9 / 56
第二章
カフェの朝ごはん 1
しおりを挟む
カーテン越しに零れる陽の光が、僕の意識を柔らかく掬い上げる。
重い瞼をこじ開けて、まず目に飛び込んだ天井の模様に疑問符を浮かべた。
ここ……どこだっけ?
そう思った刹那、昨日のできごとが一気に脳裏を駆け巡る。
「あー……守護霊だとか神剣だとか、金百両だとか……」
小学生の頃から入ってみたいと好奇心を抱いていた喫茶店に入店してみると、そこには守護霊となった平家の若様と、あやかしのウミネコがいた。
神剣を守るために壇ノ浦の合戦から逃れてきた彼らは飛島に移り住んで、今ではカフェを経営しているという話を聞きながら、僕は一杯の珈琲を飲み干した。ところが金百両の代金を請求されたので、その借金を返すために、ここで働くことになったのだ。
むくりと起き上がってカーテンを捲ると、窓からは悠然とした鳥海山が見えていた。飛島から眺めると、まるで鳥海山は海に浮いているようだ。山と島の間に横たわる波は穏やかで、空には白練の雲が棚引いている。今日も晴天に恵まれた。
「子どもの頃の秘密基地っていうのは、思い出の中だけに留めておくものなんだな……」
僕は自嘲気味に呟いた。
天候に反して心中は重い。
七百五十万円もの借金を背負ってしまった翌朝に、どうして気分良く起きられるだろうか。
『あの店の中はどうなっているんだろう?』
軒先に木彫りのコーヒーカップが置かれた店がずっと気になっていた。
長年抱いてきた好奇心は満たされたものの、事実は稀有なものであるという教訓を叩き込まれることになるとは思いもよらなかった。
「触らぬ神に祟りなし、って昔の人はうまいこと言ったよね。神じゃなくて守護霊だったけど」
寝間着代わりにしているルームウェアを脱いで、ジーンズとスウェットパーカを着用する。
宛がわれた六畳間を出ると、向かいの部屋は静まり返っていた。清光はもう起床したようだ。もっとも彼の正体は幽霊だから、寝るのかどうなのか不明だけれど。
廊下の端に備え付けられた小さな洗面台で顔を洗い、身支度を調える。
この建物は一階が店舗で、二階は畳部屋が二部屋あり、寝泊まりできる造りになっている。小さいながらも店舗の脇にトイレと風呂も付いていた。男ふたりとウミネコ一羽が生活するには充分だ。
僕は階段を下りて、カフェとなっている店舗のスペースへ足を向けた。
「おはよう、蓮」
ふわりと鼻孔をくすぐる珈琲の濃厚な香りと共に、甘やかな声音で挨拶される。
昨日と同じように薄い水色のシャツとギャルソンエプロンを身に纏った清光は、カウンターの中から微笑みかけた。彼の腰にはもちろん、重厚な刀剣が差されている。
「……おはよう」
清光の後ろでは、兜丸が「ゲロゲロゲ~」と快調に喉を鳴らしながら、カップに漆黒の液体を注いでいた。
ポン、とトースターから食パンが飛び出す。
それを皿に移した清光は、バターナイフで黒のペーストを塗った。黒胡麻だろうか。
「もしかして、朝ごはん?」
「そうだ。我々はいつもここで食べている」
ここは従業員のダイニングでもあるようだ。喫茶店としては考えられない使い方だけれど、スローライフな島暮らしで開店休業状態の店だから、なんでもありなのだろう。
「というか、君たち幽霊なんだよね? ごはん食べるの?」
僕はスツールに腰かけて、頬杖をつく。
金百両もの大金を返済しろという無理難題を押しつけた平家の若様のことを、もう少し掘り下げてみる必要がある。風雅な見た目に似合わず、とんでもない強引さだ。
『昨日の話は全部冗談だ』と言ってくれることを、僕は欠片ほどは期待した。
清光はバターナイフで掬い上げたペーストを熱心に塗りながら、平然として答えた。
「無論だ。幽霊といっても我々はハイブリッチョだから、なんでも食べられるぞ」
「……ハイブリッドって言いたいの? それね、意味が違うから。ハイブリッドは複数の性能を掛け合わせて造った品種のことだよ。ハイブリッド車とかね。清光は単に『優れている』ってことを言いたいんじゃないの?」
「うむ。そういうことにしておこうか。大海をバターナイフで凪ぐことなどできぬように、すべては海の御心に任せるしかないのだから」
「はあ……バターナイフは発音できるんだね」
清光の比喩が高尚すぎて、何を言っているのかわからない。
呆れる僕に対し、朗らかに笑った清光は、飴色のカウンターにトーストの載った皿を置いた。僕は目の前の、焼き上がったばかりのトーストに目を向けた。
トーストには清光が塗ってくれたペーストが、たっぷり載せられている。
それを見た僕の目が点になる。
「……えっ? 何これ」
「清光特製ギバサトーストだ。堪能あれ」
