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3.時々触りたくなる一番の友達
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町郊外の草原で悪党に襲撃されて以来、ルークには大人の護衛がつくことになった。
それでも二人の友情は守られた。
ロイダール隊長の側近である騎士ゲインは彼らの邪魔にならない位置でルークを見張ったのだ。
しかし、友情を育んでいたのは残念ながらルークだけだった。
実際に命を狙われたルークは、訓練にも身が入るようになり、少しだけクリスに勝てるようになってきた。
間近で見た敵と、クリスが死ぬかもしれないと頭に過った恐怖が、ルークの戦う者としての覚悟を引き出したのだ。
なにより一瞬でも、クリスが囮になっている間に逃げなければと考えた自分が許せなかった。
ルークが本気で訓練を始め、腕を上げてきたところを見計らったように、ロイダールはルークのために剣と防具を揃えることに決めた。
そうした買い物はロイダールが付き添うつもりであったが、ルークはクリスと二人で大丈夫だと胸を張った。
店を回り、新しい物を揃えていく中、ルークはクリスの汚れた服が気になった。
「ロイダール様に支度金をもらったんだ。お前の服も作ってやるよ」
荷物持ちをしていたクリスは、馬の手綱を引きながら、関心も無さそうに少しずれた言葉を返した。
「へぇ。あの怖い顔のおじさんロイダール様っていうのか」
「知らなかったのか?」
ルークは驚いたが、クリスは大まじめな顔をして、厩番の親方の名前すら知らないと、胸を張った。それはルークも知らなかった。
二人は互いに顔を見合わせ、声をあげて笑った。
「シャツやズボンを子供用で仕立ててもらう必要があるからな。ここの店だ。聞いたことがあるか?」
クリスはルークに差し出されたリストをちらりと見て、鼻に皺を寄せ無言になった。
「まさか字が読めないのか?」
クリスは赤面し、顔を背けた。
「本は高価なんだよ。毎日食い物買っていたらそんなもの買うお金なんて残らない」
「孤児院なら勉強の時間もあるだろう?」
ルークの言葉にクリスは焦った。孤児院から派遣されている子供として仕事を得たが、実際は違うし、さらに性別まで偽っている。
「あ、ああ。先生とか合わなくてね。自分でいつかやろうと思っていたけど、時間もないしね」
クリスはなんとかごまかした。
結局クリスは、ルークがただでくれるという服を断ることになった。
縫製屋の店員が、ルークを裸にして体の寸法を測り始めたのだ。
好きな服を買いたいと訴えたクリスに、ルークはいくらか銀貨を渡すと、クリスは服よりこっちがいいと喜んだ。
予定されていた買い物を全て終えると、ルークはクリスを待たせ、一人で何かを買って帰ってきた。
それも持ち帰る荷物だと思い、クリスは馬に積もうとしたが、ルークはクリスの分だと言って、買ってきた包みを押し付けた。
包みを開けると、中には一冊の本とパンが入っていた。
「パンと本なんて、奇妙な組み合わせだな」
堪えきれない喜びに声を弾ませ、クリスは包みを抱きしめた。
その笑顔にルークの胸がぎゅっと熱くなった。
そしてその感情のままに指が動いた。
クリスの頬に触れたのだ。
クリスが驚いて肩を震わせた。
その反応に、ルークも驚いた。
なぜそんなことをしてしまったのか、ルークにも明確な理由がわからなかった。
クリスは酷く奇妙な顔をした。
「何かついていた?いつものことだろう?気になる?」
ルークは赤面し、もう何もついていないとごまかした。
クリスはルークにとっていつも一緒にいたい一番の友人だった。
その気持ちは日増しに強くなり、買い物や稽古だけでは足りず、早朝に挨拶のためだけに厩にやってくるようにまでなっていった。
一方、クリスのルークに対する気持ちには全く変化がなかった。
残念ながら友人というより、良いカモであり、金蔓だった。
しかし、主人が損をしたり騙されたりするのは面白くなかった。
特に、ルークがクリス以外の人間に金銭をやろうとするのは許せなかった。
ルークが道端の浮浪者に小銭を投げてやろうとするたび、クリスは怒って止めさせた。
