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精霊と鏡の中
1. 転生?
しおりを挟む闇が少しずつ薄れ、部屋の輪郭が浮かびあがってゆく。
感動の欠片もない夜明けに、水谷悠真は深々と溜め息をついた。
「もうすぐ一年になるのか……」
ベッド脇の暦表に目をやり、際限なく出そうになる重苦しい息を呑み込む。
この不思議な空間に閉じ込められてからもうすぐ半年。
この世界に来てからは、一年になる。
『おはようございます、坊ちゃま』
『おはよう! 昨夜は雨が降っていたけれど、今朝はいい天気みたいだね』
『はい。お庭の花々もつやつやと光って、それはもう美しゅうございますよ』
大きな姿見の中で、ふわりと揺れる朽葉色の髪の少年が、幸せに満ちた愛らしい笑みを浮かべている。使用人の顔は角度的に見えなくとも、声の調子で笑みを返しているのがわかった。
一連のやりとりは文字通り『鏡の中で』繰り広げられていた。
彼らに悠真の姿は見えず、声も聞こえない。
―――あちらが鏡の中ではなく、こちらが鏡の中なのだ。
悠真はあの少年が寝起きしている部屋と、左右が逆になっている以外は何もかも同じ部屋にいる。『暮らしている』と言えないのは、この奇妙な空間に閉じ込められて以降、ただの一度も飲み食いをしていない上に、一睡もしていないからだ。
暮らす以前に、もう生きてさえいないのではないかと、最近はそう思っている。
「ならどうして消えないんだよ。消えられないんなら、せめてここから出してくれよ……」
もう何十回目かもわからない願いを吐いた。これが無意味だと悟ったのはいつ頃だったか。気が遠くなるほど鏡の向こうに叫んでも、何の変化もなかった。
それでも、ふとした瞬間に唇から漏れ落ちるのを止められなかった。溜め込まずに小出しにしなさい、そうしないと自分の心がドロドロになっちゃうからねと、教えてくれたのは父親だったか、母親だったか。祖父だった気もするし祖母だった気もする。いやひょっとしたら、兄ちゃんや姉ちゃんだったかも……。
大好きな家族を思い出し、泣きたくなるのに、涙すら出ない。
眠ることのできない寝台にごろりと寝転がり、悠真はあの日のことを思い返した。
□ □ □
高校三年の夏休み。例年にない猛暑日に登校日があり、灼熱の太陽の下、頭痛と喉の渇きを覚え、「やば」と思った瞬間に意識が遠のいた。
そして目が覚めたら異世界で、ミシェル・カリタスという少年になっていた。
(まじか)
どうやら暑さのせいで命を落とし、カリタス伯爵家の息子、ミシェルに生まれ変わったようだ。異世界だとすぐにわかったのは、魔法が存在したからである。ミシェルも両親であるカリタス夫妻も、強力なものではないが生活魔法レベルの魔法を使えた。悠真のテンションは上がった。
けれど、いつもより明るくなったミシェルに周りは面食らったようだ。ミシェルはとても引っ込み思案で、平凡な容姿と平凡な能力にコンプレックスを抱いていた。カリタス夫妻は善良で優しかったものの、やはりどちらも空気感が平凡で、息子の悩みを解決するためのこれといったアドバイスが思いつかなかった。
親子間はぎくしゃくとし、空気を読んだ使用人からは距離を空けられ、恐れ多くも第一王子殿下の側近候補に選ばれた家柄の子息の中では一番パッとしない容貌に鬱々と沈み込む……そんな悪循環に何年も陥っていた少年、それがミシェル・カリタスだった。
ある日、ミシェルは自室で倒れているのが発見され、三日三晩目を覚まさなかった。
「熱も怪我もないのにどうして……」
「衰弱している様子もない。これはいったいどういうことだろう?」
医師が手を尽くしてもどうにもならず、誰もが首をひねりながら心配している中、倒れた時と同様、何の前触れもなくミシェルは目を覚ました。そしてその時にはもう悠真になっていたというわけだ。
悠真がこれを転生だと判断した理由は、言わずもがな意識を失った時の状況と、思い出すまでに若干のタイムラグが生じるものの、ミシェルの記憶もちゃんとあったからだ。