食パンの表面には、細かく刻まれた緑色の海藻がたっぷりと載せられていた。黒胡麻と思っていたものの正体は、ギバサだったらしい。
ギバサは正式名称をアカモクといい、飛島で採れる海藻のひとつである。
食物繊維が豊富で、ポリフェノールやミネラル、ビタミンKなどの成分が含まれており、健康に良い。
海に生えているときは褐色のギバサは湯がくと鮮やかな緑色に変化し、細かく刻むことで粘りが出る。
粘りといっても、納豆のように糸を引くわけではなく、さらりとしているので食べやすい。醤油と絡めたものを小鉢に盛り、おかずとして食すのだ。僕も子どもの頃に食べていたけれど、ギバサは大好きだ。
……だが、ごはんにかけるのならともかく、トーストにペーストとして使う食べ方は前代未聞だ。
ギバサトーストと誇らしげに胸を張っている清光の顔とを、僕は戸惑いを込めた視線で往復させる。
「……あのさ、ギバサは小鉢とかに出すものだよね? せめてトーストとは別にしたほうがいいんじゃないの?」
「料理とは、常に新しい挑戦なのだ。遠慮せず食べてみてくれ」
なぜか清光は自信満々だ。このコラボレーションが最高だと自負しているらしい。
春が旬のギバサは、とろりと艶めいていてとても美味しそうだ。
僕はおそるおそるトーストを手に取り、ギバサごと口に含んだ。
清光は瞬きすらせずに、咀嚼する僕を凝視している。
「ん……意外といけるかも」
「やはりそうか!」
醤油で味付けされたギバサの芳醇な味わいが口の中いっぱいに広がり、それをトーストの香ばしさがが包み込んでいる。ギバサのとろみが、焼けた食パンの感触と絶妙に絡み合い、お互いの存在を邪魔しない。
重い瞼をこじ開けて、まず目に飛び込んだ天井の模様に疑問符を浮かべた。
ここ……どこだっけ?
そう思った刹那、昨日のできごとが一気に脳裏を駆け巡る。
「あー……守護霊だとか神剣だとか、金百両だとか……」
小学生の頃から入ってみたいと好奇心を抱いていた喫茶店に入店してみると、そこには守護霊となった平家の若様と、あやかしのウミネコがいた。
神剣を守るために壇ノ浦の合戦から逃れてきた彼らは飛島に移り住んで、今ではカフェを経営しているという話を聞きながら、僕は一杯の珈琲を飲み干した。ところが金百両の代金を請求されたので、その借金を返すために、ここで働くことになったのだ。
むくりと起き上がってカーテンを捲ると、窓からは悠然とした鳥海山が見えていた。飛島から眺めると、まるで鳥海山は海に浮いているようだ。山と島の間に横たわる波は穏やかで、空には白練の雲が棚引いている。今日も晴天に恵まれた。
「子どもの頃の秘密基地っていうのは、思い出の中だけに留めておくものなんだな……」
僕は自嘲気味に呟いた。
天候に反して心中は重い。
七百五十万円もの借金を背負ってしまった翌朝に、どうして気分良く起きられるだろうか。
『あの店の中はどうなっているんだろう?』
軒先に木彫りのコーヒーカップが置かれた店がずっと気になっていた。
長年抱いてきた好奇心は満たされたものの、事実は稀有なものであるという教訓を叩き込まれることになるとは思いもよらなかった。
「触らぬ神に祟りなし、って昔の人はうまいこと言ったよね。神じゃなくて守護霊だったけど」
寝間着代わりにしているルームウェアを脱いで、ジーンズとスウェットパーカを着用する。
宛がわれた六畳間を出ると、向かいの部屋は静まり返っていた。清光はもう起床したようだ。もっとも彼の正体は幽霊だから、寝るのかどうなのか不明だけれど。
廊下の端に備え付けられた小さな洗面台で顔を洗い、身支度を調える。
この建物は一階が店舗で、二階は畳部屋が二部屋あり、寝泊まりできる造りになっている。小さいながらも店舗の脇にトイレと風呂も付いていた。男ふたりとウミネコ一羽が生活するには充分だ。
僕は階段を下りて、カフェとなっている店舗のスペースへ足を向けた。
「おはよう、蓮」
ふわりと鼻孔をくすぐる珈琲の濃厚な香りと共に、甘やかな声音で挨拶される。
昨日と同じように薄い水色のシャツとギャルソンエプロンを身に纏った清光は、カウンターの中から微笑みかけた。彼の腰にはもちろん、重厚な刀剣が差されている。
「……おはよう」
清光の後ろでは、兜丸が「ゲロゲロゲ~」と快調に喉を鳴らしながら、カップに漆黒の液体を注いでいた。
ポン、とトースターから食パンが飛び出す。
それを皿に移した清光は、バターナイフで黒のペーストを塗った。黒胡麻だろうか。
「もしかして、朝ごはん?」
「そうだ。我々はいつもここで食べている」
ここは従業員のダイニングでもあるようだ。喫茶店としては考えられない使い方だけれど、スローライフな島暮らしで開店休業状態の店だから、なんでもありなのだろう。
「というか、君たち幽霊なんだよね? ごはん食べるの?」
