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第三章
平家の若様 1
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飛島の守護霊・平清光が経営するカフェには、今日も珈琲の濃厚な香りが漂っている。
小学生のときから気になっていたこの店を訪れたことで、僕の運命が変わった。
珈琲一杯が金百両という莫大な借金を背負わされ、カフェのスタッフとして働くことになったわけだが、この一ヶ月、店を訪れた客は皆無である。
僕のやることといえば店の掃除や、協力者である悠真とのやり取り、それから簡単な雑用くらい。仕事が終わればウミネココーヒーを嗜みつつ、悠真から借りた先月の新聞を読む。たまに釣りにも赴く。毎日が日曜日のような、のんびりとした島暮らしを満喫している。
スタッフというよりは、清光のお守りという意味合いのほうが大きい。
平家の若様であった清光は、三種の神器のひとつである天叢雲剣を携えて、壇ノ浦から飛島へ逃れてきたのだ。そして守護霊としてよみがえった彼は、神剣で悪霊退治を行っている。
八百年以上前から飛島で言い伝えられてきた平家伝説の真相を知った僕はとても驚いたが、それ以上に日々驚かされていることがある。
清光が、あまりにも世間知らずなのだ。
カウンターの中で雑誌を捲っていた清光は、華やいだ声を上げた。
「見てくれ、蓮。私はいずれ我が店を、このようなカフエーにしたいのだ」
悪霊退治で生計を立てれば少しはましな収入になると思うのだが、なぜか清光はカフェを繁盛させようと熱意を注いでいる。
この寂れたカフェがお客様で溢れる日が来るとすれば、太陽が西から昇ったときではないだろうか。無収入である今の僕たちは、田野芝家の厚意で生かされている状態だ。
訂正しよう。生きているのは僕だけだった。
スローライフな島暮らしを八百年ほど続けていると、収入なんて詮無いことだと達観するらしい。彼らは実に伸び伸びと、楽しく日々を謳歌している。
そういうわけで僕の借金も、依然として金百両のままである。
ビジネスの方向性を間違えていると指摘してみたのだが、清光に現代の常識を説いて納得してもらうのは困難だということを、この一ヶ月の付き合いで悟った。
何しろ、「ビジネスとは珈琲豆の名か?」と真面目な顔で問われてしまうのだから。
そこから説明するのは、平泳ぎで酒田港まで泳いでいくような遠泳を感じさせるので、僕は「そう……世界中を探せば、ビジネスという名前の珈琲豆があるよ」と返答して諦めた。
清光が嬉しそうに差し出した雑誌は、外国のカフェ巡りを特集したものだった。
店内の隅にある本棚には、これまで悠真が放り込んだのであろう雑誌や書籍で溢れている。テレビを見ない清光の現代知識は、この本棚に集約されていると言っても過言ではなかった。田野芝家に行けばもちろんテレビはあるし、見せてもらえるのだが、清光は関心を向けようとしない。奇妙な箱だとでも思ってるんじゃないかな。
前屈みになった僕はスツールを軋ませながら、誌面を眺める。
華麗な装飾が施されたそのカフェには、豪奢なシャンデリアや猫脚のソファが置かれている。店内も広大で、まるで王宮のようなデザインだ。説明文を読むと、フランスの宮殿を改装して営業している店だそうである。
僕は重い溜息を吐いた。
「あのさ……ここは本物の宮殿を使用したカフェなんだって。だから内装が豪華なんだよ。昔の王様が住んでた宮殿だからさ、おそらく飛島全部が入っちゃうくらい大きな建物だと思うよ」
清光の理想があまりにも高すぎることを知り、目眩を起こす。
内装を変えるにしても、まずは色褪せた壁紙を新品に貼り替えるところから始めるのが順序というものではないか。無論、そのような資金はないのだが。
「なるほど。では、これよりは小さめの宮殿を建てればよいな」
「なんでそうなるの。資金もないのに無理でしょ」
