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13.火の国の王
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パール国地下に作られた水の神殿で、アスタは岩の窪みを満たしている水に指先を入れ、太古の記憶に浸っていた。
その様子を、ハカスは少し離れた場所から眺めている。
水場を豪華な神殿に改築させたハカスは、アスタが手を水に浸しやすいように、柔らかなクッションを縫い付けた椅子まで用意させていた。
その姿は、磨き上げられた天井や壁の黒曜石にも映っている。
パール国の芸術家たちを呼び寄せ、天井を支える円柱にまで金で彫刻をほどこし、王宮よりも贅沢な空間にしあげた。
最初に発見された石板は、神殿の奥の壁に嵌めこまれている。
アスタを眺めるためだけに用意した椅子に腰かけ、ハカスはその字とも思えないような奇妙な印が刻まれた石板を見上げた。
アスタが口に出せる言葉なのだから、ハカスにも使えるのではないかと試みたが、それは徒労に終わった。
魔物の言葉はアスタだけのものであり、ハカスには使えない。
「お前からいくら読み方を教わっても、口に出せない言葉とは、不思議なものだな」
ハカスの声に反応し、アスタは顔をあげた。
「鳥の言葉が、鳥にしかわからないように、魔物の言葉もまた魔物にしかわかりません。言い伝えの通り、私達水の民は、海から来た魔物だったのです。昔と今では、姿形も大きくかわりましたし、言葉も忘れてしまいましたが……。この水も、言葉もどこか懐かしく感じます。見たこともない時代を懐かしく感じるなんて……とても不思議です……」
「しかも、ここだけ匂いが違う」
それは砂の地のどこにもない香りだった。
「海の香りかもしれません」
ハカスも海を知らないが、アスタも知らなかった。
故郷の海を出て、陸で進化を始めた水の民は、そのまま海には戻らなかった。
「海か。見たことはないが、水女から集めた話の中に、そうした記述があったかもしれないな」
冷酷なハカスはそのあと水女を殺している。
ハカスはお前は特別だといわんばかりに、不気味な笑みを浮かべて見せる。
頭ごなしに命令し、支配することをやめ、アスタを手に入れるため、新しい方法を試しているのだ。
奴隷は奴隷として扱わなければ、国の権威が損なわれる。
それが今までの砂の国での常識だ。
しかし国民にアスタを王妃として認めさせるには、周囲の人々に敬意を持たせなければならない。
その道はあまりにも険しく、危険に満ちている。
アスタと引き換えに全てを失うかもしれないとハカスは考えたが、それでもアスタを手放せないのであれば、進むしかない。
幸い、アスタが手に入れた水を操る力のおかげで、少しずつだが味方が増えている。
砂の国において、その力は貴重なものであり、王にこそふさわしいものだ。
ハカスはアスタの力を得て、砂の地の未来を考えていた。
「砂の地を出る手がかりは得られそうか?」
「いいえ……。外では……ここは砂の檻と呼ばれていました。出口のない牢獄です。でも、昔はここにも豊富な水があったのかもしれません。だって、これはここが海だった頃の記憶。
ここに連れてこられた水の巫女たちの記憶もあります」
ハカスは腕を掴んでアスタを水から引き離した。
咎めるようなアスタの視線を受け、白くしなやかな体を抱き寄せる。
「お前は他の水女とは違う。なぜ捨てられたのか疑問だな。これほどの力がある者を手放すとは、そいつは愚か者だ」
「力が無くても……ダヤは私を傍に置いてくれました……」
「だが今はいない。行くあてもないお前には、選択肢がないな」
水場を振り返り、アスタは手を伸ばした。
砂の地の外にもこの水がある。