ある時、クリスは腹を立てた勢いでルークにきつい言葉を吐いた。
「自分も守れないやつが他人に施しなんてするなよ!」
その辛辣な言葉にルークは赤面した。
それでもやめず、クリスは強い言葉でルークを責めた。
「誰かにやる金なら俺にくれ!」
さすがに図々しいとルークは怒った。
「お前には十分良くしてやっているだろう?!」
孤児院に居れば衣食住は困らないはずだ。
さらにクリスは給料もあるし、ルークからの小遣いもある。
「一緒に住めない母さんがいるんだ!病気で寝たきりなんだよ」
金に執着する理由には十分だろうと思い付き、クリスは訴えた。
それを聞いた瞬間、怒っていたルークは顔色を変えた。
そしてその目から涙をこぼしたのだ。
「そうか……そうだったのか……」
クリスは突然泣き出したルークに驚き、口をあんぐりさせた。
そして、ルークが病気の母親がいるという話に同情して泣いているのだと気づき、この男はこんなことで生きていけるのだろうかと心底心配になった。
他人に簡単に同情し、泣き出すような軟弱な男では、すぐに悪い人間に騙され、かもにされてしまう。
それどころか、命だって安売りしているようなものだ。
この男が早死にするということは、部下の自分はもっと早く死ぬことになる。
「馬鹿だな。よくある話だろう?そんなことぐらいで泣くなよ」
ルークは涙を拭って、浮浪者に施すつもりだった小銭をクリスに押し付けたが、クリスは実に複雑な顔でそれを受け取った。
その日の夕刻、ルークはいつもの草原でクリスに身の上話をした。
「俺の父親は戦場で命を落としたんだ。立派な騎士だったって聞いたよ。父の友人だったのが今の第五騎士団隊長のロイダール様だ。父上はロイダール様を庇って死んだと聞いた。
それからロイダール様は父上のように面倒を見て下さっているんだ。
父と同じ騎士団に入りたいと言ったら、母上は反対したがロイダール様は賛成してくださった。
あの日、危険な目にあった時には用心が足りないと叱られたが、最近は毎日訓練を見に来て下さっている。
母上は父上を亡くして本当に辛そうで、ロイダール様に助けられているようだ」
クリスは密かに過保護だなと思ったが、黙って聞いていた。
「普段は父を亡くし苦労しているとか、同情されることが多いが、お前を見ていると自分が恥ずかしくなる。俺はちっとも苦労していないな。お前の母上、良くなるといいな……。俺の金の管理はロイダール様がやっているんだ。もし自由になったら手伝わせてくれ。お前には命を助けられたこともある。いくら必要か教えてくれ。俺が頼んでみてもいい」
金をくれるというなら喜んでもらうべきだったが、クリスはなぜか少しもうれしくなかった。
「お前、本当に頭大丈夫か?困っている連中に端から同情して金を配っていたらきりがないぞ。それに、俺の問題とお前の問題は一緒に出来ない。お前は立派な家の息子で、俺は……別にいてもいなくても誰も困らない程度の生まれだ。お前には大切にされる価値があるが、俺にはない」
「俺には大切だ!」
ルークは叫んだ。クリスの目は冷やかだった。
「俺が死んだら新しい従者が入る。話し相手には困らないさ。俺の替えはいるんだよ。でもお前にはいない。お前の立派な家や身分とか、そのよくわからないが、父親から受け継いだものを守る責任があるんだろう?だから皆が守るし、盾になる従者を置くんじゃないか」
「お前は俺の盾なんかじゃない。お前の替えはいない。代わりなんて欲しくない」
むきになって叫ぶルークをますます不可解なものを見るようにクリスは冷静に眺めやった。
「本当にお前はおめでたいな」
怒ったようにルークは口を閉ざし、その日はなんとなく気まずい感じで解散した。
ルークは、クリスとの心の距離を感じて寂しく感じていたが、クリスは明日にはルークの機嫌をとっておかないと仕事がなくなるかもしれないと心配した。
残念ながら、クリスにとってルークは友人ではなかったのだ。
そもそもクリスには友人ごっこをしている余裕がなかった。
日中は仕事をし、夕刻から主人のルークの相手をし、帰ってからは母親の世話が待っていた。
一年前までは口もきけなかった母親だったが、最近は少しずつ会話が出来るようになっていた。
母親はルークからもらった分厚い革表紙の本をクリスから受け取ると、涙を浮かべ喜んだ。