「金か……うむ。やはりカフエーを繁盛させなくてはな。それから改装してもよいな」
「珈琲一杯が金百両じゃ、お客さんが寄りつかないよ」
このカフェを繁盛させるには改善の余地がありすぎる。その前に、清光の価値観を現代の常識に合わせるほうが先だと思う。
しかし、この平家の若様はどうにも世間とずれているのだ。宮殿には住んでいないけれど、まさに天上世界の貴族である。むしろ僕の目には映っていないだけで、このカフェは薔薇色の御殿なのかもしれない。住めば都と言うもんね。
清光は満面の笑みを浮かべた。
「そこで私は考えたのだ」
「何かな?」
僕は半眼になって問いかけた。
珈琲一杯の値段を百円にするとか、もしくは神剣を披露して見学代を徴収するだとか、そういった生産性のある意見を望むけれど期待しないでおく。
「新しいメヌウを考案すればよいのだ!」
「……メニューね。発音が難しいなら、無理に使おうとしなくていいから」
「わかった。ネヌウだな」
わかってないじゃないか。むしろ後退している。
いそいそと、清光はカウンターの中で作業を始めた。
ギバサトーストに続く新作をお披露目してくれるようだ。
その隣で、兜丸は快調に喉を鳴らし、コーヒーカップに淹れたての珈琲を注いでいる。
お客様はいないので、僕のお代わりである。
「どうぞ、蓮殿」
「ごちそうさま」
兜丸からカップを受け取りつつ、嬉しそうな清光の様子を横目で眺める。
熱々のウミネココーヒーを嗜む僕の背筋に嫌な予感が走る。
先日、悠真への注文の品に箱入りのバニラアイスクリームがあったので、デザート用なのだろうなと想像はついていた。店内には古い型の冷凍庫付き冷蔵庫があるので保存は可能だが、飛島へはすべて船便で搬送しなければならないので、冷凍の品物は扱いが大変だ。僕が自転車を漕いで発着所まで受け取りに行ったのである。
ややあって、まともなアイスが出てくることを祈る僕の前に、ひとつの器が置かれた。
「新メヌウの、グンミアイスだ」
「……へえ」
クリスタルの器に盛り付けられたバニラアイス。
そこまではよしとしよう。
小学生のときから気になっていたこの店を訪れたことで、僕の運命が変わった。
珈琲一杯が金百両という莫大な借金を背負わされ、カフェのスタッフとして働くことになったわけだが、この一ヶ月、店を訪れた客は皆無である。
僕のやることといえば店の掃除や、協力者である悠真とのやり取り、それから簡単な雑用くらい。仕事が終わればウミネココーヒーを嗜みつつ、悠真から借りた先月の新聞を読む。たまに釣りにも赴く。毎日が日曜日のような、のんびりとした島暮らしを満喫している。
スタッフというよりは、清光のお守りという意味合いのほうが大きい。
平家の若様であった清光は、三種の神器のひとつである天叢雲剣を携えて、壇ノ浦から飛島へ逃れてきたのだ。そして守護霊としてよみがえった彼は、神剣で悪霊退治を行っている。
八百年以上前から飛島で言い伝えられてきた平家伝説の真相を知った僕はとても驚いたが、それ以上に日々驚かされていることがある。
清光が、あまりにも世間知らずなのだ。
カウンターの中で雑誌を捲っていた清光は、華やいだ声を上げた。
「見てくれ、蓮。私はいずれ我が店を、このようなカフエーにしたいのだ」
悪霊退治で生計を立てれば少しはましな収入になると思うのだが、なぜか清光はカフェを繁盛させようと熱意を注いでいる。
この寂れたカフェがお客様で溢れる日が来るとすれば、太陽が西から昇ったときではないだろうか。無収入である今の僕たちは、田野芝家の厚意で生かされている状態だ。
訂正しよう。生きているのは僕だけだった。
スローライフな島暮らしを八百年ほど続けていると、収入なんて詮無いことだと達観するらしい。彼らは実に伸び伸びと、楽しく日々を謳歌している。
そういうわけで僕の借金も、依然として金百両のままである。