水の民が聖地と呼ぶ小さな泉は、敵国の城の中にあり、巫女たちがその水を清めている。
巫女達の中に、王を任命できる力を持つ者がいないか火の国の王が探しているからだ。
――こっちに来い……
それは魔物であった祖先の言葉だった。
ハカスはその意味もわからず、アスタが伸ばした指先が、水に触れる瞬間を見た。
と、突然水が青く光り始めた。
即座にハカスはアスタを抱き寄せ、身構える。
「どうした?!何を言った!今の言葉はどういう意味だ!」
水面に影が映り、次第に大きくなる。
「あ……意味は……仲間を引き寄せる言葉でこっちに来いと」
「仲間だと?」
それはあり得ないとハカスは確信し、アスタを背中に庇い、剣を抜いて水面に突き立てようとした。
ところがその剣は突如として現れた別の剣によってはね飛ばされる。
ざばんと音を立て、水から人影が現れた。
ハカスも驚いたが、相手も驚いていた。
赤毛の浅黒い肌をした人間が、石の窪みから這い出し、自分を攻撃してきたハカスを睨みつける。
体はハカスより大きく、瞳の色は燃えるような赤だった。
構えた剣は左右に小さな刃が突き出した巨大なものであり、砂の地にある武器ではない。
「驚いたな……俺を呼んだのか?アスターリア」
水に濡れた侵入者がアスタを見た。
悲鳴を上げ、アスタは壁際に逃げた。
逆に逃げれば良かったが、そこは突き当りであり、壁に埋め込まれた石板が背中にあたる。
二人の視線の間にハカスが立ちはだかった。
「何者だ?我が国に無断で入った者は、もれなく奴隷から始めるのが決まりだ」
「奴隷だと?その女は俺の奴隷だった。返してもらおう!」
「に、逃げて!」
アスタが叫び、ハカスの腕を引っ張ろうとした。
それを振り払い、ハカスは見知らぬ戦士をめがけ、鋭い一閃を放つ。
その剣は相手に容易に退けられ、剣を持っていかれそうになる。
そこにアスタが走り出た。
赤毛の戦士の足にしがみつき、転ばせようと地面にうずくまる。
「放せ!」
ハカスの剣を跳ね返し、赤毛の戦士はアスタを乱暴に蹴り上げた。
「うっ」
お腹を押さえて転がったアスタの足がみるみる血に染まる。
「俺の子に手を出したな!」
ハカスが吼えた。
侵入者はその攻撃を受けとめたが、その表情には動揺が走る。
「お前の子?まさか、アスターリアの純潔を奪ったのか?惜しいことをしたな。彼女の力は純潔だからこそ保たれる」
「ほざくなっ」
怒りに燃えるハカスの剣を受けとめながら、赤毛の男は口を開く。
その口内に燃える炎がちらちらと見えた。
床に倒れたアスタは顔をあげ、泉の水に手を伸ばす。
――向こうへ行け!……
青い光がぱっと散った。
まるで吸い込まれるように赤毛の戦士が消え去った。
それを見届け、アスタはばったりと倒れ、意識を失った。
砂の地にある水の神殿から、遠く離れたオルトナの国の城内にガドル王の姿があった。
剣を握りしめ、びしょ濡れで泉の中に座り込んでいる。
その部屋の隅には、捕らえられている水の巫女たちが肩を寄せ合ってうずくまっていた。
「陛下!」
炎のような赤髪の戦士達が王に駆け寄ってくる。
「俺は今どうなった?ここから消えたのか?」
「青い光が広がった途端に王の姿が消えました。しかし、今こうしてお戻りに……」
ガドルは濡れた上着を脱ぎ捨てた。
すぐに侍女達が入ってきて王の体を拭き始める。
「アスターリアを見た。砂の檻に投げ捨てられたあの巫女だ」
「どこでご覧になられたのですか?」
大陸にはさまざまな能力を持つ種族が存在しているが、長距離を一瞬で移動できる能力を持つ種族はいない。
ガドルは火を宿した息を大きく吐き出し、鋭い爪で持っていた剣の刃をなでた。
そこに相手の血は付着していない。
「なかなかの手練れが傍にいたな……。砂の地には、捨てられた者の残骸しかないと思われていたが……もしかすると国があるやもしれぬ」
