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1.剣闘士
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まとわりつく熱気の中、砂地に剣闘士が現れた。
砂埃に染まった黒髪の下から鋭い双眸が覗く。
逞しいその四肢には皮製の腕当てとすね当てしかなく、汚れた布の服が胴と腰回りを覆っている。
肩には皮の胸当てが下げられているが、体の太さに合っておらず、今にもちぎれそうなほど引き延ばされている。
見るからに粗末な武器は、刃こぼれし、さびまで浮いていた。
それでも、その奴隷は戦意を失うことなく前に出た。
観客が湧き、さらに向かいの扉が開くと、それが悲鳴に変わった。
巨大な四肢を持った獣が放たれ、錆びた剣を手に立つ、生身の男に向かう。
一瞬で、奴隷の四肢は食い破られるかに見えたが、その激闘は観客の予想をはるかに超えて長く続いた。
やがて勝利した奴隷は、渾身の力で獣の首を切り落とし、それを堂々と天に掲げて見せた。
通常の奴隷には四方が鉄格子で出来た檻が与えられるが、勝者には、三方が石壁になっている牢が与えられる。
一面が鉄格子であるのだから、中の様子は丸見えではあるが、安心して壁に寄り掛かることが出来る。
四方が鉄格子であれば、そこから毒が塗られた槍が突きこまれることもあるし、剣闘士を選別にくる奴隷商たちに排泄の様子まで見られることになる。
壁のある牢であれば、少なくとも奥に居れば安全であり、排せつ場も壁際の隅に置かれている。
さらに特別待遇もある、お湯の使用が許可されているのだ。
傷だらけの体を洗うには拷問に近い痛みにはなるかもしれないが、それでもお湯は貴重だ。
入浴に使用されるお湯には、わずかな薬草も入っている。
見事勝利を掴んだ奴隷は、その特別な牢に入れられ、扉が閉まったところで、外から首輪の鍵を外された。
そこには湯気の立つ湯桶が用意されており、世話係の女が控えていた。
布で髪を隠し、顔を伏せている。
男は桶に足を入れ、ゆっくり体を沈める。
世話係の女が立ち上がり、背中から少しずつ温かなお湯をかけた。
どちらも声を出すことなく、水が流れ落ちる音だけが響く。
水音が石鹸を泡立てる音に変わり、柔らかな手が男の背中に触れた。
男は微動だにしなかった。
牢の外から見張りの兵士達がにやにやしながら奴隷の男を見ている。
大抵、この牢に移された奴隷は、女の感触に喜び、獣のように飛びかかると知っているのだ。
女もまた、気性の荒い剣闘士の世話係を命じられたのだから、奴隷に近い身分であり、襲われて殺されたとしても、替わりが補充されるだけのことだった。
動かぬ男の背中を女は丁寧に洗い、それから前に回って桶の淵から身を乗り出し、その肩と胸、それから腕にかけて泡立てた石鹸を伸ばしていく。
女が軽く頭を下げると、男が立ち上がった。
湯がざばっと音を立てて逞しい体を流れ落ち、腰布一枚の濡れた全身が露わになる。
手の中で石鹸を泡立て、女は桶に足を踏み入れ、手の届かなかった場所を洗い始める。
腰布の下に手を入れ、そこにあるものを洗い始めると、また見張り達は身を乗り出した。
女が襲われ、悲鳴を上げる様を見ようと期待を膨らませる。
ところが、やはり男は動かなかったのだ。
腰布の下がどうなっているのか、見張り達は興味津々だったが、世話係の女はその布をどけようとはしなかった。
やがて、女が桶から出ると、男はまた桶の中に座った。
その肩から、女がまた湯を流しいれる。
最後に大きな布を取り出し、女は男に向かってそれを差し出した。
「こちらで、体を拭いておあがりください」
それを桶の向こう側に置き、男はゆったりと桶のふちに両腕をかけて上を向いた。
女が扉の傍に近づくと、見張り達は残念そうに鍵を開けて女を外に出した。
男女の濡れ場が見られると期待していた見張り達は、そのまま牢獄の前を離れる。