僕はスツールに腰かけて、頬杖をつく。
金百両もの大金を返済しろという無理難題を押しつけた平家の若様のことを、もう少し掘り下げてみる必要がある。風雅な見た目に似合わず、とんでもない強引さだ。
『昨日の話は全部冗談だ』と言ってくれることを、僕は欠片ほどは期待した。
清光はバターナイフで掬い上げたペーストを熱心に塗りながら、平然として答えた。
「無論だ。幽霊といっても我々はハイブリッチョだから、なんでも食べられるぞ」
「……ハイブリッドって言いたいの? それね、意味が違うから。ハイブリッドは複数の性能を掛け合わせて造った品種のことだよ。ハイブリッド車とかね。清光は単に『優れている』ってことを言いたいんじゃないの?」
「うむ。そういうことにしておこうか。大海をバターナイフで凪ぐことなどできぬように、すべては海の御心に任せるしかないのだから」
「はあ……バターナイフは発音できるんだね」
清光の比喩が高尚すぎて、何を言っているのかわからない。
呆れる僕に対し、朗らかに笑った清光は、飴色のカウンターにトーストの載った皿を置いた。僕は目の前の、焼き上がったばかりのトーストに目を向けた。
トーストには清光が塗ってくれたペーストが、たっぷり載せられている。
それを見た僕の目が点になる。
「……えっ? 何これ」
「清光特製ギバサトーストだ。堪能あれ」
食パンの表面には、細かく刻まれた緑色の海藻がたっぷりと載せられていた。黒胡麻と思っていたものの正体は、ギバサだったらしい。
ギバサは正式名称をアカモクといい、飛島で採れる海藻のひとつである。
食物繊維が豊富で、ポリフェノールやミネラル、ビタミンKなどの成分が含まれており、健康に良い。
海に生えているときは褐色のギバサは湯がくと鮮やかな緑色に変化し、細かく刻むことで粘りが出る。
粘りといっても、納豆のように糸を引くわけではなく、さらりとしているので食べやすい。醤油と絡めたものを小鉢に盛り、おかずとして食すのだ。僕も子どもの頃に食べていたけれど、ギバサは大好きだ。
……だが、ごはんにかけるのならともかく、トーストにペーストとして使う食べ方は前代未聞だ。
ギバサトーストと誇らしげに胸を張っている清光の顔とを、僕は戸惑いを込めた視線で往復させる。
「……あのさ、ギバサは小鉢とかに出すものだよね? せめてトーストとは別にしたほうがいいんじゃないの?」
「料理とは、常に新しい挑戦なのだ。遠慮せず食べてみてくれ」
なぜか清光は自信満々だ。このコラボレーションが最高だと自負しているらしい。
春が旬のギバサは、とろりと艶めいていてとても美味しそうだ。
僕はおそるおそるトーストを手に取り、ギバサごと口に含んだ。
清光は瞬きすらせずに、咀嚼する僕を凝視している。
「ん……意外といけるかも」
「やはりそうか!」
醤油で味付けされたギバサの芳醇な味わいが口の中いっぱいに広がり、それをトーストの香ばしさがが包み込んでいる。ギバサのとろみが、焼けた食パンの感触と絶妙に絡み合い、お互いの存在を邪魔しない。
0
あなたにおすすめの小説
あやかし帝都の婚姻譚 〜浄癒の花嫁が祓魔の軍人に溺愛されるまで〜
鳴猫ツミキ
キャラ文芸
【完結】【第一章までで一区切り】時は大正。天羽家に生まれた桜子は、特異な体質から、家族に虐げられた生活を送っていた。すると女学院から帰ったある日、見合いをするよう命じられる。相手は冷酷だと評判の帝国陸軍あやかし対策部隊の四峰礼人だった。※和風シンデレラ風のお話です。恋愛要素が多いですが、あやかし要素が主体です。第9回キャラ文芸大賞に応募しているので、応援して頂けましたら嬉しいです。【第一章で一区切りで単体で読めますので、そこまででもご覧頂けると嬉しいです】。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
白苑後宮の薬膳女官
絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。
ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。
薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。
静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。
ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」
その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる