奪われた声

丸井竹

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第一章 幸福な夫婦

1.売られた少女

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 まだ十歳の子供にとって、母親と引き離されるということは大きな恐怖だった。
母親が売られると知ったグレアムは咄嗟に人買いたちに叫んだのだ。

「女の子が欲しいなら郊外の教会跡地にいる!両親のいない子だ!」

借金の取り立てにきていた男達は男の子のグレアムに興味を示さず、少し歳はとっているが仕方がないと母親を連れだそうとしていた。

グレアムの言葉に男達はにやりとし、母親から手を放した。

「両親のいない女の子か……秘密に出来るか?」

グレアムは頷いた。両親もいない少女ならさらって売っても犯罪にはならない。この事を知っている者が訴えさえしなければいい。

人買いたちが去ると、グレアムは大急ぎで町の郊外近くの孤児院に向かった。
グレアムが人買いたちに教えた情報は本当だったが、本気でその子を売る気はなかったのだ。


 リーンという少女は、郊外の教会跡地で待ち合わせをして遊ぶ友達だった。
孤児院で暮らしているが、お昼時だけ抜け出して遊びにきているとリーンはグレアムに話していた。

グレアムは子供ながら、日中は仕事があり、お昼にリーンと会って遊ぶことが毎日の楽しみだった。
咄嗟にリーンのことを話してしまったが、今から孤児院に行き、人買いが来るから教会に行ってはいけないと教えれば連れていかれないはずだとグレアムは思っていた。

母親を知人の家に避難させ、もう家に戻らず逃げてしまおうと決めていた。
だから孤児院に駆け付けた時、グレアムはリーンにもう遊べなくなるとお別れを告げるつもりだった。

人買いたちにリーンの名前は告げていない。孤児院にいれば安全なはずだった。

ところが、孤児院の扉を叩いたグレアムに、出てきた女が困ったような顔で告げたのだ。

「リーン?ああ、一カ月ぐらい前に脱走した子ね。まだ生きていたのね。
戻ってきたいなら戻ってきてもいいのよ。ただ、あの子、ここではよくいじめられていて、居場所がなかったみたい」

グレアムは驚いた。
孤児院から遊びに来ている子ではなかったのだ。

廃墟の教会は天井さえなく、生活に必要なものなど何一つなかった。
まさかあそこで暮らしていたのだろうかとグレアムは思った。

急いで廃墟の教会に駆け付けると、既に人買いの馬車がその前に止まっていた。
少女の悲鳴が聞こえてきた。
息を切らせて走ってきたグレアムは凍り付いたように足を止めた。

崩れた壁の間から人買いの男が引っ張り出してきたのは、まだ幼い愛らしい少女で、悲鳴を上げて泣いていた。

「リーン!」

ようやく声が出て、グレアムは叫んだ。
なぜこんなことになったのか、考えるのも恐ろしかった。
グレアムが時間稼ぎで、適当に口にしたことが現実になってしまうのだ。

「待って!待ってくれ!」

グレアムは叫んだが、七つの幼い少女はあっという間に馬車に放り込まれた。
人買いに押さえ込まれ、その馬車の後ろから顔を出したリーンが、グレアムを見つけて泣きながら叫んだ。

「助けて!」

一番大切な友達だった。
グレアムはよろよろと数歩前に出た。
その時、リーンの積み込みを終えた男達がグレアムを振り返った。

見たこともない残忍な笑みに、グレアムは背筋を凍らせた。

「お前のおかげで良い物が見つかった。母親の借金はこれで無しにしてやる。またどこかに子供の女が隠れていたら俺達に教えろ。小遣いをやるぞ」

男達の言葉を聞き、先ほどまで助けてと泣き叫んでいたリーンがぴたりと黙った。
大きな茶色い目から大粒の涙がただただ溢れ、グレアムの姿をじっとその瞳に映す。

自分がしたことをリーンに知られてしまった罪悪感と、何も否定できない自分に絶望し、グレアムは震えあがった。
リーンはグレアムがこの残忍な男達の仲間だと思ったに違いなかった。

「違う、違うんだ!」

その声が、実際に口から出ているかどうかすらわからなかった。
男達が馬車に乗り込み、リーンの姿が遠ざかる。

夕暮れの人気の消えた廃墟前で、グレアムは自分が売ってしまった少女を乗せた馬車が小さくなって消えていくのを、ただただ呆然と見つめ続けていた。




十年後。


グレアムは大人になった。
日雇いの冒険者から始め、傭兵団に入り、ついに騎士団の入団試験に合格した。
母親は相変わらず男にだらしなく、借金を作ったが、そんな姿をみるたびにグレアムは罪もなく売ってしまったリーンのことを思い出し苦しくなった。

母親が売られたとしてもそれは自業自得だったのだとわかってくると、グレアムは家を出てさっさと自立を果たした。

苦い子供時代の記憶としてグレアムの心には常にリーンの姿がこびりついていた。

騎士団宿舎に寝泊まりするようになったある日、グレアムはレアン団長に呼び出された。

そこには同期の若い下級騎士達も並んでいた。

「恒例の大接待会であるが、今年の警備は我らが担当することになった」

大接待会とはオルドア国と取引のある他国の王族や大商人達を招待し、日ごろの感謝を伝えると共に、契約の更新や新たな交渉を行う場であった。さらに、新たに王国側が関係を深めたいと思う人物を招くこともある。
日中は交渉を行い、夜になると奴隷を侍らせ、接待をする。