男の入浴姿など、見たところで何も面白いことはないと言ったところだった。
それを見届け、奴隷の男は湯船から身を乗り出すと、布に包まれたものを取り出した。
ずっしりと重い、刃こぼれ一つない鋼鉄の剣が湯煙の中で鈍く光る。
顔色一つ変えず、男はそれを粗末な寝台の後ろに隠した。
それからまた湯気の消えた湯桶に戻った。
翌日、男は見事な戦いを見せ、また勝利を掴んだ。
そして、鋼鉄の胸当てを手に入れた。
数日がかりで男はその全身に見合った装備を手に入れた。
それは常に入浴の世話係の手によってもたらされた。
見張りに奪われないように布にくるまれて持ち込まれ、時には肉までも入っていることがあった。
男は世話係の女をなるべく見ないようにしていたし、女もまた、ほとんど口をきかなかった。
ついに、男が自由を勝ち取る瞬間がやってきた。
最後の戦いを前に、男は湯桶の中で女に体を洗われていた。
「もし、身請け話があれば受け入れてください。グレース家のオリア様があなたを望まれるはずです」
体を拭くための布を差し出し、女は頭を下げた。
男がそれを受け取ると、女は顔を上げぬまま出て行った。
男は思案した。
身請け話を受ければ主を持つことになり、結局は奴隷の立場とかわらないのではないかと危惧したのだ。
しかし、男は世話係の助言に従った。
巨大な獣を三頭も倒し、かろうじて勝利した男を身請けしたいと、複数の声があがった。
男はその中からグレース家の申し出を受けた。
オリアとは若い男だった。
貴族に相応しい絹の刺繍が入った薄手の服を身に着け、風に揺れる優美なマントを身に着けていた。
「お前の命の代償は受け取っている。これでお前は自由だ」
首輪は外され、市民証である胴のメダルを受け取ると、男は身に着けていた装備とそれからわずかな金銭を手にグレース家の門を出された。
信じ難いことだったが、男に異論があるわけもなかった。
男はすぐに故郷に向かった。
グアニス王国に祖国を滅ぼされ、奴隷となって長い月日が過ぎていた。
そこはもうグアニス王国の一部となっており、復興もままならぬほどの貧しい人々の暮らしがあった。
しかし、焼け残った城の跡地には、真新しい木造の屋敷が出来上がっていた。
見覚えのある顔を見つけ、近づいてみれば、それは侍女のマーゴだった。
痩せた家畜を追っていたマーゴは、男を見つけると、急いで屋敷に飛んで帰った。
新たな主がここを治めているというならば、自分は不要かもしれないと思いながらも、男は自分の財産を取り戻さんと、剣を抜いていた。
マーゴは一人で戻ってきた。
息を切らし、泣きながら男に分厚い包みを差し出した。
「お、奥様が!旦那様がお戻りになったら、これを渡すようにと私に託していかれたものです!」
男には妻がいたが、それは妻とは名ばかりの戦利品だった。
とある小国を滅ぼした際に、王城からさらってきた女であり、その身分と美貌故に戦利品として王に差し出されるところだった。
ところが、女が身ごもっていることが発覚し、男は仕方なく自分の領地に連れ帰った。
生まれた子供が男であり、本当に王の血を引いているとすれば、殺されてしまうと考えた。
幸い男は独身であり、妻の座は空いていた。
復讐を企むことがなければ、平穏な暮らしを約束しても良いと思っていた。
子供は無事に生まれたが、長くは生きられなかった。
あまりにも小さく、弱い命だった。
一度も抱いたことのない妻だったが、今にも命を断ちそうなほどに悲しむ女を、妻の勤めを果たせと脅して寝所に呼びつけた。
数えるほどしか枕を共にしたことはなく、その顔もよく思い出せない。
北の国々をほぼ制圧したグアニス王国が侵攻してきた際、男は出来る限りの財産を持たせ、逃げるようにと伝えた。
恐らくは、妻は滅ぼされた故国に戻り、どこかで新たな人生を築いていると思っていたのだ。
男は皮布で幾重にも巻かれた包みを解き、中の物を取り出した。
