死の花

丸井竹

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5.人妻である覚悟

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 ディーンは、入り口で待ち構えていた男娼たちの横を駆け抜け、門を入ってくるレイシャをすかさず捕まえた。

手を繋げないことをもどかしく思いながら、レイシャを促し階段を上がる。

部屋に入った途端、ディーンは心底ほっとして、衝動的にレイシャを抱きしめた。
レイシャは驚いたように体を強張らせた。

「す、すみません」

飛ぶように離れ、ディーンは頭を下げた。
その心にどす黒い怒りがわきあがる。

「お会いできたのがうれしくて、手を触れてはいけないことを一瞬忘れてしまいました。本当にすみません」

レイシャに見捨てられたら、自由になる道は閉ざされてしまう。
手も繋げないレイシャは他の客とは違い、閨の技術で骨抜きにし、自分に繋ぎとめておくことは出来ない。

「私もごめんなさい。あの、夫がいるから……」

こんなところまできて夫の存在を気にするわけがない。

「うれしくて、そのことを忘れていました。つい体が動いてしまいました。本当にすみません。あなたに夫がいることはわかっています。それでも惹かれてしまう私を許してください」

巧みに嘘をつき、ディーンはさらに頭を下げようとしたが、その頭より低いところにレイシャの頭が来た。

「気を遣わせてしまってごめんなさい。夫は気にしないの。気にしているのは私だけ」

まだそんな嘘を続けるのかとディーンは心の中でうんざりとしたが、レイシャに合わせ頷いた。

「もう触れません。機嫌をなおしてくれませんか?」

「怒ったりしないわ。いつも通りに話して……」

ほっとして、ディーンは体の力を抜いた。

「もう、こないかと思った……本当に困っていたんだ」

ようやく、ディーンはレイシャに借金を返済してもらったのに自由になれなかった理由を哀れっぽく語った。
レイシャは涙ぐみ、ディーンの期待通りの反応を返した。

「大変だったのね。でも大丈夫よ。ディーンが自由になるのを確かめるまで傍にいるわ。
薬もお金も、もう必要ないかもしれないとは思ったのだけど、ディーンが本当に自由になったのか見届けるまでは用意しておきたくて一応持ってきたの」

レイシャのかごから、いつもの霊薬と皮袋が出てきた。

「足りるかしら?」

暗い目を光らせたディーンは、必死に笑いをかみ殺した。

自由になれば、自分を買った恥知らずな女や男達に言ってやれる。
お前達のことなどひとかけらも愛したことはない、お前たちは金蔓だったのだと。

燃えるような怒りと憎しみを知られないように、ディーンは感動で泣いているかのように俯いた。
レイシャにこの醜い心を知られたら、最後の金を取り上げられてしまうかもしれない。

「十分です。これで最後の一年を買い取れる。ありがとうございます」

レイシャは首を横に振った。
感謝を言われるようなことは何もしていない。ディーンはきっちり対価を払っている。

――偽善者きどりで……

レイシャは夫の言葉を思い出していた。

忌み嫌われる呪器である現実から逃げるために、人助けをして感謝される体験を買っただけだ。
人助けではなく、ただの自己満足だ。

それに、偽りの愛でもいいから、少しでも愛に触れたかった。
本物の愛はありふれたものじゃない。
真っ黒な沼に沈んだ一欠けらの宝石を探すようなものだ。
一生出会えずに終わることだってあるだろう。

だとしたら、見せかけの愛すらないなんて寂しすぎる。

これから一生、夫に愛されない人生を送るのならば、見せかけの愛でも良いから感じてみたい。

ディーンが自然に嘘泣きを終わらせ、レイシャも心を決めた。

「すぐに手続きをしましょう。ここを出られるでしょう?」

ディーンは罠ではないかと警戒した。

「まだあなたの買った時間だ。何かしてほしいことは?一緒に横になって寝よう」

レイシャに、「やっぱりあなたを助けるのは止める」そう言われてしまえば、全てを取り上げられることになる。
ディーンは自由を目前に、しくじらないように用心していたが、レイシャは立ち上がり、決然とした口調で言った。