「国?!水もないのに?」
水どころか植物もない。
大陸の歴史が始まって以来、砂の地に生き物がいるという話は聞いたこともない。
「学者を呼べ。砂の檻について知っている物を探し出せ」
そんな者が存在しているのだろうかと兵士達は困惑し、顔を見合わせる。
「この国の歴史、あるいは水の民のことを知っている者でも良い。アスターリアが俺を呼んだのだ。あるいは、この水……。彼らが聖域と呼ぶこの水に何か秘密がある。
砂の地に国があるのだとしたら、そこもまた、我らの領土。
未知なる資源、奴隷、あるいな能力、他の国々に悟られる前に、なんとしても我が国が手に入れる」
ガドルは立ち上がり、部屋の隅で縮こまっている水の巫女たちを見た。
「お前達、今、何かを見たか?」
慌てて全員が首を横に振った。
「水を清めよ。もし、今見たことを外部に一言でも漏らせば、生かしてはおかない」
そう言いながら、ガドルはもう一人の巫女の首を斬り飛ばしていた。
巫女たちが悲鳴をあげ、抱き合って震えあがる。
「こうなりたくなければ、黙っていることだ」
巫女たちは返事をしようとして、すぐに命令を思い出し、無言で頷いた。
血だまりの中をガドルが歩き出す。
「アスターリア……。俺の手から逃れた水の巫女。やはりお前であったか……」
かすかな火を吐きながら、ガドルは水の民の聖域を囲む、その部屋を出て行った。
――
目を覚ましたアスタは、心配そうに寄り添うハカスの姿にぎょっとして後ろに逃げた。
その体を強く引き寄せられ、寝台の中央に戻される。
「アスタ、動くな。腹の子が流れるところだった」
いつもの残忍な顔ではなく、本気でアスタを案じているような真剣な表情で、ハカスが優しく言った。
そのハカスの変化に戸惑い、アスタは唇を噛みしめた。
憎い男なのに、ただ憎ませてくれない。
「あの男は消えた。あの男、お前をアスターリアと呼んだな。この地に来る前のお前の名か?」
アスタは自分が咄嗟にハカスを助けようと動いてしまったことを思い出した。
火の王ガドルが勝つぐらいなら、ハカスを助けた方がましだと考えたのだ。
「あれは……火の国オルトナ国のガドル王です。ガドル王は私達水の民から国を奪い、聖域にあった泉を奪いました。私達の力を封じるためにその泉の上に城を建てたのです。
聖域を守り清めるための巫女もまた、ガドルが管理しています。私は巫女として捧げられ、聖域に囚われていました」
「聖域が力を与えるのであれば、囚われの巫女はお前のような力を使えたのではないのか?」
アスタは目を伏せた。
「無理です。巫女は巫女。戦う術は持ちません。それに、太古の記憶をよみがえらせた巫女はいませんでした。
私も……あの石板の印を見るまで、何も知らない状態でした。
あの奇妙な文字を見た瞬間……頭の中で封じられた何かが目を覚ましたような、何かがこじ開けられるような痛みがおそってきました。さらに壁の裏に隠されていた水に触れて、太古の記憶が目覚めたのです」
「なぜお前だったのだ?他の水女にもあの石板を見せたことがある。なぜお前だけが解読出来た」
「それは……」
予言の巫女であったせいではないかと考えたが、それは詳しく語れない。
今ここにある水と、火の国オルトナにある水が繋がったことを考えれば、ここで漏らした秘密がガドル王に伝わる可能性もある。
戦闘に向かない水の民たちは、精一杯の力でダヤを守っている。
ガドルが水の王が出現したことを知れば、その王を殺そうとするだろう。
さらに、砂の地には欠かせない水の力が王には宿る。
ハカスはその力を得られなかったことを恨みに思うに違いない。
「彼は疑っていました……。私だけが何か違うことを。彼は泉の秘密を解こうとしていた。
しかし、水の巫女たちもまた、その秘密を知りませんでした。国を奪われ数百年が経てば、そうした記憶も忘れさられ消えてしまいます。
でもガドル王はその秘密を知る巫女がいると信じていました。生まれながらにその力を持つ者がいると知っていたのです。私は疑われ、彼から逃げることにしたのです。
ガドルは気まぐれに、使い道のない水の巫女を砂の檻に魔物の餌として捨てていました。
純潔を奪い、一晩楽しんだあげくに砂の檻に投げ捨てるのです」
砂の地の国とそう変わらない残虐な国の存在に、ハカスは舌なめずりをした。
野心のある大国の王なら考えるだろう。もっと領土を広げることを。
もっと力を手に入れることを。
限られた場所に留まっていれば、水は淀み、資源は枯渇する。
砂の地では、新たな物を常に手に入れ続けなければ死んでしまう。
あの火の国の王はまたここに現れると、ハカスは確信を持った。
「お前は純潔を奪われなかった。それなのに砂の檻に捨てられた?」
忌々しいことに、アスタが純潔を捧げた相手が、ダヤであるとハカスは知っている。
砂の地でアスタを見つけた最初の男だったというだけで、アスタの心を手に入れたのだ。
幸運な男であり、姿を消した今でさえ、ハカスにとって邪魔な存在だ。
「入れ替わったのです。どうせ巫女としての力なんてあってないようなもの。水を浄化できるというだけの力です。
高い壁で区切られている砂地に落とされたら、どうしようもありません。すぐに砂魚が現れ、落とされた犠牲者を追いかけ始める。そうして飲まれていく巫女たちを見て彼らは楽しむのです。
彼らはそのために、わざわざ凶悪な魔物を時々砂の檻に入れることさえしている。
そんな彼らに……私達も知らないような聖域の秘密を渡すことなど出来ません」
「アスタ、お前は何か隠しているな。しかし、お前が敵に回るとは思っていない。お前は俺を助けようとしたのだからな」
悔しさに顔を背けるアスタに寄り添い、ハカスはそのお腹をそっと撫でた。
「待っていろ。この子を無事に産ませてやる。奴隷のお前を、俺の隣に立てるところまで押し上げてやろう」
望まないその言葉を、アスタは黙って聞いていた。
その様子を、ハカスは少し離れた場所から眺めている。
水場を豪華な神殿に改築させたハカスは、アスタが手を水に浸しやすいように、柔らかなクッションを縫い付けた椅子まで用意させていた。
その姿は、磨き上げられた天井や壁の黒曜石にも映っている。
パール国の芸術家たちを呼び寄せ、天井を支える円柱にまで金で彫刻をほどこし、王宮よりも贅沢な空間にしあげた。
最初に発見された石板は、神殿の奥の壁に嵌めこまれている。
アスタを眺めるためだけに用意した椅子に腰かけ、ハカスはその字とも思えないような奇妙な印が刻まれた石板を見上げた。
アスタが口に出せる言葉なのだから、ハカスにも使えるのではないかと試みたが、それは徒労に終わった。
魔物の言葉はアスタだけのものであり、ハカスには使えない。
「お前からいくら読み方を教わっても、口に出せない言葉とは、不思議なものだな」
ハカスの声に反応し、アスタは顔をあげた。
「鳥の言葉が、鳥にしかわからないように、魔物の言葉もまた魔物にしかわかりません。言い伝えの通り、私達水の民は、海から来た魔物だったのです。昔と今では、姿形も大きくかわりましたし、言葉も忘れてしまいましたが……。この水も、言葉もどこか懐かしく感じます。見たこともない時代を懐かしく感じるなんて……とても不思議です……」
「しかも、ここだけ匂いが違う」
それは砂の地のどこにもない香りだった。
「海の香りかもしれません」
ハカスも海を知らないが、アスタも知らなかった。
故郷の海を出て、陸で進化を始めた水の民は、そのまま海には戻らなかった。
「海か。見たことはないが、水女から集めた話の中に、そうした記述があったかもしれないな」
冷酷なハカスはそのあと水女を殺している。
ハカスはお前は特別だといわんばかりに、不気味な笑みを浮かべて見せる。
頭ごなしに命令し、支配することをやめ、アスタを手に入れるため、新しい方法を試しているのだ。
奴隷は奴隷として扱わなければ、国の権威が損なわれる。
それが今までの砂の国での常識だ。
しかし国民にアスタを王妃として認めさせるには、周囲の人々に敬意を持たせなければならない。
その道はあまりにも険しく、危険に満ちている。
アスタと引き換えに全てを失うかもしれないとハカスは考えたが、それでもアスタを手放せないのであれば、進むしかない。
幸い、アスタが手に入れた水を操る力のおかげで、少しずつだが味方が増えている。
砂の国において、その力は貴重なものであり、王にこそふさわしいものだ。
ハカスはアスタの力を得て、砂の地の未来を考えていた。
「砂の地を出る手がかりは得られそうか?」
「いいえ……。外では……ここは砂の檻と呼ばれていました。出口のない牢獄です。でも、昔はここにも豊富な水があったのかもしれません。だって、これはここが海だった頃の記憶。
ここに連れてこられた水の巫女たちの記憶もあります」
ハカスは腕を掴んでアスタを水から引き離した。
咎めるようなアスタの視線を受け、白くしなやかな体を抱き寄せる。
「お前は他の水女とは違う。なぜ捨てられたのか疑問だな。これほどの力がある者を手放すとは、そいつは愚か者だ」
「力が無くても……ダヤは私を傍に置いてくれました……」
「だが今はいない。行くあてもないお前には、選択肢がないな」
水場を振り返り、アスタは手を伸ばした。
砂の地の外にもこの水がある。
水の民が聖地と呼ぶ小さな泉は、敵国の城の中にあり、巫女たちがその水を清めている。
巫女達の中に、王を任命できる力を持つ者がいないか火の国の王が探しているからだ。
――こっちに来い……
それは魔物であった祖先の言葉だった。
ハカスはその意味もわからず、アスタが伸ばした指先が、水に触れる瞬間を見た。
と、突然水が青く光り始めた。
即座にハカスはアスタを抱き寄せ、身構える。
「どうした?!何を言った!今の言葉はどういう意味だ!」
水面に影が映り、次第に大きくなる。
「あ……意味は……仲間を引き寄せる言葉でこっちに来いと」
「仲間だと?」
それはあり得ないとハカスは確信し、アスタを背中に庇い、剣を抜いて水面に突き立てようとした。
ところがその剣は突如として現れた別の剣によってはね飛ばされる。
ざばんと音を立て、水から人影が現れた。
ハカスも驚いたが、相手も驚いていた。
赤毛の浅黒い肌をした人間が、石の窪みから這い出し、自分を攻撃してきたハカスを睨みつける。
体はハカスより大きく、瞳の色は燃えるような赤だった。
構えた剣は左右に小さな刃が突き出した巨大なものであり、砂の地にある武器ではない。
「驚いたな……俺を呼んだのか?アスターリア」
水に濡れた侵入者がアスタを見た。
悲鳴を上げ、アスタは壁際に逃げた。
逆に逃げれば良かったが、そこは突き当りであり、壁に埋め込まれた石板が背中にあたる。
二人の視線の間にハカスが立ちはだかった。
「何者だ?我が国に無断で入った者は、もれなく奴隷から始めるのが決まりだ」
「奴隷だと?その女は俺の奴隷だった。返してもらおう!」
「に、逃げて!」
アスタが叫び、ハカスの腕を引っ張ろうとした。
それを振り払い、ハカスは見知らぬ戦士をめがけ、鋭い一閃を放つ。
その剣は相手に容易に退けられ、剣を持っていかれそうになる。
そこにアスタが走り出た。
赤毛の戦士の足にしがみつき、転ばせようと地面にうずくまる。
「放せ!」
ハカスの剣を跳ね返し、赤毛の戦士はアスタを乱暴に蹴り上げた。
「うっ」
お腹を押さえて転がったアスタの足がみるみる血に染まる。
「俺の子に手を出したな!」
ハカスが吼えた。