それは平たい木箱だった。
皮布を落とし、箱を慎重に開く。
中には手紙が入っていた。
マーゴが皮布と木箱を拾い上げ、心配そうに見守る中、男は手紙を開いた。
『旦那様、お戻りになられたこと、うれしく思っております。旦那様からお預かりした財産の半分は使用人たちの生活を守るために使いました。残りの半分は、山羊たちが放牧の途中で立ち寄る小さな滝の後ろに埋めました。国を失っても、旦那様ならば必ず生きる道を見いだせると信じております』
他には何もないのかと封筒の中を確認し、男は物言いたげにじっとしているマーゴを見た。
「彼女はどこにいる?」
その途端、マーゴは小さく悲鳴を上げ、崩れるように地面に座り込んだ。
「ご存じないのですか?ああ……どうしましょう……」
「どういうことだ?この手紙はいつ預かった?彼女は故国に帰ったのか?」
震えながらマーゴは首を横に振った。
「ち、違います。領地に敵が雪崩れ込んできて、私達は山に逃げました。家畜や作物の苗を忘れずに持つようにと奥様が指示されて、私達はなんとか生き延び、身を潜めていたのです。
それから、奥様の指示で少しずつ売れるものを売って食いつなぎ、私達は敵が去るのを待ちました。
ときどき、奥様と一緒に町に出て仕事を探しながら、情報を集めました。
山で取れたものを細々と売り、酒場でも働き、それで、強そうな騎士達がグアニス王国の闘技場に連れていかれたことを知ったのです。
奥様は、そこに旦那様がいるかもしれないとおっしゃられ……この包みを私に託して、旦那様を助けに行ってくると、ここを出ていかれたのです。一緒に……戻ってこられることを祈っておりました……」
男の奴隷が女性に接する機会はほとんどない。
あるとすれば、牢内で湯を浴びる時に入ってくる世話係だけだ。
それがどんな顔であったか、男は覚えていなかった。
世話係を抱いてみせれば見張りの兵士を喜ばせるだけであり、感情の全ては切り捨て、ひたすらに生き伸びることに意識を集中させていた。
剣や装備、そうしたものを運んできた世話係の声を思い出そうとしたが、それも曖昧だった。
「なぜ……俺を助けようとする?俺は彼女の国を滅ぼした憎い敵ではないか」
「奥様は……旦那様に感謝しておられました。本来であれば、お腹の子供と共に殺されても仕方のないところを、救って頂いた。
血のつながらない子供のためにお墓を作ってくれ、お花まで持ってきてくれたと何度も感謝の言葉を口にしておられました。
敵の侵略を受けた時も、旦那様に拾われた命だから命でお返ししなければと、そうおっしゃられ、私達と心中する覚悟でここに留まられたのです」
危険な橋を渡り、防具や武器を差し入れていたのが妻だとすれば、あの後、どうなってしまったのか。
しかしほんとうに、あれが妻だったのか。
いつも大きな布で髪を隠しており、顔も伏せていたため、その姿はほとんど記憶に残っていない。
マーゴの前では助けに行くふりをして、一人で逃げたことだって考えられる。
不意に、背中や腰に触れた女の手の感触を思い出した。
それはあまりにも優しく、愛情さえ感じる手つきであったため、危険だと思ったのだ。
つい緊張感が緩みそうになり、何度も気を引き締め、死地にいるのだと自分に言い聞かせた。
それに、誘惑しようとしているのではないかと警戒もしていた。
外には見張りがいたし、世話係達はそうした危険をよく知っている。
わざと襲われ、見張りが飛び込んできて奴隷を殴りつけるという可能性だってあり得た。
怪我をすれば次の戦いに支障が出る。
世話係を抱いている場合でもなかった。
そういえばと、男は身に着けている剣を引き抜き、それをマーゴに見せた。
「彼女が持って行ったものか?」
「敵の間者と疑われないようにと、国の紋章が入っていない、どこにでも売っているような武器と装備を一式、用意されて行きました」
男は手紙に書いてある場所に向かった。