例えるなら通信速度の遅いネット環境で検索しているような感覚で、ミシェルの過去に関してはあまり自分事という実感はない。けれどちゃんと思い出せることに間違いはなく、さらにこの世界の言語が当たり前に話せて読み書きにも困らなかった。
だから自分はミシェル・カリタス本人なのだと、悠真が勘違いをしてしまったのは無理もなかった。
「それにしても、なんでこれがコンプレックスになるんだろう。平凡な茶髪? 青でも緑でもない平凡な瞳? 悪くないじゃん。なんだったら僕は高校デビューの時に茶色に染めたし、こんな茶色の目にも憧れがあったんだぞ。見慣れてるとそういうのがわからないもんなのかなあ」
やわらかいくせっ毛をいじりながら、悠真は首を傾げた。
この世界の平均値より細身で小柄でも、ぶっちゃけ水谷悠真だった頃とそんなに変わらない。顔立ちだって凛々しいとは言えないが、可愛らしく整っているだけで充分に得ではないか。
悠真だって格好いい顔立ちに憧れはある。けれど悠真の通っていた学校では、中高ともに女子から評判がよかったのは、いわゆる可愛い系男子だった。悠真自身の外見は堅苦しい委員長をイメージされやすく、それを払拭するために友達のアドバイスで髪色を明るくした経緯がある。
悠真はミシェルとは正反対にポジティブな少年だった。
マナーや言動が時々あやしくなるのは意識不明だった頃の後遺症で押し通し、新たな家族や使用人、周りの人々との関係の改善に全力を尽くした。
毎日笑顔での挨拶を欠かさず、色々なことにチャレンジして、多少の失敗ではへこたれない。やがて家族も使用人も自然な笑顔でミシェルに接するようになり、それまでカリタス家の息子を路傍の石のように気にも留めなかったジュール・フォルティス王子が、ミシェルを気に入りの友人として認識し始めた。
とにかく悠真は努力した。誰に強制されたわけでもない。水谷家は家族みな仲が良かったし、悠真の友達にも気のいい奴らがたくさんいた。自分の周りの人々を大切にしたい、みんなで笑い合いたい、そんな気持ちが幼い頃からごく自然に育まれ、そうすることは悠真にとって食事や呼吸と同じぐらい、意識するまでもない当たり前のことになっていた。
(僕がいきなり死んじゃって、きっとみんなすごく悲しんだよな……)
どれほど彼らを傷付けてしまったんだろう。家族や友人を思い出すたびに胸が痛み、なおさらカリタス家に漂うぎこちない空気をどうにかせずにはいられなかった。
そうして半年ほどが経過し、さあこれから眠ろうと寝間着を纏った直後、唐突に視界が暗転した。
「はじめまして。僕はミシェルだよ。ずっとお喋りしてみたいと思っていたから嬉しいな」
「……は?」
きょとんとする悠真に、その少年はミシェル・カリタスと名乗った。
確かに、彼の姿はこの半年、ずっと鏡の中で向き合っていたミシェル・カリタスとまったく同じものだった。
しかも……
「えっ!? 僕、転生したんじゃなかったの!?」
「うん、違うよ? きみが表に出ている間、ずっと僕は中から見ていたんだ」
「うそ……!?」
ならこれは、ただの『憑依』ということではないか。しかも持ち主を閉じ込めているとも知らず、人の身体を好き勝手してきたということに……。
「ごめん! ほんとごめん!」
「ううん、謝らないで。僕がそう祈って、きみを受け容れたんだから。僕がずっと悩んでいたことをきみが解決してくれて、とても助かったんだ。ありがとう」
謝り倒す悠真を、ミシェルは笑顔で許してくれた。過去のネガティブな姿は影も形もなく、彼は悠真の言動を学び、すっかり明るい少年になっていたのだ。
「今まで僕、自分なんて何もできないんだって思っていたけど、きみのおかげでそうじゃないってわかったよ。あんな風にすればよかったんだね」
「ミシェル……」
「あとはきみがいなくても、僕だけでなんとかできる。今までありがとう。きっと幸せになるからね!」
「はい?」
ほんのり温かくなりかけた胸が、瞬時に冷めた。
「今なんて?」
「あれ、聞こえなかった? 『あとはきみがいなくても、僕だけでなんとかできる。今までありがとう』って言ったの!」