ビジネスの方向性を間違えていると指摘してみたのだが、清光に現代の常識を説いて納得してもらうのは困難だということを、この一ヶ月の付き合いで悟った。
何しろ、「ビジネスとは珈琲豆の名か?」と真面目な顔で問われてしまうのだから。
そこから説明するのは、平泳ぎで酒田港まで泳いでいくような遠泳を感じさせるので、僕は「そう……世界中を探せば、ビジネスという名前の珈琲豆があるよ」と返答して諦めた。
清光が嬉しそうに差し出した雑誌は、外国のカフェ巡りを特集したものだった。
店内の隅にある本棚には、これまで悠真が放り込んだのであろう雑誌や書籍で溢れている。テレビを見ない清光の現代知識は、この本棚に集約されていると言っても過言ではなかった。田野芝家に行けばもちろんテレビはあるし、見せてもらえるのだが、清光は関心を向けようとしない。奇妙な箱だとでも思ってるんじゃないかな。
前屈みになった僕はスツールを軋ませながら、誌面を眺める。
華麗な装飾が施されたそのカフェには、豪奢なシャンデリアや猫脚のソファが置かれている。店内も広大で、まるで王宮のようなデザインだ。説明文を読むと、フランスの宮殿を改装して営業している店だそうである。
僕は重い溜息を吐いた。
「あのさ……ここは本物の宮殿を使用したカフェなんだって。だから内装が豪華なんだよ。昔の王様が住んでた宮殿だからさ、おそらく飛島全部が入っちゃうくらい大きな建物だと思うよ」
清光の理想があまりにも高すぎることを知り、目眩を起こす。
内装を変えるにしても、まずは色褪せた壁紙を新品に貼り替えるところから始めるのが順序というものではないか。無論、そのような資金はないのだが。
「なるほど。では、これよりは小さめの宮殿を建てればよいな」
「なんでそうなるの。資金もないのに無理でしょ」
「金か……うむ。やはりカフエーを繁盛させなくてはな。それから改装してもよいな」
「珈琲一杯が金百両じゃ、お客さんが寄りつかないよ」
このカフェを繁盛させるには改善の余地がありすぎる。その前に、清光の価値観を現代の常識に合わせるほうが先だと思う。
しかし、この平家の若様はどうにも世間とずれているのだ。宮殿には住んでいないけれど、まさに天上世界の貴族である。むしろ僕の目には映っていないだけで、このカフェは薔薇色の御殿なのかもしれない。住めば都と言うもんね。
清光は満面の笑みを浮かべた。
「そこで私は考えたのだ」
「何かな?」
僕は半眼になって問いかけた。
珈琲一杯の値段を百円にするとか、もしくは神剣を披露して見学代を徴収するだとか、そういった生産性のある意見を望むけれど期待しないでおく。
「新しいメヌウを考案すればよいのだ!」
「……メニューね。発音が難しいなら、無理に使おうとしなくていいから」
「わかった。ネヌウだな」
わかってないじゃないか。むしろ後退している。
いそいそと、清光はカウンターの中で作業を始めた。
ギバサトーストに続く新作をお披露目してくれるようだ。
その隣で、兜丸は快調に喉を鳴らし、コーヒーカップに淹れたての珈琲を注いでいる。
お客様はいないので、僕のお代わりである。
「どうぞ、蓮殿」
「ごちそうさま」
兜丸からカップを受け取りつつ、嬉しそうな清光の様子を横目で眺める。
熱々のウミネココーヒーを嗜む僕の背筋に嫌な予感が走る。
先日、悠真への注文の品に箱入りのバニラアイスクリームがあったので、デザート用なのだろうなと想像はついていた。店内には古い型の冷凍庫付き冷蔵庫があるので保存は可能だが、飛島へはすべて船便で搬送しなければならないので、冷凍の品物は扱いが大変だ。僕が自転車を漕いで発着所まで受け取りに行ったのである。
ややあって、まともなアイスが出てくることを祈る僕の前に、ひとつの器が置かれた。
「新メヌウの、グンミアイスだ」
「……へえ」
クリスタルの器に盛り付けられたバニラアイス。
そこまではよしとしよう。
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