家畜が立ち寄る水飲み場である小さな滝は、地元の人間でなければわからない山の中にある。
濡れた岩肌を鞘でさぐると、岩が緩んでいるところがあった。
岩をどけると、そこからやはり皮布で包まれた箱が出てきた。
中を見て、男は呆然と立ち尽くした。
妻が一人で生きて故国に帰るための金銭の全てが、この地に残されていたのだ。
「なぜ……」
それ以上の言葉もなく、男は小さな滝に打たれ、濡れていく皮布と木箱の蓋を見つめていた。
砂埃に染まった黒髪の下から鋭い双眸が覗く。
逞しいその四肢には皮製の腕当てとすね当てしかなく、汚れた布の服が胴と腰回りを覆っている。
肩には皮の胸当てが下げられているが、体の太さに合っておらず、今にもちぎれそうなほど引き延ばされている。
見るからに粗末な武器は、刃こぼれし、さびまで浮いていた。
それでも、その奴隷は戦意を失うことなく前に出た。
観客が湧き、さらに向かいの扉が開くと、それが悲鳴に変わった。
巨大な四肢を持った獣が放たれ、錆びた剣を手に立つ、生身の男に向かう。
一瞬で、奴隷の四肢は食い破られるかに見えたが、その激闘は観客の予想をはるかに超えて長く続いた。
やがて勝利した奴隷は、渾身の力で獣の首を切り落とし、それを堂々と天に掲げて見せた。
通常の奴隷には四方が鉄格子で出来た檻が与えられるが、勝者には、三方が石壁になっている牢が与えられる。
一面が鉄格子であるのだから、中の様子は丸見えではあるが、安心して壁に寄り掛かることが出来る。
四方が鉄格子であれば、そこから毒が塗られた槍が突きこまれることもあるし、剣闘士を選別にくる奴隷商たちに排泄の様子まで見られることになる。
壁のある牢であれば、少なくとも奥に居れば安全であり、排せつ場も壁際の隅に置かれている。
さらに特別待遇もある、お湯の使用が許可されているのだ。
傷だらけの体を洗うには拷問に近い痛みにはなるかもしれないが、それでもお湯は貴重だ。
入浴に使用されるお湯には、わずかな薬草も入っている。
見事勝利を掴んだ奴隷は、その特別な牢に入れられ、扉が閉まったところで、外から首輪の鍵を外された。
そこには湯気の立つ湯桶が用意されており、世話係の女が控えていた。
布で髪を隠し、顔を伏せている。
男は桶に足を入れ、ゆっくり体を沈める。
世話係の女が立ち上がり、背中から少しずつ温かなお湯をかけた。
どちらも声を出すことなく、水が流れ落ちる音だけが響く。
水音が石鹸を泡立てる音に変わり、柔らかな手が男の背中に触れた。
男は微動だにしなかった。
牢の外から見張りの兵士達がにやにやしながら奴隷の男を見ている。
大抵、この牢に移された奴隷は、女の感触に喜び、獣のように飛びかかると知っているのだ。
女もまた、気性の荒い剣闘士の世話係を命じられたのだから、奴隷に近い身分であり、襲われて殺されたとしても、替わりが補充されるだけのことだった。
動かぬ男の背中を女は丁寧に洗い、それから前に回って桶の淵から身を乗り出し、その肩と胸、それから腕にかけて泡立てた石鹸を伸ばしていく。
女が軽く頭を下げると、男が立ち上がった。
湯がざばっと音を立てて逞しい体を流れ落ち、腰布一枚の濡れた全身が露わになる。
手の中で石鹸を泡立て、女は桶に足を踏み入れ、手の届かなかった場所を洗い始める。
腰布の下に手を入れ、そこにあるものを洗い始めると、また見張り達は身を乗り出した。
女が襲われ、悲鳴を上げる様を見ようと期待を膨らませる。
ところが、やはり男は動かなかったのだ。
腰布の下がどうなっているのか、見張り達は興味津々だったが、世話係の女はその布をどけようとはしなかった。
やがて、女が桶から出ると、男はまた桶の中に座った。
その肩から、女がまた湯を流しいれる。
最後に大きな布を取り出し、女は男に向かってそれを差し出した。
「こちらで、体を拭いておあがりください」