「今すぐ手続きに行くの。私からも、どの客からも自由になるために。今日の時間はそのために使いたい」

ディーンは半信半疑ながらも荷物をまとめ、二人は一緒に一階に下りた。
カウンターに出てきた店主に、レイシャがディーンの残りの契約年数をお金で支払うと交渉を始めると、店主はディーンの契約書を探してきた。

その手続きは、ディーンの目の前で滞りなく進められた。

ディーンは自分を縛る契約書の全てが破りすてられるのを見た。
そしてレイシャと共に、誰に咎められることなく娼館の外に出た。

夕暮れの空を見上げたディーンは、しばらくして、隣に立っているレイシャに深々と頭を下げた。

「あなたは自由よ。そんな風に誰かに頭を下げる必要もないわ」

「違う。これは俺の、男娼としてじゃない。俺という自由な男としての感謝だ」

やっと一人の人間に戻ったように感じ、ディーンは感無量で震える拳を握りしめた。
ディーンはレイシャが持ってきた薬の差し入れを返そうとしたが、レイシャは受け取らなかった。

「良い値段で売れると思うの」

「しかし、それでは……」

レイシャをたらし込み、金を引き出した。その仕事の成果として受け取ってもいいだろうかとディーンは考えた。

他の男娼たちがまたレイシャを狙うだろう。
優しい言葉で寂しい女の気持ちに付け込み、金を引き出そうとするかもしれない。

散々レイシャを利用してきたディーンは、自由になった途端、少しだけ都合の良い優しさを見せた。

「これからは気を付けてくれ、レイシャ、その、俺達は優しさを売り物にしている」

今までディーンが使ってきた優しい言葉の全てが偽りだったのだと、ばらしてしまうような忠告だったが、レイシャはわかっていた。

「このお店の前で、あなたは私に優しい声をかけてくれた。私には初めてのことだったの。だから通い続けた。もう他の人を買う予定はないの」

その言葉をどう受け止めていいのか、ディーンにはわからなかった。
男娼として心にもない優しい言葉を、ほんの少し並べただけだった。

これで終わりなんてことがあるだろうか、ディーンはまだ警戒していた。
これから借金を盾に、関係を迫ってくるつもりかもしれないとも考えた。

その一方で、金持ちのレイシャと、これで別れてしまうことに未練も感じていた。
もし底なしのお人好しならば、これからも、何か困った時に頼れる存在になってくれるかもしれない。
体は売れないが、優しい言葉ぐらいならかけてもいい。

「まだあなたに立て替えてもらったお金がある。返済方法についても話し合わせてくれ」

優しいディーンの声に耳を傾けながら、レイシャは夫のことを考えていた。
今度こそ現実逃避は終わりにして、夫と向き合うべきだ。

ディーンへの恋心を封印し、レイシャは明るく微笑んだ。

「私のことは忘れて、お金も返さないでいいの。嘘でも、あなたのくれた優しい言葉は私を救ったわ。あなたの仕事を私は素晴らしいと思う」

言い終えるなり、涙をこらえレイシャは背中を向けて通りを走り出した。


遠ざかって行くレイシャの背中を、ディーンは茫然と見送っていた。
本当に何の見返りも望まず、優しい言葉に騙されて大金を払い続け、自分が解放した男娼を独占しようとすることもなく、身を引いて去ったのだ。

そんなことがあるだろうかと、ディーンはただただ驚いていた。

なぜレイシャがこんなことをしたのか、ディーンは今になって初めて知りたいと思った。

娼館に囚われた男娼を簡単に助けられるだけの財力があり、裕福な暮らしが出来ているのに、寂しいなどと口にする贅沢な女だと思ったが、実際のレイシャのことは何も知らなかった。