他国の要人たちが大勢入国するその機会は王国騎士団にとっても慎重な対応を求められる仕事で、大切な客人でありながら、他国の密偵や暗殺者が入り込む可能性も秘めていた。

接待を仕切るのは大貴族のサマール家であったが、王国の騎士団が会場の警備と客人たちの警護を請け負った。
毎年のことであり、招かれる客人も馴染みの顔ぶれが多い。さらに厳しい審査後の入国であるから、それほど危険な任務ではない。

「初仕事にはぴったりの安全な任務だそうだ」

同期のマークはそう言ったが、貴族屋敷に出入りすることすら初めてのグレアムは少し緊張気味だった。
マークがそれを見て励ました。

「まず一歩だな!」

騎士団に入る者は皆、その先の王騎士を目指す。
こつこつ小さな任務をこなし、いつか大きな手柄を立て出世しなければならない。
グレアムは頬を紅潮させ無言で頷いた。


 大接待会を控えた一カ月前からグレアム達はサマール家に入った。
サマール家を訪れた客は大半が、敷地内にある離宮に滞在する。
その広大な敷地内には湖や農園まであった。
客人が過ごす離宮の周辺は手入れされた庭園があり、毎日造園業者が出入りしている。

召使や出入りの業者の顔を記憶しながら、本番に備え、グレアムたちは危険な個所がないか、隠し通路はないかと敷地内の隅々までも調べ尽くすのだ。

ある日、庭園内の小道を調べていたグレアムは、突然声をかけられ振り向いた。

「初めての人でしょう?」

目の前に美しく着飾った貴族令嬢が立っていた。

「こんなに若い人は初めて。私はアデル、この屋敷に住んでいるのよ。仲良くしましょう」

アデルはどこか値踏みするような視線を向け、艶やかに微笑んだ。
この大接待会は大貴族の娘であるアデルにとって、毎年のことであり、彼女独自の楽しみ方があった。
新人の騎士達の中から好みの男を探すのだ。
さっそく目を付けたのがグレアムだった。

グレアムは若く見栄えも良く、佇まいも強そうで将来有望に見えた。
それに、少し影のある鋭い目元はアデルの好みだったのだ。

新人騎士であるならば、初めて見る高貴な女性に感激し、すぐに自分を崇拝し、可愛いペットのようになついてくるとアデルは思ったが、グレアムは礼儀正しくお辞儀をしただけだった。

名前を名乗り、案内は不要だと立ち去ろうとするグレアムをアデルは引き留めた。

「私しか知らない抜け道があるの。知っておいた方が良いと思わない?」

グレアムは足を止め考えた。
アデルはこの屋敷で生まれ育ったのだ。大人の知らない抜け道や隠された場所を知っているかもしれない。

アデルはグレアムの手を引き歩き出した。
それは離宮の警備をかいくぐるような隠れ通路だった。

しかしそれは小さな子供が通るのにぴったりの道であり、大人では隠れて移動するのは不可能だった。

茂みを確認していたグレアムは、ふと、垣根の向こうに目をやった。
離宮に続く渡り廊下を女性たちの一団が歩いてくるのが見えたのだ。

「客の出入りはまだだったはずだが?」

グレアムの問いかけにアデルは得意げに答えた。

「性接待奴隷よ。お部屋を間違えないように教育する必要があるの。お父様のお気に入りもいるわ」

若い女性のアデルから「性接待奴隷」などという言葉が飛び出し、グレアムはぎょっとしながらも、茂みの向こうへ目を凝らした。

磨き抜かれた廊下の向こうから薄着の女性たちがやってくる。
若く美しい女性たちは首に奴隷の証である細い首輪を嵌められている。

ひと際若い少女が先頭だった。

まるで陶器の人形のように生気のない美しい顔が迫ってくる。
その茶色い瞳が記憶の中の少女と重なった。

「リーン……」

長年封じてきたその名前が唇からこぼれた。
アデルは他の女の名前を口走ったグレアムに少しだけ不機嫌な顔をした。

「あれはリファよ。お父様のお気に入りなの。最近売られてきたの。口がきけないのよ」

喉が詰まったように声が出なくなったグレアムは、その衝撃的な言葉を必死に飲み込んだ。

「なぜ?なぜ口がきけない?」

グレアムは覚えていた。鳥のさえずりのような愛らしい声でグレアムの名前を呼び、心が浮き立つような明るい笑い声を立てていた。

「うるさいから取ったのよ。たまにいるのよ。声の出せない性奴隷を求める客が。とにかく小さい頃からずっと調教されてきたから長く使える良い奴隷だと売り込まれたのですって。
高かったけど静かだし行儀も良いし、それに借金もあるから逃げる心配がないと気に入ったみたい」

込み上げるものをグレアムは奥歯を噛みしめて耐えた。

自分が売った少女の末路を目の前に突き付けられ、その良心はずたずただった。
人を幸せにするはずだった愛らしい声を奪われ、大切なたった一人の友達に売られ、それでも生きている少女をどうしたらいいのか、グレアムには答えが見つからなかった。

同時に自身の保身を考えた。
自分が彼女を売ったとばれても困るのだ。

騎士は高潔でなければならない。
グレアムがしたことがばれたら、せっかく手に入れた騎士の身分を奪われるかもしれない。

口がきけないと聞いて、一瞬心に過った安堵感は、さらにグレアムの胸を締め付けた。
誰にも自分が友達に売られたことを言いつけることが出来ない。どんなに酷い扱いを受けても、訴えることもできない少女が廊下を渡っていく姿をグレアムは茫然と見送っていた。



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