それを桶の向こう側に置き、男はゆったりと桶のふちに両腕をかけて上を向いた。
女が扉の傍に近づくと、見張り達は残念そうに鍵を開けて女を外に出した。
男女の濡れ場が見られると期待していた見張り達は、そのまま牢獄の前を離れる。
男の入浴姿など、見たところで何も面白いことはないと言ったところだった。
それを見届け、奴隷の男は湯船から身を乗り出すと、布に包まれたものを取り出した。
ずっしりと重い、刃こぼれ一つない鋼鉄の剣が湯煙の中で鈍く光る。
顔色一つ変えず、男はそれを粗末な寝台の後ろに隠した。
それからまた湯気の消えた湯桶に戻った。
翌日、男は見事な戦いを見せ、また勝利を掴んだ。
そして、鋼鉄の胸当てを手に入れた。
数日がかりで男はその全身に見合った装備を手に入れた。
それは常に入浴の世話係の手によってもたらされた。
見張りに奪われないように布にくるまれて持ち込まれ、時には肉までも入っていることがあった。
男は世話係の女をなるべく見ないようにしていたし、女もまた、ほとんど口をきかなかった。
ついに、男が自由を勝ち取る瞬間がやってきた。
最後の戦いを前に、男は湯桶の中で女に体を洗われていた。
「もし、身請け話があれば受け入れてください。グレース家のオリア様があなたを望まれるはずです」
体を拭くための布を差し出し、女は頭を下げた。
男がそれを受け取ると、女は顔を上げぬまま出て行った。
男は思案した。
身請け話を受ければ主を持つことになり、結局は奴隷の立場とかわらないのではないかと危惧したのだ。
しかし、男は世話係の助言に従った。
巨大な獣を三頭も倒し、かろうじて勝利した男を身請けしたいと、複数の声があがった。
男はその中からグレース家の申し出を受けた。
オリアとは若い男だった。
貴族に相応しい絹の刺繍が入った薄手の服を身に着け、風に揺れる優美なマントを身に着けていた。
「お前の命の代償は受け取っている。これでお前は自由だ」
首輪は外され、市民証である胴のメダルを受け取ると、男は身に着けていた装備とそれからわずかな金銭を手にグレース家の門を出された。
信じ難いことだったが、男に異論があるわけもなかった。
男はすぐに故郷に向かった。
グアニス王国に祖国を滅ぼされ、奴隷となって長い月日が過ぎていた。
そこはもうグアニス王国の一部となっており、復興もままならぬほどの貧しい人々の暮らしがあった。
しかし、焼け残った城の跡地には、真新しい木造の屋敷が出来上がっていた。
見覚えのある顔を見つけ、近づいてみれば、それは侍女のマーゴだった。
痩せた家畜を追っていたマーゴは、男を見つけると、急いで屋敷に飛んで帰った。
新たな主がここを治めているというならば、自分は不要かもしれないと思いながらも、男は自分の財産を取り戻さんと、剣を抜いていた。
マーゴは一人で戻ってきた。
息を切らし、泣きながら男に分厚い包みを差し出した。
「お、奥様が!旦那様がお戻りになったら、これを渡すようにと私に託していかれたものです!」
男には妻がいたが、それは妻とは名ばかりの戦利品だった。
とある小国を滅ぼした際に、王城からさらってきた女であり、その身分と美貌故に戦利品として王に差し出されるところだった。
ところが、女が身ごもっていることが発覚し、男は仕方なく自分の領地に連れ帰った。
生まれた子供が男であり、本当に王の血を引いているとすれば、殺されてしまうと考えた。
幸い男は独身であり、妻の座は空いていた。
復讐を企むことがなければ、平穏な暮らしを約束しても良いと思っていた。
子供は無事に生まれたが、長くは生きられなかった。
あまりにも小さく、弱い命だった。
一度も抱いたことのない妻だったが、今にも命を断ちそうなほどに悲しむ女を、妻の勤めを果たせと脅して寝所に呼びつけた。
数えるほどしか枕を共にしたことはなく、その顔もよく思い出せない。
北の国々をほぼ制圧したグアニス王国が侵攻してきた際、男は出来る限りの財産を持たせ、逃げるようにと伝えた。
