愛を伝えた人

丸井竹

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6.消えた女

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アイラは床に崩れ落ち、呆然と牢内の骨を見ていた。

「うそ……嘘でしょう?」

か細い声は震え、こみ上げる涙を堪えている。
ギースが後ろからそれをちらりと見て、鼻で笑った。

「本当にそれが母親だった女なのか?服も着ていないぞ。それに閉じ込められていた形跡もない。後から放り込んだ骨だろう」

「え?!」

よろめきながらも立ち上がり、アイラは鉄格子の扉を押して牢内に入った。
中にあったのは、乾いた干し藁とその上に置かれた骨だけであった。
ベッドも排泄物を入れる壺もない。

周りを囲むのは湿った壁と鉄格子だけだ。

「マイラ?これは……この骨は……」

「お嬢様……」

老婆のしわがれた声が淡々と語り始める。

「お嬢様が気づくようなことがあればいけないと旦那様がこれを用意したのです」

皺深い瞼の下にその瞳は隠され、感情は窺えない。

「お嬢様がここに来た時、確かにお母様はおられた。
しかし、それは、お嬢様を売りにきたのです。
再婚が決まっておられたお母様はお嬢様が邪魔になり、旦那様が引き取り養女にすることで縁を切ることにしたのです。
娘として育て、立派な令嬢に仕上げれば面白そうだと旦那様はおっしゃりました。
それで、その当時のことを知っているのは数少ない召使だけでしたが、私たちは口止めされました」

言葉はアイラの耳を通り抜け、刃となって胸を貫いたようだった。
意味を飲み込み切れないまま、声もなく涙だけがアイラの頬を伝って落ちた。
ゆっくり体から力が抜け床に崩れる。

「旦那様がお母様を盾にすればお嬢様は逆らわなかった。
どんなことでも耐えておられた。
だから、私たちも希望を持ちました。
お母様のためなら私たちのために戦い助けてくださるのではと……。
こんな環境下で信じられないぐらいお嬢様は優しくお育ちになられた。
まだ幼いお嬢様では助けられない者も多かったでしょう。
ですが、被害にあった者たちの名簿まで作って下さった。
これで被害者を助ける手掛かりになる……」

「私は……お父様だけじゃなくて、あなた達にも騙されていたということ?……お母様はどこかで生きていて、私のことも忘れているのね……」

アイラは残酷な世界で唯一優しかった騎士たちのことを思い出し、鉄格子越しにマイラを振り返った。

「地下牢にいた騎士達は?マイラが助けたの?」

「私が入ってきた時にはもうどこにもいませんでした」

アイラは頷いた。
きっと仲間が探しに来て逃げたのだ。

「たぶんお父様たちを追っていったのだわ。
国外に売られた人たちのリストとこれまで行われた悪事を書いたものが私の部屋のベッドの裏に隠してあるわ。もし国王軍が戻ってきたら渡してくれる?」

立ち上がろうとしても力が入らないアイラに手を貸したのはいつの間にか牢内に入ってきていたギースだった。
黙って後ろで話を聞いていたギースはその体を抱き上げた。
アイラは人買いから人々を助けてもらうために自分のこともこの男に売っていたのだ。

「お嬢様……」

「マイラ、私はこの男に自分を売ったのよ。だからここにはいられない」

ギースはアイラを抱いたまま牢を出て、通ってきた抜け穴を使い外へ出た。
腕の中のアイラは人形のように大人しい。
勇敢で潔い女戦士のような女であったが、今は抜け殻であった。

深い闇の中に滑りこむようにギースはアイラを抱いて走り出した。


______


国境沿いの北ルードの岩山ではいくつも篝火が焚かれ、国王の騎士達が異国の人さらいたちを検分していた。
大半が殺されていたが、わずかに生き残っている者もあり、荒く縛られている。

血だまりの中、死体をひっくり返しながら歩いていたゼインは女の死体が一つもないことに驚いていた。

「巻き込まれて殺された者もいないとは。襲った野盗はだいぶ腕がいいな」

先を歩いていたドイルが感心したように呟いた。
アイラに盛られた薬のせいでまだ寝ぼけている頭を拳で軽く小突きながら辺りを見回している。

「アイラがいない。彼女も連れていかれたはずだ」

「俺達に薬を盛った女だろう」

「俺達が即座に殺されなかったのは彼女のおかげだ。あそこで意識を失っていなければ俺たち二人でここにいる連中の全てを相手にしなければならなかったかもしれない」

当然一人が仲間を迎えに行き、一人が追跡しただろうが、間に合っていたかどうかわからない。
ゼインは背中を向けて倒れている賊どもを全員確認すると、取り調べを受けている人々の方へ視線を向けた。

国王軍が現れると、人買いたちに連れ去られるところだった人々が助けを求め暗がりから飛び出してきたのだ。ゼインは急いでアイラを探したが彼らの中には見つけることができなかった。

事情を聞いていた騎士の一人がゼインと目を合わせ、近づいてきた。

「ゼイン、アイラという女は確かにいたらしい。どうもこいつらを殺した連中はその女が手引きしたようだ」

「盗賊の女だったということか?」

ドイルの言葉にゼインは否定するように首を横に振った。
美しい所作であり、盗賊のようには見えなかった。
か弱い女の身で怯えながらも鞭の前に体を投げだし、男たちの前で行われた辱めに必死に耐えていたのだ。

