陽廻りの書

日村透

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神秘と心霊と

62. 逃げた先には……

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 読みに来てくださってありがとうございます。
 ※61話がしっくりこなかったので大幅に加筆修正しました。

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 歴史ある大邸宅の中で、大勢の使用人の頂点としてかしずかれる。
 ずっと昔からの夢だったのに、文字通り夢まぼろしに過ぎなかったのか。
 ソーンはショックのあまり己の主人を問い詰めてしまい、心得違いをするなと叱責されてしまった。
 勝手な理想を描いていたのは確かにソーン自身であり、主人はそれを約束するとはひとことも言っていない。単に愚かな使用人が先を読もうとせず、何も知ろうとしてこなかっただけだ。

(しかし、それならば、私はどうすればよかったのだ)

 思い悩んだ末、ソーンは選択した。
 今まで通り、グレイヴ子爵を己の主人として仰ぐことを。
 彼は由緒正しい子爵家の使用人でありたかった。ターナーがいくら富豪であろうとも、平民の成り上がりごときの家で仕え続けたくないという気持ちに変わりはなかったのだ。
 何よりソーンはもはや、この家での信用を完全に失ってしまっている。
 ゆえに現在、すべての権限を取り上げられ、ずっと部屋での謹慎を命じられていた。

(いずれ私は解雇されるのだろう。まだ解雇されていないのは、そうするとここに留め置くことができなくなるからか)

 解雇だけでは済まず、逮捕されるのかもしれない。
 きっとそうなるのだろう。令息の命令だったとはいえ、当主の印章を勝手に使ってしまったのだから。
 寝台の端に座ったまま、まんじりともしない夜を過ごし、やがて窓の外が明るくなってきた。
 邸内の生活音が聞こえてくる。誰かの話し声。足音。
 だがしばらくすると、それがぴたりとやんだ。

「……?」

 静けさが気になり、ソーンは自室のドアを少し開けた。
 そこにはずっと見張りがいたはずなのに、廊下には誰もいない。
 何事だろう。人の気配がどこにもなかった。

(もしや、私がずっとおとなしいからと、油断してここを離れたのか?)

 そうかもしれない。別の場所で人手が足りなくなって呼ばれた、ということも考えられた。
 これほど静かなら、ウィルフレッドやヘレンはきっと外出している。あのやかましい姉弟がいて、喋り声のひとつも聞こえないはずがない。

 ソーンはコートを羽織り、帽子を手に取った。
 そして迷わずドアを開ける。――たとえ誰かに見咎められようと、今はまだ上級使用人だ。おまえに命じられるいわれはないと押し通そう。
 見張りの男ならばまだしも、非力な家政婦やメイドごときに力づくで止められはしない。

(あの下宿人が出てきたら面倒かもしれん。それだけ注意しておこう)

 早足で廊下を進み、すぐに玄関の前まで来た。やはり物音ひとつない。
 耳を澄ましても、下宿部屋の中で何か読み物を読んだり、書き物をしているような気配はなかった。

(しめた。ターナーの姉弟と一緒に出かけたか)

 玄関の脇には電話機がある。
 いきなり子爵のもとに押しかけても、自分を知らない使用人に門前払いを食わされる恐れがあった。まずはいつもの手順通りに待ち合わせ場所を指定してもらい、そこで今後の身の振り方を指示してもらおう。
 ソーンは迷わず受話器を手に取り、片耳に当てた。
 聞き慣れた音がする。交換手に繋がった音だ。

「ごたくはいいからさっさと繋げ。時間がないのだ」

 相手の言葉を待たず、ソーンは横柄に言い放った。
 交換手は絶句したのか、物音はすれど反応はない。

「聞こえなかったのか? 愚図め、さっさと前の番号に繋げと言っているのだ。何をしている」

『…………』

 答える代わりに、ハァ……と、うんざりしたような溜め息が聞こえた。

「おい。交換手ごときが客をバカにしていいと――」

 カッとなって怒鳴りかけ、ソーンは慌てて口をつぐんだ。
 周囲に目を走らせるが、見張りの男が駆け寄ってくる様子はない。
 誰にも聞こえていなかったようだ。何かの用事でほとんどの者が出払っているのか、相変わらずシンとしている。
 ホッとして送話器に向き直り、自分の不機嫌さを相手に示すために舌打ちを聞かせた。

「……番号を伝えてやる。きさまの足りない脳みそで記憶して、さっさと通話ができるようにしろ」

 ソーンは早口で番号を伝えた。交換手の呼吸のみが聞こえ、やはり詫びも挨拶もないまま電話が繋がる。
 相手は男だ。いつも待ち合わせの住所のみを一方的に伝えられ、だらだらお喋りをすることなく通話を終えるのだが、今回も同様だった。
 ただ電話機の調子がよくないのか、やや声が遠く、砂音のようにざらついている。
 それでもなんとか聞き取って受話器を戻すと、帽子を目深に被り直し、急いで玄関を出た。
 閑散とした通りを足早に進み、近くを通りかかった辻馬車を拾って、行き先の住所を伝える。

「フロスト通り一六九へ」



   ◆  ◆  ◆ 



 通いメイドのドロシーは、おや、と目を丸くした。
 彼女がターナーの館に着き、ちょうど門を通り抜けようとした時、向こうに覚えのあるコート姿が見えた気がしたのだ。
 辻馬車に乗り込んだあの姿は、ソーンではないか?

「ねえねえ、ロブ」
「おう、おはようさん、ドロシー」
「ここ、ソーンさんが通らなかったかい?」
「ソーンさんが?」

 花壇の手入れをしている庭師のロブが、ひょこりと顔を上げて首を振った。

「いんや。あの人は謹慎中だろ」
「だよねえ……」

 部屋の前に見張りもいるはずだ。外出は許されていないはずだし、きっとあれは別人だったのだろう。
 そう納得し、ドロシーはいつも通り仕事を始めた。


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