恋は薔薇の香りに溶かして

沖田弥子

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リサイタルへ 1

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「久遠さん……どうして……」
「今日はレッスンの日だが……。どうして来ないのかと心配したよ」
「あの……榊さんから聞いていませんか? 俺がご迷惑をおかけした責任を取って、久遠さんにもう会わないという約束を交わしたんです」

 久遠は驚いた顔をしなかった。代わりに、深い憂慮を眉根に刻む。

「榊が勝手なことを言って、すまなかった。彼は薔薇のきみのせいで新曲の進捗が思わしくないのだと思い込み、始めからきみに対して否定的だった。サロンに招待したことも、きみの気分を害するために計画したのではないかと私は非難したので、口論になった。榊の一方的な言い分に対して私は全く納得していない」

 歩夢のせいで、久遠と榊は口論になり、ふたりの間に溝が生じてしまったらしい。
 俯いた歩夢を不思議そうな顔をして見上げていた悠に、奥から一樹の声がかけられる。

「悠。こっちに来い」
「はぁい、パパ」

 呼ばれた悠は黄色の鞄を提げながら、奥のリビングへ向かう。
 店内にはBGMのクラシックが流れ、花の香りが溢れていた。
 ふと見れば、久遠の手許にはもう包帯が巻かれていない。

「怪我は……治ったんですか?」
「ああ。心配をかけたね。本当にたいしたことはない。ピアノを弾く上での支障はないよ」
「そうですか……。良かった」

 それを確認できただけで、充分だった。
 歩夢は久遠の姿を目に焼き付けるように、まっすぐに見つめた。

「リサイタル、がんばってくださいね。応援しています」

 その次には、もうお会いできませんと言わなければならない。
 久遠は弾かれたように、懐に手を差し入れる。

「渡す物がある。これを、受け取ってほしい」

 一通の封書が差し出された。
 受け取って中身を確認すると、公演のチケットが二枚入っている。近々開催される、神嶋久遠のリサイタルチケットだ。

「これは……受け取れません。俺はもう、久遠さんに……」

 封書を返そうとした歩夢の手を止めようと、久遠の掌が掠める。探るように宙を彷徨ったあと、歩夢の手首を掴んだ。

「頼む、来てほしい。私の新曲を聴いてくれ。榊には何も言わせない」
「久遠さん……」

 観客の前で演奏する久遠を見てみたいという想いがあった。それに完成した新曲がどのような曲なのかも気になる。久遠が作曲している様子を傍で見ていたけれど、断片的にしか聴いていないので完成形はわからない。

「わかりました。ありがたく頂戴します」

 ファンのひとりとして、劇場の片隅で見学するだけなら許されるのではないだろうか。
 頬を緩めた久遠だったが、そのとき歩夢の背後から鋭い声がかけられた。

「神嶋さん。用事が済んだなら、もう帰ってくれ」

 険しい顔つきをした一樹の投げかけに、久遠は首を巡らせて声の主を認識した。
 歩夢は慌てて一樹を制する。

「兄さん、失礼だよ。久遠さんは注文をいただいたお客様だよ」
「それとこれとは別だ。俺にはわかるが、この間の発表会で弟はひどく傷つけられた。神嶋さんが悪いとは言わないが、揉めたのならお互いにもうかかわらないほうがいいんじゃないか?」

 久遠は一樹にむかって、静かに、深く頭を下げる。

「お兄さんにはご心配をお掛けして、大変申し訳ない。すべて私の浅慮が招いた結果です」

 久遠が悪いわけではないのに謝らせるなんて、そんなことさせてはいけない。
 歩夢は久遠を庇うように、一樹の前に立ち塞がった。

「兄さん、久遠さんのせいじゃないよ。それに俺は、傷ついてなんか……」

 傷ついてなんかいない。
 喉元から声を絞り出してそう言おうとした歩夢の腕を、久遠の掌がそっと触れた。

「お兄さんの仰るとおりだ。そろそろお暇するとしよう」

 久遠は白杖を巧みに操り、店から出て行く。漆黒の背が見えなくなるまで、歩夢は封書を握りしめながら立ち竦んでいた。



 リサイタル当日、歩夢は真紅の薔薇の花束を携えて劇場へ入った。ホールにはお祝いの華麗なスタンドが、ずらりと飾られている。
 チケットは二枚あったが、一樹は幼児を連れていけるようなところじゃないと言って、悠と留守番している。
 やはり行かないほうが良いのではないかと散々悩んだけれど、最後に、久遠へ伝えなければならないことがある。薔薇の花束を渡して、それを告げよう。
 歩夢の座席は前列中央で、周囲は音楽関係者らしき威風堂々とした紳士ばかりだ。VIP席らしいそこに、歩夢は静かに腰を下ろした。
 やがて開演の時刻を迎え、リサイタルの幕が開く。
 舞台に鎮座する漆黒のグランドピアノに、眩いスポットライトが照らされた。
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