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第二章

翌朝の守護霊 2

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「おはようございます。昨夜はありがとうございました」

 カウンターに飛び乗ったあごは、べたりと腹ばいになった。平伏のポーズだ。最上級の感謝を示している。決して、お腹が減って行き倒れているわけではない。
『カナシキモノ』は、退治することができた。
 消滅したわけではないようだが、ひとまずあごの仲間たちがこれ以上犠牲になることは防げたのだ。 

「悪霊は退治できたみたいだよ。清光に言わせれば、消えてなくなったわけじゃないらしいけど」
「そうですね。カナシキモノはどこの海にも存在しているのです。しかし、死した者すべてが悪霊になるわけではありません。私のように無害なあやかしにもなります。仲間たちが恨みを持ったまま死を迎えることのないよう、これからも海の平和を見守っていくのみです」

 あごの言葉が、じわりと僕の胸に墨汁のような染みを落とす。
 恨みを持ったまま死を迎える……
 それはとても哀しいことだ。懸命に生きてきた人生の最後が恨みで満たされているなんて、憐れでしかない。
 では、清光自身はどうなのだろう。
 彼はすでに死したのだ。
 その一生は、とても幸福なものだったとは言いがたい。
 平清盛の子息として生まれ、恵まれた環境でいられたはずなのに、平家一族の滅亡に伴い、壇ノ浦から逃れた彼は飛島に辿り着いたときに力尽きてしまったのだから。
 平家を滅ぼした源氏、そしてこの世に恨みを持って当然のはずなのに、なぜ平清光という男は、カナシキモノにならなかったのか。

「あご……来たのか。どうだった?」

 起床した清光が、欠伸しながらスウェット姿で階段を下りてきた。
 寝癖で髪が跳ねている。しかも、よれたスウェットからはお腹が見えていた。こんなだらしない姿はとても平家一門には見せられない。
 あごは、ぱたりとカウンターに寝そべった。深々と平伏しているのだけれど、どう見ても開きになりかけの魚である。

「ありがとうございました、清光様。おかげで仲間たちは安心して飛島の海で過ごすことができます」
「うむ。ひとまず脅威は去ったが、カナシキモノはいずれまた現れるであろう。その兆候を見たときは、私に報告してほしい」
「かしこまりました」

 報告と礼を述べたあごは、ドアベルを響かせながら海へと帰っていった。
 寝癖を立てている清光は爽やかな笑みを浮かべて、大きく伸びをした。

「さて。朝食にするか。今日はギバサトーストにしよう」
「……毎朝ギバサトーストじゃない。今日は特別みたいに言うのやめてよね」
「毎日が平穏という名の特別なのだ。まずは着替えてこなければな。あとは任せたぞ、蓮」

 ギバサトーストを譲る気はないらしい……
 二階へ戻っていった清光の代わりに、僕はカウンターの中に入る。
 取り出したパンの二枚をトースターに入れ、スイッチを押した。冷蔵庫を覗くと、作り置きのギバサがタッパーに入っている。あとはこのペーストを塗るだけだ。
 兜丸が喉をゲロゲロと鳴らしながら準備運動を行っている。

「では、蓮殿。わたくしの口に珈琲豆をお入れください」
「わかった。スプーン一杯くらいかな?」

 計量スプーンで珈琲豆を掬い上げ、大きく嘴を開けた兜丸の喉に流し入れる。
 珈琲の淹れ方は独特だけれど、カウンターの中は至って素朴だ。
 こぢんまりとした作業台と流し。電化製品はトースターに冷蔵庫、それに炊飯器が置かれている。小さな食器棚には白磁のコーヒーカップや皿が整然と並べられていた。
 ポン、とトースターが軽快な音を立てたとき、白シャツとギャルソンエプロンを纏った清光が、軽やかな足取りで階段を下りてきた。

「パンが焼ける芳ばしい香りは覚醒を促す極上の目覚ましだ。蓮は皿を用意してくれ。私はギバサを塗ろう」
「了解」

 僕たちはそれぞれ協力して朝食を作り、みんなで食べる。
 店内には珈琲の豊かな芳香が立ち上った。トーストの香りと混じり合い、最高の朝を演出してくれる。
 ウミネココーヒーの入ったカップを傾けていた僕は、ふと訊ねる。

「そういえばさ、あごは悪霊退治の代金を払っていないよね? 金百両は多すぎると思うけど、一件の料金はいくらなの?」

 珈琲一杯が金百両なのだから、悪霊退治もそれなりの値段に違いない。清光はカフェを本業としているから、副業のようなものだろう。
 ところが、ギバサトーストを美味しそうに咀嚼していた清光はさらりと答える。

「悪霊退治の代金は貰い受けていない」
「えっ? タダなの? どうして?」
「金を取るわけにはいかない。私は飛島の守護霊なのだから、島の安寧を守ることは使命であり、義務なのだ」

 守護霊とは、無償で悪霊退治を行い、島を守る役目を負っているらしい。
 清光は、カナシキモノにも心安らかにあってほしいと願っていた。
 非業の死を遂げたはずの彼が恨みを持たないのも、その優しさゆえなのかもしれない。
 きっと僕がランドセルを背負い、軒先にある木彫りのコーヒーカップを気にしていた頃から、彼は飛島の平和を守っていたのだろう。
 でも、なんだか納得いかない。
 悪霊退治を生業にしたほうが、寂れたカフェを経営しているより、よほど儲かると思うのだ。
 僕は皮肉を込めて口端を引き上げた。

「珈琲一杯は金百両なのに?」
「ははは。蓮は我がカフエーのスターフなのだから、今は無料で飲めているではないか。そうであろう、兜丸」
「そのとおりでございます、清光様。わたくしはお二方に美味しいウミネココーヒーを飲んでいただくため、今後も精進いたしますゆえ」

 兜丸が嬉しそうに喉をゲロゲロと鳴らしている。
 なんだか上手く丸め込まれてしまった気がするのだけれど。
 この不思議なカフェに、もう少し居てみようかな……と、僕は珈琲の芳香をくゆらせながら思ったのだった。
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