侵入者はその攻撃を受けとめたが、その表情には動揺が走る。
「お前の子?まさか、アスターリアの純潔を奪ったのか?惜しいことをしたな。彼女の力は純潔だからこそ保たれる」
「ほざくなっ」
怒りに燃えるハカスの剣を受けとめながら、赤毛の男は口を開く。
その口内に燃える炎がちらちらと見えた。
床に倒れたアスタは顔をあげ、泉の水に手を伸ばす。
――向こうへ行け!……
青い光がぱっと散った。
まるで吸い込まれるように赤毛の戦士が消え去った。
それを見届け、アスタはばったりと倒れ、意識を失った。
砂の地にある水の神殿から、遠く離れたオルトナの国の城内にガドル王の姿があった。
剣を握りしめ、びしょ濡れで泉の中に座り込んでいる。
その部屋の隅には、捕らえられている水の巫女たちが肩を寄せ合ってうずくまっていた。
「陛下!」
炎のような赤髪の戦士達が王に駆け寄ってくる。
「俺は今どうなった?ここから消えたのか?」
「青い光が広がった途端に王の姿が消えました。しかし、今こうしてお戻りに……」
ガドルは濡れた上着を脱ぎ捨てた。
すぐに侍女達が入ってきて王の体を拭き始める。
「アスターリアを見た。砂の檻に投げ捨てられたあの巫女だ」
「どこでご覧になられたのですか?」
大陸にはさまざまな能力を持つ種族が存在しているが、長距離を一瞬で移動できる能力を持つ種族はいない。
ガドルは火を宿した息を大きく吐き出し、鋭い爪で持っていた剣の刃をなでた。
そこに相手の血は付着していない。
「なかなかの手練れが傍にいたな……。砂の地には、捨てられた者の残骸しかないと思われていたが……もしかすると国があるやもしれぬ」
「国?!水もないのに?」
水どころか植物もない。
大陸の歴史が始まって以来、砂の地に生き物がいるという話は聞いたこともない。
「学者を呼べ。砂の檻について知っている物を探し出せ」
そんな者が存在しているのだろうかと兵士達は困惑し、顔を見合わせる。
「この国の歴史、あるいは水の民のことを知っている者でも良い。アスターリアが俺を呼んだのだ。あるいは、この水……。彼らが聖域と呼ぶこの水に何か秘密がある。
砂の地に国があるのだとしたら、そこもまた、我らの領土。
未知なる資源、奴隷、あるいな能力、他の国々に悟られる前に、なんとしても我が国が手に入れる」
ガドルは立ち上がり、部屋の隅で縮こまっている水の巫女たちを見た。
「お前達、今、何かを見たか?」
慌てて全員が首を横に振った。
「水を清めよ。もし、今見たことを外部に一言でも漏らせば、生かしてはおかない」
そう言いながら、ガドルはもう一人の巫女の首を斬り飛ばしていた。
巫女たちが悲鳴をあげ、抱き合って震えあがる。
「こうなりたくなければ、黙っていることだ」
巫女たちは返事をしようとして、すぐに命令を思い出し、無言で頷いた。
血だまりの中をガドルが歩き出す。
「アスターリア……。俺の手から逃れた水の巫女。やはりお前であったか……」
かすかな火を吐きながら、ガドルは水の民の聖域を囲む、その部屋を出て行った。
――
目を覚ましたアスタは、心配そうに寄り添うハカスの姿にぎょっとして後ろに逃げた。
その体を強く引き寄せられ、寝台の中央に戻される。
「アスタ、動くな。腹の子が流れるところだった」
いつもの残忍な顔ではなく、本気でアスタを案じているような真剣な表情で、ハカスが優しく言った。
そのハカスの変化に戸惑い、アスタは唇を噛みしめた。
憎い男なのに、ただ憎ませてくれない。
「あの男は消えた。あの男、お前をアスターリアと呼んだな。この地に来る前のお前の名か?」
アスタは自分が咄嗟にハカスを助けようと動いてしまったことを思い出した。
火の王ガドルが勝つぐらいなら、ハカスを助けた方がましだと考えたのだ。