恐らくは、妻は滅ぼされた故国に戻り、どこかで新たな人生を築いていると思っていたのだ。
男は皮布で幾重にも巻かれた包みを解き、中の物を取り出した。
それは平たい木箱だった。
皮布を落とし、箱を慎重に開く。
中には手紙が入っていた。
マーゴが皮布と木箱を拾い上げ、心配そうに見守る中、男は手紙を開いた。
『旦那様、お戻りになられたこと、うれしく思っております。旦那様からお預かりした財産の半分は使用人たちの生活を守るために使いました。残りの半分は、山羊たちが放牧の途中で立ち寄る小さな滝の後ろに埋めました。国を失っても、旦那様ならば必ず生きる道を見いだせると信じております』
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「ご存じないのですか?ああ……どうしましょう……」
「どういうことだ?この手紙はいつ預かった?彼女は故国に帰ったのか?」
震えながらマーゴは首を横に振った。
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それがどんな顔であったか、男は覚えていなかった。
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剣や装備、そうしたものを運んできた世話係の声を思い出そうとしたが、それも曖昧だった。
「なぜ……俺を助けようとする?俺は彼女の国を滅ぼした憎い敵ではないか」
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血のつながらない子供のためにお墓を作ってくれ、お花まで持ってきてくれたと何度も感謝の言葉を口にしておられました。
敵の侵略を受けた時も、旦那様に拾われた命だから命でお返ししなければと、そうおっしゃられ、私達と心中する覚悟でここに留まられたのです」
危険な橋を渡り、防具や武器を差し入れていたのが妻だとすれば、あの後、どうなってしまったのか。
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いつも大きな布で髪を隠しており、顔も伏せていたため、その姿はほとんど記憶に残っていない。
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不意に、背中や腰に触れた女の手の感触を思い出した。
それはあまりにも優しく、愛情さえ感じる手つきであったため、危険だと思ったのだ。
つい緊張感が緩みそうになり、何度も気を引き締め、死地にいるのだと自分に言い聞かせた。
それに、誘惑しようとしているのではないかと警戒もしていた。
外には見張りがいたし、世話係達はそうした危険をよく知っている。
わざと襲われ、見張りが飛び込んできて奴隷を殴りつけるという可能性だってあり得た。
怪我をすれば次の戦いに支障が出る。
世話係を抱いている場合でもなかった。
そういえばと、男は身に着けている剣を引き抜き、それをマーゴに見せた。
「彼女が持って行ったものか?」
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男は手紙に書いてある場所に向かった。
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濡れた岩肌を鞘でさぐると、岩が緩んでいるところがあった。
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王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
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