これがロマンシアの通貨だろう。既に志音は準備していたのだ。
腰紐に提げた小さな鞄に紙幣を入れる。
「どれくらい持っていけばいいんだ?」
買い物の経験はあるが、異国の通貨なので尚更価値が分からない。ロマンシアでは薬は高額だろうか。念のため多めに持っていこう。
今度こそ勝手口より出て裏庭に繋がる通路を通り抜ける。身を切るような寒風が吹き荒び、震え上がった。首回りを覆う貂の毛皮の暖かさに感謝する。
裏庭は閑散としていて誰もいない。霜が降りた芝生を突っ切り、裏門へ駆け込む。
通用口に使うらしい裏門は人ひとりが通れるほどの幅で、門番はいない。難なく通過できたが、紅宮殿の外側に出ただけで未だエルミターナ宮殿の敷地内だ。街に出るには衛士の警護する大きな門を通らなければならない。
ロマンシアに到着した翌朝、咳をしていた志音は荷解きや片付けに勤しんでいたが、それが終わると熱を出してしまった。今は侍従部屋のベッドで横たわっている。
「志音。食事が来たぞ」
ダイニングテーブルに食事を運んだメイドがいなくなると、トレイに乗せて志音の元へ運ぶ。朦朧としていた志音は体を起こした。額に乗せた氷嚢が滑り落ちる。頬は熱で真っ赤だ。
「申し訳ありません、煌さま……。わたくしは侍従として、なんという失態を……」
「分かったから、早く風邪を治せ。食べられそうか?」
お粥のように柔らかく煮込まれた料理をスプーンで掬い、息を吹きかけて冷ましてから志音の口元へ運ぶ。熱のせいで食欲がないのか、三口ほどで体が受け付けなくなってしまった。
「もう食べたくありません……。煌さまにお世話をさせてしまうとは、わたくしは……」
「泣くな。涙を拭け。その前に鼻水を拭け」
ティシュを渡して鼻をかませてからベッドに寝かしつける。志音の額に手を宛ててみると、まだかなり熱い。
「これ以上悪化しないうちに医者に診せよう」
「それはいけません! わたくしが風邪を引いたと知られたら、煌さまと引き離されてしまいます」
「そうだろうけどな……」
ミハイルに侍従としての役目を果たせないとみなされて、紅宮殿には代わりの女官が配属されてしまうだろう。着替えや風呂も一切覗かないでほしいと言えば、怪しまれるのは目に見えている。
半ば勢いで身代わり花嫁としてロマンシアまで来てしまったが、早々に頓挫してしまいそうだ。今後のことを真剣に考えなければならないだろう。まずは志音の体調を回復させることが先決だ。
食器を片付けてから部屋を覗くと、志音は穏やかな寝息を立てていた。
病状は停滞しているようだ。煌はそっと扉を閉めると、応接室のソファに腰掛けて思案した。
目下の困りごとは、薬をもらえないことである。
風邪薬を用意してほしいと頼んだら、ミハイルに「では医師の診察をお受けください」と返されてしまった。皇族は医師の処方箋を医局が認可した薬しか口にしてはならず、無断で処方した医師や薬師は刑罰に処されるという。
今のところは婚約者という身分だが、紗綾姫はロマンシア帝国の未来の正妃となるわけなので重要な人物だ。三十番目の王子として気楽に暮らしていた頃とは訳が違うと痛感する。
「考えさせてくださいと断ったら、ミハイルは妙な顔してたな」
医師の診察を受けられない特別な理由があるのかと、怪訝に思われたかもしれない。診察などされれば健康なことがバレてしまう。その前に男だとバレる。実は風邪なのは志音だと明かすこともできない。
何とか薬を調達できないだろうか。街角の薬屋で売っているような市販薬で良いのだ。
「あっ、そうか。買いに行けばいいのか」
難しく考えすぎていた。元々男なのだから、従者の格好をして堂々と素顔のままで宮殿を出れば良いのだ。仮に誰かに問い質されても、紗綾姫の従者ですと言えば済む。
早速煌は行李の中からできるだけ質素な衣服を選び、ベルベットのドレスを脱ぎ捨てて身につけた。念のため男物の衣装も持参して良かった。
木綿で織られた前合わせの上衣にくるぶしまである褲子という瑠璃国では一般的な服装だが、ロマンシアでは目立つかもしれない。外は曇り空なので、この格好では寒いだろう。クローゼットから貂の毛皮が付いたケープを取り出す。濃茶なので女物に見えない、と思う。足袋に草履を履いて、準備は完了した。眠っている志音を扉の隙間からそっと伺い、小さく呟く。
「すぐに戻るからな。行ってくる」
紅宮殿には小型の厨房があり、その脇に勝手口が付いている。銀の取っ手を引こうとして、煌はふと気づいた。
お使いに行くのなら、お金が必要だ。いつも志音はお使いに行くとき、棚の中に置かれた漆塗りの文箱からお金を取り出していた。王宮の役人が時折確認して帳簿を付け、管理しているのだ。
室内に戻って見回すと、同じ文箱がサイドテーブルの上に乗っているのを見つけた。蓋を開ければ、異国の紙幣が入っている。これがロマンシアの通貨だろう。既に志音は準備していたのだ。
腰紐に提げた小さな鞄に紙幣を入れる。
「どれくらい持っていけばいいんだ?」
買い物の経験はあるが、異国の通貨なので尚更価値が分からない。ロマンシアでは薬は高額だろうか。念のため多めに持っていこう。
今度こそ勝手口より出て裏庭に繋がる通路を通り抜ける。身を切るような寒風が吹き荒び、震え上がった。首回りを覆う貂の毛皮の暖かさに感謝する。
裏庭は閑散としていて誰もいない。霜が降りた芝生を突っ切り、裏門へ駆け込む。
通用口に使うらしい裏門は人ひとりが通れるほどの幅で、門番はいない。難なく通過できたが、紅宮殿の外側に出ただけで未だエルミターナ宮殿の敷地内だ。街に出るには衛士の警護する大きな門を通らなければならない。
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