「あれは……火の国オルトナ国のガドル王です。ガドル王は私達水の民から国を奪い、聖域にあった泉を奪いました。私達の力を封じるためにその泉の上に城を建てたのです。
聖域を守り清めるための巫女もまた、ガドルが管理しています。私は巫女として捧げられ、聖域に囚われていました」
「聖域が力を与えるのであれば、囚われの巫女はお前のような力を使えたのではないのか?」
アスタは目を伏せた。
「無理です。巫女は巫女。戦う術は持ちません。それに、太古の記憶をよみがえらせた巫女はいませんでした。
私も……あの石板の印を見るまで、何も知らない状態でした。
あの奇妙な文字を見た瞬間……頭の中で封じられた何かが目を覚ましたような、何かがこじ開けられるような痛みがおそってきました。さらに壁の裏に隠されていた水に触れて、太古の記憶が目覚めたのです」
「なぜお前だったのだ?他の水女にもあの石板を見せたことがある。なぜお前だけが解読出来た」
「それは……」
予言の巫女であったせいではないかと考えたが、それは詳しく語れない。
今ここにある水と、火の国オルトナにある水が繋がったことを考えれば、ここで漏らした秘密がガドル王に伝わる可能性もある。
戦闘に向かない水の民たちは、精一杯の力でダヤを守っている。
ガドルが水の王が出現したことを知れば、その王を殺そうとするだろう。
さらに、砂の地には欠かせない水の力が王には宿る。
ハカスはその力を得られなかったことを恨みに思うに違いない。
「彼は疑っていました……。私だけが何か違うことを。彼は泉の秘密を解こうとしていた。
しかし、水の巫女たちもまた、その秘密を知りませんでした。国を奪われ数百年が経てば、そうした記憶も忘れさられ消えてしまいます。
でもガドル王はその秘密を知る巫女がいると信じていました。生まれながらにその力を持つ者がいると知っていたのです。私は疑われ、彼から逃げることにしたのです。
ガドルは気まぐれに、使い道のない水の巫女を砂の檻に魔物の餌として捨てていました。
純潔を奪い、一晩楽しんだあげくに砂の檻に投げ捨てるのです」
砂の地の国とそう変わらない残虐な国の存在に、ハカスは舌なめずりをした。
野心のある大国の王なら考えるだろう。もっと領土を広げることを。
もっと力を手に入れることを。
限られた場所に留まっていれば、水は淀み、資源は枯渇する。
砂の地では、新たな物を常に手に入れ続けなければ死んでしまう。
あの火の国の王はまたここに現れると、ハカスは確信を持った。
「お前は純潔を奪われなかった。それなのに砂の檻に捨てられた?」
忌々しいことに、アスタが純潔を捧げた相手が、ダヤであるとハカスは知っている。
砂の地でアスタを見つけた最初の男だったというだけで、アスタの心を手に入れたのだ。
幸運な男であり、姿を消した今でさえ、ハカスにとって邪魔な存在だ。
「入れ替わったのです。どうせ巫女としての力なんてあってないようなもの。水を浄化できるというだけの力です。
高い壁で区切られている砂地に落とされたら、どうしようもありません。すぐに砂魚が現れ、落とされた犠牲者を追いかけ始める。そうして飲まれていく巫女たちを見て彼らは楽しむのです。
彼らはそのために、わざわざ凶悪な魔物を時々砂の檻に入れることさえしている。
そんな彼らに……私達も知らないような聖域の秘密を渡すことなど出来ません」
「アスタ、お前は何か隠しているな。しかし、お前が敵に回るとは思っていない。お前は俺を助けようとしたのだからな」
悔しさに顔を背けるアスタに寄り添い、ハカスはそのお腹をそっと撫でた。
「待っていろ。この子を無事に産ませてやる。奴隷のお前を、俺の隣に立てるところまで押し上げてやろう」
望まないその言葉を、アスタは黙って聞いていた。
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