同情してもらうために、ディーンは自分のことばかり話し、レイシャの身の上については何もきかなかった。
男娼時代の客の誰とも、もう二度と会いたくはなかったが、レイシャにだけはまた会いたいとディーンは思った。


――


 コト町郊外の黒の館に帰ってきたレイシャは、尖塔の粗末な部屋に入ると、ベッドの下から木箱を引き出し、中から作りかけの黒い帯を取り出した。
床にランプを置いて、刺繍用の金色の糸を針に通す。

雨期が終わり、季節の変わり目で夜は強い風が吹く。
大きく窓が揺れ始め、風の音が窓越しに聞こえてきた。

こんな日は塔が落ちてしまうのではないかと怖くなる。
レイシャは手元の作業に集中し、風の音のことは忘れようと努めた。

そうしながら、レイシャは自身に言い聞かせた。
呪器である以上、誰かに愛される存在にはなれない。
解呪師である夫のそばでしか生きられないのだから、やはり夫と仲良くなれるように努力しなければならない。
愛はなくても夫婦の情ぐらいは育つはずだ。
レイシャは願いを込め、刺繍針を動かし続けた。



 朝方になり、フェスターは屋敷に戻ってきた。
レイシャはすぐにその物音に気付き、階段を駆け下りた。
フェスターの前で、レイシャはぎこちなくお辞儀をした。

「お帰りなさいませ」

フェスターはレイシャと視線も合わせず、さっさと歩きだす。
床に落とされた外套を拾い上げ、レイシャはその後ろを追いかけた。

「あの、お食事を作りますか?」

「昨夜は出かけなかったのか?」

「はい……あの、もうすぐ私たちの結婚記念日だと思うのですが……」

レイシャは先回りするとフェスターの顔を見上げた。
フェスターは足も止めず、レイシャの隣を通り過ぎた。

「あの、一緒に食事をとりませんか?あるいは、夫婦として一緒に過ごす時間を取って頂けませんか?仕事ではなくて……」

聞いてもいないような様子でフェスターは自室に入った。
二部屋連なった広い部屋で、レイシャの部屋とは比べ物にならないぐらい豪華な内装だった。
置かれている家具の全てが黒で塗られている。

「俺は仕事以外でお前を抱く気はない。ああそうだな。お前がもっと嫌がり悲鳴をあげて俺を楽しませるなら抱いてやる。優しくされたいのなら娼館へ行け」

レイシャは外套を片付け、室内用の黒の長衣を衣装棚から持ってきた。
外出用の衣服を脱ぐフェスターの前で、それを差し出しじっと待つ。

夫が上半身裸になると、レイシャは頬を赤くした。
にこりともしないが、レイシャはフェスターの容姿だけは良いと思っていた。
顔かたちも整っているし、均整の取れた白い体も締まっていて美しい。

彫刻のようなその姿をレイシャは、うっとりと見上げる。
と、フェスターが強い力でレイシャの腕を掴んだ。

「今日は仕事帰りだ。抱いてやる。寝室に行け」

レイシャはすぐに隣の寝室に移動し、服を脱いで寝台に横たわった。

窓から、眩しいほどの緑が見える。

カーテンを閉めに行くべきか迷っていると、フェスターが動いた。
部屋は薄暗くなり、レイシャはほっとして体の力を抜いた。

寝台のマットが沈み、フェスターがレイシャの上に覆いかぶさる。
両足を持ち上げられ、レイシャは痛みに耐えるため歯をくいしばった。

解呪師は、体にまとわりついた死の呪いを吐き出すために呪器を使うのだ。
呪器とは、ごみ箱のようなものであり、魂と肉体を持った道具だった。

濡れていない女の秘芯を引き裂かれる痛みに顔を歪め、レイシャはシーツを握りしめた。
無言で腰を振り始めたフェスターの体に抱き着くことさえ許されないその交わりの間、レイシャはそろそろ夫婦の情ぐらいはわいてきたのではないだろうかと考えた。
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