わずかな皺がつくのも恐れるように丁寧にページをめくったのだ。
「これを買ってやりたかった。お前に……字を教えてやりたかった」
そこで初めて母親は自分が田舎の小さな村で教師をしていたとクリスに明かした。暇もお金もなく、教育をおろそかにしてきたことを母親はクリスに謝罪した。
「田舎の教師だったから、都会の学校のようにはいかないけど少しずつ教えるわ」
物心ついた時には生活は苦しく、気が付けば母親の心も体も壊れていた。
クリスは字を学べることより、母親と二人で過ごせる時間が出来ることを喜んだ。
母親はずっと外で働いていたし、心を壊してからは口もきけなくなっていた。
いつの記憶か定かではないが、自分に向けられる母親の笑顔をクリスは覚えていた。
その時のように母親が笑ってくれる日をクリスは心から願った。
時折クリスは字を学び、母親と本を読んだ。
「もし、字が読めれば言止めの試験が受けられる」
母親の言葉にクリスは頷いた。一年に一度行われるその試験は、字を読める者なら誰でも参加できる試験で、受かれば国が雇ってくれるのだ。
さらにその仕事は国の管理下に置かれ、生涯食うに困らない。
クリスは字を読めるふりをして一度潜り込んだが、あっさりばれて落ちたことがあった。
それに、実際は読めるだけではだめなのだ。口利きや賄賂がいる。
母親はまるでそれが公正な試験であるかのように語った。
クリスはその姿をルークの能天気な姿と重ねた。
そうすると、途端に母親との楽しい時間は色あせ、退屈なものにかわったのだ。現実味の無い話にうんざりし、それでも作り笑いをしてクリスは頑張るよと言った。
そうした時に感じる、どこか冷めたような孤独感はいつまでも消えなかった。
クリスは夜になると時々外へ出た。
幼い身には抱える仕事が多すぎて、人の心を思いやる余裕もなかった。
それでもなんとか一年が過ぎた。
厩の仕事を得て三年、ルークと出会って二年、母親と話しが出来るようになって半年、クリスが孤独を深める中、訓練所の厩に新しい少年がやってきた。
孤児院からの派遣でないことがばれるのではとクリスは心配したが、別の孤児院からの子供だと聞き、クリスは少しほっとした。
その日、やってきた少年はゼルと名乗った。
それでも二人の友情は守られた。
ロイダール隊長の側近である騎士ゲインは彼らの邪魔にならない位置でルークを見張ったのだ。
しかし、友情を育んでいたのは残念ながらルークだけだった。
実際に命を狙われたルークは、訓練にも身が入るようになり、少しだけクリスに勝てるようになってきた。
間近で見た敵と、クリスが死ぬかもしれないと頭に過った恐怖が、ルークの戦う者としての覚悟を引き出したのだ。
なにより一瞬でも、クリスが囮になっている間に逃げなければと考えた自分が許せなかった。
ルークが本気で訓練を始め、腕を上げてきたところを見計らったように、ロイダールはルークのために剣と防具を揃えることに決めた。
そうした買い物はロイダールが付き添うつもりであったが、ルークはクリスと二人で大丈夫だと胸を張った。
店を回り、新しい物を揃えていく中、ルークはクリスの汚れた服が気になった。
「ロイダール様に支度金をもらったんだ。お前の服も作ってやるよ」
荷物持ちをしていたクリスは、馬の手綱を引きながら、関心も無さそうに少しずれた言葉を返した。
「へぇ。あの怖い顔のおじさんロイダール様っていうのか」
「知らなかったのか?」
ルークは驚いたが、クリスは大まじめな顔をして、厩番の親方の名前すら知らないと、胸を張った。それはルークも知らなかった。
二人は互いに顔を見合わせ、声をあげて笑った。
「シャツやズボンを子供用で仕立ててもらう必要があるからな。ここの店だ。聞いたことがあるか?」
クリスはルークに差し出されたリストをちらりと見て、鼻に皺を寄せ無言になった。
「まさか字が読めないのか?」
クリスは赤面し、顔を背けた。
「本は高価なんだよ。毎日食い物買っていたらそんなもの買うお金なんて残らない」
「孤児院なら勉強の時間もあるだろう?」
ルークの言葉にクリスは焦った。孤児院から派遣されている子供として仕事を得たが、実際は違うし、さらに性別まで偽っている。
「あ、ああ。先生とか合わなくてね。自分でいつかやろうと思っていたけど、時間もないしね」
クリスはなんとかごまかした。
結局クリスは、ルークがただでくれるという服を断ることになった。
縫製屋の店員が、ルークを裸にして体の寸法を測り始めたのだ。
好きな服を買いたいと訴えたクリスに、ルークはいくらか銀貨を渡すと、クリスは服よりこっちがいいと喜んだ。
予定されていた買い物を全て終えると、ルークはクリスを待たせ、一人で何かを買って帰ってきた。
それも持ち帰る荷物だと思い、クリスは馬に積もうとしたが、ルークはクリスの分だと言って、買ってきた包みを押し付けた。
包みを開けると、中には一冊の本とパンが入っていた。
「パンと本なんて、奇妙な組み合わせだな」
堪えきれない喜びに声を弾ませ、クリスは包みを抱きしめた。
その笑顔にルークの胸がぎゅっと熱くなった。
そしてその感情のままに指が動いた。
クリスの頬に触れたのだ。
クリスが驚いて肩を震わせた。
その反応に、ルークも驚いた。
なぜそんなことをしてしまったのか、ルークにも明確な理由がわからなかった。
クリスは酷く奇妙な顔をした。
「何かついていた?いつものことだろう?気になる?」
ルークは赤面し、もう何もついていないとごまかした。
クリスはルークにとっていつも一緒にいたい一番の友人だった。
その気持ちは日増しに強くなり、買い物や稽古だけでは足りず、早朝に挨拶のためだけに厩にやってくるようにまでなっていった。
一方、クリスのルークに対する気持ちには全く変化がなかった。
残念ながら友人というより、良いカモであり、金蔓だった。
しかし、主人が損をしたり騙されたりするのは面白くなかった。
特に、ルークがクリス以外の人間に金銭をやろうとするのは許せなかった。
ルークが道端の浮浪者に小銭を投げてやろうとするたび、クリスは怒って止めさせた。
ある時、クリスは腹を立てた勢いでルークにきつい言葉を吐いた。
「自分も守れないやつが他人に施しなんてするなよ!」
その辛辣な言葉にルークは赤面した。
それでもやめず、クリスは強い言葉でルークを責めた。
「誰かにやる金なら俺にくれ!」
さすがに図々しいとルークは怒った。
「お前には十分良くしてやっているだろう?!」
孤児院に居れば衣食住は困らないはずだ。
さらにクリスは給料もあるし、ルークからの小遣いもある。
「一緒に住めない母さんがいるんだ!病気で寝たきりなんだよ」
金に執着する理由には十分だろうと思い付き、クリスは訴えた。
それを聞いた瞬間、怒っていたルークは顔色を変えた。
そしてその目から涙をこぼしたのだ。
「そうか……そうだったのか……」
クリスは突然泣き出したルークに驚き、口をあんぐりさせた。
そして、ルークが病気の母親がいるという話に同情して泣いているのだと気づき、この男はこんなことで生きていけるのだろうかと心底心配になった。
他人に簡単に同情し、泣き出すような軟弱な男では、すぐに悪い人間に騙され、かもにされてしまう。
それどころか、命だって安売りしているようなものだ。
この男が早死にするということは、部下の自分はもっと早く死ぬことになる。
「馬鹿だな。よくある話だろう?そんなことぐらいで泣くなよ」
ルークは涙を拭って、浮浪者に施すつもりだった小銭をクリスに押し付けたが、クリスは実に複雑な顔でそれを受け取った。
その日の夕刻、ルークはいつもの草原でクリスに身の上話をした。
「俺の父親は戦場で命を落としたんだ。立派な騎士だったって聞いたよ。父の友人だったのが今の第五騎士団隊長のロイダール様だ。父上はロイダール様を庇って死んだと聞いた。
それからロイダール様は父上のように面倒を見て下さっているんだ。
父と同じ騎士団に入りたいと言ったら、母上は反対したがロイダール様は賛成してくださった。
あの日、危険な目にあった時には用心が足りないと叱られたが、最近は毎日訓練を見に来て下さっている。
母上は父上を亡くして本当に辛そうで、ロイダール様に助けられているようだ」
クリスは密かに過保護だなと思ったが、黙って聞いていた。
「普段は父を亡くし苦労しているとか、同情されることが多いが、お前を見ていると自分が恥ずかしくなる。俺はちっとも苦労していないな。お前の母上、良くなるといいな……。俺の金の管理はロイダール様がやっているんだ。もし自由になったら手伝わせてくれ。お前には命を助けられたこともある。いくら必要か教えてくれ。俺が頼んでみてもいい」
金をくれるというなら喜んでもらうべきだったが、クリスはなぜか少しもうれしくなかった。
「お前、本当に頭大丈夫か?困っている連中に端から同情して金を配っていたらきりがないぞ。それに、俺の問題とお前の問題は一緒に出来ない。お前は立派な家の息子で、俺は……別にいてもいなくても誰も困らない程度の生まれだ。お前には大切にされる価値があるが、俺にはない」
「俺には大切だ!」
ルークは叫んだ。クリスの目は冷やかだった。
「俺が死んだら新しい従者が入る。話し相手には困らないさ。俺の替えはいるんだよ。でもお前にはいない。お前の立派な家や身分とか、そのよくわからないが、父親から受け継いだものを守る責任があるんだろう?だから皆が守るし、盾になる従者を置くんじゃないか」
「お前は俺の盾なんかじゃない。お前の替えはいない。代わりなんて欲しくない」
むきになって叫ぶルークをますます不可解なものを見るようにクリスは冷静に眺めやった。
「本当にお前はおめでたいな」
怒ったようにルークは口を閉ざし、その日はなんとなく気まずい感じで解散した。
ルークは、クリスとの心の距離を感じて寂しく感じていたが、クリスは明日にはルークの機嫌をとっておかないと仕事がなくなるかもしれないと心配した。
残念ながら、クリスにとってルークは友人ではなかったのだ。
そもそもクリスには友人ごっこをしている余裕がなかった。
日中は仕事をし、夕刻から主人のルークの相手をし、帰ってからは母親の世話が待っていた。
一年前までは口もきけなかった母親だったが、最近は少しずつ会話が出来るようになっていた。
母親はルークからもらった分厚い革表紙の本をクリスから受け取ると、涙を浮かべ喜んだ。
わずかな皺がつくのも恐れるように丁寧にページをめくったのだ。
「これを買ってやりたかった。お前に……字を教えてやりたかった」
そこで初めて母親は自分が田舎の小さな村で教師をしていたとクリスに明かした。暇もお金もなく、教育をおろそかにしてきたことを母親はクリスに謝罪した。
「田舎の教師だったから、都会の学校のようにはいかないけど少しずつ教えるわ」
物心ついた時には生活は苦しく、気が付けば母親の心も体も壊れていた。
クリスは字を学べることより、母親と二人で過ごせる時間が出来ることを喜んだ。
母親はずっと外で働いていたし、心を壊してからは口もきけなくなっていた。
いつの記憶か定かではないが、自分に向けられる母親の笑顔をクリスは覚えていた。
その時のように母親が笑ってくれる日をクリスは心から願った。
時折クリスは字を学び、母親と本を読んだ。
「もし、字が読めれば言止めの試験が受けられる」
母親の言葉にクリスは頷いた。一年に一度行われるその試験は、字を読める者なら誰でも参加できる試験で、受かれば国が雇ってくれるのだ。
さらにその仕事は国の管理下に置かれ、生涯食うに困らない。
クリスは字を読めるふりをして一度潜り込んだが、あっさりばれて落ちたことがあった。
それに、実際は読めるだけではだめなのだ。口利きや賄賂がいる。
母親はまるでそれが公正な試験であるかのように語った。
クリスはその姿をルークの能天気な姿と重ねた。
そうすると、途端に母親との楽しい時間は色あせ、退屈なものにかわったのだ。現実味の無い話にうんざりし、それでも作り笑いをしてクリスは頑張るよと言った。
そうした時に感じる、どこか冷めたような孤独感はいつまでも消えなかった。
クリスは夜になると時々外へ出た。
幼い身には抱える仕事が多すぎて、人の心を思いやる余裕もなかった。
それでもなんとか一年が過ぎた。
厩の仕事を得て三年、ルークと出会って二年、母親と話しが出来るようになって半年、クリスが孤独を深める中、訓練所の厩に新しい少年がやってきた。
孤児院からの派遣でないことがばれるのではとクリスは心配したが、別の孤児院からの子供だと聞き、クリスは少しほっとした。
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