ミシェルは笑顔で繰り返した。
「待って。ちょっと待って。それだと、まるで……僕はもういなくてもいい、って言っているように聞こえるんだけど?」
「うん、そうだよ? だって僕、どうすればいいのかちゃんと憶えたもの。だからもう大丈夫だよ!」
「え……いやいや、『憶えたもの』じゃなくってさ。こういう時はさ、お互いの心を融合させるとか、そういう展開になるもんじゃないの?」
どうしてもそれができない事情があったとしても、涙涙の別れを告げるシーンじゃないのか。なんでそんなにあっけらかんと言ってのけるんだ。
食い下がる悠真に、ミシェルはきょとんと首を傾げた。
「融合って、どうして?」
「どうして、って。だって僕は、この先ずっとミシェルとして生きるんだって思って、頑張って」
「ずっと? どうしてそう思ったの?」
「いや、そんな訊かれても―――だから、僕はてっきり転生したと思ってたんだってば! この身体も、自分の新しい身体だとばっかり思ってたんだよ!」
「新しい身体?」
ミシェルの眉が八の字に下がり、顔がくしゃりと歪んだ。
最近になってようやく見慣れた、自分の顔とばかり思っていたそれに明らかな怯えを向けられ、悠真の勢いを怯ませる。
「……何故きみがそんな勘違いをしたのか知らないけれど、困るよ。だって、これは僕の身体なんだよ。僕がずっとお祈りをしていたから、精霊様が聞き届けて、僕のためにきみを遣わしてくださったんだ」
「精霊様? 遣わすってなんだよ、知らないぞそんなの……」
「知らないからって、僕の身体を取り上げようとするの? ひどいよ」
「別に僕は、取り上げるなんてひとことも―――……っ!?」
突然、悠真の背後でぽっかりと奈落が口を開けた。
「うわああっ!?」
プールの巨大な排水溝へ吸い込まれるように、上も下もわからない闇へ強制的に引きずり込まれながら、ミシェルの声だけが響いた。
『ええと、ごめんね。きみに感謝しているのは本当だからね? 僕も頑張るから。さよなら、元気でね!』
元気でね、じゃないだろ!?
反論の間も与えられぬまま排除され、次の瞬間、悠真は知らない部屋の中にいた。
「あ……れ?」
知らないのに、どこか見覚えのある部屋を呆然と見回し、しばらくしてゾッと鳥肌が立った。
―――ここは、左右逆になったミシェルの寝室だ。
『あら? 坊ちゃま、まだ起きていらっしゃったのですか?』
いつものメイドさんの声。就寝時、彼女がいつも部屋の蝋燭を消してくれるのだ。
『うん。ちょっと本の続きが気になっちゃって。ごめんね、もう寝るよ』
いつも、悠真が彼女にかけていたような声と口調。
静かな会話は、大きな姿見の中から聴こえてくる。
『おやすみなさいませ』
優しい声とともに、すべての灯りがふっと消えた。
闇に包まれ、悠真は絶叫した。鏡に向かって声を張り上げたが、あちらからの反応はまるでなかった。
闇の中で窓がぼんやり浮かんでいる。建物の外のほうが明るいのだ。
―――そうだ、外へ。
渾身の力で椅子を投げつけた。
音もなく椅子が跳ね返された。
「なっ……」
悠真は絶句して動けなくなった。
窓は割れず、床に転がる椅子にも傷ひとつついていない。
掴んだ時は腕に重みを感じていたはずなのに、まるで無音の動画を視ているように、視覚的な『重さ』や『衝撃』が欠如していた。
おそるおそるカーテンをひらき、息を呑んで後退った。
「なん……だよ、これ……!」
窓の向こうには何もなかった。のっぺりとした暗灰色の色ガラスが、ぼんやり内側から光っているだけ。
そういえば今夜は満月だった。微妙に明るいのはそのせいか。
どの窓も開かず、どのドアも開かない。どんなに強い力で物をぶつけても破壊できない。自分の声は認識できるし、耳奥でくぐもっている感覚もないのに、音がない。
頭がおかしくなりそうな場所で、暴れても叫んでも意味がないと実感するまでに、丸一日かかった。
悠真は、鏡の中の奇妙な世界に閉じ込められたのだ。
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