「アイラの屋敷に戻ろう。何か手がかりがあるかもしれない」

走り出したゼインをドイルも急いで追いかけた。

昨夜の屋敷に戻ると、表扉は開け放たれたままだった。
中に入ると老婆が一人立っていた。

王の騎士達の姿を見ると恭しくお辞儀をする。

「お嬢様から、これを渡すようにと言われております」

差し出されたのは何かの名簿と日記のような一冊の本だった。

「この領内から奪われた領民たちの名簿です。できれば取り返してほしいと。
それから、こちらの日記はお嬢様が記していた旦那様の悪事の記録です」

「なにっ」

ゼインとドイルがその書類に目を通し、分厚い本を開いた。
それはマグドロー家が関わった悪事の全てで、日付や被害者のことまで詳細に記録されていた。

涙で滲んだのか、文字がぼやけている部分がたくさんある。
ところどころに母親が心配だと書かれていた。

「アイラの母親がどうしたのだ?」

ゼインの問いに、老婆のマイラは先ほど地下牢でアイラに告げたように、アイラの生い立ちについて騎士たちに語り始めた。
そして、今回人買いの行動を止めるために義賊と呼ばれる旧王国時代の追放者達が多く集まる野盗と取引をしたのだと付け加えた。

「自分も取引のために売ったというのか?」

ゼインとドイルは顔を見合わせ絶句した。
命を賭けて計画したことが王国の騎士達が突然現れたことで頓挫しかけたのだ。
ベルリア国からの人買いと父親とその私兵たちを一網打尽にするために馬車を襲うタイミングも打ち合わせていたはずだ。

「どこに行った?知っていることをすべて話せ!」

老婆は躊躇った。

「私たちは……自分たちを救ってもらうためにお嬢様にずっとお母様が生きていると思い込ませ、体を売らせ利用しました。
お嬢様はどうなるのでしょう。
野盗の一味として働かされるかもしれない。
お嬢様は養女として正式に手続きを踏まれている。
女王陛下は恐ろしい方、一族に反逆者がいれば一族皆殺しと聞いております。
それ故逃亡者や亡命者も後を絶たない。あの者たちが国外で生きていくなら……」

「彼女が悪事に使われるならなおのこと、早く見つけて助け出さなければ」

ゼインの言葉にドイルが肘をついた。

「ゼイン、簡単に言うな。確かに我らが王なら殺しかねない。これだけの悪事を見逃してきたことを許しはしないだろう」

「馬鹿をいうな。あんなに若い女が一人で何が出来たというのだ。まだほんの少女のように見えたぞ。この字もみてみろ。子供の字も混ざっている」

「国境を越えたのなら見逃すのも手かもしれないぞ」

ドイルは消極的だった。
前王を弑し、王座に座った女王は冷酷無慈悲だと聞いていた。
さらに政敵とみれば一族皆殺しが基本であり、女子供に至るまで容赦はしないとさえ言われているのだ。

「だが、それではあまりにも救いがない。愛し守ってくれる存在に焦がれ、姿の見えない母を慕い続け、それがすべて嘘であったとわかったとき、彼女が命を賭して守ろうとしていた召使たちまでも自分をたばかっていた存在であると知ったのだ。
罪の意識を感じ続け、彼女は誰に頼ることなくやっと悪党一味を根絶やしにしたというのに、その時には自分の身すら残っていなかったなど、あまりにも悲しい」

ゼインの言葉にドイルも表情を曇らせた。

ゼインは覚えていた。
細く頼りない体で必死にゼインの背中に抱き着き守ろうとしてくれたことを。
ゼインに眠り薬を飲ませた時、ごめんなさいと繰り返していた悲しそうな声。
屈辱に震えながら醜い男の足に頭を付け、なんということをさせられたことか。

それもこれも彼女が自由になり幸せになるためではない。
初めて会った騎士達と、家族のように想ってきた召使たちを助けるためだったのだろう。

騎士でありながらあんなにも怯え、震えていた女性を前に何一つしてやれなかった。

「まずは野盗の隠れ家だな。
それから、その野盗が母親にあわせに危険をおかしてアイラを屋敷に連れて戻ってきたということだから、もしかすると母親のところに行くかもしれないぞ。
母親がアイラを再婚の邪魔になるということで捨てていったというなら、アイラは脅しの材料になる。
悪党ならアイラの母親から金が引き出せると考えるかもしれない」

とことん救いのない話だった。

「この上、母親にお前のことなど知らないなどと言われてみろ。あまりにも酷い。
彼女が母親をゆするとは考えにくいが、悪党に利用されるのはさらに辛いだろう。
野盗の捜索は他の騎士達がもう始めているだろう。
この悪事の記録を隊長に渡し、アイラの母親を探そう。
マイラといったな、手掛かりは何かあるのか?」

あまり多くは無いがと前置きをし、老婆は昔の記憶を掘り起こし、アイラの母親について話し始めた。

外はようやく夜明けであった。

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